2008年4月25日金曜日

映画「明日への遺言」 2/2回

今年2月25日午前1時台のNHKラジオ第1の【列島インタビュー】で
「今、映画で伝えたいこと」と題したインタビューが小泉堯史監督に対して行われた。聞き手はラジオ深夜便の遠藤ふき子アンカー。この放送は聞かなかったが、これが「ラジオ深夜便 No.94」5月号(NHKサービスセンター)に採録されていたのだ。このなかで1944(昭和19)年生まれの小泉監督が「明日への遺言」について述べていることをいくつかご紹介する。
・この作品の脚本を最初に書いたのは、14、5年前、黒澤明監督の助監督をやっていた頃。黒澤には常々、監督になるなら脚本を書かないとだめ、と言われていた。だから、読んでもらうのが楽しみでせっせと書いた。その中の一つが「明日への遺言」であった。『ながい旅』を読んで岡田中将に魅力を感じたし、「監督ってのは、最前線の司令官だ」と云っていた黒澤監督をもっとよく理解できるのではないか、という思いもあった。
・最初は誰も映画化に賛成しなかった。法廷の場面だけでなく回想場面や家族を描いて広がりをもたせられないか、などと言われたが、原作に添って「法廷の中での岡田中将」をとらえたかった。
・法廷のシーンが中心で動きがなく、しかも、10分近くキャメラを回し続ける場面がほとんどだから、舞台経験のある方がいいと思い、藤田まことさんにお願いした。
・「妻役の富司純子(ふじ・すみこ)さんも、傍聴席で夫の言葉をじっと聴き続けるシーンが多く会話は一切ないのですが、表情だけで妻の心を見事に表現してくださいました。」※
・台詞(せりふ)についても、できるだけ原作を生かして恣意的(しいてき)に作ることは極力しないようにした。英語の台詞もアメリカから取り寄せた公文書に全部照合したうえで書いた。原作もアメリカの公文書をもとに書かれているから。大岡昇平の原作は「事実が自分で歌う」ことを願っている。
※獄中からの手紙にこう書かれている。[ ]内は引用者注。「温子(はるこ)[中将の妻]連日法廷の傍聴御苦労である、話すことは規定が許さんが、私にはそなたの顔の表情の変化を見れば、其の意味は十分に通ずる。笑を交換する丈で結構々々。純子さん[玉川学園長小原国芳の次女。中将の長男陽(あきら)の妻]の御手紙にも、同じ意味のことを書いてあった。それでよい筈。」(原作。p151)

先回書き忘れていたのでここに書いておく。岡田中将を含む東海軍の公判は、1948年5月14日正午をもって結審した。3月8日の開始以来68日間であった。3月19日判決があったことは前述のとおりである。
岡田中将は、判決後も19名の部下の減刑請願や刑務所内の待遇改善に努めた。重労働終身刑の大西一大佐が1958年5月31日釈放されたのを最後に、それ以前に全員が釈放になっている。(B・C級戦犯はこの日をもって全員が釈放された。)

映画に戻る。「明日への遺言」のなかで2カ所、部下たちが小学唱歌「故郷」を歌う場面がある。
この映画が全国公開された際に配られた新聞紙大の紙の表裏に印刷した宣伝紙を、映画館で手渡された。13人の著名人と5人の一般人の、おそらく公開に先立つ試写会の感想が載せられている。そのなかで角淳一(毎日放送「ちちんぷいぷい」パーソナリティ と書かれているが、どんな番組か、どんな司会ぶりか、わたしは知らない)という人がこう書いている。

「故郷」をこんなに凄い歌だとは思わなかった。死を前にした男たちが唄うこの歌は祖国への賛歌であり、国歌でもある。こんなB級戦犯裁判があったことに驚きと感動を覚える。

原作にはない、この唱歌の場面を入れたのは、小泉監督だったのであろうか。前述のインタビュー記事のなかにはふれられていないので、わからない。
この歌について、ごうなは昨年の4月にこのブログでとりあげた。そこでも書いたように、この唱歌が尋常小学校第六学年用として世に出たのは、1914(大正3)年6月である。とっくに陸士を卒業し、この年の12月には鳥取の歩兵第40聯隊附の歩兵中尉となっていたのだから、小学校でこの歌を習ってはいない。むろん、聞いたり、あるいは歌った可能性はありうる。
『ながい旅』から引用する。
 岡田家は代々鳥取藩の藩医で、家が城に近い江崎町にあったのを、長女達子さんは憶えておられる。祖父乙松、祖母志可は夫婦養子であった。乙松氏は家業を継がず、鳥取地裁事務官の職を選んだ。京城の任地で没したのは、岡田資十七歳の時という。
中将は明治二十三年四月十四日生で、十七歳は数え年だから、明治三十九年となる。四十一年、陸軍士官学校へ入学されたのは、中学の成績がよく、軍人が志望だったからであるが、父の早逝に会って、士官学校が学費官給のためでもあったろう。軍人として特に縁故的背景はなく、刻苦して経歴を開かれた方である。(p.12)

岡田家があったという江崎町には、ごうなも数年暮らしたことがあるが、城山である久松山(きゅうしょうざん)の近くでその姿が大きく見える。また、中将の通った鳥取中学(現在の鳥取西高の前身)は、久松山下、三の丸跡にあった。だから、中将が「故郷」を聞いたり、歌ったりしたことがあったとすれば、「山」は久松山、「川」は袋川を思い浮かべたに違いなかろう。

岡田資中将が日蓮宗の信者であったことはすでに記した。大岡昇平は次のように書いている。
 二十一歳、士官学校生の頃、通りすがりの辻説教に興味を持ったのが、きっかけであった……この頃、軍人には、強く国家意識を持った日蓮宗に共鳴する者が多かった。しかし岡田中将には、狂信的熱狂はみられない。むしろ哲学的瞑想的なものである。死生観において、軍人勅諭五カ条であき足らず、法華経に支えを求めたことに、関心を持ったのであった。(p.201)

当時スガモ・プリズンに教誨師として有名な花山信勝師がいた。ひところ、その著書が評判になったことを覚えている。しかし、中将は彼とは意見が合わず、ことごとに対立したという。「罪を認め、ただ仏の慈悲にすがって南無阿弥陀仏を唱えてあの世へ行けばよい、との花山師の教えでは、死刑囚の荒ぶる心はなかなかおさまらないのであった。」(原作、P.207)

最後に付言する。この映画に感動された方は、ぜひ大岡昇平の『ながい旅』をお読みになってほしい。収録されている岡田中将の手紙、特に、死刑執行前日の1949年9月16日、家族に宛てた遺書を読んでいただきたい。中将の優しい心に接することができる。

◇文庫本は新潮文庫と角川文庫があるが、後者の方が入手しやすいと思う。
ごうなのおすすめ本棚 1


ながい旅 (角川文庫 お 1-2)

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