2007年4月29日日曜日

二人の「師」

昨日、小学唱歌「故郷」のことを書いた。
今朝2時になろうかという頃、眠れないまま〈ラジオ深夜便〉を床の中で聞いていたら「故郷」のメロディーが流れた。担当の秋山隆アンカーが「作曲した岡野貞一は鳥取市の出身で、先年鳥取を訪れた際にこの歌の歌碑が城山の麓に建っているのを確認した」などと言っていた。

こどもの頃の袋川を思い出した。川には、むろん、橋が架かっている。橋の近くには、江戸時代から為登(いと)と呼ばれる場所があった。土手から川縁まで下りていく道があり、石造りや板張りの足場が川面に突き出る形で作られていた。明治の頃まで、ここで生活用水を汲んだり、洗濯などをしていたのである。

国民学校入学前後のことだと思う。家の近くの為登で独り釣りをしていた。そのころ、袋川には鮒やウグイなどがいた。
いつの間にかそばに来ていた見知らぬ小父さんが、ちょっと、と竿を手に取って釣り糸を水から引き上げた。その釣り糸の浮子の下あたりを片手につかんで、わたしの目の前にもってきた。餌のミミズの体を突き抜けて釣り針の先が顔を出していた。
小父さんは、新しいミミズをつまんで、その尻から(頭から?)針の先を入れ、ゆっくり針の形に添ってミミズを針の根本まで引っ張った。針の刺さっていない部分のミミズはくねくねと動いていた。
その日初めての釣果を得たかどうか、まったく記憶はないが、子供心に魚釣りの醍醐味を味わったのはその時以降であったような気がする。

同じような頃、毎年夏になると、両親に連れられて浦富(うらどめ)海岸へ海水浴へ行った。海岸に近い竹間(ちくま)旅館で、2、3日から一週間くらいを過ごした。当時でも関西方面からの客も来ていた。父が「ぼんぼん」と呼んでいた、同じ年頃の男の子といっしょに遊んだのもその当時のひと夏のことだ。

ある日、海水があごのあたりまで来るような深さのところで、いっしょうけんめい平泳ぎをしていた。足の方がどのくらい水を蹴っていたか知らないが、掌は水面と平行に動かしていた。いつのまにかそばに来ていた若者が、笑いながら注意してくれた。左右の手の甲をくっつけるようにして水をかかないと、なかなか前へは進まないんだよ、と。
醇風国民学校にプールができたのは1942(昭和17)年である。同期生の中では、水泳はわたしが一番だった! その恩人はあのお兄ちゃんだったのだ。

以上が、名前も知らない、顔も忘れてしまった二人の「師」の思い出だ。もちろん、その後も、このような多くの「師」に教えられたおかげで今日の自分があるのだ。
この文を書きながら、もう一つ悲しい出来事を思い出した。

あの頃、鳥取市内から浦富海水浴場へ行くには、交通手段は二つだった。
バス(当時は、木炭バス)で、鳥取砂丘の多鯰ヶ池(たねがいけ)の東側を通って、海岸近くまで行く。あるいは、旧国鉄山陰本線の岩美(いわみ)駅で下車。かなりの距離を歩いて、海岸まで行く。―そのいずれかであった。

1945(昭和20)年7月30日の朝、米海軍の艦載機3機が、岩美駅に停車中の貨物列車を襲った。機関車をねらった機銃弾が駅舎にもあたり、国鉄職員3名が死亡、2名が負傷した。日本が降伏する2週間前のことだ。

鳥取西高3年生のとき、同じクラスになったK君の父上が3人の殉職者のお一人であったことを知った。
その年の夏休みに、Y 君と二人で浦富海水浴場から羽尾岬をまわって、羽尾海水浴場まで遠泳し、K君が櫓こぎの船でついてきてくれたことを思い出す。
そのK 君も他界し、Y君も病に倒れ、現在音信不通である。

参考資料:鳥取高教組編 『語りつぐ戦争体験』 1985年6月











0 件のコメント:

コメントを投稿