2008年12月26日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (8)

1915(大正4)年3月8日、ベネット家に悲劇が起こった。
先回、ベネット邸の庭にあった、雨水を溜めておくための「地面に埋められた陶製の茶色の水がめ」のことを記した。
この日、スタンレー、フレデリック、日本人の男の子たち何人かが庭で遊んでいた。誰かがフレディ(フレデリックの愛称)に小さなバケツを渡して水を汲んでくるように言ったらしい。彼は近づいてはいけないと言われていた水がめの蓋をとって水を汲もうとして頭から落ちた。
台所にいた料理人がふと窓の外をのぞいて、水がめから突き出ている二本の脚を見て叫び声を上げた。
父のヘンリーが脚をつかんで引き上げたが、すでにフレディは死んでいた。
「誰が彼に水を汲んでくるように言いつけたのか、穿鑿(センサク)する人はいなかった。」と加藤恭子は書いている。(p.40)
「異人屋敷」へは、日本人信者の女性たちが集まり、小さな白木の棺の底とフレデリックの身体の周囲に詰める白絹の細長いクッションのようなものを縫った。小さな手には、庭から摘んだ白い花束が持たせられた。時折、すすり泣きが洩れた。
 そして野辺の送り。男たちが棺を肩に乗せて運んだ。のぼりを立てた長い行列が棺の前後に続き、丸山へと向かった。(中略)
 この丸山の地は、のちに本格的な教会墓地として整備され、フレデリックの墓もそこへ移された。今日、フレデリックの墓は、鳥取市丸山の教会墓地にある。(中略)
 この墓地は、久松山の山麓北東の方角、八幡池に近く、階段や山道を登っていく鬱蒼とした森の中にある。樹々が影を落としているので、ほとんど日が当たらない。前方には納骨堂、平安霊堂がある。
(『S.ベネットの生涯』pp.41-42)


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