2007年5月6日日曜日

映画「わかれ雲」 6

高校卒業後の話になる。
小学唱歌「ふるさと」についてのブログで書いたように、1953(昭和28)年の春、大学受験に失敗して、京都で浪人生活を送った、と書いた。
関西文理学院という予備校へ通った。下宿は市電の烏丸車庫の裏あたりで、北大路橋に比較的近いところにあった。

翌年の1月、受験に必要だった身体検査を、紫野保健所で受けた。レントゲン撮影の結果、左の胸部に疑わしい〈かげ〉があるとのことだった。そのことを告げた老医師は診断書には「著変なし」と書いておくから受験が終わったら精密検査を受けるようにと言った。温厚な感じの先生はわたしの立場に同情し、細かな点までいろいろ気をくばって注意を与え、かつ激励をしてくれた。

京都では外食生活だった。朝は、マーガリンを付けた食パンと下宿へ配達して貰った牛乳1本。昼と夜の食事のうち、一食は、うどん(当時ラーメンはなかった―あったとしても、その存在は知らなかった)、もう一食は主として烏丸食堂の定食だった。
定食は、丼一杯のご飯、みそ汁、香の物の3点セットで、食券があれば28円、無ければ35円。食券とは、区役所で「主要食糧購入通帳」を作ってもらい、それを使って一ヶ月分の外食券(40食分)を貰うのである。
上に述べた3点セットにプラスできるのが、冷や奴/30円、野菜サラダ、あるいはコロッケ(1個)/35円、ハムエッグ、あるいはビーフカツ/50円。(これらの値段も外食券がある場合)。食費は1日、100円以内でやりくりした。
京都にはじめて出た時の体重は56キロくらいあったが、一ヶ月後には1.5キロくらい減っていた。
こういった食事のことをはじめ、いろいろ考えて予備校もやめ、下宿も引き払って、1月31日に鳥取へ帰った。前年の4月21日以来、夏休み、年末年始の休みを除いて京都では200日ほど暮らしたことになる。

まだ京都にいた11月か12月のことだったと思う。下宿の二階の四畳半の部屋で読書していたとき、あのメロディーが、「わかれ雲」のあの旋律がかすかに聞こえたような気がして窓を開けた。どこかの家のラジオから流れてきたらしい。もうあの映画を見ることができなくても、あの曲はまた聞くことができるかもしれない、と思った。

鳥取へ帰ってすぐ精密検査を受けた。日赤病院の医師の診断は、都会での生活は無理というものであった。家族も少なくとも今後一年は鳥取でのんびり暮らすがいい、という意見だった。
同級生、H君の父上に「大阪に日本で一番の権威である先生がいるからその先生の判断を仰いだら」とすすめられた。等胸大の写真を日赤から借用してお送りした。2月10日に返事があり「無理をしなければどこで学生生活を送っても大丈夫」との判断をいただいた。むろん、こちらの判断に従った。もともと鳥取に近い京都か、大阪で、と言っていた母親を、京都も東京も同じだから、と説得した。幸い、早稲田の英文に合格した。

わたしがはじめて上京した、1954年頃、新宿に〈カチューシャ〉とか〈灯しび〉といった歌声喫茶ができ、ロシア民謡が盛んに歌われはじめた。映画「わかれ雲」の音楽は、ロシア民謡の「ともしび」であった。

川崎弘子は、1976年6月に亡くなった。64歳だった。福田蘭童もあとを追うように、その4ヶ月後に71歳で他界した。

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