2009年3月2日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (18)

1942(昭和17)年4月18日の東京空襲は、爆撃を目前にした人々を除けば、さしたる影響を国民に与えなかった。だが、政府や陸・海軍当局には大きな衝撃を与えた。あのように簡単に敵機の首都進入を許してしまったからだ。

連合艦隊司令長官であった山本五十六大将は、もともと日独伊の三国軍事同盟に反対であったし、海軍次官当時、米国に滞在したこともあって日米の国力の違いを認識していた故に対米開戦にも反対であった。
彼は1884(明治17)年の生まれで、海軍兵学校卒業(32期)直後、日露戦争が勃発している。ロシアのバルチック艦隊を打ち破った日本海海戦には、装甲巡洋艦「日進」に少尉候補生として乗艦、左手の人差し指と中指を失う重傷を受けるという経歴を持っていた。
しかし、戦艦中心の時代は終わり、これからの海戦は空母と航空機が中心となると考え、戦艦大和の建造にも反対していた。
開戦が決定されたとき、軍人としてその決定に従ったが、開戦すれば短期決戦しかないと考えていた彼は、戦術的には空母を中心とする機動部隊による真珠湾奇襲を実行した。しかし、米軍機による東京空襲も予想していた。そして、山本の戦術をもっともよく研究していたのが、アメリカの太平洋艦隊であったということになる。 

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