2009年8月4日火曜日

当世キーワード(2009年8月①)

以前、何度かこのブログで紹介したが、「当世キーワード」をまた取り上げる。

前の晩に深酒していなければ、朝の3時とか、4時頃には目を覚ましラジオを聞いている。
したがって、日曜の朝のラジオ(NHKラジオ)もよく聞いている。

「土曜・日曜あさいちばん」の番組を担当しているキャスターの佐塚元章さんが、NHKラジオのブログに、次のように書いている。
 
「今、この新語・流行語にこだわると、世の中少しは見えてくるかも」の私のコーナー紹介で始まる「日曜あさいちばん 当世キーワード」(日曜午前5時半から放送)は、いつも多くのリスナーから反響をいただきます。新語アナリスト・亀井 肇さんが、昨今世の中で使用されてきた新しい言葉を毎週5~6語紹介してくれます。今年で11年目になる名物コーナーです。私も思わず「うーんなるほど!」と唸(うな)ってしまったり、また「うふふ……」と笑ってしまう言葉ありで、たいへん楽しみにしています。
     http://www.nhk.or.jp/r1-blog/200/23005.html

世の中の動きにうとい老生にとって、この番組は興味深い。「世の中少しは見えてくる」からだ。これらの新語・流行語にこだわ」って、ウェブ上の「世の中」をのぞいてみる。
むろん、たくさんのサイトを見ることができるが、せっかくだから、新語・流行語の1語について、
ひとつのサイトのアドレスをご紹介するのも、おもしろかろうと思った次第。
◆野菜染料  
◆地域版エコポイント
◆熱中症計
◆買い物難民
◆マイタケパウダー
◆アラカルト婚

では、今の世の中を見に、お出かけ下さい。

2009年7月19日日曜日

鳥取を愛したベネット父子 (37)

【スタンレーの戦後初の帰国はいつであったか?】

5月27日付「鳥取を愛したベネット父子(36回)」の終わりに、次のように書いたあと、2ヶ月近くが過ぎてしまった。
付記しておかねばならないことがある。スタンレーが鳥取へ帰ってきたのが、11月1日の早朝であったとすれば、学会は10月であったはずである。逆に、学会が11月であったとすれば、鳥取へ帰ってきたのは、11月X日か、12月1日ということになる。
昨日、久しぶりに県立図書館へ出かけて調べた。朝日新聞の縮刷り版で、この学会についての記事を見つけた。

1956(昭和31)年10月21日付新聞の11ページ。新聞の下段(広告のすぐ上)にある一段の記事を「べた記事」というが、そこに短い記事があった。記事の最終ページに今もある「青鉛筆」という小さなコラムの右隣に「急性ジン臓炎で倒れた牧野富太郎博士が危機を脱した」という7行の記事があり、その右に次のような記事があった(見出しは省略、本文は全文)。
二つの中国やソ連から二十余人の学者を招いてアジア・太平洋州国際電子顕微鏡会議が二十四日から四日間、東京産経会館国際ホールで開かれる。主催は日本電子顕微鏡学会(谷安正会長)で、日本学術会議、文部省の後援。参加外人学者はドイツのアーネスト・ルスカ教授をはじめ米、インド、インドネシア、カンボジア、台湾、中共。ソ連から二十三人が参加を申込み、日本側は約二百三十人が加わる。
 このうち中共からは方志芳博士以下五人が来ることになっ
 ているが、日本政府が入国許可をしぶって二人しかみとめ
 ていないので、同学会では「学問の交流を妨げるものだ」と
 いっている。
加藤恭子が『S・ベネットの生涯』138ページで「この年の十一月、第一回アジア・大洋州地区電子顕微鏡会議が東京で開かれ、スタンレーが特別講演に招待されたのだった。」と書いているのは、「…十月、第一回アジア・大平洋州国際電子顕微鏡会議…」ということになる。

2009年7月14日火曜日

原爆の恐怖

わたし如きが今さら紹介するまでもないが、田口元さんの『百式』というサイトがあって、ユニークな海外のウェブサイトを毎日1件ずつ紹介している。(http://www.100shiki.com/)
昨日は、地域を指定すると、その地域を攻撃できる核兵器がどれぐらいあるかを教えてくれる『Nukeometer』というサイトを紹介していた。

もうすぐ広島、長崎での原爆による犠牲者の鎮魂を祈り、不戦を誓う日を迎える。
月から見た地球の美しさを見たばかりだが、今日は、その地球の住民であるわれわれの愚行に思いを致そう。

田口さんは「情報の正確さについては賛否両論あるだろうが、何かを考えるきっかけにはなるかもですね・・・」と言っているが、人間の怖さと愚かしさを改めて考えてみましょう。

攻撃目標は鳥取にしましたが、日本中どこにしても数字は同じであろう。しかし、自分の住んでいるところを記入して、この核弾頭の数字を見るべきでしょう。

(写真をクリックすれば、拡大します。)

2009年6月25日木曜日

ふるさと:地球

今朝の朝日新聞の【CM天気図】というコラムに天野祐吉さんが ―人類の「ふるさと」― と題した一文を寄せていた。
 「かぐや」から眺めた地球の映像を見た。(JAXA・NHK)
 なかでは「月の出」ならぬ「地球の出」の映像がいい。…
 そんな「地球の出」を記録した数本のなかでも、とくに「ふるさと」の歌が入ったものが、ぼくは好きだ。月の地平からゆっくり昇ってくる地球と歩調を合わせるように、♪うさぎ追いしかの山~と、澄んだ女性の歌声がきこえてくる。「ふるさと」。作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一。歌っているのは土居祐子さん。おなじみの唱歌である。
(科学的データである映像に情緒的なナレーションや音楽をまぶし、勝手に押しつけられるのはめいわくだ、と述べ、次のように続けている。)
 が、この「ふるさと」には、そんな押しつけがましさがまったくない。無音の宇宙から、地球と一緒に歌声がせり上がってくるというツクリに、思わず引きこまれてしまう。で、約4分の映像を見終わったぼくらの胸に、「そうだ、地球はぼくらのふるさとなんだ」という思いが自然にわいてくる。
 …あちこちに「地球にやさしく」風のキャッチコピーが目につく。が、地球を「人類のふるさと」ととらえたこの〝作品〟は、環境CMとしても最上のものじゃないだろうか。……
 それにしても、だれがこの〝作品〟をつくったのか。その人にぼくは、座ぶとんを3枚くらい上げたい。
わたしも、これらの映像をテレビで見た。
小学唱歌「故郷」について、これまでこのブログでもなんどか書いた。高野の出身地である長野県の人々はそれぞれの山や川を思いえがくであろう。岡野と同じ鳥取県人であっても、西部の人は大山や日野川を思いうかべるにちがいない。鳥取市で生まれ育ち、今も暮らしているわたしにとって、ちっぽけな久松山や袋川がふるさとの象徴だ。
だが、荒涼とした月の向こう側から昇ってくる地球を眺めながら、土居祐子の歌を聞いているとこの小さな地球こそわれわれのふるさとなんだと、しみじみ思う。
天野さんの文章を読んでから、自分の記憶を確かめるために、今朝からウェブ上をあちこち探索してみた。その結果をみなさんへご紹介したい。
NHKの番組についてのサイト:
http://www3.nhk.or.jp/kaguya/broadcast.html#kako
天野祐吉さんのブログ:http://amano.blog.so-net.ne.jp/
天野さんのブログでも見ることができるが、今日の話題の画面を再現している YouTube を下にのせているので、ここでもご覧になれます。
ちと、デカ過ぎちゃった!

【追記】土居祐子さんの オフィシャルブログ「do-it!」 にも、6月25日付〈満地球の出とふるさととのコラボ〉があります。
http://bowbowwanwan.jugem.jp/
 



受賞番組情報(イタリア賞受賞)







2009年5月27日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (36)

【26年ぶりの「帰国」】
父ヘンリーの死から6ヶ月後の1956(昭和31)年11月、スタンレーは26年ぶりに鳥取の地に戻った。
「子供時代に去った日本、ことに鳥取へ戻るためには、戦勝国アメリカの人間にとってさえも、二十六年という歳月が必要だったのだ。スタンレーは四十六歳になっていた」と加藤恭子は書いている。
 この年の十一月、第一回アジア・大洋州地区電子顕微鏡会議が東京で開かれ、スタンレーが特別講演に招待されたのだった。彼は「細胞学と組織学における電子顕微鏡の貢献」と題する講演を英語で行った。
 
 その中で彼は、この学会が自分の生まれた国へ帰る二十六年ぶりの機会になった感動を述べたあとで、こう続けている。
「日本海に近い小さな都市鳥取で、私は生まれ、育ちました。そこは西洋の影響があまり強くない土地でしたので、日本の古くからの、そしてすばらしい文化的伝統に密接にふれながら育ったのです。こうした子供の日々の経験は、すばらしい文化、そして日本人や他のアジアの人たちが成し遂げた芸術的な業績に対し、変わらない賞賛とそれを楽しむ気持ちを私の中に植えつけました」
 この招待講演の実現には、その年四月に帰国した山田英智の尽力があった。彼はこの年に久留米大学解剖学の教授に就任していた。
 ……………………
 学会が終わると、スタンレーと英智は山陰線の夜行列車の薄暗い寝台車にもぐり込んだ。
 十一月一日の早朝、鳥取駅着。寒い朝だったが、空はくっきりと晴れていた。生まれ故郷の土地に降り立った感慨が、駅前のまだ扉を下した家々を、無言のまま眺めているスタンレーからひしひしと感じられた。
 最近アメリカから赴任してきた宣教師の家にまず立ち寄り、朝食をとった。小さな家だった。赤ん坊を抱えた夫人にとっては、異郷での生活が苦しそうな感じだった。新婚間もない父と母が、二日かけて中国山脈を越えた日のことを、スタンレーは連想していたのかもしれない。
 朝食後、久松山に登った。ずんずんと一人で先に立って登るスタンレーのあとを、英智も追った。城跡からは、朝日に照らされる鳥取の町が一望できる。じっと立ち尽くすスタンレーの姿を、英智は少し離れた場所から見つめていた。
(帰って来た……)
長身のスタンレーの身体全体が、鳥取の町へ向かってそう語りかけているようであった。
 スタンレーが生まれ育った「宣教師館」は、戦後進駐軍によって使用され、失火により焼失してしまっていた。焼け跡にたたずむスタンレーの脳裡には、「異人屋敷」ともよばれた「宣教師館」でのあれこれが去来していたにちがいない。機械好きのスタンレーは、おもちゃを片はしから分解した。足の踏場もなかった自室……、庭で遊ぶ子供たち……。そしてその中には、あのフレデリックも交じっていたかもしれない。
 孤児院、教会、幼稚園、どこでも大歓迎だった。昔を知る人たちが集まって、アルバムを広げ思い出話がはずんだ。
「まあ、こんなに大きくなって……」
 と、スタンレー少年の成長した姿に眼を細める老婦人たち。尾崎誠太郎をはじめ、幼な友だちは、話し始めるとすぐ、〝子供の顔〟になってしまうのだった。
 ……………………………………………
 フレデリックの墓にも詣でた。
 「花を捧げてじっとぬかずく教授の上に松風がかすかな音を立てます」
 と英智は記している。
 母のアンナは、スタンレーのみやげ話を楽しみにしている。長年の伴侶を失ったばかりのアンナのために、スタンレーはあちこちの写真を撮りまくった。一つ一つの場所を、スタンレーは鮮明に記憶していた。
 長年心の中だけで想い続けてきた土地に、スタンレーは戦争をはさみ、まさに二十六年ぶりに立っていた。そして、この昭和三十一年以降、彼は何度も何度も鳥取へ帰って来る(引用者付記:この前5字に傍点あり)ことになる。
   (『スタンレーの生涯』pp.138―141)
今回はほとんど引用のみになってしまった。著者にたいしても、このブログを読んでくださった方にも申し訳ないと思う。
ただ、付記しておかねばならないことがある。スタンレーが鳥取へ帰ってきたのが、11月1日の早朝であったとすれば、学会は10月であったはずである。逆に、学会が11月であったとすれば、鳥取へ帰ってきたのは、11月X日か、12月1日ということになる。
この点を確認することは今のわたしにはできないし、また、ここでは、学会での発言と鳥取へ帰ってきたスタンレーの様子を知ることでいいだろうと思っている。



2009年5月15日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (35)

【両親の死】
スタンレーの最初の弟子となった山田英智の『電子顕微鏡とともに』(城島印刷、1984年)の中に「砂山」と題したエッセイがあり、スタンレーの父、ヘンリーの晩年の姿を描いているという。
加藤恭子が『スタンレー・ベネットの生涯』の中(pp.136-137)で引用しているのを孫引きしておく。
1955年の4月5日、フィラデルフィアでの第6回アメリカ組織化学会に出席したスタンレーは山田を伴って、2日目の午後の講演と夜の発表の間の短い時間に、フィラデルフィア郊外のジャーマンタウンに当時住んでいたヘンリーを訪問したのである。
「ドアをノックしますと扉が開いて小柄で痩せた上品なお母さんが出てみえて中に案内されました。居間にはお父さんが椅子に座したままで挨拶されます。肥って血色がよくとても八十に近いと思は(ママ)れません。然し脳溢血の為に半身不随で殊に視覚に障害を受けて殆んど今では見えないということなのです。(略)小さな声で断片的に出る話は日本の昔のことでした。始めて鳥取に赴任する時未だ汽車もなく人力車で山陽道から山を越えていった話。その時、車夫に一円あげたら警官から多すぎるといって注意されたとか、日光を見ぬ中は結構というなとか」
みんなで夕食をとって、すぐに辞去した二人を、出口まで見送った母のアンナは、「さよなら、またいらっしゃい」と山田英智に日本語で別れを告げたという。

 加藤恭子は書いている。
 ヘンリーとアンナから届いたクリスマスプレゼンとのことを、スタンレーの幼な友だち尾崎誠太郎は、はっきりと記憶している。鉛筆百本と、アメリカの少年少女雑誌から人物写真を切り抜いたもの。「日曜学校の生徒さんたちに。今の私たちには、これだけしか送れません」という手紙が添えてあった。(p.137)
1956(昭和31)年5月7日にヘンリー・ベネットは死去した。
母のアンナは97歳まで生き、1973年12月20日、タルサで死去した。1966年に彼女が書いた鳥取の思い出を『スタンレー・ベネットの生涯』(p.222)から、これまた孫引きしておく。
「宣教師たちは英語やアメリカ文化を伝えようとしましたが、関係は相互的なものでした。こちらが与えたよりずっと多くのものを、私たちはもらったのでした。教育水準の高さ、礼儀と名誉の尊重など、私たちは日本人を尊敬するようになりました。私たちがいくつかの間違いを犯したにもかかわらず、人々が私たちに与えて下さった思いやりのある理解、親切、誠実な友情を、私たちは決して忘れないでしょう。子供たちは日本で育ち、ほかの国の人々との〝友愛〟の大切さを学びました。私たちが日本に住むことができたことを、感謝しています」

2009年5月14日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (34)

【若い日本人科学者たちの養成と、日本の電子顕微鏡製造技術への貢献】

先回の終わりに引用した文のなかで加藤恭子が述べていたように、戦場から戻ったスタンレーの心の中では日本、わけてもこども時代を過ごした鳥取への望郷の思いが大きくふくらんでいったのであろう。その具体的の表れの一つが、日本人研究者の育成と日本における電子顕微鏡の発展を手助けすることであった。

1954(昭和29)年の5月、一人の日本人が横浜から二週間の船旅の後、サンフランシスコに着いた。2日後、夜行列車でシアトルへ。針葉樹林がどこまでも続く景色を眺めつつ、不安を胸に抱きながら彼はシアトルのキングス駅に降り立つ。
「…トランクを下げて歩いてゆくと、出口のところで、額の広い、がっちりした体格の白人が、にこやかに笑みをみせながら日本語で話しかけてきた。『山田さんですか。私がベネットです。荷物はそれだけですか』
これが、スタンレーと日本人弟子第一号、山田英智との出会いであった。
(この項、『スタンレー・ベネットの生涯』pp.125-126 による。)

山田は当時、30歳を過ぎたばかりで、九州大学医学部解剖学教室の助教授だった。山田を含む9人の日本人がスタンレーの下で指導を受けた。これが「第一世代」である。

スタンレーは、1961年から約八年をシカゴ大学で過ごすが、日本人の弟子はとっていない。
1969年にノース・カロライナ大学へ移ってからのスタンレーに師事した若手研究者たちが「第二世代」である。その第一号が飯野晃啓。1938(昭和13)年北海道生まれで、鳥取大学医学部を卒業後、同大学助手となっていた。
1966年神戸で開かれた国際解剖学会議での彼の発表―偏光顕微鏡観察によるキチン質の形態学―を最前列で聞いていたスタンレーが「非常に面白い。いい発表ですね」と誉め、アメリカに来るように、さっそった。
晃啓は、妻の佳世子、二歳の光伸とともに、一九七〇年から七一年にかけて、客員助教授としてベネット研究室に在籍することになった。第二世代第一号の弟子である。一九七〇年四月二十八日午後にチャペル・ヒル着。
晃啓が鳥取大学医学部硬式テニス部の文集に書いたエッセイによると、スタンレーは飛行場まで出迎えてくれたという。

「手を上げて待っていてくれ、流暢な日本語で迎えてくれ、疲れも吹き飛んでしまった」
第一世代第一号の山田英智以来、スタンレーが示してきた心遣いである。遠来の客の心細さが彼の日本語のひと言で吹き飛ぶことを知っていたのだろうか。しかも、スタンレー自身大好物の羊かんを、
「これは虎屋のですから、召し上がって下さい」
と、佳世子に手渡した。箱入りで、ちゃんとのし紙がかかっていた。
スタンレー愛用のベンツには東大寺、東照宮、善光寺など、お守りがざらざらとぶら下げてあった。
「保険に入るより安いですからねえ」
と、スタンレー。(『スタンレー・ベネットの生涯』p.239)
この{第二世代」は六人だった。
これらの人々は、加藤恭子の言葉を借りると、「日本における解剖学の発展に寄与する錚々(そうそう)たる学者」たちとなって、「ベネット会」を結成していた。加藤恭子の二冊の本は、この会の要請によって生まれたものである。

いまひとつ、日本の電子顕微鏡の製作に関するベネットの貢献にふれておきたいが、正直に言って、わたしにはよくわからない。

・日本でも1932(昭和7)年頃から電子顕微鏡という言葉(electron microscope の訳語として)が生まれ、1939年には電子顕微鏡発展のための基礎を担う委員会ができたこと。

・日立研究所が電子顕微鏡1号機を作ったのは1942(昭和17)年春のことであったこと。

・日本における研究は戦争で中断したが、国分寺にあった日立の中央研究所は戦災をまぬがれ研究が続けられていたこと。

・戦後、なんども来日したスタンレー(彼は物理や電気にも強く、図面を見ただけですべてが分かり、すべてを読み取ってしまったという)の助言や弟子たちの厳しい注文などを受けて、「今日、世界で最も優秀な電子顕微鏡を生産しているのは、日立製作所、日本電子株式会社を中心とする日本のメーカーである」(『スタンレー・ベネットの生涯』p.180)こと。

加藤恭子が様々な文献を読み、取材を重ねて、この面についてもよく調べて書いていることにただただ感心するばかりだ。

Google 翻訳
Google 検索
Wikipedia
価格比較
難易度判定
設 定

2009年5月5日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (33)

1945(昭和20)年10月31日付で兵役を解除されたスタンレーは、その2日後、ボストン郊外のブルックラインへ再び戻ってきた。一家そろっての生活がまた始まった。

戦争の始まる前年、1940年の夏、スタンレーの父ヘンリーは、次男のフレデリックが眠る鳥取の地に骨を埋めたいという夢を断たれて、アメリカへ帰ってきた。ブルックラインに大きな家を非常に安く手に入れることができて、スタンレーの一家も移ってきた。
長女のイーデスは1937年生まれ、祖母の名前をもらった次女のアンナは1939年生まれだった。この家に移って間もない42年の春、祖父の名前をもらった長男のヘンリーが生まれた。そして、スタンレーが戦場にいた1944年の2月はじめの雪の日、女の子が生まれ、ペイシェンスと名づけられた。
この年、祖父ヘンリーと祖母アンナは政府の仕事でワシントンへ移ったので、スタンレーが帰ってきたとき、この家には妻のアリスと四人の子供だけが住んでいた。

スタンレーは、ハーバード大学を休職扱いで戦場に赴いていた。
退役後、MIT、マサチューセッツ工科大学理学部細胞学教室に、助教授として迎えられた。

ここでの3年間が終わった時点で、ハーバード大学医学部教授と、シアトルにあるワシントン州立大学医学部解剖学教授と科長の職と、二つの口がかかってきた。スタンレーは、熟慮の末、後者を選択した。この選択について加藤恭子は次のように述べている。(『スタンレー・ベネットの生涯』pp.106-107)
   電子顕微鏡が、将来の医学、生物学にとっていかに重要になるかを見抜いたのも、その〝才能〟であったのだろう。だが、その〝才能〟は、日本に対しても働いたにちがいない。
 十三歳で日本を離れたスタンレーが再度日本とのかかわり合いを持つことになったのは、いわば異常な状況においてだった。ガダルカナル、沖縄など、〝敵〟としての日本、日本人との再会であった。
 だが、ワシントン州立大学の正教授と科長の地位を得ることによって、望ましい形での交流に乗り出すことができる。実現させられる(引用者注:原文には、左の7文字に傍点)という思いがあったのかもしれない。あるいはそれが、彼にとっては、自己と日本人の傷への〝癒しの道〟だったかのかもしれない。
 彼の心の中には、二つの計画があったのではないだろうか。日本人研究者の育成に手を貸すこと。そして、日本における電子顕微鏡の発展を助けること。
 もちろん、この二つだけが彼の後半生における重要な計画であったわけではない。彼自身の研究を実りのあるものにしていくこと。そして、何よりもまずアメリカ市民として、アメリカにおける電子顕微鏡を用いた細胞生物学のレベルを上げることに尽力しなければならなかった。
 だが、同時に、彼の心の底には、日本に対して何か確たるものがあったように思える。
 その〝何か〟とは、日本人へ対する愛着と言ってよいかもしれない。「私たちはここへ骨を埋めるために戻ってきました」と告げたヘンリーとアンナから引き継いだ鳥取への望郷の思いかもしれない。
 だが、その〝何か〟は、いつのころからか、スタンレーの心の中に巣喰い、成長し続けたように見える。

2009年4月30日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (32)

前回、戦後に話を移すと述べたが、もう1回だけ、沖縄でのスタンレーについて書いておきたい。

米軍は3月26日から27日にかけて、沖縄本島西方にある慶良間(けらま)列島座間味(ざまみ)島、渡嘉敷(とかしき)島などへ上陸し、多くの住民が集団自決している。
本島への上陸を開始したのは、先回述べたように、4月1日の早朝であった。本島への上陸はほとんど日本軍の抵抗を受けなかったが、その後86日間にわたって日本軍の抵抗に苦しめられた。
この闘いでは町ぐるみ、村ぐるみ、住民たちが正規軍に組み込まれて、多くの死傷者を出した。
さらに学徒も動員され、男子は中学校・師範学校生徒1779人のうち890人、女子は高等女学校・師範学校生徒581人のうち334人が死亡した。
日本軍による住民の虐待もしばしばあった。日本本土の楯として犠牲を強いられた住民の死者は正規軍の2.2倍に及んだ事実を忘れてはいけない。
(この項、『昭和二万日の全記録』第7巻p.68 & p.92による。)

このような沖縄戦のさなかにいて、スタンレー・ベネットはどうして長い手紙を76通も書くことができたのか、いぶかる人もいるだろう。

慶良間列島に米軍が上陸した直後、総司令官ニミッツ海軍元帥の名で、米国海軍軍政府布告第一号が布告され、その地域が米軍の軍政下に入ったことが宣言された。
沖縄戦に参加した米軍は、陸軍三個師団、海兵二個師団であった。この海兵師団で編制されていた第三水陸両面作戦軍司令官は、ガイガー将軍だった。
スタンレーは、この将軍の参謀本部付軍医中佐だったのである。
検閲の関係から、あまり具体的に語ってはいないが、スタンレーは軍医としての任務の他に、種々の仕事にたずさわっていたらしい。医薬品など、日本軍の残留物資の調査収集、文書の翻訳、住民対策などである。(『沖縄からの手紙』p.119)
すでに引用した手紙からも推測できるように、スタンレーは多くの住民たちとも直接接触し、彼らの惨状に心を痛め、いろいろと親切に対応している。
住民についての彼の報告や意見は上層部でも評価され、彼自身もこのような仕事で米軍に対しても住民のためにも貢献できると自負もし、軍政府へ入ることを希望もしたが、1945年7月、スタンレーは沖縄を去る。
戦闘にこそ直接参加しなかったにせよ、多忙な毎日を送っていた。一日の仕事を終えた夜、妻への手紙を書き続けたのであろう。いずれにせよ、彼の健筆ぶりには驚く。
加藤恭子の2冊の本の中でもかなりのページをさいている、沖縄の医師、家坂幸三郎との邂逅と交流についても割愛する。
最後に、もう一度だけ、妻アリスへの手紙を一部引用しておきたい。
 君からもらった手紙のことだが、…「私が家族に対して責任感をもつようには、あなたはもっていないと思えてならないのよ。あなたのお仕事はそちらですものね」と言っている。君の言い方は少々不公平なので、ショックだった。二年半以上、アメリカでも何千もの家族が戦争により連絡を断たれ、我々のような少数の人間のみが連絡が取れているのだ。今のところ、私は日本語を話す最高位の将校であるため、あらゆる軍事行動において、日本語を話す一般住民と接し、陣頭指揮に当たっている。ヒューマニズムと我が国のために最善を尽くしている。たとえ、大して成功しなかったとしても、何千もの家族を救うことができるのだ。さらなる戦争を避けるために、今すぐに住民を再教育し、新たな出発をさせなければならない。このために可能な限り力を尽くしたいと思っている。
 今、沖縄島民という文明人を、我々は武力で制圧した。我々も彼らを理解できないし、彼らも我々を理解しない。このギャップの架け橋になるのは、私のような者だ。ほんのわずかな人間のみが、この使命を果たすことができるのだ。アリス、寂しいときに思い出してほしい―私はここでは必要とされ、私が実行に移そうとすることは我が家の将来の平和と同じように大切だ―ということを。困窮する無数の人々を救うために、連絡を断たれている我が軍の家族を最小限にするために、しばらく、君とともに暮らすことをあきらめなければならない。アリス、将来、平和な生活が我々に訪れるためにも、今現在を犠牲にしなければならないのだと、私は言いたいのだよ。どんなにか君には辛かろうが、我々の完全な勝利によって、沖縄の母親たちの多くが夫を失い、想像を絶する辛苦を味わっている現実を君に理解してほしい。この戦時下に、自分以外の人々を救うことで、私は君や家族に対する責任を遂行しているつもりだ。」(1945年5月23日付。『戦場からの手紙』pp.143-144)
日本の無条件降伏まで、あと一ヶ月後となる7月10日、スタンレー・ベネットは沖縄を去り、21日までグアム島、それから真珠湾へと送られた。戦後の9月7日、休暇でワシントンへ帰り、10月31日付で海軍から除隊となった。

 

2009年4月22日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (31)

スタンレーの沖縄上陸2日目の手紙(四月三日付)からの引用。
 この島は気持ちのよい所で、すばらしい。いろいろな点でハワイやグアムよりよいと思う。畑は整然として、肥沃。本土と同じように、ヒバリが畑から囀(さえず)りながら舞い上がったりしている。枝ぶりのよい松の木が道路に沿って並び、ハイビスカスの花は生け垣に咲き乱れ、島は緑に包まれている。
 多くの家屋が損害を被っているのを見るのは、とても心が痛む。日常生活がいきなり断ち切られた痕跡が家のあちこちに見られる。一軒などでは洗う間もなかった食器、あわてて縫い針が刺さったままになっている縫いかけの子供服、用意したまま火のつけてないかまどなどが、そのままになっている。そこここに、子供や大人が息絶えてころがっている。辺り一面というわけでもないのが、せめてもの幸せだ。多くの家屋は爆撃や砲撃を受けていたことがわかったが、大部分の住民はその前に家を離れていたのだ。二人の女が洗濯をしていたので、話しかけてみた。彼女たちは那覇出身で、激しい爆撃が始まってからは山の中に住んでいたそうだ。自分の家が残っているのかどうか知らなかった。方言でしゃべっていたが、よくわかった。
 こんなところが、日本の一角の最初の占領に参加した私の印象だ。沖縄は、鳥取県とか島根県などと同じように、れっきとした日本の一つの県なのだ。那覇はこの島の県庁所在地だが、多分まもなく陥ちることになるだろう。もし日本軍の弱さが見せかけのものでなく、本当だったとすると、もうこっちのものと思ってよいのかもしれない。

四月六日(金)
 この辺りの住民は今では私のことをよく知っていて、敬意を表してくれる。「先生」と日本語で呼んでくれるし、彼らの援助に力を尽くす我々に感謝している。住民は日本軍より、ここの方が自分たちをずっと大切に扱ってくれると病院の軍医に言ったそうだが、よくわかる。何か困ったことはにか尋ねようと、私も何回か足を運んだが、二、三人が出てきて丁重にお辞儀をし、謝意を表す。彼らのことを「すばらしい人々」だと、今朝リヴィングストン軍医が言っていたが、確かに皆穏やかで感謝の心に満ち、忍耐強い人々だ。
ここまでは、昨日エディタで打ち込んでいたのだが、こんな調子でスタンレーの手紙を紹介していたら、きりがない。どんどんブログの回数が増えるばかりだ。このあたりで切り上げて、先に進まねば、と考えた。もともと、このテーマを書き始めたのは、
1)ベネット父子をはじめ家族の人々について、こういうアメリカ人たちがいたことを知って欲しい。
2)これらに人々に関心を寄せていただいて、ぜひ、加藤恭子さんの著書と編訳書を一人でも多くの人に読んでいただきたい。
と願っているからにほかならない。
確かに、両書とももはや新刊書では入手できないが、古書として入手が可能だし、図書館からの借り出しも可能であろう。(鳥取県立図書館では帯出可能であることを確認している。)

次回で、太平洋戦争時代を終えて、戦後のベネット一家について、スタンレーを中心に紹介させていただきたい。
Posted by Picasa



 

2009年4月21日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (30)

『戦場からの手紙』の第2部ともいうべき、スタンレーの「沖縄からの手紙」は、1945(昭和20)年3月10日―あの東京大空襲の日から始まっている。
日付を追って数えてみると、3月―7通、4月―17通、5月―20通、6月―27通、7月(7日まで)―5通、計76通の抄訳が収録されている。いずれも妻、アリス宛のものだ。勝ち戦を進めている米軍の、しかも一般兵士ではなく、士官級の地位にあったとは言え、その健筆ぶりには驚かざるをえない。(スタンレーは、ガダルカナル島にいたときと同様、軍医としての任務と、日本語による情報収集などに当たっていたらしい。)

沖縄戦については、若い人たちもそれなりの知識をもっているであろう。前回の『若い人に語る戦争と日本人』からの引用にとどめておく。ただ、米軍が上陸した日のことと、スタンレーがはじめて上陸した日のことについては、やや詳しく記し、彼の手紙も長めに引用する。その後は、手紙の中でわたしが興味、関心を抱いた部分をいくつか紹介することにとどめておきたい。

4月1日早朝、米軍は沖縄本島中部の嘉手納(かでな)・北谷(ちゃたん)海岸に上陸した。上陸軍は1時間もたたないうちに四個師団16,000人になり、戦車部隊も上陸。午前中に嘉手納と読谷(よみたん)飛行場を占領、日没までに60,000人が上陸して師団砲兵もすべて上陸を完了した。米軍の戦死者は28人だった。
守備についていた日本軍の、ある高級参謀であった大佐は、戦後こう書いている。
「午前八時、敵上陸部隊は、千数百隻の上陸用舟艇に搭乗し、一斉に海岸に殺到し始めた。その壮大にして整然たる隊形、スピードと重量感に溢れた突進振りは、真に堂々、大海嘯(だいかいしょう)の押し寄せるが如き光景である。」
「実に奇怪な沖縄戦開幕の序幕ではある。アメリカ軍は、ほとんど防備のない嘉手納海岸に莫大(ばくだい)な鉄量を投入して上陸する。敵を洋上に撃滅するのだと豪語したわが空軍は、この重大な時期に出現しない」(八原博通『沖縄決戦』読売新聞社)
(この項は『昭和二万日の全記録 第7巻 廃墟からの出発』p.68 による。)

こんな有様で、大本営は「本土決戦」を叫んでいたのだ。
四月一日(日)午前十時四十分の日付をもつスタンレーの長い手紙は、「沖縄上陸の初段階は成功を収めたという報告が艦に届く。」という一文で始まっている。
翌日付の手紙も長いものだが、はじめて沖縄に上陸した日のことを細かく記しているので、3分の2あまりを引用する。
 八時半、上陸用意の命令。…
 …上陸してみると、島はいろいろな作物の収穫期らしく、実った穀物や豆類は、取り入れを待つばかり。畦道沿いにながめたが、段々畑やサンゴ礁を石垣に使って囲った畑は、トラックなどでひどく踏みつけられてはいるものの、戦火による損害は少ない模様。
 村を通り抜けていくにつれ、グアムに比べて比較的損害の少ないのにびっくりした。いはいえ、焼失し、粉々になった家も多い。あちこちに穴のあいた家もある。
 村には木陰があり、静かでなかなかよい。太い道はなく、細い小路が通じている。沖縄人は石工芸に優れているとみえ、不揃いに切り取ったサンゴをぴったりと組み合わせた石塀で庭を囲っている。その石塀には細かい葉の華奢な蔓草が一面にびっしりとからみついており、種々の老木はあちこちでその石塀をまたぐようにして、根を張っている。老木から出た無数の気根は、塀の中の石と一体になり、ゆるい編み目模様をつけたようになった幹は、石塀を取り囲み、食い込んで、その一部のようになっている。立派な松や桑の木が木陰を作り、多くの家にはゼラニウムやスミレの花がきれいに咲き乱れている。肥溜めが点在し、あちこちに馬、豚、山羊などの死骸はあるものの、町は不潔だという感じはしない。
 ……
 戻ってから野戦用非常食の昼食をすませ、住む所を探しに村へ向かって出発した。住み心地のよさそうなかやぶきの家を見つけたが、壁は砲弾で穴だらけだった。箒を見つけてきて瓦礫を掃除し、戸棚を整理して荷物をしまった。ホレースはハンモックを吊り、私は簡易ベッドをしつらえ、かやを吊って落ち着いたところだ。この家の主は、防空壕に日用品や書類などを保管していた。我々はこれらの品々を注意深く集め、住民が帰ってきたときのために、家の中へ入れ、しまっておいた。
 村には住民の姿はなかった。逃げてしまっていたのだ。我々は洞窟で、二人の老人と二人の老婦人とが隠れているのを見つけた。私が踏み入ったとき、彼らはふとんの下に隠れた。ふとんの外に出すと、一人の老婦人が、「殺さないで」と嘆願した。万一にそなえて、私は弾をこめたピストルをかまえていたし、同行したコフ大尉もそうだった。私は、「おばあさん」と日本語で声をかけ、「心配しないように。保護するから」と告げた。彼女は手を合わせ、膝をつき、頭を地面につけて礼を言った。だが、私の日本語はあまり彼らに通じないようだったし、彼らの沖縄弁は私にはわからなかった。若い人なら両方が話せるので、私はあとでちゃんとした日本語を話せる中学生を一人連れ、担架を携えて洞窟に戻った。怪我をしている老婦人を乗せ、他の人たちも助け出して水陸両用戦車に乗せた。彼らは驚いたように成り行きを見守っていたが、これで面倒を見てもらえるさきができたのだ。
 住民たちはうろたえながらあちこちをさまよっているが、軍政府の人たちは手を尽くして世話をしている。海兵員たちは親切で、子供たちにはキャンディをやり、年寄りや体の弱った人たちを運び込んできたりし、略奪など、見る限りほとんどない。島民は漆器づくりに優れ、何軒かの家で見事なものを見つけた。中には漆器や陶磁器や急須などを持っていった者もあるが、概して兵士たちは品行方正である。




2009年4月18日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (29)

保坂正康が「解体」と名付けた段階の末期になると、人間を爆弾にするという段階になった。

1944(昭和19)年10月20日、関行男大尉以下24名の神風(しんぷう)特別攻撃隊が編制され、敷島、大和、朝日、山桜の4隊に区分された。(本居宣長「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」によって命名されたのであろう。)
特別攻撃隊は編制翌日から出撃し、25日に関大尉の率いる敷島隊の9機が空母1隻を沈没、2隻を大破させる戦果を挙げると、陸軍も特別攻撃隊を編制した。こうして陸・海軍とも体当たり攻撃を「制式化」し、翌年1月までに海軍が106回(約440機)、陸軍が62回(約400機)実施した。
『若い人に語る戦争と日本人』で保坂は次のように書いている。
 …乗っているパイロットは、当初こそ海軍兵学校出身の軍人もいましたが、その大半は学徒出陣で軍に徴用された現役の大学生たちでした。彼らはわずかの訓練を受けただけで、特攻機を操り、アメリカ軍の艦艇をめざして体当たり攻撃をつづけたのです。
 …こうした人間爆弾を作戦のなかにとり入れたこの期の大本営は、軍事的にも、人間的にもまさに「解体」していたといえるでしょう。(p.165)
このような人間爆弾は、これだけではなかった。この年11月には人間魚雷「回天」がつくられた。魚雷を1人の乗員で操作できるように改造したもので、約1550キロの爆弾ごと敵艦に体当たりするのだ。
このように人命を消耗品扱いにする特攻を冷ややかにとらえ、次のような川柳を残して死んでいった学徒出陣の青年たちもいた。
 生きるのは良いものと気が付く三日前
 神様と思えばおかしこの寝顔
 体当たりさぞ痛かろうと友は征き
  特攻のまずい辞世を記者はほめ
「桜花」という人間爆弾は、飛行機につり下げられて目標近くで切り離される人間ロケットで、爆弾は1200キロ、乗員1人。ブリキと木材を多用した「剣」と呼ばれた、爆弾800キロ、乗員1人の特攻専用機もあった。
米軍は、死を賭したこのような特攻を非常に恐れたけれども、絶対に命中しないといわれた「桜花」に対しては、「BAKA[バカ]BOMB[ボン=爆弾]と嘲笑していたという。(マンガの「天才バカボン」はこれとは全く関係ない。念のため。)
(この項の記述は『昭和二万日の全記録 第6巻 太平洋戦争』pp.360-361によって記した。)

いよいよ日本は1945年3月から始まる「降伏」への道を歩むことになる。
2月19日、米軍は硫黄島に上陸を開始した。5日間でこの島の攻略を終える予定であった米軍第四海兵師団は、地下20~30メートル、総延長28キロに及ぶ強固な地下陣地網を使った日本軍の抵抗に、半数の9098人の死傷者(死者は6591人)を出し、3月18日、ハワイに引き揚げ再び戦線に戻ることはなかった。
一方日本軍も、3月3日までに指揮官の65パーセントが死傷、22500人の兵力も3500人までに落ち、組織的な戦闘は困難になっていた。
3月17日、兵団長の栗林忠道中将は大本営に訣別の辞と辞世の歌を打電、日本軍守備隊は全滅した。
米軍司令部は、上陸4日後の2月23日には「世界で一番攻め難い島」と発表しており、前述のように大きな犠牲も払ったのだが、同日、擂鉢山占領、翌日には千鳥飛行場の修復を始め、3月12日爆撃機用滑走路を完成させている。
その日の3日前の3月9日から10日にかけて、B29、298機による東京大空襲が行われ、江東地区は全滅した。
これまでのB29は一万メートル以上の上空を飛び、都市の軍需生産施設が攻撃目標の中心であったが、東京大空襲は非戦闘員を対象にした、はじめての無差別絨毯(じゅうたん)爆撃であった。以後、このような無差別爆撃は繰りかえされ、東京空襲も四月、五月と徹底的に継続されることになる。
この空襲による正確な被害状況ははっきりとはしていないが、10万人近い死亡者を出し、広島・長崎の原爆に匹敵する大規模な被害を与えた。
なお、あえて付記しておく。この爆撃の計画の責任者は太平洋方面第二〇空軍司令官であったカーチス・ルメイだった。彼は、1963年の4月に米空軍参謀総長として来日、日本政府は航空自衛隊建設に貢献したとの理由で、勲一等旭日大綬章を彼に贈った。
(この項目は『昭和二万日の全記録 第7巻 廃墟からの出発』pp.48-49 および pp.57-58 によって記した。)

保坂正康さんは、次のように書いている。
 この「降伏」の期に、もっとも戦争の苛酷さを肌身(はだみ)で感じたのは沖縄(おきなわ)県民でした。日本で唯一(ゆいいつ)本土決戦の戦場となったこの地では、四月に一八万人のアメリカ軍の上陸により戦闘が始まりました。これに対して守備隊の約七万五〇〇〇人の日本軍将兵は、しばらくは持久作戦をとりました。しかしアメリカ軍の圧倒的な攻撃の前に、戦闘を行っても充分に戦うことができず、しだいに日本軍は壊滅的な打撃を受けることになります。六月二十三日に守備隊の司令官である牛島満(うしじまみつる)が自決し、日本軍は実質的に壊滅したのです。
 沖縄戦では、県民や兵士を含めて二〇万人近い犠牲者がでています。このなかには、日本軍の兵士がときに沖縄の人たちをスパイ扱(あつか)いして殺害したケースもあるといわれますし、民間人がときに楯(たて)がわりにされて戦死したこともありました。あるいは、アメリカ軍の捕虜になったり保護されることは好ましくないとして、自決した者もいました。
 こうした状態になっても、大本営は本土決戦にこだわりました。彼ら軍人たちの戦略とは、とにかく敗戦につぐ敗戦の状態であったにせよ、いちどは戦勝の機会を得てそれをもとに有利な条件で講和を結ぼうというものでした。あるいは中国やソ連と講和をして、対米英の「百年戦争」を考える者もいました。しかし、どのような戦略をもって戦争をいているのか、この戦争の目的は何だったのかなどを問うどころではなく、ただひたすら軍事で決着をつけようと考えるだけだったのです。
(『若い人に語る戦争と日本人』pp.169-170)
スタンレー・ベネットは、いよいよ沖縄へ向かうこととなる。
 


2009年4月16日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (28)

スタンレー・ベネットは、いよいよ太平洋戦争最後の地上戦となる沖縄へ向かうことになる。

中3になったばかりの孫が、来週、修学旅行で沖縄へ行くという。 
世界史上はじめて原爆を投下された広島、長崎であれ、当時の中学生や女学校の生徒たちを含む全県民が戦闘に巻き込まれた沖縄であれ、修学旅行でこれらの地を訪れる彼らが、あの戦争についてどんな学習をしているのであろうか。「語り部」と呼ばれている人たちから悲惨な体験談を聞くのかもしれない。それも大事なことだが、なぜそんなことになったのか、当時の指導者たちはどのような国をつくろうし、どのようにあの戦争を推し進めてきたのか、どうして日本国民はその道を突き進んでいったのか、などなどを知り、考えることが大切だと思う。そのためにも、右サイドに紹介している保坂正康さんの『若い人に語る戦争と日本人』はぜひとも若い人たちに読んでほしい本のひとつだ。これまでにも何度かこの本に触れてきたが、昭和18年5月~12月の「崩壊」の時期の「命を捨てる戦い」について述べている部分を、長くなるが、もう一度だけ、引用しておきたい。(原文のルビはカッコ内に入れた。)
 …この八か月ほどの間に、日本の戦闘はきわめて歪(ゆが)んだ形になってしまったのです。その例が五月末からのアッツ島での戦いであり、玉砕(ぎょくさい)でした。私は、日本の軍事指導者がもっとも責任を問われることはふたつあると思います。ひとつはアッツ島にみられるような玉砕であり、もうひとつは戦争の後半にみられる特別攻撃隊による作戦行動です。
 …アリューシャン列島の西端に位置するこの島(東西約五六キロ、南北約二四キロ)は、ほとんど人の住んでいない島でした。この地からアメリカ軍の攻撃があったら困るということで、日本は守備隊を置いたのですが、昭和十八年五月からアメリカ軍の本格的な攻撃を受けています。
 二五〇〇人の守備隊は、二万人近いアメリカの海兵隊員の攻撃を受けながら二週間近くももちこたえましたが、その後山崎保代(やまさきやすよ)守備隊長をはじめとする生存兵士が、最後の肉弾作戦を行いました。援軍も補給もないままにその身を銃弾に代え、アメリが軍にむかっていったのです。このときの様子を、アメリカ軍のある中尉が次のように書き残しています。そこには、「どの兵隊も、どの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握(にぎ)っている。最後の突撃というのに皆どこか負傷しているのだろう。足をひきずり、膝(ひざ)をするようにゆっくりと近づいてくる」とあり、アメリカ兵はたどたどしい日本語で「降参せい、降参せい」と叫(さけ)んだとあります。だがそれにもかかわらずむかってくる。それで一斉に機関銃を発して撃ち殺したというのです。
そして、保坂は、自らが行った講演(平成7年「戦争史研究国際フォーラム)での結論づけを引用し、さらに本文を続けている。 
(私たちのなかに)こうした玉砕に対して、日本人の精神性を表すものとしての見方をとることがある。あるいは物量に劣(おと)る日本の戦いとみた場合、こうした精神性を対峙(たいじ)させる考えもある。だがつぶさに見ていくと、こうした玉砕作戦そのもののなかに、やはり大本営参謀たちに欠けていた思想があるのではないかと思う。

 この思想とは、兵士を「人間」としてみていない不遜な態度のことです。
 この「崩壊」の期に、七月、八月、九月のコロンバガラ島沖海戦、ブーゲンビル島沖海戦、ギルバート諸島、マーシャル群島、それにラバウル大空襲と、アメリカ軍は次々と日本の占領地域を爆撃してきました。アッツ島玉砕は、国内では戦時美談として語られ、「アッツにつづけ」が合言葉になっていきました。歌までつくられましたが、それは命を捨てて戦えという意味でもありました。冷静な判断よりも、感情を主体にした思い込みや陶酔が重視されていくのもこのときからだったのです。(pp.158-160)
この年、わたしは国民学校初等科の3年生(現在の小3)だった。
4月29日アッツ島の日本軍が玉砕し、5月に山本五十六連合艦隊司令長官の戦死が公表され(戦死は4月18日)、元帥を追贈され6月5日国葬が行われた。

そして、9月10日の夕刻鳥取市を大きな地震が襲った。当時わたしは現在の川端5丁目にあった二階建ての四軒長屋に住んでいた。長屋は一階がぺしゃんこにつぶれ、二階はしゃんとしていたが窓のガラス戸は壊れてなくなっていた。(普通であれば夕食を始める時刻で、一家全滅になっていたかもしれなかった。両親の仕事が忙しかったため、家は無人であった。)
隣家から出た火はつぶれた一階全体に廻っていたのだろう。暗闇が近くなった頃、ボッと音を立てて突然火が二階に移り、室内を明るく照らした。
階段をあがった三畳間の、久松山が大きく見える窓の前に、わたしの机と椅子があった。前年照國とともに横綱になった安藝ノ海―あの双葉山の七〇連勝を阻止した安藝ノ海の写真を小さな額に入れて机上に置いていた。その写真立てが倒れないでうらを見せたまま、ちゃんと立っていた。
階段側の鴨居の上に二枚の額を掲げていた。奥の方は山崎大佐、手前の方は山本元帥の写真だった。それらを見た瞬間、炎が部屋中に広がった。その時はじめて、わたしはわっと泣き出した。
   
    刃も凍る北海の 御盾と立ちて二千余騎
    精鋭こぞるアッツ島 山崎大佐指揮を執る
    山崎大佐指揮を執る

今でもこの歌をうたうことができる。

閑話休題。保坂さんは「崩壊」に続く「解体」―昭和19年1月~翌20年2月―について、こう書いている。
 …日本は実質的に戦争をつづける国力を失っているにもかかわらず、玉砕や特攻作戦を行うことになりました。もはや軍事という物量による戦闘や政治の延長としての戦争という意味あいは薄(うす)れ、自己陶酔にふけっていたと私は分析しています。開戦時の精神主義が前面に出てきて、たとえば昭和十九年七月まで首相、陸相、そして参謀総長(この年二月に就任。軍令、軍政の両権をにぎる完全なる独裁体制)だった東條英機は、国民にむけて「戦争というのは最終的には意志と意志との闘いである。負けたと思ったときが負けである)と説く有様でした。
 これは私が以前から言ってきたことですが、「負けたと思ったときが負け」というのは冷静な判断をするな、客観的な考えなどもつな、指導者の言うことだけを聞け、という恐るべき論理です。…
 こういう精神的な逃げ場のない迷路のなかに入りこんでしまった日本は、はたして戦争を戦っていたといえるのだろうか、というのが私の考えです。これはもう文化の領域と思えますが、軍事指導者たちはこういう文化的にも恥ずかしい論を用いて、戦争という現実を戦っていたのです。ここに「昭和の戦争の過ち」があると、私は指摘したいのです。(pp.161-163)
そしてこの年10月、人間爆弾、神風特別攻撃隊が編成される。

2009年4月13日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (27)

スタンレーの[ガダルカナル島からの手紙]は、第23回で書いたように、保坂正康のいう日本軍「崩壊」の時期の末期にあたる。彼はガ島で日本軍と直接戦ってはいなかった。

1944(昭和19)年1月~45年2月は「解体」、3月~8月15日が「降伏」の最終期である。
具体的には、
・6/19-20 マリアナ沖海戦で、日本海軍惨敗。
・7/7 前年5月のアッツ島についで、4万人余のサイパン島守備隊玉砕。
 (日本人住民の半数1万余が死亡)→B29による本土爆撃が射程距離内 となる。
・10/24-25 レイテ沖海戦で「武蔵」など主力艦を喪失。神風特攻隊5機がはじめて出撃。
・11/20 人間魚雷「回天」による発の攻撃。
・11/24 B29、111機が東京を初めて本格的に空襲。
・1945/1/10 B29、334機、前夜から東京大空襲
・3/17 硫黄島の日本軍守備隊が全滅。

スタンレーの[ガダルカナルよりの手紙]は、既述したように、1943年11月25日付から翌年の1月1日付まで38通、そのうち33通の抄訳が、『戦場からの手紙』の第1部として収録されている。その収録されている手紙の最後は、12月29日付のものである。
その後、スタンレーはどこにいたのであろうか。加藤恭子によれば、検閲もあって居場所を明らかにできなかったが、妻のアリスは、ガ島は海兵隊の重要な基地であったから同島を出たり入ったりしていた可能性がある、と推測していたという。そしてその後の手紙からアリスが判読した結論を次のように伝えている。
 スタンレーは、ガダルカナルからニューカレドニアに戻ったのではないだろうか。そして、またガダルカナルに滞在し、一九四四年夏にはグアム戦に参加した。(引用者注:7月21日、米軍、グアム島に上陸開始。8月11日、日本守備隊玉砕。)それからまたガダルカナルへ戻り、一九四五年一月と二月はハワイの真珠湾。それからガダルカナルへ戻ったあと、沖縄戦に向けて出航したのではないか。これがアリスの意見である。(p.85)
前述の通り、東京大空襲の日、硫黄島の日本軍守備隊玉砕の直前の3月10日、スタンレー・ベネットの「沖縄からの手紙」が始まっている。

2009年4月11日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (26)

ガダルカナル島から発信されたスタンレー・ベネットの手紙(妻宛)は、1943(昭和18)年11月24日付~翌年1月1日付まで、38通が発信されている。そのうち、33通の抄訳が第1部として『戦場からの手紙』に収録されている。
これらの手紙はほとんど毎日書かれていたことになる。スタンレーの健筆ぶりに驚く。日本兵も手紙や手帳、日記などの記録を多くの者が残していることが知られている。しかし、特に手紙では、検閲されるためにこのように、妻への愛を伝えることはできなかったであろう。(ここでは、それらの言葉を引用しないが。)さらに日々このような手紙を書くゆとりなど、戦場の日本兵にはなかったことであろう。

前回同様、日本(人)への思いや日本語の勉強ぶりがうかがえる部分を中心に引用を続ける。 
今日もまた〝町〟へ行った。陸軍病院内の憲兵に見張られている一病棟で捕虜の尋問をするためである。捕虜たちは食事が口に合わず、果物と米、日本茶がほしいと言う。だから、午後PXでキャンディー・バーとクッキーを彼らのために買った。帰りがけに、どこかで果物が手に入らないかとジープの運転手に聞いてみた。キャンプから三マイルほどの村の近くにパパイヤの木があるのを知っている、と彼は答えた。それを手に入れられるかどうか、私には疑問だった。ところが、この運転手はジープを運転していき、八つの見事なパパイヤを盗んできてくれた。日本兵捕虜の〝我がボーイズ〟のために、おかげで果物も手に入れることができた。たぶんオレンジもいくらか手に入れられるだろう。(12月2日付 pp.31-32)

 オレンジ、パパイヤ、クッキーそれにチョコレートなどを病院にいる私の捕虜の患者たちに持っていったが、哀れさを感じるほどに感謝された。尻に大きな潰瘍のある男は、私が海軍軍医と聞くと、私に面倒をみてもらえるよう、海軍病院に連れていってほしいと頼んだ。自分は海軍軍人なのだから、そう取り計らわれるべきだと言うのだが、ここの捕虜たちは陸軍憲兵隊の管理下にある。そのような移送は、当然不可能だ。
 私は自分用の語学クラスを作った。フェンスの囲いの中で最も優秀な捕虜を選び、指導教官になるよう要請し、私の間違えそうな個所を訂正してほしいと依頼した。今日の彼との二時間の勉強中、いくつかの単語を漢字に置き換えてもらった。彼が大変協力的なので助かる。本人も仕事を楽しんでいる様子なので、毎日続けたいと思っている。このキャンプの通訳たちより、私の日本語はうまいそうだ。ヌーメアとオーストラリアには、私などよりもっとうまい通訳がたくさんいるはずなのだが。(12月3日付。pp.32-33)

……午後中、単語カードに明け暮れ、1000以上のカードを作成した。カタカナやひらがな、変則的な読み方のものなどだが、およそ二百十一は精通している単語。およそ三百五十は部分的にわかっているが、まだ努力が必要なもの。百五十の熟語は記憶ずみのほうに入れた。勉強の成果で語彙が増え続け、面白くてたまらない。(12月8日付。p.36)

 レヴィンソン少尉と一緒に、今日フェンスの中の捕虜収容所に出かけた。私は「桃太郎」や「もしもしかめよ」などの日本の歌を歌って彼を楽しませた。(12月20日付。p.43)

 ……陸軍病院に行き、金沢出身の十八歳の青年と話をした。純真無垢な青年だ。この若さでこんな苦境にいるなんて、本当に気の毒なことだ。戦争がおわったら、こうした若者たちにも、人並みの幸せを掴んでほしいと思った。そうしてあげるのが、私たちの義務なのだ。彼らは自分たち自身ではそれができないだろうから。(12月23日付。pp.51-52)

 一日のほとんどを、日本海軍についての日本語の本を翻訳して過ごした。非常に興味深い本だ。日本人の心理を理解するための助けになるからである。日本人の最大の弱点の一つだけ指摘するならば、データを客観的に読み、それを偏見なしに評定する能力を育てなかったことだろう。私の意見では、この欠点が彼らにこの戦争を始めさせたし、彼らを敗北へと導くことでもあろう。持ち合わせの単語カードを全部使い切ってしまった。新しいのが来るのを今か今かと待ち構えているところだ。五千枚頼んだが多すぎるとは思わない。そちらにあれば、すぐ送ってくれないだろうか。(12月26日付。p.54)

2009年4月10日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (25)

ガダルカナル島からの第1信は、1943年11月24日付のものだ。全文を引用する。
最愛のアリス
 無事この島に上陸したので、また手紙が出せるようになった。小石だらけの海岸からは、大小の島々が見渡せる。私のテントは、五〇ヤード先のココヤシの木々の間に張られた。鮮やかな深紅色のオウムたちが飛び回り、甲高い声で鳴きながら追いかけ合っている。
 テント内の床は、小石だらけ。壁は布張りだが、電灯が灯り、上官用の席と食堂が仕切られている。地面は清潔で小石が多く、雑草は生えているが、埃っぽくはない。
 今朝九時の下船から、このキャンプへの輸送手配が整うまで、照りつける太陽の下でえんえんと待たされた。私はココヤシの下の箱に腰を下ろし、日本語カードを見直していた。
 君に最後の手紙を送ったのは金曜日で、所持品をまとめヌーメアを発つ前だった。土曜日の午後、乗船。新しい高速艇で、乗り心地は上々。大半は日本語の勉強をして過ごした。新しい漢字をずいぶん学んだ。ここには八から一○インチもある大ムカデがいて、噛まれるととても痛いそうだ。クロコダイル、サメ、アカエイ、バラクーダなどもいるので用心するようにとのこと。
 マラリアにかかりやすいので、アタブリンを服用しはじめた。暗くなってからはズボンの折り返しは靴下の中へ押し込み、袖は下ろし、衿はボタンをかけ、肌が出ている所には防虫剤を塗っている。(『戦場からの手紙』pp.25-26)

第21回で紹介した亀岡高夫の日記と比べてみて欲しい。軍隊での階級はほぼ同じなのだが、戦闘中の手記と日本軍撤退から10ヶ月後の手紙であることを考慮しても、両者の違いにあらためて驚かざるをえない。

 キャンプにある洗濯屋へ、汚れものを全部持って行った。下士官が二人、シアーズ・ローバックの洗濯機を動かしている。お金が足りなかったので、今夜のとことは衣類を置いてきた。
 食堂で、感謝祭のディナー。七面鳥は手際よく焼け、肉汁もおいしい。スクウォッシュのパイ、新鮮なルバーブ、さやいんげん、マッシュポテト、ビートのピクルス、チョコレートミルクなどが並び、果汁たっぷりの新鮮なフロリダオレンジが一つずつ出され、ロックキャンディーもあった。
 そのあと、海岸へ散歩に出た。海辺にはかなりの〝戦争の遺物〟が残っているが、ほとんど記念品として拾われている。小さな流れが海岸を切るように海へと注いでいる所へ出た。ズボンとズボン下を脱ぎ靴を持って向こう岸へ渡ると、靴と靴下以外一糸まとわぬ裸となった。この島では皆このいでたちだが、これだと体のすみずみまで洗えるうえにきれいに日焼けする。シャワーを浴びてさっぱりしたが、こうして毎日風呂に入れる限り、この戦争にも耐えていけそうだ。(11月25日付。p.27)

日本軍やこの戦争についての私の考え方は変わってきている。この戦争は、昨年の夏に考えていたほど長くは続くまい。恐らくあと二年もしたら、日本は占領されるだろう。日本軍の巧妙な戦いぶりは落ち目になってきている。こう書きながらも、私にはサム・ハートレット発電機の軸受けに油をさしていた日本のおじいさんのことが思い出されるのだ。日本人は、よい人たちだと思うのだ。この対日戦では、日本をとことん痛めつけることになりかねない。(11月26日付。p.28)

 PX(軍内の売店)で今日十月十八日付のハワイで印刷された『タイム』誌を買った。これがまさしく私にとって最新のニュースになる。
 今日は日本語の勉強に長い時間をかけ、新しい文字をたくさん学んだ。皆、私の所にラベル、本、チラシ、墓標、名札など何でも翻訳してほしいものを持ち込むようになっている。いずれも、初めて目に触れる文字が混じっているので骨が折れるが、練習にはなるし興味もある。(11月27日付。p.29)

2009年4月6日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (24)

スタンレーが、戦争中にどんな手紙を妻に書き送っていたのか、紹介することは難しい。直接『戦場から送り続けた手紙―ある米海軍士官の太平洋戦争―』(『戦場からの手紙』)を読んでいただくのがいいわけだが、ここでは、わたしが興味を抱いたり、ぜひ紹介したいと思ったことなどを、引用を主にしてお伝えしたい。

太平洋戦争当時、アメリカ人が日本人に対して抱いていた偏見、人種差別のことについて以前のブログでふれた(1月23日付の第13回のブログ)。このことについて、もう一度書いておきたい。

このことについて、加藤恭子は『スタンレー・ベネットの生涯』のなかでも書いているが、『戦場からの手紙』のなかでも触れている。
 手紙の中でスタンレーが〝ジャプス〟を使うのは、日本軍に対してだけであり、日本人について語るときには、〝ジャパニーズ〟に戻る。つまり、スタンレーの頭の中には、軍国主義者〝ジャプス〟が〝ジャパニーズ〟を間違った方向へ導く、それをどうにかするために何か自分にできることはないか、何かをしなければならない、という考えがあったのではないだろうか。ただ、実際に戦場に出て行ったのは、鳥取での幼友だちのような、ふつうの日本人であった。その辺りの矛盾も、スタンレーは意識していたに違いない。(p.14)
また、脇道にそれるが、過日、書斎の片付けをしていた折り、古い切り抜きの束のなかにこんなものがあった。「日本経済新聞」1988年8月18日号(p.30)からの切り抜きである。
【ロンドン十七日=土屋記者】日本人に対する差別用語と言われてきた「ジャップ(JAP)が欧州でファッション・ブランドとして登場、差別用語を脱皮したと話題を呼んでいる。
 採用したのは高田賢三のファッションブテック「ケンゾー(KENZO)」で、同氏が欧州に登場した一九七〇年代初めにマスコミがそのファッションを「ジャングル・ジャップ」と呼んだのが今回のブランド名採用の由来と説明している。
 昨冬から出荷したジャップ・ブランドは売れ行き好調で、特に反発はない様子。高田氏はもともと人気の高いデザイナーだが、同氏が日本人であることを強調するブランド名だったことも、若者の間に広がる「日本へのあこがれ」を刺激したと指摘する人もいる。
 差別用語使用には慎重な英国放送協会(BBC)によれば、ニュースなど一般的な放送では「ジャップ」を使用しないのが原則だが、劇やバラエティー番組などはこの限りではないという。
 同協会の広報担当ギョーンジョンズ氏は「戦後四十年以上が過ぎ差別用語としての意識は薄れた。英国人のことを『ブリッツ(BRITS)』と呼ぶように、ジャップもむしろ親しみのある呼び方に変わってきている」と指摘している。

          [下の写真をクリックすると、拡大されます。]





 






2009年3月31日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (23)

第14回で述べたように、スタンレーは、1943(昭和18)年7月初旬に入隊となった。ワシントンD.C.から、フロリダの海軍基地へ、そこで海兵隊所属が決定され、カリフォルニア州サンディエゴで訓練を受けた。その後ニューカレドニアに派遣され、11月末にガダルカナルへ到着したらしい。いよいよ日本軍と戦うこととなる。

しかし、前回記した通り、スタンレーがガ島に派遣されたとき、すでに日本軍は10ヶ月近く前の2月上旬に撤退していた。残っていたのは捕虜となった日本兵か、ジャングルに残されていたやせ細った死体ばかりだったにちがいない。
この1943(昭和18)年という年の戦況をざっと述べておく。第20回で紹介した保坂正康さんによれば、この一年は日本軍の「挫折」の後半から「崩壊」の年に当たる。

4月18日 連合艦隊司令長官・山本五十六、戦死。(大本営は、5月21日になって、これを公表。6月5日、国葬が行われた。)
5月29日 アッツ島守備隊、2638人玉砕。
9月8日 イタリア、連合軍に無条件降伏。
 (10日 鳥取大震災。M7.4。1083人死亡。全壊家屋7485戸)
10月21日 明治神宮外苑で出陣学徒壮行会。
11月24日 マキン島の日本軍守備隊玉砕。
   25日 タラワ島の守備隊玉砕。両島で5400余人戦死。
12月10日 文部省、学童の縁故疎開促進を発表。
   24日 徴兵年齢が19歳に引き下げられる。

スタンレーの手紙はこの年の11月25日付のものから、翌年の1月1日付まで、38通が妻のアリス宛てに発信されているという。
そのうちの33通の抄訳が、第1部として、『戦場から送り続けた手紙―ある米海軍士官の太平洋戦争―』に掲載されている。このブログでは、その内容をいくつか紹介しよう、と思う。




2009年3月22日日曜日

鳥取を愛したベネット父子 (22)

明治の日露戦争当時の肉弾突撃を繰り返したばかりでなく、飢餓と熱病のために兵達は死んでいった。ガ島が「餓島」といわれた所以だ。

十二月十六日 各部隊においてオタマジャクシを食する者多し。多少苦味あるも食べられる。夕刻より雨あり。
十二月十七日 午前腸悪し、午後下痢を伴う。情報によると月明のため駆逐艦の米輸送中止とか。欠食を覚悟す。
十二月十八日 松本中尉死亡す。久しくわれらの隊長なりし人なり。最近、戦友次々と死亡す。いずれも栄養失調なり。(福島県出身、遠藤清五上等兵)

十二月二十日 昨夜宮沢中尉死し、山野辺軍曹また死す。本日山岡上等兵死す。櫛の歯をひくように死んでいく。断腸。
十二月二十一日 小野寺准尉衰弱、小生も発熱。このまま中隊は全滅への道を歩んでいくのか。夕方、発狂せる兵の大声あり。毎日が死との対決だ。
十二月二十二日 小椋中尉死す。佐藤、馬場、佐々木、小野寺、徳永が危険状態。食糧の見通しなく、生き残れるものありや。(福島県出身、峰岸慶次郎中尉)


引用した日記は、いずれも『米軍が記録したガダルカナルの戦い』から引用した(p.183)。
同書にはタイトルにあるとおり、米軍が撮影した多くの戦死した日本兵の写真も掲載されている。
イル川河口の砂に半身を埋めている兵士の顔には幼さが残っている。ジャングルの中で死んでいる日本兵のやせ衰えた身体、等々。これらの写真をこのブログに載せることはとてもできない。

大本営もついにガダルカナル撤退を決断し、翌昭和18年1月4日に御前会議をセットした。「事態は重大であり、大晦日でもかまわない」という昭和天皇の発言により、異例の大晦日の御前会議が開かれ、撤退の裁断が下された。

1943(昭和18)年2月1日、5日、7日のいずれも夜、3回にわたって駆逐艦による撤退が行われた。奇跡的にこの撤退は米軍に気づかれなかった。大本営へは次のように打電された。
「二月七日午後十時、二万の英霊の加護により、ガ島残留総員の収容を完了したる事を報告す。収容に協力せられたる陸海軍各部隊に深く感謝す」

この島に日本陸海軍が上陸させた将兵は31,358名。生還した者、10,665名。還らぬ人となった将兵は、21,138名であった。(数字に誤差があるのはそれぞれの確認時期によって数字が違うためだという。)戦闘員の損耗率は66パーセントにも達している。
防衛庁戦史室の公刊戦史(室名は公刊当時の名称)は、「純戦死は五千~六千名と推定されているので、一万五千名前後が戦病に斃れたことになる」と述べ、その大半が「栄養失調症、熱帯性マラリア、下痢及び脚気等によるもので、その原因は実に補給の不十分に基づく体力の自然消耗によるものであった」とも述べているという。
編著者、平塚柾緒は言う。「事実、補給が不十分だったから餓死したのであるが、問題は補給できない状況下でどうして戦闘を強行したかである。それは、大本営陸軍部の愚をきわめた作戦指導に責任の大半がある。連合国軍の意図、質と量を読めなかっただけではなく、自軍の第一線部隊にまともな地図さえ与えられない状態にありながら、ただいたずらに兵員を送り続けたのだ。救いのある戦争は少ないが、それにしてもガダルカナルの戦闘は、その実態を知れば知るほど怒りとやりきれなさがこみあげてくる。」(p.7)

大本営は、2月9日、全国民に次のように告げた。
「ソロモン諸島ガダルカナル島に作戦中の部隊は、敵軍を同島の一角に圧迫し、その戦力を撃砕せり。よって二月上旬、部隊は同島を撤し、他に転進したり」

ガ島の戦い 3


2009年3月21日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (21)

先回述べたように、ミッドウェー海戦は、日本海軍の完敗であった。ガダルカナルの戦いは、日本陸軍の最初の完敗であった。
国語辞典でガダルカナル島を引いてみると「南太平洋、ソロモン諸島南東部の火山島。面積六五〇〇平方キロメートル。太平洋戦争中の日米激戦の地」と書かれている。四国の愛媛県とほぼ同じくらいの面積をもつこの島でどんな「激戦」があったのか。日本の一般国民がこの戦いについて知ったのは敗戦後のことである。
戦いの経過を並べてみると、こうなる。
1942(昭和17)年7月16日、この島で日本海軍の設営隊約2,600人が飛行場設営の作業に取りかかった。
長さ800メートル、幅60メートルの滑走路を完成させた2日後の8月7日、米海兵隊1個師団がガダルカナル島と、その北方のツラギ島に上陸開始。日本の海兵部隊は、飛行場設営のための軍属が大半を占めており、軍人は600名足らずであったという。米軍は抵抗らしい攻撃を受けることもなく上陸し、飛行場を占拠した。
その後の個々の戦闘についていちいち述べる必要はあるまい。以前紹介した『米軍が記録したガダルカナルの戦い』を編集した平塚柾緒の「あとがき」からの引用文などのご紹介にとどめたい。彼は、「大本営陸軍部の愚をきわめた作戦指導」を厳しく指摘している。
 
ガダルカナルに陸軍の戦闘部隊を送り込むことを決定したとき、ガ島のまともな地図さえなかったことは有名な話である。また師団の参謀クラスでさえ「ガダルカナル」という島がどこにあるかも知らなかったという証言は数多い。
 ニューギニアを攻略し、遠くフィジー、サモアまでも占領しようという日本軍が、その周辺地域の地図さえ準備していなかったというのだから、これは無謀というより無知と表現した方がいいかもしれない。日常的に「情報」を重視していれば、参謀本部はソロモン群島の地図などいくらでも準備できたはずである。
 この地図の一件を見ても分かるように、日本の大本営はガ島の米軍兵力をまったく予測できなかった。太平洋地域の米軍に関する情報をほとんど持っていなかったからだ。だから「せいぜい二~三千名の強行偵察部隊程度だろう」と勝手に決め込み、一木支隊を急遽派遣して決着をはかろうとした。
それで十分と見たのである。そこには戦略とか戦術といった作戦計画は皆無で、ただ敵を侮(あなど)った傲慢(ごうまん)さだけが見え隠れしている。
 さらに現地の指揮官もただただ「突っ込め―、突っ込め―」の肉弾斬り込みの白兵戦を強いるだけで、作戦といえる計略などはなかった。それは一木支隊に続く川口支隊でも同じであり、大本営から馳せ参じた作戦参謀の指導による第二師団の総攻撃でも変わりはなかった。
 ガ島戦は、日本軍の体質と欠点を余すところなく露出した戦いであった。しかし、その体質と欠点はついに是正されることなく、昭和二十年八月十五日の敗戦の日まで貫き通される。そのために命を奪われていった一般兵士の無念と怒りは、どう晴らせばいいのか。(p.205)
そして、この後にも引用されているが、当時陸軍士官学校を出たばかりの青年将校(二十一歳)であった亀岡高夫は昭和十七年十二月二十日の日記にこう書いている。
 食糧は本月中は全然渡らないのだそうだ。現在の手持ちの食糧で、この十二月を過ごさなければならぬ状況になったという。なんという困苦ぞ。歩兵操典(引用者注:教練の制式、戦闘原則および法則を規定した教則の書)に〝困苦欠乏に耐えよ〟とあるが、これほどの困苦欠乏がどこにあるというのか。軍司令官は第一線将兵を餓死させる気なのか。一体、第一線のこの悲境を知ってるのかどうか。(p.174)

2009年3月17日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (20)

前回紹介した『若い人に語る戦争と日本人』のなかで保坂正康さんは、三年八ヶ月あまり戦われた太平洋戦争を次の五つの期間に分けている。(p.153)

(一)昭和十六年十二月八日から十七年五月まで――勝利
(二)昭和十七年六月から十八年四月まで――挫折
(三)昭和十八年五月から同年十二月まで――崩壊
(四)昭和十九年一月から昭和二十年二月まで――解体
(五)昭和二十年三月から同年八月十五日まで――降伏

この(二)の「挫折」の最初となるのが、ミッドウェー海戦である。

1942(昭和17)年4月18日の米軍機による初の本土空襲に衝撃を受けた軍令部は、かねてからの主張であったアメリカとオーストラリア間を遮断し、中部太平洋、南西太平洋方面の制海権を確保するための作戦を展開しようとした。
その企図は、ソロモン群島を制圧し、ニューカレドニア、ニューヘブリデス、サモアへの進出、さらにこれと並行してニューギニア南方のポートモレスビーへ進攻しようというものであった。

5月7日から8日にかけて行われた珊瑚海海戦は、世界史上初の空母対空母の戦いであったが、日米ほぼ互角の損害を出した。
この海戦に次いで行われたのが、6月5日のミッドウェー海戦である。詳しい経緯は省略して、結果のみを記す。
日本側は、主力空母4隻、重巡1隻、飛行機285機、将兵3,054人(そのほとんどが優秀なパイロットであった)を一挙に失った。米側の損害は、空母1、駆逐艦1、飛行機150、死傷者307であった。
以後、日米の優劣は完全に逆転し、日本軍は一挙に退勢に向かった。
この日本軍の敗退の原因はいくつが挙げられるであろうが、その一つは、日本軍の暗号を米軍側が解読していたことにある。

開戦時、真珠湾攻撃の前に、在米大使館への指示電報が解読され、米国の首脳部は事前に日本軍の攻撃を予知していたことはすでに触れた。
・このミドウェー海戦でも、珊瑚海海戦後の日本艦隊の次の進路を必死に探っていた米海軍情報部は暗号解読に成功し、これを迎え撃つ準備を整えていた。
・翌1943(昭和18)年4月18日(むろん偶然だが、前年の東京初空襲と同日)、前線の兵士激励に向かった山本五十六長官の搭乗機が待ち伏せしていた米軍機にブーゲンビル島上空で襲撃され、長官は戦死した。これも米側が事前に暗号を解読し、長官の行動を4日前から知っていたからだ。

しかも、米側が暗号解読によって事前に日本軍の行動を知っていたことに、日本側はまったく気づいていなかったのである。

2009年3月3日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (19)

ここ何回か太平洋戦争について記してきた。大まかな流れを知っていただいた上で、スタンレー・ベネットがどうのような段階で戦いの場に出て行ったのか、知っておいていただきたいと思うからだ。
ここで、昨年の夏出版された一冊の新書をご紹介しておきたい。それは保坂正康『若い人に語る戦争と日本人』。
〈あとがき〉のはじめに、著者がこの本の執筆をもちかけられたとき、大学の講師をいていた頃の学生たちを思い出した、と書いている。著者はわたしより数歳下の方だが彼らにこう言ったと記している。
 君たちの父や母、それに祖父母が生きた時代を知ることは、君たちの義務である、そこから多くのことを学ばなければそれは失礼である、と私は強調してきました。いずれ君たちもまた子供や孫に、どのような人生を過ごしてきたのかは問われるはずだから、とも言ってきました。(p.180)



源氏物語の千年紀だ、直江兼続はかっこいい、というのも結構だが、まだ100年もたたない時代にどんな戦争をやったのかを、ぜひ知っておいて欲しい。

この本は、高校生や中学生たちにもぜひ読んで欲しいと思う。

いささか、脇道からさらにまた脇道へ入り込んでいるようだが、次回からもう少し太平洋戦争の経過を見ておきたい。



2009年3月2日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (18)

1942(昭和17)年4月18日の東京空襲は、爆撃を目前にした人々を除けば、さしたる影響を国民に与えなかった。だが、政府や陸・海軍当局には大きな衝撃を与えた。あのように簡単に敵機の首都進入を許してしまったからだ。

連合艦隊司令長官であった山本五十六大将は、もともと日独伊の三国軍事同盟に反対であったし、海軍次官当時、米国に滞在したこともあって日米の国力の違いを認識していた故に対米開戦にも反対であった。
彼は1884(明治17)年の生まれで、海軍兵学校卒業(32期)直後、日露戦争が勃発している。ロシアのバルチック艦隊を打ち破った日本海海戦には、装甲巡洋艦「日進」に少尉候補生として乗艦、左手の人差し指と中指を失う重傷を受けるという経歴を持っていた。
しかし、戦艦中心の時代は終わり、これからの海戦は空母と航空機が中心となると考え、戦艦大和の建造にも反対していた。
開戦が決定されたとき、軍人としてその決定に従ったが、開戦すれば短期決戦しかないと考えていた彼は、戦術的には空母を中心とする機動部隊による真珠湾奇襲を実行した。しかし、米軍機による東京空襲も予想していた。そして、山本の戦術をもっともよく研究していたのが、アメリカの太平洋艦隊であったということになる。 

2009年2月19日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (17)

開戦の翌年、1942(昭和17)年の前半を、年表風に記しておきたい。

1月02日 日本軍は、フィリピンの首都マニラ市に無血入城した。
2月14日 スマトラ島最大の油田パレンバンに陸軍の落下傘部隊が奇襲降下して油田と精油所を占領確保。(*1)
  15日 シンガポールを占領し、2日後「昭南島」と改称。(*2)
  22日 米大統領、極東軍司令官ダグラス・マッカーサー大将に比島(=フィリピン)退出を命令。
3月08日 ビルマ(現在のミャンマー)の首都ラングーン(現在のヤンゴン)占領。
  09日 ジャワ島のバンドン占領。ジャワのオランダ・インド軍降伏。
11日 マッカーサー、コレヒドール島を脱出。(*3)
4月09日 バターン半島のアメリカ・フィリピン軍降伏。(*4)
  18日 米B25、東京、名古屋など、本土を初空襲。(*5)
5月07日 コレヒドール島の米軍降伏。
  27日 ミドウェー作戦開始。(*6)
     ―――☆―――☆―――☆―――☆―――☆―――
(*1)小2の頃、その落下傘部隊のニュース映像を映画館で見て、〈かっこ いい〉と思った。「空の神兵」(梅木三郎作詞、高木東六作曲)という歌もなかなかいい歌で、よく歌ったものだ。
(*2)この日、英軍司令官パーシバル中将に「イエスか、ノーか」と迫る猛将〝マレーの虎〟山下奉文(ともゆき)中将の「居丈高」な姿の映像や絵画もよく見かけた。しかし、「あれは通訳がよくなくて、それでイエスなのかノーなのか確かめただけだったそうだ」と昭和史研究家でもある半藤一利は語っている。山下という人は誤解の多い人で、本当は大変合理的な考え方をする人だった」とも。戦後の1947年2月、戦犯としてマニラ郊外で処刑された。 
(*3)オーストラリアのダーウィンについた時、彼が記者団に言った「また、私は帰る(I shall return.)」が後に有名になった。
(*4)この時の捕虜は約7万人。食料、収容施設、輸送の準備がないまま、後方までの行程、約60キロを4~5日がかりで歩かされた。〝バターン死の行進〟と呼ばれ、約5000人の捕虜が死亡した。本間司令官は戦後の軍事裁判で責任を問われて、処刑された。
(*5)日本軍の真珠湾攻撃以来、敗北の続いていたアメリカの軍部は、国民の戦意を高めるため、日本の首都東京への空襲を計画した。4月2日、米空母ホーネットは、飛行甲板に16機の中型爆撃機B25を飛行甲板に搭載してサンフランシスコを出港した。13日、北太平洋上で機動部隊と合流して一路東京をめざした。
18日の早朝、この機動部隊は、太平洋沿岸を哨戒していた日本軍の第二三日東丸に発見された。そのため、米軍機は、夜間爆撃の予定を約10時間も早めることになった。
東京まで1200キロ。空爆後帰着する予定の中国大陸までたどり着くには燃料もぎりぎりの地点だった。
攻撃隊(ドゥリットル隊)は、18日の真昼、東京上空に到着した。警視庁消防部の記録では、空襲開始午後0時10分、空襲警報は爆弾投下後の0時25分に発令された。
この日、東京では朝から防空演習が行われていた。実際に爆弾が投下され、高射砲が打ち上げられても、本物の空襲であることに気づかない人が多かったという。
日東丸から米機動部隊発見の報を受けていた海軍も、空襲は翌朝と判断していた。空母が航続距離の長い陸上機を運ぶとは予想していなかったからだ。
日本側は完全に虚をつかれたかたちとなった。
ドゥリットル隊16機のうち、13機は東京、川崎、横須賀を、3機は名古屋、神戸などを攻撃した。死者50人(うち東京では39人)、家屋損害361戸などの被害をうけた。
米機は反撃らしい反撃も受けないで日本を離れたが、当初の計画が10時間も早まったため、中国大陸到着はすでに夜になっていた。手違いは米軍側にも損害をもたらした。
米軍機の避難先であった中国・麗水飛行場では、管制灯が消され、地上砲火まで浴びせられた。米軍機は飛行場付近に強制着陸、あるいは落下傘降下を行ったが、5人が墜落死あるいは溺死し、8人が日本軍の捕虜となった。このうち3人は日本軍によって処刑され,1人は獄死した。
この空襲について、日本の東部軍司令部は、空襲直後「敵九機を撃墜、我方(引用者:ワガホウ)の損害は軽微なる模様」と発表、翌日の朝日新聞は「〝必勝〟の民防空に凱歌」「我家をまもる女子/街々に健気な隣組群」、さらに22日付夕刊には「かくて敵機を撃墜せり/千葉、大島沖で猛追撃」の記事が掲載された。
一方、この東京初空襲の報は、アメリカ国民の士気を大いに鼓舞したという。

以上、この項は、ほとんど『昭和二万日の全記録 第6巻』pp.148-149 からの引用である。戦時の報道についても知って欲しいと思い、あえて長い引用とした。
(*6)次回、この海戦について詳しく述べたい。

今回の参考資料は、前々回、(15)回に同じ。

2009年2月16日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (16)

もう一度1941(昭和16)年12月8日(以下日本時間で記す)に戻ろう。

この日、午前0:17から1時間30分、真珠湾の防潜網が引き上げられ、日本海軍の特殊潜航艇が湾内に潜入。
0:20、米海軍通信局は、傍受した日本の対米通牒(覚書)の暗号解読文を海軍首脳に配布。
1:25、マーシャル米陸軍参謀総長、対米通牒暗号解読文を読む。
2:15,米駆逐艦ウォ―ド、真珠湾口の外側で正体不明の潜水艦(日本軍の特殊潜航艇)を撃沈。
2:30、ワシントンの日本大使館が対米通牒暗号文の解読を終える。
2:36、オアフ島の米軍レーダー、接近する飛行機群を探知したが、日本の攻撃隊と気付かず。
3:19、淵田美津雄第一次攻撃隊長「全機突撃セヨ」と命令打電。(この時間は予定より11分早かった。)3分後、淵田少佐「トラ・トラ・トラ」を発信。
3:28、ハワイ海軍航空隊司令官、全世界に「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と無線放送。
3:31、真珠湾の米戦艦アリゾナ、火薬庫に爆撃を受けて大爆発を起こし、沈没。
3:42、太平洋上の米軍第八任務部隊(ハルゼー提督指揮、空母エンタープライズ他)、戦闘配置につく。
3:47、ルーズベルト大統領、真珠湾攻撃の報告を受ける。
3:50、ワシントンの海軍省に真珠湾攻撃の第一報。
     駐米日本大使館、対米通牒の全文の浄書を終える。
4:05、野村・来栖両大使、ハル長官に「対米通牒(覚書)」を手交。
4:30、東郷外相、官邸で真珠湾攻撃の報告を受ける。
5:00、ルーズベルト大統領、政府・軍首脳と「戦争会議」を開く。
5:30、第二次攻撃隊、真珠湾から引きあげる。
【以上、『昭和二万日の全記録 第6巻』の pp.112-113 より、抜粋。】

この日、日本軍は真珠湾攻撃よりも早く、午前2時15分にマレー半島コタバルの敵前上陸に成功した。前日の7日、マレー作戦部隊輸送船団に接近中の英軍機を日本陸軍の戦闘機が撃墜した。これが太平洋戦争最初の攻撃であった。
さらに8日には、日本軍は、シンガポール、香港、グアム島攻略を開始した。 10日にはマレー沖海戦で、イギリスの戦艦プリンス・オヴ・ウェールズとレパルスを撃沈。25日には香港を占領した。 





2009年2月10日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (15)

話は戻る。

1941年12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃は、日本にとっては大成功だった。
午前1時30分(ホノルル時間、7日午前6時)[赤城(アカギ)]など6隻の空母から次々に発進した雷撃機、爆撃機、戦闘機など、第1波・183機の大編隊は1時間49分後、隊長機から発信された「トトトト(全機突撃セヨ)」を受けて、湾内に停泊していたアメリカ太平洋艦隊の主力艦を急襲した。湾内に係留されていた[アリゾナ][オクラホマ]など8隻の巨大戦艦が次々に轟音とともに煙と炎を挙げていく。(第2波攻撃隊167機は第1波から1時間15分後に母艦から発進した。)
隊長の淵田美津雄中佐(当時39歳)は、全機突撃の命令から4分後「トラトラトラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)」と打電した。この発信は[赤城]の中継を待つまでもなく、東京の大本営、広島湾の旗艦[長門]も直接受信したという。

この日、午前7時、日本国民はラジオから流れるNHK放送を聞いた。
「臨時ニュースを申しあげます。臨時ニュースを申しあげます」
勇壮な軍艦マーチが流れた後、
「大本営陸海軍部午前7時発表。帝國陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
これが大本営発表の第1号であった。

しかし、事実上の宣戦布告である米国に対する最後通達「対米通牒(覚書)」は、在ワシントンの日本大使館員の怠慢と無規律によって解読と浄書が遅れ、奇襲攻撃から1時間近くも遅れて手交された。
そのため、この攻撃は卑劣な行為として、アメリカ国民の怒りを買い、Remember Pearl Harbor! (真珠湾を忘れるな!)と戦意を昂揚させた。もともとこの攻撃は開戦に消極的であった連合艦隊司令長官の山本五十六大将が先制攻撃によって米太平洋艦隊を壊滅させ、米国民の戦意を喪失させようとしたものであったが、その意図は裏目に出る結果となった。

【参考図書】
『昭和二万日の全記録 第6巻 太平洋戦争』講談社 1990年1月
『日録20世紀 1941』講談社 1997年7月
中田整一 編/解説『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社 2007年12月 

2009年2月2日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (14)

1939(昭和14)年スタンレーは海軍予備軍に応募した。妻のアリスによれば、ドイツと日本における軍国主義の台頭に悩み、ことにヒトラーのチェコスロヴァキア侵攻以後は、ヒトラーを阻止しなければの思いが強かったらしい。
すでに日本語の知識があることを告げていたスタンレーは、1943(昭和18)年7月初旬に入隊となった。ワシントンD.C.から、フロリダの海軍基地へ、そこで海兵隊所属が決定され、カリフォルニア州サンディエゴで訓練を受けた。その後ニューカレドニアに派遣され、11月末にガダルカナルへ到着したらしい。いよいよ日本軍と戦うこととなる。
加藤恭子は次のように述べている、
「生まれ故郷の日本に対して戦うのは、辛くはなかったでしょうか?」
 という質問に、妻のアリスは、
「いいえ、戦ったのは、日本人に対してではありませんもの。日本の軍国主義指導者に対してでしたから」
 と答える。
 鳥取育ちの妹、メアリー・クラーク(Mary Clark)は,
「苦しんでいました。同胞が同胞に対して戦うようなものだと…」
 と答える。
 どちらも、真実なのであろう。(pp.14-15)
今回は、引用も含め、次の本によって書いた。

スタンレー・ベネット 加藤恭子/今井萬亀子[編訳]『戦場から送り続けた手紙―ある米海軍士官の太平洋戦争―』The Japan Times 1995年7月

以後、『戦場からの手紙』と略称する。



2009年1月23日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (13)

1939年、スタンレーはハーバード大学医学部の講師となった。2年前には長女イーデスが、この年には次女アンナが、生まれた。
1940年の夏、父ヘンリーが母アンナの病気見舞いに一時帰国したが、日米関係悪化のため米政府は来日の許可を出さず、36年あまりの歳月を過ごした鳥取の地に戻ることはできなかったことは前にも述べた。みずからも愛児の眠る鳥取の地に骨を埋めたいという夢を断たれたヘンリーは、ハーバード大学で日本語を教えたり、政府の翻訳の仕事をしたという。
ヘンリー夫妻はボストン郊外に家を買い、スタンレーの一家もアパートからこの家へ移った。1942年3月には長男のヘンリーが生まれた。長男は祖父の、次女は祖母の名をもらったわけだ。その前年、一家は1941(昭和16)年12月7日(日本時間8日)を迎えることになる。

この日、スタンレーとアリス夫婦は、フィラデルフィア郊外にあるスタンレーの妹、メアリーの家を訪問していた。
スタンレーとメアリーの夫は川へカヌー漕ぎに出掛け、女性たちだけが居間のラジオでシンフォニーに耳を傾けていた。突然音楽が中断され、「真珠湾攻撃」の臨時緊急ニュースが流れ、メアリーもアリスも言葉が出ないほどの衝撃を受けた。
戻ってきた男性たちにニュースを伝えると、スタンレーは一瞬呆然と立ちすくんでいたという。(『S・ベネットの生涯』p.88による)

日本軍による「奇襲」というべき攻撃に対して、アメリカ国民の反応はどうであったか。まさに「激昂」というべきものであった。加藤恭子は次のように記している。
 日本も、反英米宣伝を自国民に対してした。
 しかし、欧米を畏敬する土壌のあった日本での、とってつけたような「鬼畜米英」と、もともと〝黄色人種〟に対する人種的差別の根強かったアメリカの対日侮蔑観とは、比べものにはならない。アメリカ人にとってドイツ人は、恐ろしいけれど人間だったのに対し、日本人は〝人間以下〟とみなされていた。
 アメリカでの反日宣伝がいかに激しいものであったかは、今日では明らかになっている。当時の代表的な週刊誌、月刊誌も〝ニップ〟、〝ジャップ〟を日常的に用いた。
(『S・ベネットの生涯』p.89)
そして、加藤は、ジョン・W・ダワーの『人種偏見』(注1)から引用し、さらに『戦場から送り続けた手紙』の解説的文章の中では、ヨゼフ・ロゲンドルフの『和魂・洋魂』(注2)から引用して、彼らは日本における原始的なプロパガンダとは違って、日本人は「人間以下」「血の染みこんだ獣」「カーキ色の猿」等々のイメージを定着させていったと述べている。

開戦の時、私は小学校一年生だった。あれは鳥取大震災の前であったから、二年生か、三年生の一学期の頃であったと思う。恥ずかしい思い出がある。講談社の絵本『リンカーン』を、アメリカ人だからと、家の前の空き地で焼き捨ててしまった。そのことを得意になって父に話したところ、本は焼き捨てたりするものではないと、叱られた。
まあ、こんな愚行は一笑に付してもらうとして、ベネット家ではどうであったであろうか。再び『S・ベネットの生涯』から引用する。スタンレーの妹のメアリーは言う。
「友だちが日本人の悪口を言うたびに、私は叫んだのです。『私に彼らの悪口を言わないで!どんなに誠実な人たちか、教えてあげるわ!』そして、いつも一つの例をあげました」
 鳥取でのことだった。日本人の老医師に、ヘンリーがお金を貸したことがあった。老医師は一生懸命に返却しようとしたのだが、できなかった。彼の父は、池田藩(引用者注:鳥取藩か池田家が正しい。この場合は後者)の家臣だった人で、姫の着物を一着、主君から拝領していた。その家宝を、老医師はヘンリーに「これで代わりに」と持って来たというのである。
「こういう人たちなんだから!」とメアリーは叫んだという。
「決して決して、日本人の悪口を聞きたくはなかったのです」
 スタンレーもまた、複雑な感情に苦しんでいたにちがいない。周囲の誰かが〝ジャップ〟と言うと、
「〝ジャパニーズ〟と言いなさい」
 と厳しい表情で注意したという。(pp.90-91)
注1:ジョン・W・ダワー、猿谷要監修『人種偏見』TBSブリタニカ (1987年)
注2:ヨゼフ・ロゲンドルフ、聞き手加藤恭子『和魂・洋魂―ドイツ人神父の日本考察』講談社(1979年)


2009年1月15日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (12)

春の芽吹きを紹介したブログをアップしたら、また雪が毎日降り始めた。
10日には鳥取市内で早朝の積雪が28センチになったし、昨日の朝も午前9時現在25センチであった。しかし、桜の花の芽は、じっと耐えているのであろう。
  ―――☆―――☆―――☆―――☆―――☆―――☆―――
先回はスタンレーの心の中に残っていた少年時代の鳥取をご紹介したが、今回は、鳥取の人たちの心に残っている少年、スタンレーの姿をみ見ることにしょう。
以前ご紹介した歌人の伊谷ます子が語るところによれば、
幼い日に遊んだ鳥取をなつかしがり「鰈はえーカナ」等と、その頃の魚売りの小母さんの口真似を覚えている程のユーモアが(一部省略)あります。進駐軍が鳥取に来ている頃、若い米兵が街を歩いていると、ベネット氏の近所に住んでいた八百屋のお婆さんが立ち止まって「アリャーリャー、スタンデーさんが大きゅうなって」とさも懐かしそうにしばらくその後姿を眺めていました。外人と云えば皆ベネットさんに見えたのでしょう。
(『鳥取県百傑伝』p.645)
わたしがこどものころでも、賀露のあたりからやって来た小母さんたちが、「カレー(=鰈)はええかなー」とか「今どれの(=取れたばかりの、新鮮な)カレーは、いらんかなー」と、リヤカーや自転車の荷台に積んだ魚類を行商していたものだ。
これも蛇足だが、境内から早稲田の大隈講堂を望むことのできた赤城神社のそばに下宿していた頃(昭和30年前後)、「アサリ、シジミよ~」という売り声をよく聞いたものであった。

以前取り上げた1979年のNHK鳥取放送局での「マイク訪問」という番組で、伊谷ます子が「とってもきれいな坊ちゃんでね。お行儀がよかった」と言ったのを受けてスタンレーは、「私はいくらでもいたずらをしました」と述べている。
加藤恭子が鳥取へ取材に来たときに、尾崎誠太郎から直接聞いたと思われる、こんな話もある。
日曜学校で一緒だった尾崎誠太郎とスタンレーは、お祈りの間も、よくお互いの頭をつっつき合った。片方がちょっとかまって押すと、もう一方は相手の頭をちょっとたたく。ヘンリーは、教壇の上から、そんな二人をじっと見ていたそうである。(いずれも、『S.ベネットの生涯』p.57)

【付記】これまでなんどか引用文献から発言を紹介させていただいた伊谷ます子さんは、1983(昭和58)年死去。1900年前後のお生まれで、行年82~83歳であった。なお、子どもさんのうち、三女は鳥取西高時代の同期生である。

2009年1月8日木曜日

春の芽吹き

今日はベネットさんの話はお休みにします。
今年も元日は久しぶりに雪となり、鳥取市内でも積雪が十数センチとなった。三日以降は晴れ間もあったが雨が降ったり、曇ったり。二日間で積雪はすっかり消えてしまった。
今日は久しぶりの好天で、桜土手へ出掛けてみた。まだ寒々とした景色ですが、次の写真をクリックし、拡大してご覧下さい。



こんなにも桜の花の芽が出ています。

まさに春の芽吹きです!

2009年1月6日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (11)

13歳の時、日本を離れて米国へ帰ったスタンレーが、ハーバード大学医学部を優秀な成績で卒業し、医学の道を歩み始めたこと、さらに、アリスという女性と結婚し、独立した生活を始めたことについて、第10回で述べた。
そのスタンレーの心に残っていた日本、生まれ育った鳥取とは、どんな姿をしていたのであろうか。
加藤恭子の『日本を愛した科学者 スタンレー・ベネットの生涯』にある多くの参考文献の中にスタンレー自身が寄稿した“MY MEMORIES IN TOTTORI”という一文がある(『鳥大メディカル』第4巻、25~27ページ、1965年2月)。
その内容の一部は加藤の著書の中でも使われているが、ぜひ全文を読んでみたいと思った。鳥取大学教育学部教授を退官された岡村俊明先生には、ある会を通じて面識を得ており、何かとお世話になっているものだから、この件についてお願いした。早速、コピーをお送りいただいた。昨年の12月上旬のことである。以下全文をご紹介する。

鳥取の思い出     H. スタンレー・ベネット

 私の父、ヘンリー・ジェームズ・ベネットはハーバード大学を卒業後、明治34年に鳥取へやって来て、大東亜戦争勃発の直前まで宣教師として鳥取で暮らした。私たちが住んでいたのは、鹿野街道と当時は東町といわれていた、現在の西町との角にあった大きな家で、久松山下のお堀から1ブロックばかり離れた所にあった。当時は、久松山(注1)を「お城山」あるいは「ひさまつやま」と言っていた。
 父は鳥取で40年あまり暮らした。父母の間には5人の子どもが日本で生まれた。この5人のうち、弟と私の二人は鳥取で生まれた。私が生まれたのは明治34年で、ちょうど、山陰線が鳥取駅まで開通した年に当たる。この線の開通以前、父は車(人力車)で中国山脈を越えたものだった。たびたび汽車で山陽線の上郡まで出て、そこから車で二日がかりで山越えをしたものであった。父によると、明治34年にはじてこの旅をしたとき、2台の人力車と荷物を運ぶ1台の荷車の代金は1円75銭であったという。
 父は長年鳥取商業学校(注2)で、また何年か鳥取中学(注3)で教鞭をとった。私のこども時代の遊び相手や友人たちはみな日本人だった。特にこども時代の友達として思いだすのは、現在米子高専教授の尾崎氏である。また仲の良かった友達の一人として思い出すのは鈴木さんで、お父さんは鳥取刑務所の所長だった。私には3人の姉妹がいたが、彼女たちにもこの町に多くの友達がいた。弟のフレデリックは、3歳か4歳(注4)のとき、雨水を溜めるために屋外に埋めてあった小さな壺の中に落ちて溺死した。この出来事は50年以上も昔のことだ。墓は摩尼寺へ通じる道の近くにある丸山墓地にある。
 鳥取での少年時代についてはたくさんのことを憶えている。大雪の降った冬も何年かあった。家の屋根に積もった雪がとても重くなって、男たちを傭って雪下ろしをしてもらわなければならないことが何度もあった。こどもの頃鳥取の周辺のいろんなところへ行った。湖山池に行って、美しい湖上でボート(モーターボートではない)に乗ったこともなんどかある。日本海の海岸沿いにある有名な白兎神社を訪れたこともあった。鳥取砂丘へは何度も行って、すり鉢の斜面でよく遊んだ。砂丘へ行く道は袋川と山々の間にあって、当時、十六本松を過ぎたあたりに柳茶屋という、とてもすてきな茶店があった。私たちはいつもそこに立ち寄って、お茶を飲んだりすてきなおばあさんと話したりした。それからすり鉢へ行ってこどもたちは砂の上で遊び、父と母は木陰に腰を下ろして松籟に耳を傾けていたものだった。サンドイッチの弁当を食べた後、海岸へ降りていって、きれいな貝殻を拾ったりした。その頃鳥取砂丘は有名ではなく、静かなところで、観光客はいなかった。たいてい砂丘にいるのは私たちだけであった。ときどき、漁船が海に出ているのを見かけたけれども。ふつう、漁師たちは千代川の河口の向こう側の賀露にいたから、砂丘自体はひとけのない場所であった。ずっと最近になって、砂丘を訪れたことがある。砂丘が国立公園になって、ときどき観光客で混雑したり、らくだに乗って砂丘を進むことが出来ることを知った。私は、昔の砂丘の方が好きだ。(注4)
 こどもの頃、両親は私をよく、鳥取城に住んでいた大名、池田家の墓地へ連れて行った。それぞれの墓にあった大きな石の亀とその上の高い石塔をよく憶えている。大火と地震で市の大部分が破壊される前の鳥取を私はよく知っている。私がこどもの頃には、侍たちの古い屋敷の多くが残っていた。また、お殿様のことや彼らに治められていた古い時代のことをなつかしそうに、うれしそうに語るお年寄りたちが町には大勢いた。またこどもの頃には、古いお城の石垣の上に大砲があった。この大砲は毎日正午きっかりに鳴らされた。それは大きな音で、みんながびっくりしたり、時計を合わせたりした。わが家はたびたび鳥取からほかの町へ旅行した。もちろん汽車で行くのは京都や大阪が多かったが、米子や松江へ行くこともあった。鳥取に近い、浜坂や浦富の村はとくによくおぼえている。夏になると休日にしょっちゅう出掛けて行ったからだ。そこの海岸へ泳ぎに行ったものだった。その当時、浦富や浜坂の海岸へ泳ぎに行く人はほとんどいなかった。ほとんどいつも私たちだけだった。現在、これらの海岸が夏の午後たいへん混雑していることを私は承知している。こども時代、鳥取には大学はなかったが、高等農林学校が鳥取にできたときのことは憶えている。1965年の夏に鳥取を訪れたとき、湖山池の近くが発掘されているのをみた。鳥取大学の新しいキャンパスの工事が始まっていたのだ。学校の建設作業が進行しているのを見てとてもうれしかった。
 米子にある鳥取大学の医学部を私は二度訪ねたことがあり、教授のなかに多くの友人がいる。鳥大医学部の学生に講義をしたこともある。そこに建設されていた新しい立派な建物を見て、非常にうれしく思ってもいる。また、すばらしい教授たちや彼らの多くのすぐれた研究成果を見て喜んでもいる。これらの研究成果の中には合衆国でよく知られているものもある。私自身の蔵書の中には多くの鳥大教授の発表のリプリントがある。
 こどもの頃、一度、父と一緒に大山登山に出掛けたことがある。鳥取市から朝早い列車に乗って、大山口で下車した。当時、バスや自動車はなかったので、大山へ向かって歩き始めた。大山寺まで行って少し山を登り始めたが、
夕方近くになっていて、幼い私は、足も小さい。それで、鳥取市へ向かう遅い時刻の列車に乗るためには、引き返さなければならなかった。1965年の夏、妻といっしょに米子を訪れたとき、鳥取大学の親切な教授方にご一緒していただき、夫婦して大山の頂上まで非常に快適な登山をする恩恵を受けた。大山寺までは立派な新しい道路を車で行くことができた。そこからは、道はときどき険しかったが、私のような老人にも困難過ぎるというほどではなかった。残念ながら、山頂では雲が多く、よい眺望は得られなかった。下山後、大山寺のすばらしい神社と寺を見て回った。妻と私は大いにこの登山を楽しんだ。とくに、鳥取大学のご親切な教授方とご一緒だったおかげであった。
 私は、日米医学協力委員会と国際電子顕微鏡学会に出席するため、1966年の夏にもう一度訪日の予定です。来年の夏妻と一緒に日本へ来たら、再び鳥取大学を訪れたいと思います。
 皆さんのご多幸を祈ります。
       
                                      H.Stanley Bennett

(注1)現在、キュウショウ「ザ」ンと呼んでいるが、スタンレーはキュウショウ「サ」ンと呼んでいる。
(注2)現在の鳥取商高。現在の鳥取市立北中学校の場所にあった。
(注3)現在の鳥取西高。
(注4)正確に言えば3歳10ヶ月。
(注5)現在は砂丘トンネルを抜けて多鯰ヶ池[たねがいけ]のある東側から砂丘へ行くのが普通になったが、この道路がなかった頃は浜坂の方から砂丘へ入った。有島武郎が「浜坂の遠き砂丘」と歌った所以[ゆえん]である。こちらから砂丘にはいると、すり鉢がある。文字通り巨大な擂り鉢形の大きな穴が開いている。子どもたちにとって格好の遊び場で、底まで駆け下りたり、雪が降るとスキーで滑り降りたりしたものだ。

,ベネット父子