2007年5月26日土曜日

茨木のり子 1

自分で勝手に作った「鬼籍簿」の昨年の部には、数人の命日とメモがある。
その中の一人、山村修(8月14日歿)に続いて今日は,茨木のり子について誌す。
それぞれの土から/陽炎(かげろう)のように/ふっと匂い立った旋律がある/愛されてひとびとに/永くうたいつがれてきた民謡がある/なぜ国歌など/ものものしくうたう必要がありましょう/おおかたは侵略の血でよごれ/腹黒の過去を隠しもちながら/口を拭って起立して/直立不動でうたわなければならないか/聞かなければならないか/私は立たない 坐っています
〈「鄙(ひな)ぶりの唄」の前半〉

もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない/もはや/できあいの宗教には倚りかかりたくない/もはや/できあいの学問には倚りかかりたくない/もはや/いかなる権威にも倚りかかりたくはない/ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい/じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ〈「倚りかからず」〉

詩人、茨木のり子は、昨年、2月19日に亡くなった。79歳だった。彼女は、生前に「死亡通知」を書いていた。

このたび私 '06年2月17日クモ膜下出血にて この世におさらばすることになりました。これは生前に書き置くものです。

私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。
この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。
返送の無礼を重ねるだけと存じますので。

「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにして下さいましたことか…。

深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。

ありがとうございました。

二〇〇六年三月吉日
準備されていた手紙は、死亡の日付と死因が空欄。そこを埋めて郵送してほしい、と以前から甥(おい)の宮崎治さん(42)夫妻は頼まれていた。「身内だけでひっそりと荼毘(だび)にふし、一か月後に手紙を出す。それが伯母の希望でした」。死去がすぐに報道されたため、郵送時期を早めた。[以上、生前の遺書については2006年3月16日付読売新聞に掲載された(小屋敷晶子)の記事による]

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