2009年3月31日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (23)

第14回で述べたように、スタンレーは、1943(昭和18)年7月初旬に入隊となった。ワシントンD.C.から、フロリダの海軍基地へ、そこで海兵隊所属が決定され、カリフォルニア州サンディエゴで訓練を受けた。その後ニューカレドニアに派遣され、11月末にガダルカナルへ到着したらしい。いよいよ日本軍と戦うこととなる。

しかし、前回記した通り、スタンレーがガ島に派遣されたとき、すでに日本軍は10ヶ月近く前の2月上旬に撤退していた。残っていたのは捕虜となった日本兵か、ジャングルに残されていたやせ細った死体ばかりだったにちがいない。
この1943(昭和18)年という年の戦況をざっと述べておく。第20回で紹介した保坂正康さんによれば、この一年は日本軍の「挫折」の後半から「崩壊」の年に当たる。

4月18日 連合艦隊司令長官・山本五十六、戦死。(大本営は、5月21日になって、これを公表。6月5日、国葬が行われた。)
5月29日 アッツ島守備隊、2638人玉砕。
9月8日 イタリア、連合軍に無条件降伏。
 (10日 鳥取大震災。M7.4。1083人死亡。全壊家屋7485戸)
10月21日 明治神宮外苑で出陣学徒壮行会。
11月24日 マキン島の日本軍守備隊玉砕。
   25日 タラワ島の守備隊玉砕。両島で5400余人戦死。
12月10日 文部省、学童の縁故疎開促進を発表。
   24日 徴兵年齢が19歳に引き下げられる。

スタンレーの手紙はこの年の11月25日付のものから、翌年の1月1日付まで、38通が妻のアリス宛てに発信されているという。
そのうちの33通の抄訳が、第1部として、『戦場から送り続けた手紙―ある米海軍士官の太平洋戦争―』に掲載されている。このブログでは、その内容をいくつか紹介しよう、と思う。




2009年3月22日日曜日

鳥取を愛したベネット父子 (22)

明治の日露戦争当時の肉弾突撃を繰り返したばかりでなく、飢餓と熱病のために兵達は死んでいった。ガ島が「餓島」といわれた所以だ。

十二月十六日 各部隊においてオタマジャクシを食する者多し。多少苦味あるも食べられる。夕刻より雨あり。
十二月十七日 午前腸悪し、午後下痢を伴う。情報によると月明のため駆逐艦の米輸送中止とか。欠食を覚悟す。
十二月十八日 松本中尉死亡す。久しくわれらの隊長なりし人なり。最近、戦友次々と死亡す。いずれも栄養失調なり。(福島県出身、遠藤清五上等兵)

十二月二十日 昨夜宮沢中尉死し、山野辺軍曹また死す。本日山岡上等兵死す。櫛の歯をひくように死んでいく。断腸。
十二月二十一日 小野寺准尉衰弱、小生も発熱。このまま中隊は全滅への道を歩んでいくのか。夕方、発狂せる兵の大声あり。毎日が死との対決だ。
十二月二十二日 小椋中尉死す。佐藤、馬場、佐々木、小野寺、徳永が危険状態。食糧の見通しなく、生き残れるものありや。(福島県出身、峰岸慶次郎中尉)


引用した日記は、いずれも『米軍が記録したガダルカナルの戦い』から引用した(p.183)。
同書にはタイトルにあるとおり、米軍が撮影した多くの戦死した日本兵の写真も掲載されている。
イル川河口の砂に半身を埋めている兵士の顔には幼さが残っている。ジャングルの中で死んでいる日本兵のやせ衰えた身体、等々。これらの写真をこのブログに載せることはとてもできない。

大本営もついにガダルカナル撤退を決断し、翌昭和18年1月4日に御前会議をセットした。「事態は重大であり、大晦日でもかまわない」という昭和天皇の発言により、異例の大晦日の御前会議が開かれ、撤退の裁断が下された。

1943(昭和18)年2月1日、5日、7日のいずれも夜、3回にわたって駆逐艦による撤退が行われた。奇跡的にこの撤退は米軍に気づかれなかった。大本営へは次のように打電された。
「二月七日午後十時、二万の英霊の加護により、ガ島残留総員の収容を完了したる事を報告す。収容に協力せられたる陸海軍各部隊に深く感謝す」

この島に日本陸海軍が上陸させた将兵は31,358名。生還した者、10,665名。還らぬ人となった将兵は、21,138名であった。(数字に誤差があるのはそれぞれの確認時期によって数字が違うためだという。)戦闘員の損耗率は66パーセントにも達している。
防衛庁戦史室の公刊戦史(室名は公刊当時の名称)は、「純戦死は五千~六千名と推定されているので、一万五千名前後が戦病に斃れたことになる」と述べ、その大半が「栄養失調症、熱帯性マラリア、下痢及び脚気等によるもので、その原因は実に補給の不十分に基づく体力の自然消耗によるものであった」とも述べているという。
編著者、平塚柾緒は言う。「事実、補給が不十分だったから餓死したのであるが、問題は補給できない状況下でどうして戦闘を強行したかである。それは、大本営陸軍部の愚をきわめた作戦指導に責任の大半がある。連合国軍の意図、質と量を読めなかっただけではなく、自軍の第一線部隊にまともな地図さえ与えられない状態にありながら、ただいたずらに兵員を送り続けたのだ。救いのある戦争は少ないが、それにしてもガダルカナルの戦闘は、その実態を知れば知るほど怒りとやりきれなさがこみあげてくる。」(p.7)

大本営は、2月9日、全国民に次のように告げた。
「ソロモン諸島ガダルカナル島に作戦中の部隊は、敵軍を同島の一角に圧迫し、その戦力を撃砕せり。よって二月上旬、部隊は同島を撤し、他に転進したり」

ガ島の戦い 3


2009年3月21日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (21)

先回述べたように、ミッドウェー海戦は、日本海軍の完敗であった。ガダルカナルの戦いは、日本陸軍の最初の完敗であった。
国語辞典でガダルカナル島を引いてみると「南太平洋、ソロモン諸島南東部の火山島。面積六五〇〇平方キロメートル。太平洋戦争中の日米激戦の地」と書かれている。四国の愛媛県とほぼ同じくらいの面積をもつこの島でどんな「激戦」があったのか。日本の一般国民がこの戦いについて知ったのは敗戦後のことである。
戦いの経過を並べてみると、こうなる。
1942(昭和17)年7月16日、この島で日本海軍の設営隊約2,600人が飛行場設営の作業に取りかかった。
長さ800メートル、幅60メートルの滑走路を完成させた2日後の8月7日、米海兵隊1個師団がガダルカナル島と、その北方のツラギ島に上陸開始。日本の海兵部隊は、飛行場設営のための軍属が大半を占めており、軍人は600名足らずであったという。米軍は抵抗らしい攻撃を受けることもなく上陸し、飛行場を占拠した。
その後の個々の戦闘についていちいち述べる必要はあるまい。以前紹介した『米軍が記録したガダルカナルの戦い』を編集した平塚柾緒の「あとがき」からの引用文などのご紹介にとどめたい。彼は、「大本営陸軍部の愚をきわめた作戦指導」を厳しく指摘している。
 
ガダルカナルに陸軍の戦闘部隊を送り込むことを決定したとき、ガ島のまともな地図さえなかったことは有名な話である。また師団の参謀クラスでさえ「ガダルカナル」という島がどこにあるかも知らなかったという証言は数多い。
 ニューギニアを攻略し、遠くフィジー、サモアまでも占領しようという日本軍が、その周辺地域の地図さえ準備していなかったというのだから、これは無謀というより無知と表現した方がいいかもしれない。日常的に「情報」を重視していれば、参謀本部はソロモン群島の地図などいくらでも準備できたはずである。
 この地図の一件を見ても分かるように、日本の大本営はガ島の米軍兵力をまったく予測できなかった。太平洋地域の米軍に関する情報をほとんど持っていなかったからだ。だから「せいぜい二~三千名の強行偵察部隊程度だろう」と勝手に決め込み、一木支隊を急遽派遣して決着をはかろうとした。
それで十分と見たのである。そこには戦略とか戦術といった作戦計画は皆無で、ただ敵を侮(あなど)った傲慢(ごうまん)さだけが見え隠れしている。
 さらに現地の指揮官もただただ「突っ込め―、突っ込め―」の肉弾斬り込みの白兵戦を強いるだけで、作戦といえる計略などはなかった。それは一木支隊に続く川口支隊でも同じであり、大本営から馳せ参じた作戦参謀の指導による第二師団の総攻撃でも変わりはなかった。
 ガ島戦は、日本軍の体質と欠点を余すところなく露出した戦いであった。しかし、その体質と欠点はついに是正されることなく、昭和二十年八月十五日の敗戦の日まで貫き通される。そのために命を奪われていった一般兵士の無念と怒りは、どう晴らせばいいのか。(p.205)
そして、この後にも引用されているが、当時陸軍士官学校を出たばかりの青年将校(二十一歳)であった亀岡高夫は昭和十七年十二月二十日の日記にこう書いている。
 食糧は本月中は全然渡らないのだそうだ。現在の手持ちの食糧で、この十二月を過ごさなければならぬ状況になったという。なんという困苦ぞ。歩兵操典(引用者注:教練の制式、戦闘原則および法則を規定した教則の書)に〝困苦欠乏に耐えよ〟とあるが、これほどの困苦欠乏がどこにあるというのか。軍司令官は第一線将兵を餓死させる気なのか。一体、第一線のこの悲境を知ってるのかどうか。(p.174)

2009年3月17日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (20)

前回紹介した『若い人に語る戦争と日本人』のなかで保坂正康さんは、三年八ヶ月あまり戦われた太平洋戦争を次の五つの期間に分けている。(p.153)

(一)昭和十六年十二月八日から十七年五月まで――勝利
(二)昭和十七年六月から十八年四月まで――挫折
(三)昭和十八年五月から同年十二月まで――崩壊
(四)昭和十九年一月から昭和二十年二月まで――解体
(五)昭和二十年三月から同年八月十五日まで――降伏

この(二)の「挫折」の最初となるのが、ミッドウェー海戦である。

1942(昭和17)年4月18日の米軍機による初の本土空襲に衝撃を受けた軍令部は、かねてからの主張であったアメリカとオーストラリア間を遮断し、中部太平洋、南西太平洋方面の制海権を確保するための作戦を展開しようとした。
その企図は、ソロモン群島を制圧し、ニューカレドニア、ニューヘブリデス、サモアへの進出、さらにこれと並行してニューギニア南方のポートモレスビーへ進攻しようというものであった。

5月7日から8日にかけて行われた珊瑚海海戦は、世界史上初の空母対空母の戦いであったが、日米ほぼ互角の損害を出した。
この海戦に次いで行われたのが、6月5日のミッドウェー海戦である。詳しい経緯は省略して、結果のみを記す。
日本側は、主力空母4隻、重巡1隻、飛行機285機、将兵3,054人(そのほとんどが優秀なパイロットであった)を一挙に失った。米側の損害は、空母1、駆逐艦1、飛行機150、死傷者307であった。
以後、日米の優劣は完全に逆転し、日本軍は一挙に退勢に向かった。
この日本軍の敗退の原因はいくつが挙げられるであろうが、その一つは、日本軍の暗号を米軍側が解読していたことにある。

開戦時、真珠湾攻撃の前に、在米大使館への指示電報が解読され、米国の首脳部は事前に日本軍の攻撃を予知していたことはすでに触れた。
・このミドウェー海戦でも、珊瑚海海戦後の日本艦隊の次の進路を必死に探っていた米海軍情報部は暗号解読に成功し、これを迎え撃つ準備を整えていた。
・翌1943(昭和18)年4月18日(むろん偶然だが、前年の東京初空襲と同日)、前線の兵士激励に向かった山本五十六長官の搭乗機が待ち伏せしていた米軍機にブーゲンビル島上空で襲撃され、長官は戦死した。これも米側が事前に暗号を解読し、長官の行動を4日前から知っていたからだ。

しかも、米側が暗号解読によって事前に日本軍の行動を知っていたことに、日本側はまったく気づいていなかったのである。

2009年3月3日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (19)

ここ何回か太平洋戦争について記してきた。大まかな流れを知っていただいた上で、スタンレー・ベネットがどうのような段階で戦いの場に出て行ったのか、知っておいていただきたいと思うからだ。
ここで、昨年の夏出版された一冊の新書をご紹介しておきたい。それは保坂正康『若い人に語る戦争と日本人』。
〈あとがき〉のはじめに、著者がこの本の執筆をもちかけられたとき、大学の講師をいていた頃の学生たちを思い出した、と書いている。著者はわたしより数歳下の方だが彼らにこう言ったと記している。
 君たちの父や母、それに祖父母が生きた時代を知ることは、君たちの義務である、そこから多くのことを学ばなければそれは失礼である、と私は強調してきました。いずれ君たちもまた子供や孫に、どのような人生を過ごしてきたのかは問われるはずだから、とも言ってきました。(p.180)



源氏物語の千年紀だ、直江兼続はかっこいい、というのも結構だが、まだ100年もたたない時代にどんな戦争をやったのかを、ぜひ知っておいて欲しい。

この本は、高校生や中学生たちにもぜひ読んで欲しいと思う。

いささか、脇道からさらにまた脇道へ入り込んでいるようだが、次回からもう少し太平洋戦争の経過を見ておきたい。



2009年3月2日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (18)

1942(昭和17)年4月18日の東京空襲は、爆撃を目前にした人々を除けば、さしたる影響を国民に与えなかった。だが、政府や陸・海軍当局には大きな衝撃を与えた。あのように簡単に敵機の首都進入を許してしまったからだ。

連合艦隊司令長官であった山本五十六大将は、もともと日独伊の三国軍事同盟に反対であったし、海軍次官当時、米国に滞在したこともあって日米の国力の違いを認識していた故に対米開戦にも反対であった。
彼は1884(明治17)年の生まれで、海軍兵学校卒業(32期)直後、日露戦争が勃発している。ロシアのバルチック艦隊を打ち破った日本海海戦には、装甲巡洋艦「日進」に少尉候補生として乗艦、左手の人差し指と中指を失う重傷を受けるという経歴を持っていた。
しかし、戦艦中心の時代は終わり、これからの海戦は空母と航空機が中心となると考え、戦艦大和の建造にも反対していた。
開戦が決定されたとき、軍人としてその決定に従ったが、開戦すれば短期決戦しかないと考えていた彼は、戦術的には空母を中心とする機動部隊による真珠湾奇襲を実行した。しかし、米軍機による東京空襲も予想していた。そして、山本の戦術をもっともよく研究していたのが、アメリカの太平洋艦隊であったということになる。 

2009年2月19日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (17)

開戦の翌年、1942(昭和17)年の前半を、年表風に記しておきたい。

1月02日 日本軍は、フィリピンの首都マニラ市に無血入城した。
2月14日 スマトラ島最大の油田パレンバンに陸軍の落下傘部隊が奇襲降下して油田と精油所を占領確保。(*1)
  15日 シンガポールを占領し、2日後「昭南島」と改称。(*2)
  22日 米大統領、極東軍司令官ダグラス・マッカーサー大将に比島(=フィリピン)退出を命令。
3月08日 ビルマ(現在のミャンマー)の首都ラングーン(現在のヤンゴン)占領。
  09日 ジャワ島のバンドン占領。ジャワのオランダ・インド軍降伏。
11日 マッカーサー、コレヒドール島を脱出。(*3)
4月09日 バターン半島のアメリカ・フィリピン軍降伏。(*4)
  18日 米B25、東京、名古屋など、本土を初空襲。(*5)
5月07日 コレヒドール島の米軍降伏。
  27日 ミドウェー作戦開始。(*6)
     ―――☆―――☆―――☆―――☆―――☆―――
(*1)小2の頃、その落下傘部隊のニュース映像を映画館で見て、〈かっこ いい〉と思った。「空の神兵」(梅木三郎作詞、高木東六作曲)という歌もなかなかいい歌で、よく歌ったものだ。
(*2)この日、英軍司令官パーシバル中将に「イエスか、ノーか」と迫る猛将〝マレーの虎〟山下奉文(ともゆき)中将の「居丈高」な姿の映像や絵画もよく見かけた。しかし、「あれは通訳がよくなくて、それでイエスなのかノーなのか確かめただけだったそうだ」と昭和史研究家でもある半藤一利は語っている。山下という人は誤解の多い人で、本当は大変合理的な考え方をする人だった」とも。戦後の1947年2月、戦犯としてマニラ郊外で処刑された。 
(*3)オーストラリアのダーウィンについた時、彼が記者団に言った「また、私は帰る(I shall return.)」が後に有名になった。
(*4)この時の捕虜は約7万人。食料、収容施設、輸送の準備がないまま、後方までの行程、約60キロを4~5日がかりで歩かされた。〝バターン死の行進〟と呼ばれ、約5000人の捕虜が死亡した。本間司令官は戦後の軍事裁判で責任を問われて、処刑された。
(*5)日本軍の真珠湾攻撃以来、敗北の続いていたアメリカの軍部は、国民の戦意を高めるため、日本の首都東京への空襲を計画した。4月2日、米空母ホーネットは、飛行甲板に16機の中型爆撃機B25を飛行甲板に搭載してサンフランシスコを出港した。13日、北太平洋上で機動部隊と合流して一路東京をめざした。
18日の早朝、この機動部隊は、太平洋沿岸を哨戒していた日本軍の第二三日東丸に発見された。そのため、米軍機は、夜間爆撃の予定を約10時間も早めることになった。
東京まで1200キロ。空爆後帰着する予定の中国大陸までたどり着くには燃料もぎりぎりの地点だった。
攻撃隊(ドゥリットル隊)は、18日の真昼、東京上空に到着した。警視庁消防部の記録では、空襲開始午後0時10分、空襲警報は爆弾投下後の0時25分に発令された。
この日、東京では朝から防空演習が行われていた。実際に爆弾が投下され、高射砲が打ち上げられても、本物の空襲であることに気づかない人が多かったという。
日東丸から米機動部隊発見の報を受けていた海軍も、空襲は翌朝と判断していた。空母が航続距離の長い陸上機を運ぶとは予想していなかったからだ。
日本側は完全に虚をつかれたかたちとなった。
ドゥリットル隊16機のうち、13機は東京、川崎、横須賀を、3機は名古屋、神戸などを攻撃した。死者50人(うち東京では39人)、家屋損害361戸などの被害をうけた。
米機は反撃らしい反撃も受けないで日本を離れたが、当初の計画が10時間も早まったため、中国大陸到着はすでに夜になっていた。手違いは米軍側にも損害をもたらした。
米軍機の避難先であった中国・麗水飛行場では、管制灯が消され、地上砲火まで浴びせられた。米軍機は飛行場付近に強制着陸、あるいは落下傘降下を行ったが、5人が墜落死あるいは溺死し、8人が日本軍の捕虜となった。このうち3人は日本軍によって処刑され,1人は獄死した。
この空襲について、日本の東部軍司令部は、空襲直後「敵九機を撃墜、我方(引用者:ワガホウ)の損害は軽微なる模様」と発表、翌日の朝日新聞は「〝必勝〟の民防空に凱歌」「我家をまもる女子/街々に健気な隣組群」、さらに22日付夕刊には「かくて敵機を撃墜せり/千葉、大島沖で猛追撃」の記事が掲載された。
一方、この東京初空襲の報は、アメリカ国民の士気を大いに鼓舞したという。

以上、この項は、ほとんど『昭和二万日の全記録 第6巻』pp.148-149 からの引用である。戦時の報道についても知って欲しいと思い、あえて長い引用とした。
(*6)次回、この海戦について詳しく述べたい。

今回の参考資料は、前々回、(15)回に同じ。

2009年2月16日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (16)

もう一度1941(昭和16)年12月8日(以下日本時間で記す)に戻ろう。

この日、午前0:17から1時間30分、真珠湾の防潜網が引き上げられ、日本海軍の特殊潜航艇が湾内に潜入。
0:20、米海軍通信局は、傍受した日本の対米通牒(覚書)の暗号解読文を海軍首脳に配布。
1:25、マーシャル米陸軍参謀総長、対米通牒暗号解読文を読む。
2:15,米駆逐艦ウォ―ド、真珠湾口の外側で正体不明の潜水艦(日本軍の特殊潜航艇)を撃沈。
2:30、ワシントンの日本大使館が対米通牒暗号文の解読を終える。
2:36、オアフ島の米軍レーダー、接近する飛行機群を探知したが、日本の攻撃隊と気付かず。
3:19、淵田美津雄第一次攻撃隊長「全機突撃セヨ」と命令打電。(この時間は予定より11分早かった。)3分後、淵田少佐「トラ・トラ・トラ」を発信。
3:28、ハワイ海軍航空隊司令官、全世界に「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と無線放送。
3:31、真珠湾の米戦艦アリゾナ、火薬庫に爆撃を受けて大爆発を起こし、沈没。
3:42、太平洋上の米軍第八任務部隊(ハルゼー提督指揮、空母エンタープライズ他)、戦闘配置につく。
3:47、ルーズベルト大統領、真珠湾攻撃の報告を受ける。
3:50、ワシントンの海軍省に真珠湾攻撃の第一報。
     駐米日本大使館、対米通牒の全文の浄書を終える。
4:05、野村・来栖両大使、ハル長官に「対米通牒(覚書)」を手交。
4:30、東郷外相、官邸で真珠湾攻撃の報告を受ける。
5:00、ルーズベルト大統領、政府・軍首脳と「戦争会議」を開く。
5:30、第二次攻撃隊、真珠湾から引きあげる。
【以上、『昭和二万日の全記録 第6巻』の pp.112-113 より、抜粋。】

この日、日本軍は真珠湾攻撃よりも早く、午前2時15分にマレー半島コタバルの敵前上陸に成功した。前日の7日、マレー作戦部隊輸送船団に接近中の英軍機を日本陸軍の戦闘機が撃墜した。これが太平洋戦争最初の攻撃であった。
さらに8日には、日本軍は、シンガポール、香港、グアム島攻略を開始した。 10日にはマレー沖海戦で、イギリスの戦艦プリンス・オヴ・ウェールズとレパルスを撃沈。25日には香港を占領した。 





2009年2月10日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (15)

話は戻る。

1941年12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃は、日本にとっては大成功だった。
午前1時30分(ホノルル時間、7日午前6時)[赤城(アカギ)]など6隻の空母から次々に発進した雷撃機、爆撃機、戦闘機など、第1波・183機の大編隊は1時間49分後、隊長機から発信された「トトトト(全機突撃セヨ)」を受けて、湾内に停泊していたアメリカ太平洋艦隊の主力艦を急襲した。湾内に係留されていた[アリゾナ][オクラホマ]など8隻の巨大戦艦が次々に轟音とともに煙と炎を挙げていく。(第2波攻撃隊167機は第1波から1時間15分後に母艦から発進した。)
隊長の淵田美津雄中佐(当時39歳)は、全機突撃の命令から4分後「トラトラトラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)」と打電した。この発信は[赤城]の中継を待つまでもなく、東京の大本営、広島湾の旗艦[長門]も直接受信したという。

この日、午前7時、日本国民はラジオから流れるNHK放送を聞いた。
「臨時ニュースを申しあげます。臨時ニュースを申しあげます」
勇壮な軍艦マーチが流れた後、
「大本営陸海軍部午前7時発表。帝國陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
これが大本営発表の第1号であった。

しかし、事実上の宣戦布告である米国に対する最後通達「対米通牒(覚書)」は、在ワシントンの日本大使館員の怠慢と無規律によって解読と浄書が遅れ、奇襲攻撃から1時間近くも遅れて手交された。
そのため、この攻撃は卑劣な行為として、アメリカ国民の怒りを買い、Remember Pearl Harbor! (真珠湾を忘れるな!)と戦意を昂揚させた。もともとこの攻撃は開戦に消極的であった連合艦隊司令長官の山本五十六大将が先制攻撃によって米太平洋艦隊を壊滅させ、米国民の戦意を喪失させようとしたものであったが、その意図は裏目に出る結果となった。

【参考図書】
『昭和二万日の全記録 第6巻 太平洋戦争』講談社 1990年1月
『日録20世紀 1941』講談社 1997年7月
中田整一 編/解説『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社 2007年12月 

2009年2月2日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (14)

1939(昭和14)年スタンレーは海軍予備軍に応募した。妻のアリスによれば、ドイツと日本における軍国主義の台頭に悩み、ことにヒトラーのチェコスロヴァキア侵攻以後は、ヒトラーを阻止しなければの思いが強かったらしい。
すでに日本語の知識があることを告げていたスタンレーは、1943(昭和18)年7月初旬に入隊となった。ワシントンD.C.から、フロリダの海軍基地へ、そこで海兵隊所属が決定され、カリフォルニア州サンディエゴで訓練を受けた。その後ニューカレドニアに派遣され、11月末にガダルカナルへ到着したらしい。いよいよ日本軍と戦うこととなる。
加藤恭子は次のように述べている、
「生まれ故郷の日本に対して戦うのは、辛くはなかったでしょうか?」
 という質問に、妻のアリスは、
「いいえ、戦ったのは、日本人に対してではありませんもの。日本の軍国主義指導者に対してでしたから」
 と答える。
 鳥取育ちの妹、メアリー・クラーク(Mary Clark)は,
「苦しんでいました。同胞が同胞に対して戦うようなものだと…」
 と答える。
 どちらも、真実なのであろう。(pp.14-15)
今回は、引用も含め、次の本によって書いた。

スタンレー・ベネット 加藤恭子/今井萬亀子[編訳]『戦場から送り続けた手紙―ある米海軍士官の太平洋戦争―』The Japan Times 1995年7月

以後、『戦場からの手紙』と略称する。



2009年1月23日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (13)

1939年、スタンレーはハーバード大学医学部の講師となった。2年前には長女イーデスが、この年には次女アンナが、生まれた。
1940年の夏、父ヘンリーが母アンナの病気見舞いに一時帰国したが、日米関係悪化のため米政府は来日の許可を出さず、36年あまりの歳月を過ごした鳥取の地に戻ることはできなかったことは前にも述べた。みずからも愛児の眠る鳥取の地に骨を埋めたいという夢を断たれたヘンリーは、ハーバード大学で日本語を教えたり、政府の翻訳の仕事をしたという。
ヘンリー夫妻はボストン郊外に家を買い、スタンレーの一家もアパートからこの家へ移った。1942年3月には長男のヘンリーが生まれた。長男は祖父の、次女は祖母の名をもらったわけだ。その前年、一家は1941(昭和16)年12月7日(日本時間8日)を迎えることになる。

この日、スタンレーとアリス夫婦は、フィラデルフィア郊外にあるスタンレーの妹、メアリーの家を訪問していた。
スタンレーとメアリーの夫は川へカヌー漕ぎに出掛け、女性たちだけが居間のラジオでシンフォニーに耳を傾けていた。突然音楽が中断され、「真珠湾攻撃」の臨時緊急ニュースが流れ、メアリーもアリスも言葉が出ないほどの衝撃を受けた。
戻ってきた男性たちにニュースを伝えると、スタンレーは一瞬呆然と立ちすくんでいたという。(『S・ベネットの生涯』p.88による)

日本軍による「奇襲」というべき攻撃に対して、アメリカ国民の反応はどうであったか。まさに「激昂」というべきものであった。加藤恭子は次のように記している。
 日本も、反英米宣伝を自国民に対してした。
 しかし、欧米を畏敬する土壌のあった日本での、とってつけたような「鬼畜米英」と、もともと〝黄色人種〟に対する人種的差別の根強かったアメリカの対日侮蔑観とは、比べものにはならない。アメリカ人にとってドイツ人は、恐ろしいけれど人間だったのに対し、日本人は〝人間以下〟とみなされていた。
 アメリカでの反日宣伝がいかに激しいものであったかは、今日では明らかになっている。当時の代表的な週刊誌、月刊誌も〝ニップ〟、〝ジャップ〟を日常的に用いた。
(『S・ベネットの生涯』p.89)
そして、加藤は、ジョン・W・ダワーの『人種偏見』(注1)から引用し、さらに『戦場から送り続けた手紙』の解説的文章の中では、ヨゼフ・ロゲンドルフの『和魂・洋魂』(注2)から引用して、彼らは日本における原始的なプロパガンダとは違って、日本人は「人間以下」「血の染みこんだ獣」「カーキ色の猿」等々のイメージを定着させていったと述べている。

開戦の時、私は小学校一年生だった。あれは鳥取大震災の前であったから、二年生か、三年生の一学期の頃であったと思う。恥ずかしい思い出がある。講談社の絵本『リンカーン』を、アメリカ人だからと、家の前の空き地で焼き捨ててしまった。そのことを得意になって父に話したところ、本は焼き捨てたりするものではないと、叱られた。
まあ、こんな愚行は一笑に付してもらうとして、ベネット家ではどうであったであろうか。再び『S・ベネットの生涯』から引用する。スタンレーの妹のメアリーは言う。
「友だちが日本人の悪口を言うたびに、私は叫んだのです。『私に彼らの悪口を言わないで!どんなに誠実な人たちか、教えてあげるわ!』そして、いつも一つの例をあげました」
 鳥取でのことだった。日本人の老医師に、ヘンリーがお金を貸したことがあった。老医師は一生懸命に返却しようとしたのだが、できなかった。彼の父は、池田藩(引用者注:鳥取藩か池田家が正しい。この場合は後者)の家臣だった人で、姫の着物を一着、主君から拝領していた。その家宝を、老医師はヘンリーに「これで代わりに」と持って来たというのである。
「こういう人たちなんだから!」とメアリーは叫んだという。
「決して決して、日本人の悪口を聞きたくはなかったのです」
 スタンレーもまた、複雑な感情に苦しんでいたにちがいない。周囲の誰かが〝ジャップ〟と言うと、
「〝ジャパニーズ〟と言いなさい」
 と厳しい表情で注意したという。(pp.90-91)
注1:ジョン・W・ダワー、猿谷要監修『人種偏見』TBSブリタニカ (1987年)
注2:ヨゼフ・ロゲンドルフ、聞き手加藤恭子『和魂・洋魂―ドイツ人神父の日本考察』講談社(1979年)


2009年1月15日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (12)

春の芽吹きを紹介したブログをアップしたら、また雪が毎日降り始めた。
10日には鳥取市内で早朝の積雪が28センチになったし、昨日の朝も午前9時現在25センチであった。しかし、桜の花の芽は、じっと耐えているのであろう。
  ―――☆―――☆―――☆―――☆―――☆―――☆―――
先回はスタンレーの心の中に残っていた少年時代の鳥取をご紹介したが、今回は、鳥取の人たちの心に残っている少年、スタンレーの姿をみ見ることにしょう。
以前ご紹介した歌人の伊谷ます子が語るところによれば、
幼い日に遊んだ鳥取をなつかしがり「鰈はえーカナ」等と、その頃の魚売りの小母さんの口真似を覚えている程のユーモアが(一部省略)あります。進駐軍が鳥取に来ている頃、若い米兵が街を歩いていると、ベネット氏の近所に住んでいた八百屋のお婆さんが立ち止まって「アリャーリャー、スタンデーさんが大きゅうなって」とさも懐かしそうにしばらくその後姿を眺めていました。外人と云えば皆ベネットさんに見えたのでしょう。
(『鳥取県百傑伝』p.645)
わたしがこどものころでも、賀露のあたりからやって来た小母さんたちが、「カレー(=鰈)はええかなー」とか「今どれの(=取れたばかりの、新鮮な)カレーは、いらんかなー」と、リヤカーや自転車の荷台に積んだ魚類を行商していたものだ。
これも蛇足だが、境内から早稲田の大隈講堂を望むことのできた赤城神社のそばに下宿していた頃(昭和30年前後)、「アサリ、シジミよ~」という売り声をよく聞いたものであった。

以前取り上げた1979年のNHK鳥取放送局での「マイク訪問」という番組で、伊谷ます子が「とってもきれいな坊ちゃんでね。お行儀がよかった」と言ったのを受けてスタンレーは、「私はいくらでもいたずらをしました」と述べている。
加藤恭子が鳥取へ取材に来たときに、尾崎誠太郎から直接聞いたと思われる、こんな話もある。
日曜学校で一緒だった尾崎誠太郎とスタンレーは、お祈りの間も、よくお互いの頭をつっつき合った。片方がちょっとかまって押すと、もう一方は相手の頭をちょっとたたく。ヘンリーは、教壇の上から、そんな二人をじっと見ていたそうである。(いずれも、『S.ベネットの生涯』p.57)

【付記】これまでなんどか引用文献から発言を紹介させていただいた伊谷ます子さんは、1983(昭和58)年死去。1900年前後のお生まれで、行年82~83歳であった。なお、子どもさんのうち、三女は鳥取西高時代の同期生である。

2009年1月8日木曜日

春の芽吹き

今日はベネットさんの話はお休みにします。
今年も元日は久しぶりに雪となり、鳥取市内でも積雪が十数センチとなった。三日以降は晴れ間もあったが雨が降ったり、曇ったり。二日間で積雪はすっかり消えてしまった。
今日は久しぶりの好天で、桜土手へ出掛けてみた。まだ寒々とした景色ですが、次の写真をクリックし、拡大してご覧下さい。



こんなにも桜の花の芽が出ています。

まさに春の芽吹きです!

2009年1月6日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (11)

13歳の時、日本を離れて米国へ帰ったスタンレーが、ハーバード大学医学部を優秀な成績で卒業し、医学の道を歩み始めたこと、さらに、アリスという女性と結婚し、独立した生活を始めたことについて、第10回で述べた。
そのスタンレーの心に残っていた日本、生まれ育った鳥取とは、どんな姿をしていたのであろうか。
加藤恭子の『日本を愛した科学者 スタンレー・ベネットの生涯』にある多くの参考文献の中にスタンレー自身が寄稿した“MY MEMORIES IN TOTTORI”という一文がある(『鳥大メディカル』第4巻、25~27ページ、1965年2月)。
その内容の一部は加藤の著書の中でも使われているが、ぜひ全文を読んでみたいと思った。鳥取大学教育学部教授を退官された岡村俊明先生には、ある会を通じて面識を得ており、何かとお世話になっているものだから、この件についてお願いした。早速、コピーをお送りいただいた。昨年の12月上旬のことである。以下全文をご紹介する。

鳥取の思い出     H. スタンレー・ベネット

 私の父、ヘンリー・ジェームズ・ベネットはハーバード大学を卒業後、明治34年に鳥取へやって来て、大東亜戦争勃発の直前まで宣教師として鳥取で暮らした。私たちが住んでいたのは、鹿野街道と当時は東町といわれていた、現在の西町との角にあった大きな家で、久松山下のお堀から1ブロックばかり離れた所にあった。当時は、久松山(注1)を「お城山」あるいは「ひさまつやま」と言っていた。
 父は鳥取で40年あまり暮らした。父母の間には5人の子どもが日本で生まれた。この5人のうち、弟と私の二人は鳥取で生まれた。私が生まれたのは明治34年で、ちょうど、山陰線が鳥取駅まで開通した年に当たる。この線の開通以前、父は車(人力車)で中国山脈を越えたものだった。たびたび汽車で山陽線の上郡まで出て、そこから車で二日がかりで山越えをしたものであった。父によると、明治34年にはじてこの旅をしたとき、2台の人力車と荷物を運ぶ1台の荷車の代金は1円75銭であったという。
 父は長年鳥取商業学校(注2)で、また何年か鳥取中学(注3)で教鞭をとった。私のこども時代の遊び相手や友人たちはみな日本人だった。特にこども時代の友達として思いだすのは、現在米子高専教授の尾崎氏である。また仲の良かった友達の一人として思い出すのは鈴木さんで、お父さんは鳥取刑務所の所長だった。私には3人の姉妹がいたが、彼女たちにもこの町に多くの友達がいた。弟のフレデリックは、3歳か4歳(注4)のとき、雨水を溜めるために屋外に埋めてあった小さな壺の中に落ちて溺死した。この出来事は50年以上も昔のことだ。墓は摩尼寺へ通じる道の近くにある丸山墓地にある。
 鳥取での少年時代についてはたくさんのことを憶えている。大雪の降った冬も何年かあった。家の屋根に積もった雪がとても重くなって、男たちを傭って雪下ろしをしてもらわなければならないことが何度もあった。こどもの頃鳥取の周辺のいろんなところへ行った。湖山池に行って、美しい湖上でボート(モーターボートではない)に乗ったこともなんどかある。日本海の海岸沿いにある有名な白兎神社を訪れたこともあった。鳥取砂丘へは何度も行って、すり鉢の斜面でよく遊んだ。砂丘へ行く道は袋川と山々の間にあって、当時、十六本松を過ぎたあたりに柳茶屋という、とてもすてきな茶店があった。私たちはいつもそこに立ち寄って、お茶を飲んだりすてきなおばあさんと話したりした。それからすり鉢へ行ってこどもたちは砂の上で遊び、父と母は木陰に腰を下ろして松籟に耳を傾けていたものだった。サンドイッチの弁当を食べた後、海岸へ降りていって、きれいな貝殻を拾ったりした。その頃鳥取砂丘は有名ではなく、静かなところで、観光客はいなかった。たいてい砂丘にいるのは私たちだけであった。ときどき、漁船が海に出ているのを見かけたけれども。ふつう、漁師たちは千代川の河口の向こう側の賀露にいたから、砂丘自体はひとけのない場所であった。ずっと最近になって、砂丘を訪れたことがある。砂丘が国立公園になって、ときどき観光客で混雑したり、らくだに乗って砂丘を進むことが出来ることを知った。私は、昔の砂丘の方が好きだ。(注4)
 こどもの頃、両親は私をよく、鳥取城に住んでいた大名、池田家の墓地へ連れて行った。それぞれの墓にあった大きな石の亀とその上の高い石塔をよく憶えている。大火と地震で市の大部分が破壊される前の鳥取を私はよく知っている。私がこどもの頃には、侍たちの古い屋敷の多くが残っていた。また、お殿様のことや彼らに治められていた古い時代のことをなつかしそうに、うれしそうに語るお年寄りたちが町には大勢いた。またこどもの頃には、古いお城の石垣の上に大砲があった。この大砲は毎日正午きっかりに鳴らされた。それは大きな音で、みんながびっくりしたり、時計を合わせたりした。わが家はたびたび鳥取からほかの町へ旅行した。もちろん汽車で行くのは京都や大阪が多かったが、米子や松江へ行くこともあった。鳥取に近い、浜坂や浦富の村はとくによくおぼえている。夏になると休日にしょっちゅう出掛けて行ったからだ。そこの海岸へ泳ぎに行ったものだった。その当時、浦富や浜坂の海岸へ泳ぎに行く人はほとんどいなかった。ほとんどいつも私たちだけだった。現在、これらの海岸が夏の午後たいへん混雑していることを私は承知している。こども時代、鳥取には大学はなかったが、高等農林学校が鳥取にできたときのことは憶えている。1965年の夏に鳥取を訪れたとき、湖山池の近くが発掘されているのをみた。鳥取大学の新しいキャンパスの工事が始まっていたのだ。学校の建設作業が進行しているのを見てとてもうれしかった。
 米子にある鳥取大学の医学部を私は二度訪ねたことがあり、教授のなかに多くの友人がいる。鳥大医学部の学生に講義をしたこともある。そこに建設されていた新しい立派な建物を見て、非常にうれしく思ってもいる。また、すばらしい教授たちや彼らの多くのすぐれた研究成果を見て喜んでもいる。これらの研究成果の中には合衆国でよく知られているものもある。私自身の蔵書の中には多くの鳥大教授の発表のリプリントがある。
 こどもの頃、一度、父と一緒に大山登山に出掛けたことがある。鳥取市から朝早い列車に乗って、大山口で下車した。当時、バスや自動車はなかったので、大山へ向かって歩き始めた。大山寺まで行って少し山を登り始めたが、
夕方近くになっていて、幼い私は、足も小さい。それで、鳥取市へ向かう遅い時刻の列車に乗るためには、引き返さなければならなかった。1965年の夏、妻といっしょに米子を訪れたとき、鳥取大学の親切な教授方にご一緒していただき、夫婦して大山の頂上まで非常に快適な登山をする恩恵を受けた。大山寺までは立派な新しい道路を車で行くことができた。そこからは、道はときどき険しかったが、私のような老人にも困難過ぎるというほどではなかった。残念ながら、山頂では雲が多く、よい眺望は得られなかった。下山後、大山寺のすばらしい神社と寺を見て回った。妻と私は大いにこの登山を楽しんだ。とくに、鳥取大学のご親切な教授方とご一緒だったおかげであった。
 私は、日米医学協力委員会と国際電子顕微鏡学会に出席するため、1966年の夏にもう一度訪日の予定です。来年の夏妻と一緒に日本へ来たら、再び鳥取大学を訪れたいと思います。
 皆さんのご多幸を祈ります。
       
                                      H.Stanley Bennett

(注1)現在、キュウショウ「ザ」ンと呼んでいるが、スタンレーはキュウショウ「サ」ンと呼んでいる。
(注2)現在の鳥取商高。現在の鳥取市立北中学校の場所にあった。
(注3)現在の鳥取西高。
(注4)正確に言えば3歳10ヶ月。
(注5)現在は砂丘トンネルを抜けて多鯰ヶ池[たねがいけ]のある東側から砂丘へ行くのが普通になったが、この道路がなかった頃は浜坂の方から砂丘へ入った。有島武郎が「浜坂の遠き砂丘」と歌った所以[ゆえん]である。こちらから砂丘にはいると、すり鉢がある。文字通り巨大な擂り鉢形の大きな穴が開いている。子どもたちにとって格好の遊び場で、底まで駆け下りたり、雪が降るとスキーで滑り降りたりしたものだ。

,ベネット父子

2008年12月31日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (10)

前回は、歴史年表からいくつかの出来事を思いつくままに並べて、日米関係が悪化して行き、鳥取の地に骨を埋めるというヘンリー・ベネットの思いを果たすことができなくなった、と書いた。
いよいよ日米開戦となるわけだが、その前に、アメリカで暮らすことになったスタンレーのその後について、急いで振り返ってみたい。

加藤恭子は次のように記している。
 十三歳で本格的にアメリカに住むことになったスタンレーにとっては、生活のレベルの高さは、鳥取のそれと比べると、びっくりするようなものであったにちがいない。しかも、私立学校の生徒たちの多くは、裕福な家庭から来ている。宣教師の質素な家庭、しかも大正時代の日本で育った少年にとって、かなりの違和感があったとしても不思議ではない。
 姉のサラによると、一九二〇年代の鳥取市内では、各戸に電気と水道があった。だが、電気は電灯に使うだけで、ほかの電気用品に使うことはできなかった。電気冷蔵庫などはなかったし、自動車も少なく、人力車を使っていた。暖房はこたつと火鉢にたより(引用者注:昭和10年代でもこの通りであった)、男の子たちは制服を着ていたが女の子たちは着物に袴。女性は着物、成人男子もほとんどが着物に袴だった。それに比べ、一九二〇年代のフィラデルフィアでは、ほとんどの家が自動車、ラジオ、電気冷蔵庫などをもっていたという。
「だからと言って、鳥取での生活が原始的だなどと思ったことは、一度もありません。私たちは、大好きでした」
 とサラはつけ加えるのだ。(pp.78-79)
1929(昭和4)年、スタンレーはオハイオ州オーバリン・カレッジに入学。寄宿舎の食堂で皿洗いのアルバイトをやりながら、1932年に卒業し、その秋、ハーバード大学医学部に入学した。
大学でも、家からの仕送りだけでは学費がまかなえず、大学食堂のウェイターや教授たちの家の暖房係のアルバイトをした。当時は、地下室にある炉で石炭を燃やし家中を暖めていたという。
2年目から、解剖学の教授がスタンレーのために奨学金をとってくれ、勉学に専念できるようになったという。
4年生になり、フェローシップ(大学院学生・研究員に与えられる特別奨学金)をもらえることが分かったので、以前からつきあっていたアリス・ルーサ(Alice Roosa)と結婚することを決意する。
彼女もスタンレーと同じ年にオーバリン・カレッジに入学していたが、専攻がスタンレーは化学、アリスは体育と違っていたので、二人は出会わなかった。3年生になって、二人が心理のコースを受講したことで知り合った。アリスは快活で向上心が強く、優等生だった。
アリスの家は、父方も母方も、曾祖父、祖父、父が医者という医者一家で、アリスも医学部へ進みたかったが、「家庭と医学は両立しない」という父の意見に従って断念したという。カレッジ卒業後、ニューヨーク州の両親の家に帰り、近くのハイスクールの体育教師となった。スタンレーは毎日のように手紙を書き、アリスも返事を出した。
1935(昭和10)年7月に、二人はアリスの父の家で結婚式を挙げた。朝の8時半にスタンレーの父、ヘンリーによって式を挙げ、その後、家族でいっしょに朝食をとるだけの簡単なものであったという。

1936年、スタンレーはハーバード大学医学部を優等で卒業した。
1年間無給のインターンをやり、1937年9月、ボストンへ戻ってハーバード大学医学部のフェロー、1939年からは解剖学の講師となった。

(今回は『S・ベネットの生涯』pp.78-83 による)

2008年12月27日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (9)

ヘンリー・ベネットが日本語を聞き、話すだけでなく古い日本語の文章を読むこともできたことはすでに述べた。妻のアンナも、歴史、宗教、考古学などの読書こそ英語であったが、日本語に堪能であったという。
しかし、子どもたちに対する教育方針は、アメリカ人として育て、帰国後にハンディキャップを持たせないようにしょうというものだった。
米国の通信教育専門の学校から教材を取り寄せ、朝食後からお昼まで、週5日勉強した。
長女のサラは4年まで通信教育で勉強し、神戸の外国人学校、カナディアン・アカデミィの小学校4年へ編入された。ハイスクールまでカナダ式の一貫教育校で、寄宿生50人、通学生150人であったという。サラに1年半遅れて、長男のスタンレーもこの小学校の寄宿生となった。

1917(大正6)年、ベネットの一家は米国へ帰国した。当時、アメリカ人宣教師は、7年外国で勤務すると一年の帰国が認められたという。一家は、母アンナの出身地であるフィラデルフィア市郊外のジャーマンタウンで暮らした。7歳のスタンレーにとっては最初のアメリカ体験だった。彼は姉のサラとともに、母の母校、ジャーマンタウン・フレンズ・スクールに通った。小学校から高校まであるこの学校は創立が1845(弘化2)年の私立学校で、主にクエーカー教徒の子弟のためのものであったが、教育水準が高いことから他宗派の家の子どもたちも通学するようになっていた。元駐日大使で夫人が日本人だったエドウィン・ライシャワーもここの卒業生だという。
1年後、家族は日本へ帰ってくるが、4、5年後母アンナの健康に問題が生じた。1923(大正12)年、アンナは軽井沢で乳癌の手術を受けた。
翌年の夏、一家はジャーマンタウンへ戻った。

1927(昭和2)年ヘンリーは単身日本へ帰り、翌年アンナも下の二人の娘をつれて鳥取へ帰ってきた。カレッジへ通っていたサラとスタンレーはアメリカに残った。この二人が戦前、最後の短い来日をしたのは、1930(昭和5)年の夏、両親の銀婚式を祝うためだった。このとき、一家は野尻、軽井沢、富士山、日光へ行っている。

1934(昭和9)年7月、一時帰国したベネット夫妻は、1936(昭和11)年3月、鳥取へ帰ってきた。子どもたちは全員アメリカに残った。鳥取駅には県知事をはじめ多くの人々が出迎え、ヘンリー・ベネットは次のように挨拶したという。
「鳥取の地へ帰ってまいりました。これからは日米の親善と交流、そして幼児教育とキリスト教の伝道に一生を捧げるとともに、日本と山陰の歴史や文化の研究を続け、愛児フレデリックが眠るこの地に、妻とともに骨を埋めるつもりです。」

しかし、時代はこのヘンリーの言葉の実現を許さなかった。
翌1937年、日中戦争が起こり、翌38年には東京オリンピックの中止、さらに39年、ノモンハン事件、1940年には、日本軍の北印進駐、日独伊三国軍事同盟締結などなど、国際情勢は緊迫し、日米関係も悪化していった。
1939(昭和14)年の春、ベネット家親類縁者のつどいがあり、ヘンリーとアンナは渡米した。どうしても日本へ戻るというヘンリーの身を案じて病気になったアンナを残して、ヘンリーは日本へ発った。
翌1940(昭和15)年の夏、在米の妻を見舞ったヘンリーは、二度と日本へ帰ることはできなかった。
 日本側の資料では、日米関係の悪化に伴い、日本の官憲が圧力をかけたのではないか。申し訳なかった。という雰囲気がにじみ出る。
 だが、サラによると、責任はアメリカ政府にあるという。鳥取へ単身帰ろうとしたヘンリーに対し、アメリカ政府が日本行きを禁止、許可を出さなかったのだという。こうして、約三十六年もの歳月をすごした鳥取との別離を、ヘンリーは余儀なくされたのだ。
 ヘンリーは悲しい報告を鳥取の協会関係者へ書き、家具などは皆で分けてほしいと頼んだ。
(今回は最後の引用部分はもちろん、ほとんど『スタンレー・ベネットの生涯』の中の pp.69-71 からの引用である。)

2008年12月26日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (8)

1915(大正4)年3月8日、ベネット家に悲劇が起こった。
先回、ベネット邸の庭にあった、雨水を溜めておくための「地面に埋められた陶製の茶色の水がめ」のことを記した。
この日、スタンレー、フレデリック、日本人の男の子たち何人かが庭で遊んでいた。誰かがフレディ(フレデリックの愛称)に小さなバケツを渡して水を汲んでくるように言ったらしい。彼は近づいてはいけないと言われていた水がめの蓋をとって水を汲もうとして頭から落ちた。
台所にいた料理人がふと窓の外をのぞいて、水がめから突き出ている二本の脚を見て叫び声を上げた。
父のヘンリーが脚をつかんで引き上げたが、すでにフレディは死んでいた。
「誰が彼に水を汲んでくるように言いつけたのか、穿鑿(センサク)する人はいなかった。」と加藤恭子は書いている。(p.40)
「異人屋敷」へは、日本人信者の女性たちが集まり、小さな白木の棺の底とフレデリックの身体の周囲に詰める白絹の細長いクッションのようなものを縫った。小さな手には、庭から摘んだ白い花束が持たせられた。時折、すすり泣きが洩れた。
 そして野辺の送り。男たちが棺を肩に乗せて運んだ。のぼりを立てた長い行列が棺の前後に続き、丸山へと向かった。(中略)
 この丸山の地は、のちに本格的な教会墓地として整備され、フレデリックの墓もそこへ移された。今日、フレデリックの墓は、鳥取市丸山の教会墓地にある。(中略)
 この墓地は、久松山の山麓北東の方角、八幡池に近く、階段や山道を登っていく鬱蒼とした森の中にある。樹々が影を落としているので、ほとんど日が当たらない。前方には納骨堂、平安霊堂がある。
(『S.ベネットの生涯』pp.41-42)


2008年12月20日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (7)

ヘンリーとアンナの間には5人の子どもが生まれた。
長女、サラ(Sara)1908(明治41)年生。
長男、スタンレー(Stanley)1910(明治43)年生。
次男、フレデリック(Frederick)1912(明治45)年生。
次女、アンナ(Anna)1913(大正2)年生。母と同名なので「ナニー」とニックネームで呼ばれたという。
三女、メアリー(Mary)1916(大正5)年生。

彼らが子ども時代を過ごしたのは、例の「異人屋敷」、私たちが子どもの頃の呼び方では「ベネットさんの家」であった。正確に言えば、鳥取弁で「ベネットさん家(げ)」と呼んでいた、というべきかもしれない。この言い方がどのように、また、いつ頃生まれたのわからない。「鳥取藩を治めていた池田家(いけだ・け)」のような「け」が「げ」となったのかとも思うが分からない。「◇◇ちゃんげの者(もん)」とか「◎◎ちゃんげは、○○ちゃんげの隣」といったように使った。前者は家族を指すとも言えるし、後者は明らかに建物を指している。前者の意味であったものが、後者の意味にも用いられるようになったのかも知れない。

本題に戻ろう。加藤恭子の本に「鳥取の異人屋敷。スタンレーもここで生まれた。(撮影年月日不明)」と注記してベネットさんの家の写真が掲載され、本文に「クローバー敷きの庭に囲まれ、一、二階ともにベランダ風な回廊をめぐらせた白っぽい洋風建築」と書いている(p.38)。
 ガス、電気、水道のまだなかった当時の生活の中で、ベネット家の飲料水は雨水に頼っていた。井戸もあるのだが、畑にまく人糞の肥料が地下水を汚染するので、飲み水としては使えない。屋根のすぐ下に、雨水を受ける大きな木槽があった。その下部には栓があって、それをひねると、地面に埋められた陶製の茶色の水がめに水が落ちた。そこから竹びしゃくで水を汲み上げ、煮立ててから飲むのだった。水がめの上には木の蓋がしてあり、子供たちは近づかないようにと言われていた。(pp.39-40)
私の父は1887(明治17)年12月の生まれだから、ヘンリーより13歳くらい年下だ。ヘンリー夫妻が「異人屋敷」で暮らし始めたときには、18歳前後で、たぶん鳥取にはいなかったと思う。だが、10歳前後の頃に父親が母親と自分を含む三人の子どもを捨てて出奔し、長男であった父が一人、元魚町2丁目にあった伯父の家に預けられた。毎朝天秤棒で桶を担いで袋川で水を汲んでくるのが仕事の一つで、とくに冬はつらかったという。私が子どもの頃、父は鹿野街道筋の内市で商売をしていた。水道はむろんあったが、井戸の水も電気を使ったポンプでじゃんじゃんくみ上げて「湯水の如く」の文字通りに使っていた。父の苦労話を聞くたびに、なぜ井戸水を使わなかったのだろうと思ったが、上に引用した加藤の文章を読んで納得した。(また、脇道にそれてしまったか?)

2008年12月19日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (6)

ヘンリー・ベネットと妻のアンナについて伊谷ます子の語っている内容をご紹介したが、伊谷隆一の文章や加藤恭子の『スタンレー・ベネットの生涯』からもう少し補足しておきたい。
ヘンリー・ベネットがハーバード大学卒業直後、宣教師として日本に派遣され鳥取に単身赴任したのは、1901(明治34)年だった。その後一時帰国してアンナと結婚し、日本に帰ってからアンナの任地だった岡山でしばらく暮らした後、二人で鳥取へ戻ってきたのは、1906年の秋であったことはすでに記した。
この時代を歴史的に見れば、日露戦争(1904ー1905)を挟んでいる。『百傑伝』の中で、伊谷隆一はこう書いている(pp.642-643)。
日露戦争前の排外主義気運勃興のさなかであり、いうまでもなくヤソと知れば露探(引用者注:ロシアのスパイ)と騒ぐ当時の風潮のなかで、彼の鳥取での苦難にみちた伝道がはじめられた。人を訪えば塩がまかれ、自宅には石が飛んだ。山陰を伝道センターと指定したアメリカンボードからの強い援助があったとはいえ、このようななかにある外人宣教師を支えるものは、その伝道に賭ける捨身の決意と、その地にある無名の信徒たちの祈りである。
 ベネットがまず第一に励んだことは日本語の習得であり、日本のくらしを身につけることであった。鳥取弁のまだるこいユーモアを解し、日本語ばかりでなく漢籍をも自由に読み、ミソ汁やタクアンの茶漬けの食事をし、そして正座して人と語ることをいとわなくなる、そのような謙虚な努力とそのくらしが、次第に、信徒たちとの結びつきを強めていった。
正座については先回紹介した伊谷ます子の話にも出てきたが、ヘンリーの長男スタンレーの遊び友達の一人であった尾崎誠太郎も後年こう語っている。(以下は、引用も含め、『スタンレー・ベネットの生涯』pp.48-49 による。)

「日曜学校で畳に座られるとき、ズボンをちょっと持ち上げる。そうすると、ズボンの筋がいつまでもくっきりとついている。私もそのやり方を応用しました。」
この尾崎誠太郎は、京都帝大工学部卒業後、陸軍航空技術学校教官と陸軍航空技術研究所員を兼ねた航空少佐で、戦争中はスタンレーと敵味方に別れることになった人物だが、戦後は国立米子高専と広島電気大学の教授を歴任した。1993(平成5)年9月、加藤恭子が鳥取に取材に来たとき、84歳の彼に会って直接取材している。弟の繁夫は鳥取大学名誉教授で、同級生だった評論家の荒正人は、ヘンリーから洗礼を受けたという。
その尾崎誠太郎が、鳥取一中(現在の鳥取西高)時代に、ヘンリーに向かってこんなことを言ったという。「『クラウン・リーダー』全五巻を英国人で文部省顧問のパルマーが読んだレコードを父が一式買ってくれましてな。私はキングズ・イングリッシュだと威張って、ベネットさんはアメリカ人だから英語は駄目だってなことを言ってしまった。子供というのは、生意気なものです。」そして「お怒りにならなかったのですか?」との問いにこう答えている。
「顔を真っ赤にされましたが、一つも怒られなかった。いや、内心は怒られたでしょう。ハーバード大学を何とか賞をもらって卒業した人に、田舎の中学生が『あんたの発音は悪い』ということを言ったのですから。後からは、冷や汗が出たり、すまんと思ったり…」
このエピソードのあとに、「生意気な子供がかえってかわいいのか、ヘンリーは誠太郎をとてもかわいがったという。」と加藤は書いている。

ヘンリーは、フランス語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語にも通じていた。日本語も鳥取弁を含む話し言葉を理解し、使うことができた。
話し言葉だけではない。江戸時代に書かれた鳥取藩の史書を読み、それを英訳しようとさえしていた。
幼稚園の式では、「教育ニ関スル勅語」、いわゆる「教育勅語」をおごそかに朗読したという。

教育勅語といえば、小4のときであったか、これを筆で清書して提出せよという夏休みの宿題があった。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ…」難しい漢字を書きまちがえては書き直し、半紙を何枚も使って、なんとか最後の「御名御璽」までたどりつき、その最後の「璽」を書きそこねて、べそをかいたことがあったっけ。
閑話休題。
ヘンリーは1956(昭和31)年、フィラデルフィアで亡くなった。スタンレーが父の持ち物を整理していると白い絹の布に包まれて桐の箱に入っている教育勅語がトランクの中から出てきたそうだ。「ずいぶんいい言葉で書かれていると思います。あれを父が読んでいたことを、誇りに思っています」と言ったという(加藤本p.222)。

ヘンリーについて、尾崎誠太郎は「怒られた顔を見たことがありませんでしたな。温厚篤実。日本人にもめったにいないような、実直な方でした」と言い、息子のスタンレーは先回紹介したように「聖人のような人でした」と言っている。

2008年12月17日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (5)

ヘンリー・ベネットは、毎日近くの教会へ通っていただけではない。
随想と歌集を合わせた『雁皮の庭』という著書もある、歌人の伊谷ます子は、愛真幼稚園の前身である鳥取幼稚園の第二回卒業生で、鳥取教会へも通った経歴を持つ人だった。その彼女がベネット夫妻について語った言葉が、『近代百年 鳥取県百傑伝』中の伊谷隆一「ベネット」伝中に引用されている。そしてその内容は後の松田章義による「ベネット」伝(『鳥取県 郷土が誇る人物誌』)、加藤恭子の『日本を愛した科学者 スタンレー・ベネットの生涯』にも、受け継がれている。

伊谷ます子によると、ベネットは自分より遅れて鳥取へやって来たエストラ・コーという女性宣教師と一緒に自転車で伝道範囲の浦富、青谷、八頭まで出掛けたという。鳥取県東部を知っている人であれば、舗装もされていなかった当時の道を、これらの地区へ鳥取市内の中心地から自転車で往復することがどんなにたいへんなことか、よく分かるであろう。
ミス・コーについて伊谷は「鳥取の青年層に伝道し、多数の人を導き、多大なる貢献のあった人」と述べており、加藤恭子は『S・ベネットの生涯』の中(p.47)で「長身のコーは、紺のワンピースがよく似合う清らかな美しさで人々を惹きつけたという」と書いている。ベネット夫妻について伊谷が語っている言葉を二カ所引用しよう。
 当時鳥取教会は畳敷でしたが、(引用者補記:ヘンリー・ベネットは)何時までも正座して信者と語り、上手な日本語で説教もされました。又非常に音楽的才能があり、その低音はきれいで、ヴァイオリンの音色は信者をして容易に恍惚境に入らせる事が出来ました。(引用者注:さきほど述べた自転車による伝道の際にも、いつもヴァイオリンを持っていったという。)賛美歌の四百九十六番「うるわしの白百合」と云うのがお得意で、今でもそのバスが耳によみがえって来る様です。
 非常に日本の歴史を勉強され、特に鳥取の歴史に関心があったようです。
(中略。次の「氏」はヘンリーのこと)当時氏の秘書をしていられた平岡とみ氏は「先生は池田候の日記(引用者注:今後触れるときがくるが『因府年表』のことと思われる)を持っていられ、それを英訳していましたが、毎日どんな難しい漢字をたづねられるかと心配でなりませんでした。」と述懐されている。
 又ある夏、山中湖に家族揃って避暑に行く事になりました。家族は先に汽車で行き、氏は自転車で行く事になりました。然し自転車で漸く山中湖に到着した途端に、鳥取教会の信者の人の昇天をきかされ、たちどころにその足で鳥取に引き返して行ったと云うエピソードもあります。
 夫人は名門の出身であると聞いていました。婦人会を組織し当時としては珍しい西洋料理や菓子、編物を教え育児の相談等をして皆から喜ばれ親しまれていた様です。私は小さい時「雪ヤケ」がひどくて難儀をしていましたが、夫人から頂いた薬、今から思うとメンソレータムではなかったかと思いますけれど、それがよく効いて早く癒った事もありました。又私の姉と兄が相次いで亡くなった時も両親はどれ丈親切に慰められたかと云う事も忘れる事が出来ません。「上村のおばあさん」と云う教会員で、全く身寄りのない老人を最後まで親切に世話をしてお上げになった事も、教会員達の心の中に何時までも灯となって残っています。(中略)夫人は現在も米国にて九十歳の高齢を保ち、帰国後も尚鳥取を忘れず、折にふれて献金など送って来る事があります。(『百傑伝』pp.644-645)
いささか引用が長すぎたかも知れない。しかし、ベネット夫妻の人柄がよく偲ばれるし、伊谷の言葉の中に古い鳥取弁が匂うような箇所がいくつかあって、私には懐かしい。
なお、ベネット夫人のアンナは1973(昭和48)年12月20日に死去した。97歳だった。

1979(昭和54)年、ヘンリーとアンナの長男、スタンレー・ベネットが戦後何度目かの来日の際、「鳥取へ帰ってきた」(彼はいつもこう言ったという)とき、NHK鳥取の「マイク訪問」に出演して板倉正明アナウンサーの質問に「格調高い日本語で答えた」という。このとき、伊谷ます子が同席していた。スタンレー自身が「聖人のような人でした」と言っているヘンリーについて「いつもにこにこしていらしたもので、ちっとも外国の方というような隔てはなかったものです」と語っているそうだ。この放送の4年後の1983年に亡くなった。「この番組の録音テープは、スタンレーの日本語での肉声をとどめる現存テープの数少ないものの一つである」と、加藤恭子は書いている。(『S・ベネットの生涯』pp.50-51)
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