2007年5月5日土曜日

映画「わかれ雲」 5

津村秀夫が「おちぶれ者の女中」の役で「五所的人物の哀愁」を帯びていると述べている川崎弘子にもっとも心を引かれたことは先にも述べた。
2年ほど前に、ウェブで採録したこの映画のストーリーを載せる。当時の「キネマ旬報」に掲載されたものだと思うが、確かなことは分からない。
信州の小さな町へ農村の風俗研究の旅で立ち寄った女子大学生のグループの一人の藤村眞砂子は、そこで突然発病してしまった。旅館山田館の女中おせんのはからいで、診療所の南医師の診察を受け、軽い肺炎だといわれた。眞砂子は一人静養のため山田館に残り、おせいの手厚い看病をうけ間もなく快方にむかった。間もなく東京から母の玉枝がむかえに来た。姉のように若く美しい母であったが、眞砂子は冷く母をさけて、一緒に帰ろうとはしなかった。淋しく帰る玉枝を駅へ送ったおせんは、彼女が眞砂子の義母であることを打明けられ、眞砂子のかたくなな心をときぼくしてやりたいと思うのだった。おせんは愛のない結婚だったが、その夫も、二人の間に出来た子供も失ってしまい世の苦しみを味いつくした女だった。眞砂子はそのおせんに心温いものを感じ、また山の町で献身的に働く南医師の真剣な生活態度を見たり、その医師やおせんと、更に山奥の無医村、長澤部落へ集団検診に同行、その村の分教場で、土地の古い因習と戦いながら幼い者の教育に努力している岡先生の姿を見て、眞砂子は自分一人の利己のなかにとじこもって、周囲の人々、殊に父や母の愛情を傷けていたことのあやまちを悟った。やがて出張の帰途、迎えに立ちよった父と共に、見ちがえるほど明るくなった眞砂子がおせんや南医師に送られて、山の町を立って行ったのだった。
この「おせん」を演じた川崎弘子は、1912(明治45・大正元)年の生まれだから、38~39歳だ。「物静かで心温まる感じ」と日記に記している。
おそらく、女子大生、眞砂子を前にしてだったろうが、おせんが自分の両手を見つめながら、「きれいな手なんて、つまりませんね」と、ぽつんと言った場面を今でも思い出す。

前述したように、この映画を見たのは、1951年12月26日であったが、30日の夜もう一度この映画だけを見に行って、その日の日記に「美しい信濃の景色、美しい人々の心」「何と言っても、おせんが一番良かった」などと書いている。さらに、「週刊朝日」の批評は間違っていない、と書いているが、津村秀夫の批評に一つだけ、不満があった。それは、彼がこの映画の音楽について一言もふれていないことであった。

洋画は別として、当時の日本映画の音楽と言えば、悲しそうな顔の女主人公が小川のほとりなどを独りで歩いていく場面などで、その映画の主題歌がバックに流れる、といったていどのものが多かった。
この映画は違っていた。むろん、主題歌などはない。哀愁を帯びた旋律が終始ハミングコーラスで流れていた。その旋律がいつまでも心に残っていたが、その後、二度と聞くことはなかった。

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