2008年4月24日木曜日

映画「明日への遺言」1/2回

13日(日曜日)の朝、有門橋から若桜橋まで袋川沿いの桜土手を、葉桜になりはじめた花を眺めながらのんびり歩いて、駅前商店街の〈鳥取シネマ〉に着いたのが上映10分前の午前9時50分。
この映画は3月1日より全国公開されたが、主人公の元陸軍中将岡田資(おかだ・たすく)の出身地、鳥取市では40日ばかり遅れて、12日からの上映となった。映画の始まる前に観客を数えてみると、50人弱程度で、女性が半数近くいたのは意外だった。
上映時間1時間50分の90%以上が法廷の場面である、異例とも言うべき映画が最後まで観客の心をはなさないところが、この映画の持つ力だろう。

太平洋戦争末期、1944(昭和19)年12月13日以降翌年の7月26日までに、名古屋はB29による38回の空襲を受けた。飛来機数は1,973機、被害は死者8,152、負傷者10,950、罹災者519,205人に及んだ。岡田中将は空襲の始まる前年末に東海軍需監理部長として名古屋へ来ていたが、敗戦の年の2月に東海軍管区司令官兼第十三方面軍司令官となった。
戦後、前述の空襲時に撃墜された機から落下傘で降下し、捕らえられた搭乗員、27名を正式の審理を行わず斬首して殺害した、として岡田中将以下20名の元軍人がB、C級戦犯として裁かれることになる。
岡田元中将がいわゆるスガモ・プリズン、巣鴨拘置所に収監されたのは1946(昭和21)年9月21日である。横浜法廷での審理開始が1948年3月8日になったのは、裁判の重点がA級戦犯に置かれていたからだ。

岡田中将は敗戦後自らが戦犯として裁かれることを覚悟しており、その法廷を最後の戦いの場とすることを決意していた。
1.米軍の爆撃は軍需施設の破壊をねらったものではなく、一般住民を殺戮する無差別爆撃であり国際法にもとるものだ(広島、長崎への原爆投下はその際たるものである)。従って、かかる無法を行った米兵は捕虜ではなく戦犯として処刑した。
2.これらの米兵を処刑した一切の責任は自分にある。
彼はこの2点を基本にして法廷に臨もうとしていた。陸軍士官学校時代に日蓮宗に帰依していた彼は、この法廷でのたたかいを「法戦」と呼んだ。

1948(昭和23)年1月、横浜裁判所で始まった裁判で彼はその「法戦」を戦い抜いた。同年5月19日、絞首刑の判決を受けた。映画にもあったが、判決後ただちに両手に手錠をかけられた彼は、傍聴席の前を通るとき妻の顔を見ながら「本望である」と言う。実際にそう言ったと記録されている。

19名の部下達は全員、死刑にはならなかった。この結果も岡田の願った通りとなった。彼は、刑務所内で若い部下たちの精神的支柱でありつづけた。
1949(昭和24)年9月17日午前0時30分、岡田資は刑死した。
(軍人にとって絞首刑は加辱刑である。しかし、占領軍最高司令官マッカーサーは最後まで銃殺刑を裁可しなかった。)

映画「明日への遺言(あしたへのゆいごん)」は、大岡昇平の『ながい旅』(注1)を映画化したものである。映画の原作というと小説と思われがちだが、むろん違う。ドキュメンタリーというべきだろう。大岡昇平は[後記]のなかで次のように言っている。
……岡田資の名を知ったのは昭和四十年……四十三年以来、作品にすることを考えた。……公判以来三十年経って、アメリカ国立公文書館所蔵の裁判記録が公開され……その実情が記録として判然と姿をあらわして来たのである。一部の人々に知られていたことだったが、これは戦後三十六年、米公文書の公開なしにはないことだった。「ながい旅」という題名には、それまでの時間を含んでいるつもりである。(pp.236-237)
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昨日ここまで書いていて、外出したところ、偶然、この映画の監督、小泉堯史(こいずみ・たかし)へのインタビュー記事を目にした。そこでとりあえずここまでを公開して、映画についての部分を明日公開したい。

(注1)大岡昇平『ながい旅』 新潮社 1982年5月15日

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