2008年10月11日土曜日

鳥取駅前に芝生の広場

先週の土曜日(10月4日)、JR鳥取駅へ通ずる幹線道路のひとつ、「太平線通り」に芝生の広場が誕生した。駅前から民藝館通りまで、4車線の道路の東側2車線に、86メートルにわたっって天然芝が敷かれた。

芝広場は横断歩道によって二分されており、駅側が「パフォーマンス広場」、民芸館通り側が「バザール広場」。この広場に隣接したアーケードに面している日ノ丸印刷ビルが「街かど美術館」。さらに「パフォーマンス広場」の西側の車道を隔てた大丸デパートのテラス下が「カフェ広場」と、全体は4つの部分で構成されている。

「バザール広場」ではさまざまな飲食物が販売される。
「パフォーマンス広場」には、北側の端にミニステージがあって、大道芸やフラメンコ、ハワイアンフラダンスなどのパフォーマンスが行われ、観覧者用の折りたたみ椅子が並べられている。

さらに「カフェ広場」には麒麟獅子と猩々、民藝館通りの曲がり角、ヲサカ文具店前には龍の砂像があって、鳥取駅前の風紋広場に以前から作られていた城の砂像と呼応して〈街なか砂像ギャラリー〉となっている。

今回の〈鳥取駅前・賑わいのまちづくり実証事業〉は国の「地方の元気再生事業」に採択され、約2,600万円の事業費は全額国が負担するという。
2日目の5日・日曜日はあいにくの雨だったが、その後は13日の最終日まで天気は良さそうである。

あとは、あいかわらずの下手な写真でご覧いただきたい。最後の写真以外は初日の4日午後に撮ったものである。
                  ↑ 天然芝を敷いたパフォーマンス広場。

               ↑ 鳥取駅前、風紋広場

                ↑ 風紋広場にある城の砂像

               ↑ ヲサカ文具店前の龍の砂像

                  ↓ 大丸前の麒麟獅子と猩々の砂像
                    (10/7 ケータイで。)



2008年9月28日日曜日

便利なタンブラー

Tumblr. (タンブラー)という、たいへん便利でおもしろいものを見つけたので、ご紹介する。
インターネット上で見つけた興味深い記事や写真などを自分のコンピュータに取り込んだりするのは、だれでも日常的にやっていることだ。そんな作業をいとも簡単にやって、しかもそれをウェブ上に保存できるのだ。さらに、それをミニブログのようにして公開することもできる。
もっと具体的にいうと

1.テキスト:エディタなどで文章を書くように、自分で好きなことを書く。
2.写真:自分の写したものでも、ウェブ上にあるものでもいい。
3. 引用:(あとで具体的に紹介します。)
4.リンク
5.チャット
6.オーディオ
7.ビデオ:「ユウチュウブ」もOK。

ここでは「引用」について、少し具体的に述べる。

いわゆる「コピー&ペースト」でもいいが、上の写真のように、「Share on Tumblr」というボタンを「お気に入り」か、ツールバーに、ドラッグ&ドロップして設定しておく。
コピーしたい範囲を選び、このボタンをクリックすれば、下の写真の画面がポップアップする。
次に、この中の左下にあるボタン「CreateQuote」をクリックすれば、引用しようとしている画面からまったく移動しないで、引用部分をTumblr.に貼り付けることができる。

「らむぶらーの拾いもの」と名づけたTumblr.をつくり、上記1~3をアップしてみた。次のアドレスをクリックしてみてください。今後は、ウェブ上の「いいもの」を拾い集めて、展示したい。
       http://gauna.tumblr.com/

興味のある方は、わたしが参考にした――いや、教えていただいたサイトをふたつ、ご紹介するので直接そちらを訪問してください。
       http://blog.overlasting.net/2007-05-12-2.html

       http://ascii.jp/elem/000/000/027/27335/index-2.html


2008年9月25日木曜日

巨人軍の選手はお気の毒

セリーグの優勝争いが混沌としてきた。阪神フアン(不安?)としては、気が気ではない。
それにしても、テレビはもちろん、ラジオでもほとんどが巨人戦の実況で、阪神がどうなっているのか、途中経過が入るのをいらいらしながら待っている。だから、テレビやラジオなんか見たり聞いたりしないで、もっぱらPCで【阪神タイガース公式サイト】ばかりを5分おきくらいに見ていた。それが最近まで1ヶ月近くもPC故障で不可能になったのだから、つらかった。

亡くなった吉村昭が「家内と野球」という短いエッセイを書いている。言わずもがなだろうが、奥さんとは、作家、津村節子である。

彼女は、長嶋がよく打つ、と聞けば、それならその人につづけて打たせれば、と言ったり、捕手は守っている選手の中で一人だけ反対方向に向いているから敵のチームなのね、と言ったりするほどの野球音痴だった。
 放映されるのは、ほとんど巨人戦で、それに気づいた彼女は、こんなことを口にした。
「巨人は毎晩のように試合をしていて、他のチームはその間、休んでいるのね。巨人の選手は休息もとれず気の毒だわ」
 たしかに、そのように考えるのも無理はない。
「巨人軍のファンが多いので、放映するだけなのだ。他のチームも、それぞれ試合をしている。決して休んでいるわけではない」
 野球をテレビで観ている時、彼女が質問すると、思わず身がまえる。しかし、質問が新鮮で、どのように答えるか、それが楽しい。
(後掲書、pp.80-81)

いい夫婦だったんだなあ。

2008年9月23日火曜日

仙崖和尚曰く

1ヶ月近く、PCをDELLへ修理に出している間に、何年間も手を付けていなかった書斎の大掃除を始めた。年末まで3~4ヶ月かけてやらうという遠大な計画(!?)を立てた大掃除だ。ほぼ毎日、少しずつ、しかし徹底的にやろうというわけだ。
書棚を中心に残っている古い書類や日記類のチェック、雑誌や書籍のチェック――のんびり、ある意味では楽しみながら、やっていこうというわけだ。

そんななかで手にした1冊の本。ちょっと開いた第1章の最初の両ページで、目に飛び込んできた仙崖和尚と北斎の言葉。
六十歳は人生の花
七十歳で迎えがきたら「留守」と言え
八十歳で迎えがきたら「早すぎる」と言え
九十歳で迎えがきたら「急ぐな」と言え

葛飾北斎は七十三歳で「富嶽百景」を描いたとき、その前書きで「九十歳にしての奥意を究め、百歳にして神妙ならん、百有十歳にして一点一画にして生きるが如くならん」と自分の志を語っている。人生において「志を立てるのに遅すぎるということはない」(ボールドウィン)というのは本当だ。
(p.24)

川北義則『逆転の人生法則 目からウロコが落ちる89の視点』PHP1991年6月

2008年9月21日日曜日

ことば拾い:アラカン

8月24日の日曜日の朝、例のNHKラジオ第1の「当世キーワード」を聞いていて、驚いた。「アラカン」という言葉が出てきたからだ。

わたしたちより年齢がかなり上であっても下であっても、「アラカン」と聞けば思いだすのは、そう、「鞍馬天狗」の小父さん、嵐寛壽郎(あらし かんじゅうろう)だろう。ウェブ上にたくさんの記述があるが、ウィキペディア(Wikipedia)にこんな風に書かれている。

1903年12月8日ー1980年。本名、高橋照一。
300本以上の映画に出演した、戦前映画界の大衆のヒーロー。剣劇王阪東妻三郎には三歩下がって道を空けたが時代劇の大剣客スターである。
不世出の天才監督、山中貞雄に活躍の場所を与えた点でも記憶される。通称アラカン。従妹に女優・森光子。

まことに痛快というか、愉快な人物で、
竹中労『鞍馬天狗のおじさんは-聞書アラカン一代』(ちくま文庫)を読むと、アラカンの声が聞こえてくるようだ。この本は『新・代表的日本人』佐高信編著(小学館文庫)も取り上げている。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094033017/qid%3D1018234885

http://www.amazon.co.jp/gp/search?search-type=ss&index=books-jp&keywords=%E5%B5%90%E5%AF%9B%E5%AF%BF%E9%83%8E&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A
ビルマ(現在のミャンマー)にはアラカン州があり、アラカン山脈もあるぞ。第二次世界大戦で、日本軍は東からこの山脈を越えて攻撃し、西からまたこの山脈を越えて敗走した。武器、弾薬も乏しく、飢えと病に悩まされた兵士たちはこの世で地獄を味わう悲惨な歴史を遺している。

さて、今の世に流行するという「アラカン」は、いつか取り上げた「アラフォー」の二番煎じの「アラ還」で、還暦前後の年齢者を言うそうだ。
ばかばかしい。

2008年9月20日土曜日

おわび

去る8月26日の朝、とつぜんコンピュータが故障してしまいました。
今日やっと修理が完了して、使えるようになりました。
一両日の内にブログを再開しますので、よろしくお願い申し上げます。

2008年8月13日水曜日

縦書きで書く・読む

パソコンを使って文章を読み書きするとき、横書きが当たり前になっている。しかし、読む世界では縦書きが依然として圧倒的に多い。新聞、雑誌をはじめ、本屋や図書館にある本はほとんどが縦書きだ。
もちろん、パソコンの世界でも、縦書きの文章を書いたり読んだりできる。ここでは二つのソフトをご紹介する。

パソコンで文章を書くとき、軽快に使えるのはエディタと呼ばれるソフトだ。たくさんのエディタがあるが、ほとんどのソフトが横書き用である。縦書きもできるのは非常に少ない。高機能なものでは〈QX〉などがあるが、これは2,900~3,150円のシェウエアである。今回はフリーウエア(無料)の〈ヴァーティカル・エディタ(Vertical Editor)〉をご紹介しよう。
写真(クリックすれば大きくなります)を見ていただきたい。このブログの6月29日付 映画「姿三四郎」1/2 の最初です。
400字詰め原稿用紙になっているが、むろん、普通の縦書き表示も可能だ。
第1行に注目してください。冒頭の「一九四三(昭和18)年」の部分です。
縦書きの文章のなかで「18」という半角2文字の算用数字が1字として表示されている。これは「縦中横(たてちゅうよこ)」と呼ばれている便利な表記だが、こういうことができる。
今、「縦中横」の読み方を(たてちゅうよこ)と記したが、普通のエディタでは、いわゆる「ルビ」を振ることができないからだ。ルビなら、横書きでは漢字の上に、縦書きでは漢字の右横に、読み方を表記できる。
このエディタではルビを振ることができるのは、ご覧の通りだ。もちろん、この二つのことは最初に名をあげた〈QXエディタ〉などでも可能だ。しかし、ルビにしてもやり方がずっと簡単だし、エディタ上でただちにその結果を目にすることができる。こんなエディタが無料で使えるのだから有難いことだ。

もう一つはリーダー。これもいろいろあるが、無料の〈ブックビュー〉を紹介する。自分の書いた文章でも、コンピュータの中のファイルをまるで本を読んでいるように読むことができる。
写真を拡大してみてください。本を読んでいるような感覚で読むことができます。縦書き、横書き、どちらの様式でも可能だが、やはり縦書きで読みたいですね。ルビの位置が今ひとつの感があるが、まあいいでしょう。左右のページの下にある数字をクリックするとページがめくれる(写真ではダメですが)。



どちらのソフトも、下記のように、ベクター(Vector)で入手できます。

VirticalEditor:http://search.vector.co.jp/search?query=VerticalEditor
ブックビュー:http://search.vector.co.jp/search?query=%83u%83b%83N%83r%83%85%81%5B


2008年8月3日日曜日

残念、鳥取西高

昨日の朝9時半頃、甲子園大会開会式の入場行進で、鳥西チームの選手たちが正面中央を通過する姿をわが家のテレビで見た直後、鳥取駅へ向かった。
駅南で待っていたバスに乗車して10時に、甲子園へ向け出発。
鳥西高生を中心とする学校応援団や関係者を乗せたバス、19台は久松山下、堀端から出発した。われわれ一般人のバスは5台だった。人数にして千人くらいか。むろん、その上に関西地区を中心とする卒業生たちも加わる。

第1試合の駒大岩見沢―下関工の試合が長引いたので、第2試合以降も開始が大幅に遅れた。

同行者の多くは、継続中の第2試合を見るためにフリーの外野席へ入っていった。わたしは、独りで場外にとどまり、球場の周辺やそこを行き来する多くの高校生たちや一般人を観察しながら時を過ごした。

第三試合の鳥西を応援する長い列が1・2号入場門の入り口から消えた後に、
1号門から1塁側アルプススタンドに入った。グラウンドでは、両チームの選手たちがホームプレートをはさんで挨拶を交わすところだった。日は大きく傾き、一塁側スタンドは日陰になっていた。三塁側は日光をいっぱいに受けて、華やかな木更津総合の応援団がスポットライトに照らされているようだった。
アルプススタンドを上下に二分する通路を前にした最前列の端に、学校側のバスで来ていた同期生の中井晋野球部後援会長がいて、隣で応援することにした。

試合の経過については、ここに詳しく記すまでもあるまい。1回の裏に1点を先取されたが、文字通り中盤の5回表に、主将の小幡がレフトにホームランを打ち込み同点とした(これが本大会、第1号であったことは、翌日の新聞で知った)。8回の裏に4点を取られたが、成り行きというものだ。敗れたのは残念だが、いい試合だった。

団体バスの停留所まで、40分余の道を敵味方の応援者が入り乱れて歩いた。「23回も出てる学校に勝ったんだから…」年配の小母さんの声が後ろから聞こえた。横を歩いていた男子生徒に「バスでどのくらいかかるの?」と尋ねたら「7、8時間ですね」という答えだった。

鳥取駅に着いたのは、11時をかなり過ぎていた。いささか疲れた。










2008年8月2日土曜日

いよいよ、今日から甲子園

いよいよ、今日から甲子園で高校野球の熱戦が始まる。
第三試合の鳥取西高対木更津総合にあわせて、午前10時出発の応援バスで甲子園へ向かう。
右のサイドバーにも、応援メッセージを添付した。

2008年7月28日月曜日

ことば拾い:アラフォーの女、他

アラフォーの女
「日経ビジネスオンライン」(NBonline)を講読している。
どうして、ごうなのような無職のじぃじぃ(GG)がそんなものを読んでいるの?――と不審に思う向きもあろうから一言弁明しておくと、結構年寄り向きの記事もあるんです。書評欄もいい。今朝も「毎日1冊!日刊新書レビュー」欄で【みんな、自分の話がしたくてしょうがない~『煩悩の文法』定延利之著(評:三浦天紗子)】という、ちくま新書を紹介していて、面白そうだから、今度本屋で手に取ってみよう、と手帳にメモした。閑話休題。

三日四日前、この「日経ビ―――」で、[白河桃子の「“キャリモテ”の時代」]というシリーズ物をなにげなくのぞいてみて驚いた。アラフォー女性・エコ王子・草食系男子・三高女子……、なんじゃ、こりゃ!?
ようするに、終わりに近づいてきたらしいTBS系のテレビドラマを見ていれば、直ぐに分かる言葉らしい。

ここでは、「アラフォー」という言葉を取り上げてみたい。「アラウンド・フォーティ=around forty」で「40歳くらい」あるいは「40歳前後」くらいの意味に使っているらしい。
なにもカタカナ語を使う必要はない。なによりも省略のやり方が、乱暴で無神経だ。around をアラ(about をアバ)なんて、わかりっこない! さらにかりに数字だと分かっていても、フォーと言えば4しか意味しない。fourteen も forty も意味することはできない。
調子に乗ってアラサーもできてるらしいが、このサーもさぁ、13か、30か、さぁ、わからねぇ。
日本語も省略の「高三女子」や「中一男子」は分かるが「三高女子」は分からない。GGなどは、昔の第三高等学校に男装の女子学生が潜り込んでいたのかとおもったりする。

昨夜、阪神は中日に4-6で敗れたが、夜10時台のNHK総合の〈サンデースポーツ〉が絶好調阪神の下柳、矢野、金本の3選手を特集していた。その中で女性アナが「阪神タイガースのアラフォー・トリオ!」と叫んだ。
これは、まあ、う~ん、許せる!

「購読」と「講読」
前項の最初の一文を見ていただきたい。「講読」という言葉を使っている。国語事典を引けば、「講読」とは「書物を読み、その意味・内容を解説したり、論じたりすること」と書かれている。
「購読」とは「書籍や新聞・雑誌など買って読むこと」である。
GGは、PCを使い始めてから、この「こうどく」という言葉にいつもこまっている。たとえば、次のサイトにこうある。 
 http://homepage2.nifty.com/datey/koudoku.htm

メイルマガジンを講読するって?

最近、本当にあった話を、ちょっとアレンジして書きます。
私が参加しているある会から来たメイル(A)と、それへのわたしの返事(D)のやりとり。

(A)このたび本会では会員にメールマガジンを発行しますので、講読してください。
(D)はい、購読なら有料でしょうから、購読料はいくらでしょうか。
(A)貝ヘンの「購読」ではなく、ゴンベンの「講読」ですから、無料です。
(D)「購読」のお書き間違いと思いましたので、お尋ねしました。失礼をお詫びします。
しかし、「講読」とは、それを読みながら講義をすることですから、そのマガジンは「講読」するほどのレベルの高い内容なのですね。それが無料ならば喜んで配信を受けましょう。
(A)「講読」とは、インタネット慣用語で無料購読のことをいいます。(この文の強調は、引用者)

思うに、英語の 動詞 subscribe 、名詞 subscription に両義があるために、現状のようなことになっているのだろう。
いずれにせよ、購読料なり、有料と明記されていないかぎり、無料であると判断して、必要な記入事項などを書き込み、申し込んでいる。

このブログの右のサイドバーにも「このブログをメール講読する」(今日は、一番上にもってきています)という窓があります。アドレスを記入して[講読する]というボタンをクリックしていただけば「らむぶらー」に新しい記事が出るたびに、あなたのアドレスにそのことをメールでお知らせしてくれます。むろん無料です。解約も簡単にできるはずです。

少し下の[文字拡大ツール]も「中」をクリックすればブログ内の文字が拡大してずっとよみやすくなります。ぜひ活用してください。サイドバーにはお金のかかるものは何もありません。本の購入は別ですが。










2008年7月27日日曜日

今朝の「当世キーワード」から

今朝のNHKラジオ第1の「当世キーワード」から二つ。

【少人数婚】【少人数ウェディング】ともいう。大金を投じて,高級ホテルの宴会場に多数の客を集める披露宴のばかばかしさを反省し、来客の負担をおもんぱかってか、と思ったが、必ずしもそうではないらしい。
レストランを借り切ったり、邸宅風バンケット(晩餐会)だったり、ホテルの特別ルームを使用したり、非日常を楽しむリゾートウェディングや二部制ウェディング等々、招待客の人数は減っても負担は増加する傾向もあるらしい。

【夫婦別寝】これまた【夫婦別床】ともいう。ダブルベッドをシングルに替えることではない。互いに別室で寝ることを指す。
これは合理的だ。互いのイビキや寝言にわずらわされることもなく、ふと目覚めて眠られず、ラジオの「深夜便」を聞こうが、スタンドをつけて読書しようがたがいに迷惑をかけるわけじゃない。
NHKの大河ドラマ「篤姫」が若い女性を中心に大人気で、「家定を死なせないで!」と無理なことを言う者もあるらしい。まあ、大奥なんて、最高の夫婦別寝かも。



2008年7月25日金曜日

相手は決まった、木更津総合だ!

鳥取西高の相手が決まった。今日、東千葉代表となった木更津総合高校だ。東海大望洋を2―0で破って、5年ぶり2回目の夏の甲子園出場だという。明朝の新聞は、23回目出場の古豪対新鋭の対戦などと書くかも知れない。

asahi.com の[高校野球]のサイトによれば、3人の投手がそれぞれ任務を果たし、攻撃面では平均打率3割7分を越える強力打線だという。

鳥西も、小幡、鈴木、壱岐の3投手を擁し、チーム打率は3割6分6厘、1試合平均の得点は8.6点。恐れることはない。堂々と勝負し、初戦を勝利してもらいたい。

鳥西では、今日、全校生徒が参加して野球部の壮行会が行われた。
8月2日は、甲子園で応援するぞ!!






2008年7月23日水曜日

鳥取西高、甲子園へ!

やったぞ、鳥取西高、3年ぶりの快挙!

第90回全国高校野球選手権記念鳥取大会最終日の7月21日、鳥西は鳥取城北を2-1で降して、3年ぶりに23回目の優勝をかちとり、甲子園へ駒を進めることとなった。

今年の県大会は、倉吉市営野球場で4月12日に開幕した。昨年秋の大会では準優勝しながら今春は初戦で敗退して、シードもされなかった鳥西は、14日の1回戦で日野を12対0(5回コールド)、16日の2回戦で米子工を8対0(7回コールド)、17日の準々決勝で境高を8対1(8回コールド)、18日の準決勝では東部地区の4校が残り、春の優勝校、鳥取商に13対6で圧勝した。

雨で一日延びた決勝戦は、今春の選抜で健闘した八頭高を準決勝で5対0で破った鳥取城北との対決となった。エースの木島はすべての相手チームを無得点にシャットアウトしてきていた。
試合は1点を争う投手戦となった。6回の裏1点を先取された鳥西は同点となるスクイズに失敗して得点できないまま、9回の表の最後の攻撃となった。3番鈴木、4番壱岐の連続ヒットで1死1、3塁、一打同点のチャンスにキャプテン小幡の一打は左中間2塁打となり逆転。
今大会全試合に登板した鳥西の鈴木は9回裏の城北の攻撃をぴしゃりと押さえて甲子園への夢を実現させた。

今年の甲子園での全国大会の組み合わせ抽選は日程の関係で各地の決勝戦直後のグラウンドで行われた。
決勝打を打った小幡がキャプテンとして選んだ札は5番だった。相手校は不明であるが、大会初日の第3試合になった(この予定は変更されることもあり得る由)。






2008年7月17日木曜日

ことば拾い:チンプンカンプン

古い手帳を整理していたら、あるページに目が留まった。日付は1995年4月17日である。

場所は市内の弥生町にある〈渚〉というバー。カウンターでひとり飲んでいると、マスターがある植物を目の前において「これ、知っとられるかな?」と、笑いながら言った。
「あゝ、チンプンカンプンだ!」
「そうです。そう言ようりましたなァ。槇(マキ)の実です。」
マスターはわたしより二つ三つ年上だが、同じ世代といっていい。この実を見るのは、この時から数えても半世紀ぶりだった。

当時、醇風国民学校の正門は、鹿野街道に面しており、門を入ると校庭がひろがっていて、校舎は左手にあった。校門からまっすぐ校庭を横切ると校地の境になっている生け垣だった。現在の講堂と玄好町の間にある道路のあたりだ。この生け垣にチンプンカンプンの木が何本も植わっていた。

ひところ、団子三兄弟という歌が流行ったが、倉吉の土産物の打吹団子を知ってる人はそれを思いだして欲しい。ただし、団子の大きさはせいぜい大豆くらいである。団子の色はそれぞれ違っている。
こんなことを書き連ねても読者にチンプンカンプンをイメージしていただけないだろう。写真を見ていただくのが早いことは承知の上で、そうしたのは、わたしの記憶の中ではそうだったからだ。
では写真を見ていただこう。写真のアドレスもご紹介して、御礼を申し上げたい。まずは、打吹団子。
http://www.kouendango.com/history.html
続いて、マキの実の写真2枚。このサイトには9枚の写真があるので、ぜひ訪問して、ご覧下さい。

http://www.hana300.com/inumak1.html

ご覧の通り、「団子」は二つだったのだ。上が実(種)で、下が果托とか果床と呼ばれている部分で、これを食べると甘みがあるという。(食べたことはなかった。)
なぜ記憶のなかでは「団子」は3~4個くらいだったのか。実際のマキの実は二つの色が成長段階で変わるのだそうだ。色が二種類ではなかったので、記憶の中の実の数が増えたのだろう。

最後に、チンプンカンプンについて。チンプンカンプンとは、変換できないが、辞書にはちゃんと出ている。漢字で書くと「珍紛漢紛」、チンプンカン「珍紛漢、珍糞漢、陳奮翰」ともいう。
[儒者の用いた難解な漢語に擬した造語。あるいは外国人の言葉の口まねからともいう]人の話している言葉や内容が全くわからないこと。また、そのさま。例:「きょうの話はとてもむずかしくてチンプンカンだ。」「ロシア語は全くチンプンカンプンだ。」(『大辞林 第二版』より)
〈渚〉のマスターは、亡くなってしまった。
それにしても、昔の小学生はムヅカシイ言葉を知ってたんですねえ。




2008年7月10日木曜日

鳥取のむかしばなし

2008/07/10(木)
梅雨も明けたような天気なので、近くのスーパーで助六寿司の弁当を買って、久松山の二の丸へ行ってみた。かれこれ10年ぶりになろうか。
携帯電話で撮った写真を3枚、お見せする。目が悪い上に、腕も悪いので結果はご覧の通りだが、お許しいただきたい。

【写真1】お堀にかかっている擬宝珠(ぎぼし)橋から見るとたくさんの鯉に驚く。わたしたちが高校生だった頃はまだ堀全体に蓮が植わっていて、野球部の一年生たちは、グラウンドの網のフェンスを越えて堀に落ちたボールを、探して拾い上げるのに苦労していたものだ。現在は、別の場所に野球部専用の練習場ができているから、そんな苦労があったことなど、今の生徒たちはまったく知らないだろう。

【写真2】二の丸から見下ろした鳥取西高の正面玄関。右手の屋根が、体育館、その後方と、左側・正面の二つの高い建物は、鳥取県庁。生徒だった頃、ここへ登って弁当を食べたものだが、その当時はまったく違っていた。正面玄関の位置は同じだが、旧鳥取一中の木造校舎だったし、右手には奉安殿の跡があった。

【写真3】二の丸にある稲荷神社。桂蔵坊という狐がまつられている。桂蔵坊は賢くて、足の速い狐で、鳥取―江戸間を三日三晩で往復して、藩の大切な使いをしていたという。幼稚園の頃、祖母から何度も聞かせてもらった昔話のひとつだった。
県立博物館主催の「鳥取県の民話を聞く会」で、石山易枝さんの語っている動画が見聞できるので、次のアドレスをクリックしてください。鳥取弁もきかれますよ。
http://www.pref.tottori.lg.jp/secure/156392/keizoubou.asx

ごうなは、ここで一句!!???   遠き日や老いたる祖母の春炬燵

【追記】久しぶりに母校の校舎を眺めて懐旧の情を抱いたのだが、翌11日の新聞で、この日、小幡義之先生が94歳でお亡くなりになったことを知った。かつての同僚であり大先輩だった。今夏も街に流れるであろう「きなんせ節」の作曲者でもあった。ご冥福をお祈りする。







2008年7月9日水曜日

美空ひばりが歌った「一本の鉛筆」

今月1日の朝日新聞に、
響け ひばりの「反戦」 CD化 広島で再発信
の見出しで、署名記事が掲載された。1974年の夏、広島テレビ主催の第1回広島平和音楽祭で、美空ひばりが歌った「一本の鉛筆」という歌のことだ。
最初に歌ってから14年後、死の前年に、ひばりは再び広島でこの歌を歌った。テレビでこの歌を歌っているひばりを見たのは、このとき、1988年の夏、であったと思う。
いい歌だと思った。ひばりにこんな歌があったのか、と驚いた。彼女はこの歌を自分の好きな10曲のなかの一曲に挙げていたという。
今回の記事は、今年3月、奈良岡朋子がテレビでこの詩を朗読したのをきっかけに、この歌が今月末にCD化されることになったことで、書かれている。

このことにふれているブログなど、多いだろうな、とおもいながら、検索してみたら、あるわ、あるわ、今回の朝日の記事のあとでも、ずいぶんある。
ここでは二つのサイトだけをご紹介しておく。

◇朝日新聞の記事(所によっては前日の夕刊)の全文は
http://www.asahi.com/showbiz/music/OSK200806300082.html
◇この歌の歌詞と、楽譜は
http://bunbun.boo.jp/okera/aaoo/ippon_enpitu.htm




2008年7月7日月曜日

ことば拾い:カレセン

いつの頃からか知らないが「カレセンという言葉が流行っているそうな。
ウェブ上にある亀井肇さんの【新語探検】によれば、

漢字で書くと「枯れ専」。50~60歳の「枯れたオジサン」たちに惹かれる30代の女性をさす。いわゆる「ちょいワルオヤジ」ではなく、本当に枯れているオジサンが好きなのである。彼女たちが「枯れた男の魅力」として挙げるのが、「一人の時間をもてあまさない」、「路地裏が似合う」、「ビールは缶より瓶」、「ペットは犬より猫が好き」、「一人でふらりと寄れる行きつけの店がある」、「さりげなく物知り」、「金や女を深追いしない」、「人生を逆算したことがある」、「自分の年齢を受け入れている」などである。若いときは自分の世界に没頭して独身だったのが、老いて輝くのである。出版社のアスペクトは『カレセン』と題した単行本を出している。

ここで紹介されている単行本の広告を下に載せておく。クリックして Amazon へ行き、同じ表紙写真の下の「この本の中味を閲覧する」をクリック、さらに「目次」をクリックすれば、カレセンたちのお気に入りの対象である(or らしい)著名人の名前も出ています。

さて、今日はごうなの誕生日。〈枯れ過ぎたじいじい〉としては、ふてくされて、遊んでみよう。

――ヨ・セ・婆ッ派 作曲「爺専場の在りや?」てぇのはどう?
――そんなもの、ないよ。
――ああ、そう。

カレセン―枯れたおじさん専科
カレセン―枯れたおじさん専科アスペクト

おすすめ平均
starsど真ん中
starsアンチ・アンチエイジング & アンチちょいワル。

Amazonで詳しく見る by G-Tools


ことば拾い:敵性語

新潮社が従来の文庫に加えて、[新潮OH!文庫〕を創刊したのは、2000(平成12)年の10月だった。過日、本棚の整理をしていたら、この文庫の発売に先駆けて作られた文庫版サイズ・44ページの宣伝用パンフレットが出てきた。一斉に発売される50冊が掲載されている。
その中の一冊が、この写真の、現代用語の基礎知識/編『20世紀に生まれたことば』だ。

下の写真ではよく見えないが、表紙写真の左側上に、取り上げられた言葉のごく一部が縦書きされていて、2行目に、40年【敵性語】とある。つまり、1940(昭和15)年に使われはじめた「敵性語」という言葉を取り上げているのだ。

この言葉は現在は死語である。広辞苑にも大辞林にも載っていない。ただ「敵性」という言葉はあって、
「敵国または敵国人である性質。戦争法規の範囲内において、攻撃・破壊・掠奪および捕獲などの加害行為をなし得べき性質。「―国家」(広辞苑)

こんな恐ろしいことが書かれている。つまり「敵性語」とは、攻撃、破壊してもいい、いや、そうすべき「敵性国家の言語」というわけだ。

映画「姿三四郎」のなかでも書いたように、ごうなは1941(昭和16)年に国民学校に入学した。すでに中国と戦争をしていたが、この年、米、英、オランダとの戦争も始めた(この敵国4カ国を指す「ABCD対日包囲陣」という言葉もあったっけ)。
漢字も中国から学んだものだが、これを敵性語・敵性文字だとしたら、新聞も読めなくなるし、教育勅語だって校長先生が「奉読」できないではないか。敵性語とは、カタカナ語を指した。しかし、オランダ語にしても、英語にしても江戸時代からわれわれの「蒙」を啓くためにどんなに役立ってきたことか。それを「敵性語排除」とは、まことに児戯に等しいことだ。

当時、醇風国民学校では、いろいろな式典の他に毎週月曜日に朝礼があって、全職員生徒が講堂に集合し、校長訓話があった。それに加えてレコード鑑賞もあった。
どんな曲を聴いたかまったく記憶がない。ただ、いつも先生方は生徒を横から眺めるように一列横隊に並んでいたのだが、その時間が来ると男性のK先生が一歩前へ出て「おんばんかんしょ―(音盤鑑賞)」と宣告したのをはっきり覚えている。

よく漫才などで、当時の野球は〈セーフ〉を〈よし〉、〈アウト〉を〈ひけ〉などと言ったと笑わせているが、われら「少国民」は野球はやらなかった。だが「敵性語」を完全に排除することができるわけがない。
夏には〈アイスキャンデ―〉をしゃぶり、冬には〈スキー〉をやった。3年生のときには〈グライダ―〉を作ったし、上級生たちは〈プロペラ〉機を作り〈ゴム〉を巻くのに〈ワインダ―〉を使う者もいた。戦争映画だって「加藤隼戦闘隊」は「〈エンジン〉の音ゴウゴウと隼は行く」と歌い、「轟沈」の主題歌には「青い〈バナナ〉も黄色くうれて」とあって、僕らの口は唾でぬれた。
1943(昭和18)年9月10日の鳥取大地震の後では、あちこちで〈ジャッキ〉が活躍したし、たくさんの〈バラック〉が建設された。
戦時中も「敵性語」はしぶとく生きていたのである。

現代に至っては、かつての「敵性語」は百花繚乱。
今日もどこかで〈××× in 鳥取〉が客を招いている。

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2008年7月6日日曜日

ことば拾い:ひるすぎ

NHKラジオ第1で、毎週日曜日の午前5時半すぎに、亀井肇さんの「当世キーワード」という数分間の番組がある。毎回、当世の流行り言葉を五つ六つ紹介、解説する。
6月29日は5回目の日曜日で、亀井さんの番組はなく、NHK現代ことば研究室(正式な名称は失念)の某氏(お名前も失念)が登場。この研究室で、「ひるすぎ」という言葉は具体的に何時頃を指すと思うか、電話で無作為抽出調査した。その結果(これまた、極めておおざっぱに言うと)、高齢者は12時から12時15分くらいまでを指すと答えた。若い年齢層の答えは12時半近くから13時過ぎの間と、かなり時間帯の幅が広がったという。この結果について、報告者は、若年層の答えは学校や会社で実際に昼食をとる時間帯のイメージが強いのではないか、と述べていた。

さて、「ひるすぎ/昼すぎ」を辞書で引くと「正午を少し過ぎた頃」とある。
ところが、「昼」を調べると、「①日の出から日没までの太陽が昇って明るい間、ひるま、日中。②まひる。正午。また、その前後。午時(ひるどき)。③ひるめし、昼食。」とある。
さらに、十二支の「午(うま)」は方角では「南」、時刻では「真昼の12時、あるいは午前11時~午後1時の間」を指す。

だから、年配者の使い方も若年層の使い方も間違いではない。しかし、人によって受け取り方が違うのでは不都合が生じうる。結局、「正午過ぎ」「12時半頃」「1時過ぎ」などとより明確な言い方をするべきか。

さて、今朝は第1日曜日。亀井さんが登場しましたよ。次の五つを紹介。皆さん、いくつ分かりますか?
ファッションセラピー、PTCA、ネリカ米、猫カフェ、脱メタボ体

2008年7月5日土曜日

映画 「姿三四郎」 2/2

先回、映画「姿三四郎」について覚えているのは、それぞれ、最初と最後に近い二つの場面しかない、と書いた。今回、65年ぶりにテレビでこの映画を見たとき、ほとんどの場面を、ああそうだ、こんな場面があったと思い出した。しかし、えっ、こんな画面があったんだ、と驚いた画面もいくつかあった。
出演者について言えば、藤田進(三四郎)と敵対する月形龍之介(檜垣源之助)の二人だけはしっかり覚えていた。
和尚役の高堂国典と柔術師範の志村喬はすぐに分かったが、修道館柔道の師範、矢野正五郎の大河内傳次郎は、時代劇でよく見た彼とは、顔も声も若々しく、「これが大河内傳次郎?」とすぐには分からなかった。
女優は、轟夕起子花井蘭子の二人きりだが、この映画に出演していた記憶は全くなかった。

何度も映画化されている小説に、吉川英治の『宮本武蔵』がある。あれは高2の夏休みだったと思う。市内の映画館で古い『宮本武蔵』映画が何本か立て続けに上映されたのを見に行ったことがある。お通役が轟夕起子と相馬千恵子の2本を見た記憶がある。当時知っていた轟夕起子は、丸顔で太り気味の女優だったから、若いお通の美しさに驚いた。(調べてみると、二人がお通を演じたのは轟が昭和12年、相馬は18年である。)
テレビで見た『姿三四郎』の轟夕起子も若くて、美しかった。

思い出話はこれくらいにしておこう。
佐藤忠男の労作に『日本映画史』全4巻がある。吉川英治の『宮本武蔵』は、戦前から戦後までなんども映画化されているが、佐藤は『宮本武蔵』と『姿三四郎』の類似性をこの中で指摘している。
扱う時代は江戸時代と明治の違いはあっても、「若くて純情で粗野で強すぎて求道的な」三四郎に「精神的な豊かさを与えようとする師の矢野正五郎と寺の和尚は沢庵、三四郎が惚れてしまう試合の相手の柔術家の娘(引用者注:轟夕起子)はお通、そして三四郎の前には対決しなければならない敵の柔術家たちがつぎつぎと現れて決闘に次ぐ決闘になり、その間、三四郎は、たんなる猛者から、ゆとりと内面的な深味のある真の強者へと成長してゆく。」
そしてこの小説(引用者注:富田常雄『姿三四郎』)は、みずみずしい鮮やかな技巧で映画ファンを唸らせる彼の素晴らしいデビュー作となった。一九四三年、すでに戦争は敗色があきらかになっていた頃である。これはしかし、非常に元気のいい映画だった。黒澤明監督は、この映画を、見事なエンターテインメントとしてつくりあげた。その面白さの第一にあげられるのは、何度もある柔道の闘争や試合の場面のアクションである。ひとつひとつの闘争が、それぞれ違った柔道の術で処理される。しかも、それらはすべて、ただむやみに激しく闘うのではない。はじめは静かに向かい合い、気合いを計り、最良のタイミングで行動が始まると、一瞬にして意表をつく激しい動作が生じてヒーローが相手を投げとばす。あるいは、ヒーローが何度投げられても決して転ばず、軽業のように立ち、さいごに鮮やかに相手を投げとばす。静と動、その間合い、その繰り返しのリズム、それらの巧みな演出が、これらの格闘場面にそれぞれに美しいスタイルを与えていた。
この映画の主役に抜擢された藤田進は、がっしりとした体つきに無骨な顔、朴訥な喋り方、野暮ったい動作など、すべての点で、これまでの二枚目の重要な条件だったスマートさとは遠く、コケの一念とでもいう感じで命令されたことを徹底的に忠実にやりとおすような芝居がよく似合う俳優だった。スターになると、つぎつぎと軍人役を与えられ、『加藤隼戦闘隊』(一九四四〉では、豪胆で沈着な戦闘機部隊の隊長を好演した。ときには激しく部下を叱咤するこの隊長が、ときにはまた、ガキ大将ふうの人なつっこい笑顔を見せるあたりが独特の持ち味で、これぞ、どんな無茶な命令にも耐えてニッコリ笑って死んでいける模範的な帝国軍人と思えた。(注1)
注1.佐藤忠男『日本映画史 2 1941-1959』増補版 岩波書店 2006/11/10 pp.63-64

2008年6月29日日曜日

映画「姿三四郎」1/2

1943(昭和18)年の8月も終わる頃、一人の少年が早朝の鹿野街道を歩いていた。1941年の4月に以前の小学校が「国民学校」と改称され、少年がその初等科3年生になった年の夏休みも終わろうとしていた頃で、「大東亜戦争」が始まってから1年9カ月が過ぎようとしていた。
前夜からの雨はあがっていたが、アスファルトで舗装された道はまだ濡れていて黒く光っている。少年は素足で、身につけているのはランニングシャツと短パンだけ。さすがに早朝の空気は冷たかった。普段彼が通っていた醇風国民学校は行程の半ば過ぎにあったが、学校に近づくまでには、体は十分に温まった。
彼が休み中に通っていたのは、久松山下にある公園の砂場の「鍛錬場」。鹿野街道を堀端に出て右折し、たくさんの蓮の花が咲いている堀にかかる大手橋を渡ると右手が鳥取一中のグラウンドで、道を隔てた左手が「鍛錬場」だった。ここで柔道の基本を学ぶのだ。
額の汗をぬぐいながら空を見上げると、昨夜の嵐の名残か、大きな黒雲が久松山の後ろから南東の方向へかなりの早さで流れて行く。少年は3カ月ほど前に見た映画「姿三四郎」の最後の決闘の場面を思い浮かべていた。「よ~し、三四郎のように強くなるぞ」。

映画「姿三四郎」を思い出すたびに、上に書いたような、遠い昔の自分の姿をいつも思い出す。そしてこの映画で思い出すといえば、いつも二つの場面だけであった。
自分の行動を師に叱られた三四郎(藤田進)が、道場となっている寺の庭の小さな池に跳び込み、そのまま池の中で杭につかまって一夜を過ごし、早朝、眼前の小さな一輪の蓮の花が開くのを見て、柔道の神髄に開眼する場面。
もう一つは、最後に、三四郎と月形龍之介演じる柔術家が、強い風の吹く草原のような場所で決闘する場面であった。

今年4月、テレビのBS②で「没後10年 黒澤明特集」の放送が始まった。彼の監督作品全30本の一挙放送だ。そして「姿三四郎」は、5月6日に放映された。この作品の監督が黒澤明であり、しかも彼の第一作目の映画であったこ
とも、初めて知った。この放送を見て、最後の決闘の場面は、わき上がる雲の映像がきわめて印象的であることを知り、「少年」があの日、黒雲の飛ぶのを見て三四郎を思いだしたわけを納得した。

この作品が出来たのが1943年3月であったこともわかったので、鳥取県立図書館でその年の3月以降の日本海新聞を調べたところ、同年5月6日(木)の紙面の広告を確認することができた。それによれば、この「東寶映画異色大作」は5月6日から12日までの一週間「本週は公休なし」で帝國館(戦後の第一映劇)において上映されたことがわかった。

この映画の原作が富田常雄の『姿三四郎』であり、紘道館は講道館、師範の矢野正五郎は嘉納治五郎、三四郎は当時、講道館四天王の一人と言われた西郷四郎であることは、いつしか知るようになっていた。

この小説を読んだことはないが、ブログを書くにあたって、ウェブを検索したところ、このあたりを詳しく書いているサイトがあった。やや古いサイトだがご紹介しておく。
http://www.iscb.net/mikio/9709/25/index.htm

2008年6月8日日曜日

毛利彰イラストレーション

毛利彰さんの絵の展覧会が1日で終わるというので、先月31日、久しぶりに青谷へ行った。

会場である【あおや郷土館】を訪れるのは初めだった。この日は土曜日だったが、高校総体の日で、近くの青谷高からときどき生徒たちの歓声が聞こえてきたが、車もめったに通らず、街路樹の梢からウグイスの鳴き声が聞こえてくるほどのどかであった。



展示されていたのは、学研の「歴史群像シリーズ」の表紙を飾った戦国武将たちの19点のイラストだった。若い頃の油絵などの展示も期待していたので、ちょっとがっかりした。

しかし、郷土館入り口の立て看にも「館蔵資料展 毛利彰 イラストレーション」と書かれており、かつて鳥取西高の玄関に飾られていた油絵などの記憶から自分が勝手に抱いていた期待であった。

この展示は4月1日より始まっていた。彼が亡くなったのは4月9日であったから、生前毛利さん自身が許可したものであったに違いない。

昨日(6月7日)の朝日新聞の【惜別】欄にこう書かれていた。

「芸術という言葉が嫌いだ。銭湯の富士山を立派に描く人を尊敬する。自分の仕事はそういう仕事」と語った。注文を受けて売れる絵を描く。いずれは消える商業イラストをきちんと仕上げる。それを誇る職人だった。


隣の展示室には、「因幡の源左(げんざ)」と呼ばれている妙好人、足利喜三郎(1842~1930)の深い阿弥陀信仰から出た語録を中心にした展示があり、あつい信仰心から出る、その言葉に改めてこころを打たれた。









2008年6月2日月曜日

EverNote

Google に、ノートブックという便利なものがある。名前の通りノートとしてメモや文章をなどを書き込むことができる。

なにより便利なのは、ウェブ上の気に入ったサイトがあれば1回のクリックで全部をノートに取り込むことができる。むろん、必要な部分のみを切り取って取り込むこともできる。取り込んだものも自分の書いた文章も、すべてウェブ上に保存されているから、パソコンにファイルを作ったりして保存したり、バックアップを取ったりする必要もない。

ノートは何冊でも作ることができるし、一冊のノートをいくつものセクションにわけて内容を分類整理することもできる。

ただ、残念なことは、現在、このノートブックはインターネットにつながっていなければ使えないということだ(オフラインで使用できるのもそう遠くないだろうが)。



最近、同じような機能をもっている EverNote という便利なものがあることを知った。機能的にはGoogleノートブックとまったく同じといっていい。ただエヴァノートはオフラインで開いたり、書き込みしたりできるので便利だ。



EverNoteで、できることはたくさんあるが、エディタのように文章やメモを書き込んだり、ウェブ上の必要なページを取り込んだりすることができる。



写真01を見てください(写真はクリックすれば大きくなります)。左側の細長い部分が【カテゴリー】欄で各ページの内容の分類を表示(①とする)し、右側の下の部分が普通のエディタなどの新規作成ページにあたる(②とする)。右側上部が各ページのタイトル(③とする)である。



おもしろいのは、新規作成画面が、ちょうどトイレットペーパーを引き出すように一番下に出てくる。ということは一見、さまざまな内容のペーパーが数珠つながりになって不便のように思えるが、さにあらず。

写真02を見てください。②の上の部分にカーキ色のバーがあって、左に荷札のような絵がありますね。これをクリックすると、タグを付ける画面がポップアップする。タグは既成のものの選択も新規作成もでき、いくつでも付けられる。



その隣の錠の絵をクリックすると開いたり閉まったりする。閉めると保存した内容は変更できないが、空けると文字や図を消したり付け加えたり、いくらでも修正、変更が可能だ。

錠の右隣の×印をクリックするとその画面全体を消す(つまり廃棄する)ことができる。



だからこの巻紙は、①でタグを選択、クリックすれば(タグが複数あればそのどれを選んでクリックしても)、③にそのタグの付いているものの目次(タイトル)一覧が提示され、そこでタイトルをクリックすれば、②に、そのページ全体が表示される。

なお、②の上部のカーキ色のバーの右に□が上下に二つ並んでいるが、下の□をクリックすることによって、画面全体を表示したり折りたたんだりする。



最後に、一番便利な、サイトの記事の取り込みについて付言しておこう。たとえば、ウェッブ上のサイトを見ていてある部分の記事を取り込みたいとか、図や表や写真だけを取り込みたいときは、その部分を選択して右クリックすれば、ポップアップの中に「Add to EverNote 」という項目が出ているからそれをクリックすれば選択した部分だけが取り込まれる。

範囲を指定しないで画面上を右クリックすると、写真03のようなポップアップが出るから、「Yes」ボタンをクリックすればその画面のすべてを取り込んでしまう。

写真03


現在、新しいEvernote(noteのnが小文字)が出ていて、オンラインでエディタが使えたり、オフラインでEverNoteと同じことができるようになっているが、現状のままでいい、と思っている。



2008年6月1日日曜日

便利なO's Editor

いま、ブログの原稿を書いたりするのに重宝しているのが O's Editor だ。

現在 O's Editor2 ver 2.50(Vista対応ベータ版)が入手できる。2,000円のシェアウェアだが、30日間無料試用できる。 http://ospage.jp/



下の写真画面の下部でご覧になるように、9種類の画面で仕事ができる。ここでは、【標準スタイル】【黒板】【読書】の三つのスタイルをご紹介した。

現在、目に優しい【黒板】を愛用している。(下の写真はクリックすれば大きくなります。)







2008年5月26日月曜日

同期生会

先週土曜日(25日)高校時代の同窓会があった。写真にあるように「鳥取西高4回生卒業55周年同窓会」である。正確に言えば、全日制普通科第4回卒業生の同期生会だ。

東京を中心とする〈風紋会〉、名古屋を中心とする〈中京双葉会〉、大阪・神戸を中心とする〈久松会〉それに地元鳥取の〈松風会〉から総勢114名が集まった。



場所は〈ホテル モナーク鳥取〉。この日は結婚式が3組あって、会場の部屋もいささか窮屈だったし、若い女性たちの華やかさがわれわれの老齢化を際だたせてくれたようであった。



久しぶりに帰省した諸君を中心に母校の校舎(と言っても、現在は旧鳥取一中の校舎を中心とするかつての木造校舎とは全く違うが)を訪問したり、全員の記念撮影などのあと、5時に開会。先ず67名の物故者に黙祷をした。



われわれが卒業した1953(昭和28)年3月当時、全日制普通科9クラス、全日制商業科3クラス、定時制普通科と商業科が各1クラスあった。

この年卒業した全日制普通科の生徒は419名。1クラスの生徒数は45~49名(1・2年の時は8クラスだったから50数名)という「鮨詰め学級」だった(この言葉も過去のものとなった)。

物故者67名ということは同期生の16%が亡くなっているということだ。むろん増えることはあっても減ることはない。



会は8時前に閉会したが、同じホテルの別の会場での二次会にもほとんどの人が参加した。カラオケもあったが、いつまでも話の花がしぼむことはなかった。 

2008年5月22日木曜日

ことば拾い:ハナイカダ / Wagyu

◇ハナイカダ

今年の4月15日のブログ「花は盛りに…」のなかで、袋川を流れてゆく花筏の写真を載せた。俳句の季語(春)と覚えていて「散った桜の花びらが帯状に水に浮かんで流れて行くのを筏にみたてていう語」として使った。

ところが、20日の早朝、NHKラジオ第1でハナイカダという花があることを知って驚いた。

さきほど、花筏の定義として「 」内に述べたのは、手元にある『大辞林 第二版』からの引用だ。なるほど、この辞書でも③として「ミズキ科の落葉低木」云々と書かれている。こうなるとネットで検索した方がいい。たくさんのサイトがあるが、そのなかの二つをご紹介。







http://www.hana300.com/hanaik.html◇Wagyu

今朝午前0時台のラジオ深夜便、ワールドネットワークの時間に、モントリオール在住の関陽子さんのレポートの中で。

Wagyu という英単語が生まれているという。むろん語源は日本語の「和牛」だ。しかし、Wagyuは日本の牛の意味ではなく、牛肉のなかで霜降りの多い、高級なものを指すのだという。

さっそく WIKIPEDIA を見たら写真入りで詳しく説明している。本来の和牛についてもこう書いていますぞ。

There are four major breeds of Wagyu (wa means Japanese, and gyu- means cattle, or simply "Japanese cow"): Japanese Black, Japanese Brown, Japanese Polled, and Japanese Shorthorn. Japanese breed names include: Tajima, Tottori, Shimane, Kochi and Kumamoto.

2008年5月21日水曜日

いつもお世話になってます

今回も二つのサイトを取り上げる。
今日は感謝の気持ちを込めて日頃お世話になっている二つのサイトをご紹介。もっとも、今さらわたしが紹介しなくても、大勢の人々が訪れているサイトなんですが…。 
一つは Yamadaさんの《ホームページを作る人のネタ帳》
いずれのサイトも、わたしのようなほぼ「後高者」(お分かりでしょ? 国会のセンセイ方が作ってくれました)にとっては難しすぎますが、今回は《ネタ帳》の
【e】サイトパレット http://e0166.com/blogBB/pallet.php

を利用させてもらって、田口元(たぐち・げん)さんのIDEA*IDEA といライフハックブログをとりあげた。ほかにも2000年1月から毎日海外のユニークなサイトを紹介している《百式》というブログや、毎日の目標やToDoを管理できるシンプルなツール、check*pad などを利用させてもらっている。
http://www.ideaxidea.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1556

(下の画像をクリックすると、IDEA*IDEAのサイトへ行きます。)

名言セレクション | IDEA*IDEA【e】
はてなユーザーの評価 livedoorユーザーの評価 Buzzurlにブックマーク
名言セレクション | IDEA*IDEA

2008年4月29日火曜日

二つのサイト

今日は二つのサイトを紹介したい。
前期あるいは後期の高齢者であろうが、その医療制度を長寿医療制度と呼ぼうと、独居老人と云われようと「おひとりさま」とてめえでおっしゃろうと、
どうでもよろしい。とにかく、わたしどもとしては、長い期間を入院などして若い人たちにご迷惑をかけないで、「ぴんぴん、ころり」で旅立ちたいと思っている。
ところで、最近はアンチエイジングだの抗加齢だのといった言葉が流行り始めている。今日はこんなサイトを見ていささか、驚いた。
 人の老化の度合いを調べる抗加齢ドックが注目されている。通常の人間ドックに含まれない検査項目を設け、将来起こりうる生活習慣病などの予防に役立てられるのが特徴。予防医学の切り札として「健康寿命」をのばすと期待されている。
東京都渋谷区の東海大学東京病院は、2006年6月に抗加齢ドックを始めた。検査項目の内容に応じ、12万1800円のAコースと8万8200円のBコース、通常ドックと組み合わせた“簡易版”のCコース(7万9800円)がある。
その上、≪究極100万円コース≫まで紹介されている。アンチエイジングも金がかかるものです。まあ、こちらは若者に迷惑をかける訳じゃあないから、お金持ちのご老体は次のサイトを見て、ご自由にご決断下さい。
 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/living/122026/

もう一つのサイトは、Lifehacking.jp さん
 
http://lifehacking.jp/2008/04/the-years-are-short/
の「小さな幸せを記録するデバイス」で紹介されている
The Happiness Project http://www.happinessproject.typepad.com/
というサイトで見ることのできる1分間のムービー。
英語の速読の学習にもなる。「小さな幸せを記録するデバイス」の訳文を読んだあとでもトライしてみてはどうでしょう。 前記のサイトを訪問して、右のサイドにある下記をクリックすると、1分間ムービーが見られる。お金は全くいらない。ごうなはこのサイトを知ったことの方がうれしい。

これをクリックするとムービーが見られる。

最後に出る、この言葉もいいですね。年を取るとしみじみそう思う。

The days are long, but the years are short.

(一日は長いが、一年は短い。)

2008年4月25日金曜日

映画「明日への遺言」 2/2回

今年2月25日午前1時台のNHKラジオ第1の【列島インタビュー】で
「今、映画で伝えたいこと」と題したインタビューが小泉堯史監督に対して行われた。聞き手はラジオ深夜便の遠藤ふき子アンカー。この放送は聞かなかったが、これが「ラジオ深夜便 No.94」5月号(NHKサービスセンター)に採録されていたのだ。このなかで1944(昭和19)年生まれの小泉監督が「明日への遺言」について述べていることをいくつかご紹介する。
・この作品の脚本を最初に書いたのは、14、5年前、黒澤明監督の助監督をやっていた頃。黒澤には常々、監督になるなら脚本を書かないとだめ、と言われていた。だから、読んでもらうのが楽しみでせっせと書いた。その中の一つが「明日への遺言」であった。『ながい旅』を読んで岡田中将に魅力を感じたし、「監督ってのは、最前線の司令官だ」と云っていた黒澤監督をもっとよく理解できるのではないか、という思いもあった。
・最初は誰も映画化に賛成しなかった。法廷の場面だけでなく回想場面や家族を描いて広がりをもたせられないか、などと言われたが、原作に添って「法廷の中での岡田中将」をとらえたかった。
・法廷のシーンが中心で動きがなく、しかも、10分近くキャメラを回し続ける場面がほとんどだから、舞台経験のある方がいいと思い、藤田まことさんにお願いした。
・「妻役の富司純子(ふじ・すみこ)さんも、傍聴席で夫の言葉をじっと聴き続けるシーンが多く会話は一切ないのですが、表情だけで妻の心を見事に表現してくださいました。」※
・台詞(せりふ)についても、できるだけ原作を生かして恣意的(しいてき)に作ることは極力しないようにした。英語の台詞もアメリカから取り寄せた公文書に全部照合したうえで書いた。原作もアメリカの公文書をもとに書かれているから。大岡昇平の原作は「事実が自分で歌う」ことを願っている。
※獄中からの手紙にこう書かれている。[ ]内は引用者注。「温子(はるこ)[中将の妻]連日法廷の傍聴御苦労である、話すことは規定が許さんが、私にはそなたの顔の表情の変化を見れば、其の意味は十分に通ずる。笑を交換する丈で結構々々。純子さん[玉川学園長小原国芳の次女。中将の長男陽(あきら)の妻]の御手紙にも、同じ意味のことを書いてあった。それでよい筈。」(原作。p151)

先回書き忘れていたのでここに書いておく。岡田中将を含む東海軍の公判は、1948年5月14日正午をもって結審した。3月8日の開始以来68日間であった。3月19日判決があったことは前述のとおりである。
岡田中将は、判決後も19名の部下の減刑請願や刑務所内の待遇改善に努めた。重労働終身刑の大西一大佐が1958年5月31日釈放されたのを最後に、それ以前に全員が釈放になっている。(B・C級戦犯はこの日をもって全員が釈放された。)

映画に戻る。「明日への遺言」のなかで2カ所、部下たちが小学唱歌「故郷」を歌う場面がある。
この映画が全国公開された際に配られた新聞紙大の紙の表裏に印刷した宣伝紙を、映画館で手渡された。13人の著名人と5人の一般人の、おそらく公開に先立つ試写会の感想が載せられている。そのなかで角淳一(毎日放送「ちちんぷいぷい」パーソナリティ と書かれているが、どんな番組か、どんな司会ぶりか、わたしは知らない)という人がこう書いている。

「故郷」をこんなに凄い歌だとは思わなかった。死を前にした男たちが唄うこの歌は祖国への賛歌であり、国歌でもある。こんなB級戦犯裁判があったことに驚きと感動を覚える。

原作にはない、この唱歌の場面を入れたのは、小泉監督だったのであろうか。前述のインタビュー記事のなかにはふれられていないので、わからない。
この歌について、ごうなは昨年の4月にこのブログでとりあげた。そこでも書いたように、この唱歌が尋常小学校第六学年用として世に出たのは、1914(大正3)年6月である。とっくに陸士を卒業し、この年の12月には鳥取の歩兵第40聯隊附の歩兵中尉となっていたのだから、小学校でこの歌を習ってはいない。むろん、聞いたり、あるいは歌った可能性はありうる。
『ながい旅』から引用する。
 岡田家は代々鳥取藩の藩医で、家が城に近い江崎町にあったのを、長女達子さんは憶えておられる。祖父乙松、祖母志可は夫婦養子であった。乙松氏は家業を継がず、鳥取地裁事務官の職を選んだ。京城の任地で没したのは、岡田資十七歳の時という。
中将は明治二十三年四月十四日生で、十七歳は数え年だから、明治三十九年となる。四十一年、陸軍士官学校へ入学されたのは、中学の成績がよく、軍人が志望だったからであるが、父の早逝に会って、士官学校が学費官給のためでもあったろう。軍人として特に縁故的背景はなく、刻苦して経歴を開かれた方である。(p.12)

岡田家があったという江崎町には、ごうなも数年暮らしたことがあるが、城山である久松山(きゅうしょうざん)の近くでその姿が大きく見える。また、中将の通った鳥取中学(現在の鳥取西高の前身)は、久松山下、三の丸跡にあった。だから、中将が「故郷」を聞いたり、歌ったりしたことがあったとすれば、「山」は久松山、「川」は袋川を思い浮かべたに違いなかろう。

岡田資中将が日蓮宗の信者であったことはすでに記した。大岡昇平は次のように書いている。
 二十一歳、士官学校生の頃、通りすがりの辻説教に興味を持ったのが、きっかけであった……この頃、軍人には、強く国家意識を持った日蓮宗に共鳴する者が多かった。しかし岡田中将には、狂信的熱狂はみられない。むしろ哲学的瞑想的なものである。死生観において、軍人勅諭五カ条であき足らず、法華経に支えを求めたことに、関心を持ったのであった。(p.201)

当時スガモ・プリズンに教誨師として有名な花山信勝師がいた。ひところ、その著書が評判になったことを覚えている。しかし、中将は彼とは意見が合わず、ことごとに対立したという。「罪を認め、ただ仏の慈悲にすがって南無阿弥陀仏を唱えてあの世へ行けばよい、との花山師の教えでは、死刑囚の荒ぶる心はなかなかおさまらないのであった。」(原作、P.207)

最後に付言する。この映画に感動された方は、ぜひ大岡昇平の『ながい旅』をお読みになってほしい。収録されている岡田中将の手紙、特に、死刑執行前日の1949年9月16日、家族に宛てた遺書を読んでいただきたい。中将の優しい心に接することができる。

◇文庫本は新潮文庫と角川文庫があるが、後者の方が入手しやすいと思う。
ごうなのおすすめ本棚 1


ながい旅 (角川文庫 お 1-2)

2008年4月24日木曜日

映画「明日への遺言」1/2回

13日(日曜日)の朝、有門橋から若桜橋まで袋川沿いの桜土手を、葉桜になりはじめた花を眺めながらのんびり歩いて、駅前商店街の〈鳥取シネマ〉に着いたのが上映10分前の午前9時50分。
この映画は3月1日より全国公開されたが、主人公の元陸軍中将岡田資(おかだ・たすく)の出身地、鳥取市では40日ばかり遅れて、12日からの上映となった。映画の始まる前に観客を数えてみると、50人弱程度で、女性が半数近くいたのは意外だった。
上映時間1時間50分の90%以上が法廷の場面である、異例とも言うべき映画が最後まで観客の心をはなさないところが、この映画の持つ力だろう。

太平洋戦争末期、1944(昭和19)年12月13日以降翌年の7月26日までに、名古屋はB29による38回の空襲を受けた。飛来機数は1,973機、被害は死者8,152、負傷者10,950、罹災者519,205人に及んだ。岡田中将は空襲の始まる前年末に東海軍需監理部長として名古屋へ来ていたが、敗戦の年の2月に東海軍管区司令官兼第十三方面軍司令官となった。
戦後、前述の空襲時に撃墜された機から落下傘で降下し、捕らえられた搭乗員、27名を正式の審理を行わず斬首して殺害した、として岡田中将以下20名の元軍人がB、C級戦犯として裁かれることになる。
岡田元中将がいわゆるスガモ・プリズン、巣鴨拘置所に収監されたのは1946(昭和21)年9月21日である。横浜法廷での審理開始が1948年3月8日になったのは、裁判の重点がA級戦犯に置かれていたからだ。

岡田中将は敗戦後自らが戦犯として裁かれることを覚悟しており、その法廷を最後の戦いの場とすることを決意していた。
1.米軍の爆撃は軍需施設の破壊をねらったものではなく、一般住民を殺戮する無差別爆撃であり国際法にもとるものだ(広島、長崎への原爆投下はその際たるものである)。従って、かかる無法を行った米兵は捕虜ではなく戦犯として処刑した。
2.これらの米兵を処刑した一切の責任は自分にある。
彼はこの2点を基本にして法廷に臨もうとしていた。陸軍士官学校時代に日蓮宗に帰依していた彼は、この法廷でのたたかいを「法戦」と呼んだ。

1948(昭和23)年1月、横浜裁判所で始まった裁判で彼はその「法戦」を戦い抜いた。同年5月19日、絞首刑の判決を受けた。映画にもあったが、判決後ただちに両手に手錠をかけられた彼は、傍聴席の前を通るとき妻の顔を見ながら「本望である」と言う。実際にそう言ったと記録されている。

19名の部下達は全員、死刑にはならなかった。この結果も岡田の願った通りとなった。彼は、刑務所内で若い部下たちの精神的支柱でありつづけた。
1949(昭和24)年9月17日午前0時30分、岡田資は刑死した。
(軍人にとって絞首刑は加辱刑である。しかし、占領軍最高司令官マッカーサーは最後まで銃殺刑を裁可しなかった。)

映画「明日への遺言(あしたへのゆいごん)」は、大岡昇平の『ながい旅』(注1)を映画化したものである。映画の原作というと小説と思われがちだが、むろん違う。ドキュメンタリーというべきだろう。大岡昇平は[後記]のなかで次のように言っている。
……岡田資の名を知ったのは昭和四十年……四十三年以来、作品にすることを考えた。……公判以来三十年経って、アメリカ国立公文書館所蔵の裁判記録が公開され……その実情が記録として判然と姿をあらわして来たのである。一部の人々に知られていたことだったが、これは戦後三十六年、米公文書の公開なしにはないことだった。「ながい旅」という題名には、それまでの時間を含んでいるつもりである。(pp.236-237)
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昨日ここまで書いていて、外出したところ、偶然、この映画の監督、小泉堯史(こいずみ・たかし)へのインタビュー記事を目にした。そこでとりあえずここまでを公開して、映画についての部分を明日公開したい。

(注1)大岡昇平『ながい旅』 新潮社 1982年5月15日

2008年4月15日火曜日

花は盛りに……

花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。



昔、高校時代に習った徒然草一三七段、書き出しの一文だ。別にこの言葉に従ったわけではないが、満開の声を聞いてから、「花見」が「鼻見」になるのを恐れて、一週間ばかり外出しなかった。葉桜になりつつあるが、花はまだまだ残っている。





2008年4月11日金曜日

追悼 毛利彰さん

 イラストレーターの毛利彰(もうり・あきら)さんが、一昨日の早朝、鳥取市内の病院で亡くなったという。今朝の朝日新聞の訃報欄で知った。
鳥取西高では一年下級で、親しくしてはいなかったが、3,4年前であったか、弥生町のバー〈貝〉で二,三度お目にかかったことがある(一度は奥さんと一緒だった)。ネットで見ると住所が市内の相生町になっているから、鳥取に帰ってきていたんだ。ちっとも知らなかった。
ご冥福をお祈りします。

2008年4月10日木曜日

A6手帳あれこれ(3)

4.もう一度スリム化したA6手帳について書く。

カヴァは左右にポケットのあるもの。新潮文庫のYonda? キャンペーン(だったかな?)で文庫本のカヴァにある三角形のマークを何枚か送って頂戴したものだ。色は真っ黒で、丈夫なしおりがついているのも気に入っている。

左右のポケットを利用した遊び紙を数ページずつ作ることができるので、クリアブックは不必要だが、邪魔にならないから一応組み込んでいる。



5.文庫本の日記帳も、新潮文庫、ちくま文庫などがあるが、A6手帳にどうしてもスケジュール欄が欲しい人には、ちくま文庫がいいかも。

月間だけでいいひとは、1ページ4区分された日記用のページを日付を無視、A6手帳として使用できる。日記欄が終わったら、A6手帳を併用すればいい。文庫の方を予定やスケジュール・プラン、ToDoなどに使うのであればむろん、、最初から併用できる。

それにしても(余計なことだが)ほぼ日手帳はどうしてほとんどの文庫本のように、コーティングした紙のカヴァを付けないのだろう? 背には年号だけ印刷してあればいい。使い終わったあと、他の文庫本などと本棚に並べることもできるのに。多くの人は自分でカヴァを作っているんだろうなあ。



6.そうそう、手帳に付いてるペン差しのことだが、アレは要らないと思う。常に手帳を携帯しているような人が筆記用具の1本も携帯していないなんて、考えられない。こだわりのペンを持っている人も少なくないだろうし、ペン差しにあわせてペンを買うなんてばかげている。

もっともペン差しにこだわっている人もいる。

日垣 隆『知的ストレッチ入門』(大和書房 2006年)のなかで、著者は、バーチカル・スケジュール手帳として、能率手帳の「キャレルA6」と高橋書店の「リシェル3」について5項目の比較を行い、後者に軍配をあげている。その項目のひとつが、ペン差しの有無で、むろん、後者にはある(pp.207-208)。



7.ごうなのA6手帳にA6ノートがもう1冊入っているのは、外国語の単語帳である。元来ごうなが愛用しているのは、名刺判のカードである。外国語の単語を覚えるには、その単語を含む短文を学習するのが一番だと思っているから。外国語学習なんて自慢しているのではない。アンチ・ボケリングのためだ。そうはいっても、喫茶店などで前期高齢者末期の老人が単語カードをくりながらもぐもぐ口を動かしているのは、どうもね。

そこで、このA6ノートが役に立つ。ノートの2ページをそれぞれ4等分し、左ページに外国語(英語でなくてもいいぞ! アンチ・ボケリング! アンチ・・・・・!)を、右ページに日本語や、語形変化などを記入する。(左にラテン語、右に英語なんて、カッコいい)

ちょうどいい本がある。もう一度英語学習をしょうという社会人向きの本だが、この本のページを写真で見ていただくのが早かろう。



どうです。これなら、コーヒーを飲みながら(いや、飲むのも忘れて! これも、カッコいい!!)ぶつぶつ、もぐもぐ口を動かしても、「黙読もできん老人が文庫本をぶつぶつ声に出して読んどるわい」という光景ではないか。



8.最後に、もうひとつ。この愛すべきA6手帳は、やはりポケットよりバッグの中に入れておくのがいい。そこで名刺型カードを常にポケットに入れておく。カードは片面印刷の広告紙を名刺型に切断したものだ。このカードのケースがいい。1972年に king が 発売を始めたもの。写真でお見せしてもいいが現在は発売されていないだろうからやめておく。素材はごうなには分からないが、プラスチックみたいなもの。片面は名刺より縦横が数㎜小さい窓で、この窓から顔を出しているカードにメモなどを書き付ける。裏側にもカードを親指で出し入れするための、ずっと小さい窓があるが、この長方形のケースの一方の短辺が取り外しできて、カードの出し入れは簡単にできる。これさえあれば、立ったままでも、机などなくても、さっとメモを書き付けることができる。

東大教授で天文学の泰斗であった堀源一郎先生が、この廃物利用の広告紙裏利用カードの用途を20項目挙げている。( 『書斎の小道具たち』 情報センター出版局 1982年 pp.149-152)

これとペンさえあれば、いつでもメモが書けるし、固いカードでなく、広告紙を使ったカードは、ケースを横長に持って記録すれば、そのままA6手帳に貼り付けることができる。その上赤や黄色のカラフルなぺーじになる。高級な革製のジョッタなどは要りません。

このケースは、もはや入手できないだろうが、広告紙利用のカードはどんどん作って、名刺入れに入れておけばいい。お金のある方は、ぺらぺらのカードのほうがおすすめだ。                     

もちろん、名刺カードケースにはペンホルダーはついていないから、必ずポケットにペンをお忘れなく。ごうなは「前・後期高齢者」用改良型(!?)腰リールにキーとゼブラのペンポッドだけは付けているので大丈夫。最大の問題点は酔っぱらったときなんだよなあ、



9.これで今回の「手帳あれこれ」を終わるが、もう一つおまけに、もう一冊、ご紹介しておく。高島俊男『座右の名文 ぼくの好きな十人の文章家』の、斎藤茂吉の項に、[執拗なる手帳魔―「手帳の記」]なる好文章がある。



さらにもう一つ、Moleskine Pocket Ruled Notebook を使って【「全てを手帳に記録する」、ユビキタス・キャプチャーの実践】という文章を載せた堀E.正岳さんのサイトをご紹介しておく。

 http://lifehacking.jp/2007/04/ubiquitous-capture-habit/



2008年4月9日水曜日

A6手帳あれこれ(2)

 奥野宜之さんは、序文のなかで、「自分の開発した方式は(その人にとって)必ず最高」なのだから、「自分流にアレンジする方がいい」とのべている。わたしの場合、今使用している手帳にせよ、第2A6手帳にせよ、奥野さんの手帳とどこが違うのか? ご参考になるかどうかは分からないが、「ごうな流」を述べるのがこのブログの目的であり、少しでも読者のお役に立つことができれば、うれしい。

1.コンピュータの普及とともに、いろいろな文書がA4を中心に作られるようになってきている。あの「超」の字を流行らせ、やたらと「超」を付けた品のない題名の書籍を氾濫させた野口悠紀夫先生の、またまた「超」の付いた整理手帳は、すべてA4を基本とした用紙を折りたたんだものである。さまざまな+αの用紙もA4である。
奥野さんもA版用紙に印刷したものを切ったり折ったりして、スケジュール表などをA6手帳に補充している。【自己実現寺】さんのサイトで知った【こどらん】さんのノート術も同様だ。
【自己実現寺】さんはA6で統一するために「能率手帳キャレルA6バーチカル2を使用し始めた」と書いていらっしゃるが、A6のCampusノートは(先回書いたように)キャレルのカヴァに差し込んでご使用なのだろうか?

2.わたしの場合、シート類を印刷して補充するようなことはしない。ごうなは元来横着者。そのうえ、70代半ばになろうかという歳になれば、スケジュール表なんてものは不用になる。ウェブ上のスケジュール表やいくつかのリマインダーも試みたが、記入することがほとんどない。宝の持ち腐れである。
A6以下の大きさの年間カレンダーが1枚あればいい。記憶すべき予定がある日はマーカーでその日付をチェックしておく。その日の予定の内容、日時、場所などは、付箋紙に書いて手帳のしかるべき場所に張っておくだけでいい。その日になったら、関係のある付箋紙だけをA6手帳の記入欄の近辺に移動させる。記録の一部とする場合は、付箋紙そのものも記事の一部として、剥がれないようにさらに糊付けしておけばいい。

3.しかし、何でもかでもみなA6手帳に張ってしまうことはしない。A6手帳はどんなにふくれても少し厚めの文庫本を携帯している、といった感じがいい。文字どおり 「all-in-one 」にしなくてもいいと思う。
ごうなの場合、切り抜きの台紙となるB5の用紙(26穴のバインダーにも納められる)も、山根式袋ファイルもまだわんさと(!?)あるので、使わないのはもったいない。
肝心なことは、そういう切り抜きや資料の所在がA6手帳や、コンピュータによる検索で、素早く、かつ正確に分かるようにしておくことだ。何でもかでも小さな手帳の中に、というのはかえって、手間と時間がかかるのではあるまいか。手帳の利便性は、保存した資料の場所を即座にその場でメモする点にあると思う。[検索→手帳→資料]あるいは[検索→資料]、そのいずれの場合があってもいいだろう。小さなものは直接手帳に貼り付けて保存すればいい。大きなものは縮小コピーをしたり、折りたたんだりするのは手間暇かかって面倒だ。

むろん、別の場所に置く資料を分類したりすると大変だ。山根方式も、押し出し方式も越えた「超」整理方式を確立(?)しなければならない。
このことについては、もう少し試行錯誤した上で、ご報告する。いずれにしても、コンピュータによる検索のおかで可能になったわけで、そのへんの工夫ももう少し検討してみたい。
ということで、そろそろ今のA6手帳から第2A6手帳にスリム化しようと思っている。(続く)
【自己実現寺】http://mugenmirai.livedoor.biz/archives/51496973.html
【cafe こどらん】http://blog.livedoor.jp/codran/archives/50684232.html






2008年4月5日土曜日

A6手帳あれこれ(1)

◇◇改めて考えてみるほどのことでもないが、ごうなの手帳歴も40年を越えている。
浮気性かも知れない。名のある手帳はほとんどみな一度は手にしている。既製品だけでなくこの世に一つしかない独自の24時間手帳(5分刻み、ワレット型。1か月分1冊)を印刷所に注文して、十数年使っていたこともある。
今は、この間のブログに書いたように、文庫版のノートを使っている。
この手帳を何と呼べばいいだろうか。『情報は1冊のノートにまとめなさい』の表紙には 万能「情報整理ノート」と書いてあり、序文の中で著者の奥野宜之さんは「100円ノート式」と呼んでおく、と書いている。ここでは【自己実現寺】さんが書いているように、A6手帳と呼ぶことにする。

ごうながA6ノートを使うようになったのは、ほぼ日手帳が最初だ。3か月ほどは、日記帳風に使っていたが、いつの間にか日付や時間軸をまったく無視して、メモだけをどんどん書いていった。ボールペンはもとより、万年筆でもとても書きやすい、あの紙質はピカイチだった。あの紙で横罫だけのシンプルなノートを作ってくれれば直ぐに飛びつくのだが。
紙質を別にして、大きめの文字でどんどんメモを書いていくのにA6の大きさがぴったりで、満足した。文字だけではない。簡単な図なども書くことができる。はがきや文庫本の大きさに慣れ親しんでいるせいかもしれない。
ポケットにはやや大きいかもしれないが、老眼鏡や携帯電話などを持てば、小さいショールダーバッグくらいは必携だからかまわない。

◇◇A6手帳は、今のところコクヨ Campus のAかBだろう。老眼のごうなは罫が[7㎜×18行/48枚]のAを使っている。無印良品の[ノート・6㎜横罫/32枚]は、表紙がしっかりしているし、値段もCampusの半分強だ。100円ショップの製品も悪くない。
「どんどん、なんでもメモってやろう」と、ど~んとまとめ買いするのもいいだろう。

◇◇ A6手帳をそのままポケットに入れても、むろん、かまわない。1冊使い切るのに何か月も要することはないだろう。ちゃちな表紙であっても、手帳がぼろぼろになるなんて、考えられないもの。

◇◇A6手帳だけでなく、[+α]ということになれば、カヴァが必要になる。使い方はいろいろ工夫できるだろう。以下は「ごうな流」だ。

◇◇現在、ほぼ日手帳のカヴァを使っている。名刺やカードなどを入れるポケットと、2本のしおりを活用したいからだ。左右のポケットが2重になっているのも便利だし、カヴァの外側の左に大きなポケットがあるのも有難い。ただ邪魔になるペン差しははずした。このことについてはあとで触れる。

◇◇A6手帳だが、そのまま差し込んで使うにはカヴァが大きすぎる。まず第2A6手帳を作る。
カヴァは何でもいいのだが、2003年に使った能率手帳キャレル(Carell)のそれがぴったりだったので活用した。左右のポケットの深さがたっぷりあるのもいい。さらに、A6手帳の2ページ分のやや厚めの紙を2~3枚ずつ重ねて二つ折りにして左右のポケットに差し込めば、手帳の前後に、4~6ぺーじの遊び紙ができる。ここには、付箋紙を何枚か貼り付けたり、たとえばコレクトの透明ポケット(大きさは名刺判前後のものがいろいろある)などを貼り付ければ何かと便利だろう。
これで立派なA6手帳が出来た。

◇◇現在のごうな流手帳は、すでに述べたように、この第2A6手帳の左表紙をほぼ日手帳の左ポケットに差し込み、右ポケットにはコレクトのA6クリアブックともう1冊のA6手帳の右表紙を差し込んで使っている。

◇◇ わたしにとっては、あくまでも第2A6手帳が本命である。もしクリアブックがどうしても必要ならば、同じコレクトのB7が使えるし、同じA6手帳を3冊バインドすることも可能だ。
(次回では、『情報は1冊のノートに……』についての意見も述べたいと思う。)


2008年4月3日木曜日

満開近し

昨日の午後5時頃の写真。(4月4日鳥取市にも満開宣言が出た。)





今朝9時過ぎの写真。対岸(左岸)にも、所々に桜の木がある。3枚目の写真は午前11時頃。