2010年1月5日火曜日

『昭和二十年夏、僕は兵士だった』

梯久美子(かけはし・くみこ)の『昭和二十年夏、僕は兵士だった』を「まえがき」の最初および最後と、目次だけを引用してご紹介する。
↓下の画像をクリックしてください。梯さんが直接、あなたに語りかけます。

 昭和二〇年夏。戦争は、敗けて終わった。二〇代の若者の多くが、兵士として終戦を迎えた(本書でいう兵士とは、兵卒の意味ではなく、戦うための人員として戦争に動員された人のすべてを指す)。生き残ったかれらは、仕事を見つけ、あるいはもう一度学校で学び直し、社会へと出ていった。
 廃墟の中から新しい日本を作ったのは、かれら若い兵士だった世代である。敗戦国の兵士たちが、戦後を生きるとはどういうことだったのか。戦争の記憶は、かれらの中に、どのような形で存在し、その後の人生にどう影響を与えてきたのだろうか。
 …………
 この本の中で話を聞いた……五氏は、終戦時に一八歳から二六歳だった。現在はそれぞれの分野の第一人者であり、功成り名を遂げた人たちと言っていいだろう。
 かれらもまた、あの夏、ひとりの兵士だった。ゼロからスタートして、何者かになったのである。その半生は、戦争に敗けた国が、どのようにして立ち上がっていったかの物語でもある。

(もくじ)
賭博、男色、殺人―――。
南の島でわたしの部下は、何でもありの荒くれ男たち。…………金子兜太
でもわたしは彼らが好きだった。

脚にすがってくる兵隊を
燃えさかる船底に蹴り落としました。         …………大塚初重   
私は人を殺したんです。一八歳でした。

逃げるなら大陸だ。
私は海峡に小舟でこぎ出そうと決めました。     …………三國連太郎
徴兵忌避です。女の人が一緒でした。

もうねえ、死体慣れしてくるんです。
紙くずみたいなもんだな。               …………水木しげる
川を新聞紙が流れてきたのと同じです。

マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、そして 沖縄特攻。
二〇歳の頃に経験したことにくらべれば、      …………池田武邦
戦後にやったことなんか大したことない。

以上の五氏について、改めてご紹介する必要もあるまいが、簡単に記しておく。

金子兜太(かねこ・とうた)1919年生まれ。俳人。句集多数。
大塚初重(おおつか・はつしげ)1926年生まれ。日本考古学会の第一人者として、登呂遺跡をはじめ、多くの発掘を手がける。
三國連太郎(みくに・れんたろう)1923年生まれ。1951年映画「善魔」で主演デビュー(当時わたしは高1で、この映画を見た。)
水木しげる(みずき・しげる)1922年生まれ。今年の3月からNHKの連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』が始まりますネ。
池田武邦(いけだ・たけくに)1924年生まれ。戦後、霞ヶ関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビル、ハウステンボス等を手がけた建築家。いずれ、このブログであらためて取り上げたいと思っている。

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