2010年8月1日日曜日

會津八一と戦没学生たち

毎年夏がくると、蝉の声とともにあの戦争の時代を思い出す。子ども時代の体験もあるが、さまざまなメディアがさまざまな視点からあの時代をとりあげるからでもある。

先月28日の夜、NHK-ETVで放映された日曜美術館ー「広目天のまなざし・會津八一と戦没学生が見た奈良の仏」ーを見た。7月18日(日)9:00~9:45に放映されたものの再放送だ。

1943(昭和18)年10月21日午前8時、東京の明治神宮外苑陸上競技場(現・国立競技場)で、文部省主催の「出陣学徒壮行会」が開かれた。
夜来の雨の中、東京及び近県七十七校の学生が制服制帽にゲートルを巻き、剣つき銃を肩にかつぎ、各校の校旗を先頭に行進していく。
東條英機首相、岡部長景文相らの激励を受け、出陣学徒代表が「……生等もとより生還を期さず」と答辞を述べ、観覧席からは各校の校歌が沸き上がり、それらの歌声はいつしか「海ゆかば」「紅(くれない)の血は燃ゆる」の大合唱となり、神宮の杜(もり)にこだました。(『昭和二万日の全記録』講談社などによる)

当時、わたしは国民学校の三年生であったが、大学卒業後、郷里の高校の教壇に立つようになったとき、先輩である同僚のなかには、戦地に向かう大学生としてあの雨中を行進した人、スタンドで雨に濡れた小旗を振りながら涙ながらに歌をうたった女子学生であった人がいたのである。

剣つき銃を肩に雨中行進した学生たちのなかには、当然、早稲田大学の学生たちもいた。
彼らに日本美術を教えていたのが、會津八一(1881年―1956年)であった。


     ↑http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0718/index.html

秋艸道人、渾斎の雅号をもち、歌人・書家・美術史家として有名だが、新潟尋常中学校(現県立新潟高等学校)を経て、東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講し、1906年早稲田大学英文科卒業。卒業論文にはキーツをとりあげた。1934年、文学博士。1948年、早大名誉教授。戦後は故郷の新潟に在住。(同じ大学学部に学び、卒論に同じキーツを選んだはるか下の後輩として、ただただ、小さくなって平伏するのみである。)


會津八一自身「一回読み切り講義」と称していた美術史の講義は、しばしば、脱線もしたが、最後の決まり文句は「理屈を言わずに、奈良を歩いて来い!」であったという。

前述の学徒出陣の年、昭和十八年の秋、これが最後となる10日間の奈良旅行を行うことになった。會津は半紙を50枚の短冊に切って寺の名前を書いたものを畳に並べて、計画を練った。宿はいつも決まっていて、會津教授の定宿、奈良公園前の「日吉館」だった。



    ↑http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0718/index.html

テレビではその旅行に参加した学生の一人、89歳の金田 弘(かなだ・ひろし)さんが登場した。戒壇院四天王像のうち、會津八一に似ているといわれていた廣目天を身近に見たとき、いつでも出征できると思ったという金田さんは、この旅の途中で入隊することになった。別れのあいさつに會津の部屋を訪れたとき、彼はこう言ったという。
君は今でも歌を作っているか。作りたまえ。
良寛や芭蕉も君らの歳では大した歌や句はまったくない。
長生きして実らせよ。井戸水をどんどん汲み出したあとで、本当の地下水が現れる。
命を無駄にするな。学問を続けよ。
金田さんは、姫路の師団に入隊したが、病を得て除隊になった。

奈良の航空部隊に入隊した別の学生は、毎朝のジョギングの途中に、日吉館の看板を手でさすっては走り続けたという。その看板の文字は師の書いたものであった。この学生はフィリピン沖で戦死した。
けふも また
いくたりたちて
なげきけむ
あじゅらがまゆの
あさき ひかげに
この番組の中で會津八一として何度か登場する寺田 農(てらだ・みのり)は、「先生は学生たちが生きて帰ってくることを願っていたのではないか。みずからも守り、生徒たちにも示した學規の最初には、この生を愛すべし、と書かれているし…」と言う。また言う。「なんども見ているうちに先生が廣目天に似てきたのではないか。」


 

戦地に向かう学生たちの多くが小さな仏像の写真を買い求めたという。弥勒菩薩が人気だった。学生たちは母の写真の代わりに仏像の写真を持って往ったのではあるまいか、とも。

唐招提寺に會津八一の遺骨の一部がおさめられている。
おほてらの 
まろき はしらの
つきかげを
つちに ふみつつ
ものをこそ おもへ

付記:実物重視の学問、実学を重んじた會津八一は、3000点もの東洋美術の資料を自らの給与の半分以上を使って集めた。現在は早稲田大学會津八一記念博物館に収められているという。かつて文学部の図書館だったところだ。
http://www.waseda.jp/aizu/index-j.html

久しく、早稲田の杜を訪れていないよなぁ。

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