2009年1月6日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (11)

13歳の時、日本を離れて米国へ帰ったスタンレーが、ハーバード大学医学部を優秀な成績で卒業し、医学の道を歩み始めたこと、さらに、アリスという女性と結婚し、独立した生活を始めたことについて、第10回で述べた。
そのスタンレーの心に残っていた日本、生まれ育った鳥取とは、どんな姿をしていたのであろうか。
加藤恭子の『日本を愛した科学者 スタンレー・ベネットの生涯』にある多くの参考文献の中にスタンレー自身が寄稿した“MY MEMORIES IN TOTTORI”という一文がある(『鳥大メディカル』第4巻、25~27ページ、1965年2月)。
その内容の一部は加藤の著書の中でも使われているが、ぜひ全文を読んでみたいと思った。鳥取大学教育学部教授を退官された岡村俊明先生には、ある会を通じて面識を得ており、何かとお世話になっているものだから、この件についてお願いした。早速、コピーをお送りいただいた。昨年の12月上旬のことである。以下全文をご紹介する。

鳥取の思い出     H. スタンレー・ベネット

 私の父、ヘンリー・ジェームズ・ベネットはハーバード大学を卒業後、明治34年に鳥取へやって来て、大東亜戦争勃発の直前まで宣教師として鳥取で暮らした。私たちが住んでいたのは、鹿野街道と当時は東町といわれていた、現在の西町との角にあった大きな家で、久松山下のお堀から1ブロックばかり離れた所にあった。当時は、久松山(注1)を「お城山」あるいは「ひさまつやま」と言っていた。
 父は鳥取で40年あまり暮らした。父母の間には5人の子どもが日本で生まれた。この5人のうち、弟と私の二人は鳥取で生まれた。私が生まれたのは明治34年で、ちょうど、山陰線が鳥取駅まで開通した年に当たる。この線の開通以前、父は車(人力車)で中国山脈を越えたものだった。たびたび汽車で山陽線の上郡まで出て、そこから車で二日がかりで山越えをしたものであった。父によると、明治34年にはじてこの旅をしたとき、2台の人力車と荷物を運ぶ1台の荷車の代金は1円75銭であったという。
 父は長年鳥取商業学校(注2)で、また何年か鳥取中学(注3)で教鞭をとった。私のこども時代の遊び相手や友人たちはみな日本人だった。特にこども時代の友達として思いだすのは、現在米子高専教授の尾崎氏である。また仲の良かった友達の一人として思い出すのは鈴木さんで、お父さんは鳥取刑務所の所長だった。私には3人の姉妹がいたが、彼女たちにもこの町に多くの友達がいた。弟のフレデリックは、3歳か4歳(注4)のとき、雨水を溜めるために屋外に埋めてあった小さな壺の中に落ちて溺死した。この出来事は50年以上も昔のことだ。墓は摩尼寺へ通じる道の近くにある丸山墓地にある。
 鳥取での少年時代についてはたくさんのことを憶えている。大雪の降った冬も何年かあった。家の屋根に積もった雪がとても重くなって、男たちを傭って雪下ろしをしてもらわなければならないことが何度もあった。こどもの頃鳥取の周辺のいろんなところへ行った。湖山池に行って、美しい湖上でボート(モーターボートではない)に乗ったこともなんどかある。日本海の海岸沿いにある有名な白兎神社を訪れたこともあった。鳥取砂丘へは何度も行って、すり鉢の斜面でよく遊んだ。砂丘へ行く道は袋川と山々の間にあって、当時、十六本松を過ぎたあたりに柳茶屋という、とてもすてきな茶店があった。私たちはいつもそこに立ち寄って、お茶を飲んだりすてきなおばあさんと話したりした。それからすり鉢へ行ってこどもたちは砂の上で遊び、父と母は木陰に腰を下ろして松籟に耳を傾けていたものだった。サンドイッチの弁当を食べた後、海岸へ降りていって、きれいな貝殻を拾ったりした。その頃鳥取砂丘は有名ではなく、静かなところで、観光客はいなかった。たいてい砂丘にいるのは私たちだけであった。ときどき、漁船が海に出ているのを見かけたけれども。ふつう、漁師たちは千代川の河口の向こう側の賀露にいたから、砂丘自体はひとけのない場所であった。ずっと最近になって、砂丘を訪れたことがある。砂丘が国立公園になって、ときどき観光客で混雑したり、らくだに乗って砂丘を進むことが出来ることを知った。私は、昔の砂丘の方が好きだ。(注4)
 こどもの頃、両親は私をよく、鳥取城に住んでいた大名、池田家の墓地へ連れて行った。それぞれの墓にあった大きな石の亀とその上の高い石塔をよく憶えている。大火と地震で市の大部分が破壊される前の鳥取を私はよく知っている。私がこどもの頃には、侍たちの古い屋敷の多くが残っていた。また、お殿様のことや彼らに治められていた古い時代のことをなつかしそうに、うれしそうに語るお年寄りたちが町には大勢いた。またこどもの頃には、古いお城の石垣の上に大砲があった。この大砲は毎日正午きっかりに鳴らされた。それは大きな音で、みんながびっくりしたり、時計を合わせたりした。わが家はたびたび鳥取からほかの町へ旅行した。もちろん汽車で行くのは京都や大阪が多かったが、米子や松江へ行くこともあった。鳥取に近い、浜坂や浦富の村はとくによくおぼえている。夏になると休日にしょっちゅう出掛けて行ったからだ。そこの海岸へ泳ぎに行ったものだった。その当時、浦富や浜坂の海岸へ泳ぎに行く人はほとんどいなかった。ほとんどいつも私たちだけだった。現在、これらの海岸が夏の午後たいへん混雑していることを私は承知している。こども時代、鳥取には大学はなかったが、高等農林学校が鳥取にできたときのことは憶えている。1965年の夏に鳥取を訪れたとき、湖山池の近くが発掘されているのをみた。鳥取大学の新しいキャンパスの工事が始まっていたのだ。学校の建設作業が進行しているのを見てとてもうれしかった。
 米子にある鳥取大学の医学部を私は二度訪ねたことがあり、教授のなかに多くの友人がいる。鳥大医学部の学生に講義をしたこともある。そこに建設されていた新しい立派な建物を見て、非常にうれしく思ってもいる。また、すばらしい教授たちや彼らの多くのすぐれた研究成果を見て喜んでもいる。これらの研究成果の中には合衆国でよく知られているものもある。私自身の蔵書の中には多くの鳥大教授の発表のリプリントがある。
 こどもの頃、一度、父と一緒に大山登山に出掛けたことがある。鳥取市から朝早い列車に乗って、大山口で下車した。当時、バスや自動車はなかったので、大山へ向かって歩き始めた。大山寺まで行って少し山を登り始めたが、
夕方近くになっていて、幼い私は、足も小さい。それで、鳥取市へ向かう遅い時刻の列車に乗るためには、引き返さなければならなかった。1965年の夏、妻といっしょに米子を訪れたとき、鳥取大学の親切な教授方にご一緒していただき、夫婦して大山の頂上まで非常に快適な登山をする恩恵を受けた。大山寺までは立派な新しい道路を車で行くことができた。そこからは、道はときどき険しかったが、私のような老人にも困難過ぎるというほどではなかった。残念ながら、山頂では雲が多く、よい眺望は得られなかった。下山後、大山寺のすばらしい神社と寺を見て回った。妻と私は大いにこの登山を楽しんだ。とくに、鳥取大学のご親切な教授方とご一緒だったおかげであった。
 私は、日米医学協力委員会と国際電子顕微鏡学会に出席するため、1966年の夏にもう一度訪日の予定です。来年の夏妻と一緒に日本へ来たら、再び鳥取大学を訪れたいと思います。
 皆さんのご多幸を祈ります。
       
                                      H.Stanley Bennett

(注1)現在、キュウショウ「ザ」ンと呼んでいるが、スタンレーはキュウショウ「サ」ンと呼んでいる。
(注2)現在の鳥取商高。現在の鳥取市立北中学校の場所にあった。
(注3)現在の鳥取西高。
(注4)正確に言えば3歳10ヶ月。
(注5)現在は砂丘トンネルを抜けて多鯰ヶ池[たねがいけ]のある東側から砂丘へ行くのが普通になったが、この道路がなかった頃は浜坂の方から砂丘へ入った。有島武郎が「浜坂の遠き砂丘」と歌った所以[ゆえん]である。こちらから砂丘にはいると、すり鉢がある。文字通り巨大な擂り鉢形の大きな穴が開いている。子どもたちにとって格好の遊び場で、底まで駆け下りたり、雪が降るとスキーで滑り降りたりしたものだ。

,ベネット父子

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