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2010年8月1日日曜日

會津八一と戦没学生たち

毎年夏がくると、蝉の声とともにあの戦争の時代を思い出す。子ども時代の体験もあるが、さまざまなメディアがさまざまな視点からあの時代をとりあげるからでもある。

先月28日の夜、NHK-ETVで放映された日曜美術館ー「広目天のまなざし・會津八一と戦没学生が見た奈良の仏」ーを見た。7月18日(日)9:00~9:45に放映されたものの再放送だ。

1943(昭和18)年10月21日午前8時、東京の明治神宮外苑陸上競技場(現・国立競技場)で、文部省主催の「出陣学徒壮行会」が開かれた。
夜来の雨の中、東京及び近県七十七校の学生が制服制帽にゲートルを巻き、剣つき銃を肩にかつぎ、各校の校旗を先頭に行進していく。
東條英機首相、岡部長景文相らの激励を受け、出陣学徒代表が「……生等もとより生還を期さず」と答辞を述べ、観覧席からは各校の校歌が沸き上がり、それらの歌声はいつしか「海ゆかば」「紅(くれない)の血は燃ゆる」の大合唱となり、神宮の杜(もり)にこだました。(『昭和二万日の全記録』講談社などによる)

当時、わたしは国民学校の三年生であったが、大学卒業後、郷里の高校の教壇に立つようになったとき、先輩である同僚のなかには、戦地に向かう大学生としてあの雨中を行進した人、スタンドで雨に濡れた小旗を振りながら涙ながらに歌をうたった女子学生であった人がいたのである。

剣つき銃を肩に雨中行進した学生たちのなかには、当然、早稲田大学の学生たちもいた。
彼らに日本美術を教えていたのが、會津八一(1881年―1956年)であった。


     ↑http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0718/index.html

秋艸道人、渾斎の雅号をもち、歌人・書家・美術史家として有名だが、新潟尋常中学校(現県立新潟高等学校)を経て、東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講し、1906年早稲田大学英文科卒業。卒業論文にはキーツをとりあげた。1934年、文学博士。1948年、早大名誉教授。戦後は故郷の新潟に在住。(同じ大学学部に学び、卒論に同じキーツを選んだはるか下の後輩として、ただただ、小さくなって平伏するのみである。)


會津八一自身「一回読み切り講義」と称していた美術史の講義は、しばしば、脱線もしたが、最後の決まり文句は「理屈を言わずに、奈良を歩いて来い!」であったという。

前述の学徒出陣の年、昭和十八年の秋、これが最後となる10日間の奈良旅行を行うことになった。會津は半紙を50枚の短冊に切って寺の名前を書いたものを畳に並べて、計画を練った。宿はいつも決まっていて、會津教授の定宿、奈良公園前の「日吉館」だった。



    ↑http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0718/index.html

テレビではその旅行に参加した学生の一人、89歳の金田 弘(かなだ・ひろし)さんが登場した。戒壇院四天王像のうち、會津八一に似ているといわれていた廣目天を身近に見たとき、いつでも出征できると思ったという金田さんは、この旅の途中で入隊することになった。別れのあいさつに會津の部屋を訪れたとき、彼はこう言ったという。
君は今でも歌を作っているか。作りたまえ。
良寛や芭蕉も君らの歳では大した歌や句はまったくない。
長生きして実らせよ。井戸水をどんどん汲み出したあとで、本当の地下水が現れる。
命を無駄にするな。学問を続けよ。
金田さんは、姫路の師団に入隊したが、病を得て除隊になった。

奈良の航空部隊に入隊した別の学生は、毎朝のジョギングの途中に、日吉館の看板を手でさすっては走り続けたという。その看板の文字は師の書いたものであった。この学生はフィリピン沖で戦死した。
けふも また
いくたりたちて
なげきけむ
あじゅらがまゆの
あさき ひかげに
この番組の中で會津八一として何度か登場する寺田 農(てらだ・みのり)は、「先生は学生たちが生きて帰ってくることを願っていたのではないか。みずからも守り、生徒たちにも示した學規の最初には、この生を愛すべし、と書かれているし…」と言う。また言う。「なんども見ているうちに先生が廣目天に似てきたのではないか。」


 

戦地に向かう学生たちの多くが小さな仏像の写真を買い求めたという。弥勒菩薩が人気だった。学生たちは母の写真の代わりに仏像の写真を持って往ったのではあるまいか、とも。

唐招提寺に會津八一の遺骨の一部がおさめられている。
おほてらの 
まろき はしらの
つきかげを
つちに ふみつつ
ものをこそ おもへ

付記:実物重視の学問、実学を重んじた會津八一は、3000点もの東洋美術の資料を自らの給与の半分以上を使って集めた。現在は早稲田大学會津八一記念博物館に収められているという。かつて文学部の図書館だったところだ。
http://www.waseda.jp/aizu/index-j.html

久しく、早稲田の杜を訪れていないよなぁ。

2010年4月19日月曜日

龍馬と海舟

昨夜のNHK大河ドラマ「龍馬伝」第16回で、勝海舟が登場した。
時代背景を年表で大雑把に見てみよう。

1860(万延1)年、2年前日米間で結んだ修好通商条約批准のため渡米した幕府の使節団に随行し、咸臨丸船長として太平洋横断に成功したのが、 勝海舟(1823-1899)である。
坂本龍馬(1835-1867)が脱藩したのは、1862(文久2)年だった。この年、海舟を切りに行ったが、説き伏せられて入門した。
後年、海舟は龍馬について、こう語っている。
坂本龍馬。彼(あ)れは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着(おちつ)いてな、なんとなく冒(おか)しがたい威権があって、よい男だったよ。(p.85)
坂本龍馬が、かつておれに、先生しばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者も行って会ツて来るにより添書をくれといツたから、早速書いてやったが、その後,坂本が薩摩からかへつて来て言ふには、成程西郷といふ奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらうといつたが、坂本もなかなか鑑識のある奴だヨ。西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じて、たつた一人で、江戸城に乗込む。おれだつて事に処して、多少の権謀を用ゐないこともないが、たゞこの西郷の至誠は、おれをして相欺(あいあざむ)くに忍びざらしめた。この時に際して、小籌浅略(しょうちゅうせんりゃく)を事とするのはかへつてこの人のために、腹を見すかされるばかりだと思つて、おれも至誠をもつてこれに応じたから、江戸城受渡しも、あの通り立談の間に済んだのサ。(p.70)
上の二つの引用は、明治になって新聞や雑誌に載った海舟の談話をまとめた『海舟談話』による。これは、下に示すように、文庫本で容易に手に入る。
ただ、もしお買い求めになるのであれば、左の講談社学術文庫をおすすめする。その理由は、同書の松浦玲による前書きないしは解題により瞭然だ。

  

2010年4月15日木曜日

NHKラジオ&テレビから

NHKラジオ第1の5時台からの番組[ラジオあさいちばん]では、6時40分過ぎから10分間ほどの[ビジネス展望]という番組がある。
毎週、火曜日は内橋克人さんの担当だが、今週は9日に他界した井上ひさしさんを追悼する内容だった。以下は、山下信アナの質問に答えた内橋さんの話の概要である。

井上さんは膨大な作品を書き続けた作家と言うだけではなく、ひたすら、人間が人間らしく生きられる社会を求めて献身し続けて来られた方です。何よりも、社会が平和であること、平穏であること、人が人として遇される社会であること、そのようなあり方を、どうすればこの厳しい現実の中に実現できるのか、また何が、誰が、どのようでなければならないか、自ら懸命に探し求め、かつその道筋を人々に示してきた、数少ない先達であったと思います。
井上ひさしさんという存在そのものが私たち日本人にとっての。心の基盤というか、道路や水道などのようなインフラストラクチャー、心のインフラだったと思います。井上さんが亡くなったことを知ってから、もう、ポッカリと心に空洞を抱えたままなんです。涙が止まらないんです。

――内橋さんと井上さんはどういう交流がおありだったんでしょうか?
直接的には、鎌倉・九条の会の呼びかけ人に、井上さん、なだいなださん、そして私の3人がなっているんです。私の場合は井上さんから呼びかけていただいたものです。この会は、例の全国的な九条の会の鎌倉版といえると思います。
(その会についての話は省略する。次のサイト参照→http://www.kamakura9-jo.jp/)

(昨年5月30日の)会が終わって、井上さんと控え室で歓談し、そこを出てぐるっと廻って海岸の正面玄関の方へ出るんですが、二人で一緒に歩いたんです、夜の道を。鼎談の中で私は、人が人として生きられる世の中とは、ということで、その条件を五つほど挙げたのですが、その言葉をよく覚えていてくれましてネ、あの言葉に共感したと、具体的に口にして頂きました。忘れられない思い出となってしまいました。
井上さんは、いざ、というときには自ら行動を起こされるんですネ。それも、何でもない、そんなたいそうなことじゃないよ、といった日常の感覚のなかで、行動を起こされるんですね。しかし、底光りのするような、ものすごい社会批判の目と思想性ですね、それに胆力というものを私ははっきりと感じてきました。井上さんという存在そのものが支えだっ
たと思います、多くの人々にとっても。

(次いで、山下アナの求めに応じて、井上の二つの作品を挙げているが、題名だけの紹介にとどめておく。『吉里吉里人』と編著の『社史に見る太平洋戦争』新潮社 1995年 )

――心に残る井上さんの言葉は?
たくさんあるんですが、長い間、私の心に刻まれてきた言葉があります。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことを深く、おもしろいことを真面目に、真面目なことを愉快に、そして愉快なことはあくまで愉快に。」
こういうお言葉です。
ある出版社へ参りますとネ、その編集室に長い間、井上さん直筆の原稿を額縁に入れて飾っておりました。たくさんの色鉛筆、赤だけでなく、緑や紫などの色鉛筆で何度も何度も推敲された原稿を額縁に入れていました。
深い交流ではありませんでしたけれど、2歳違いの井上さんに私は支えられてきた、支えられていると感じ、思っております。
(2歳年上の市橋克人さんはそう、締めくくった。)

             ★    ☆     ★     ☆     ★

第3週目に入っている朝ドラ「ゲゲゲの女房」は、今朝、無事見合いを終わって5日後に挙式と決まった。メールを見ていたら、白無垢の花嫁姿の写真が紹介されていたので、ご覧あれ。

http://journal.mycom.co.jp/news/2010/04/14/050/index.html
     




2010年4月10日土曜日

NHK朝ドラ「ゲゲゲの女房」

先週の月曜日(三月二十九日)、NHKテレビで朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」が始まった。水木しげるの奥さん、武良布枝(むら ぬのえ)の同名の作品のドラマ化である。

今や世界の共通語となった「マンガ」だが、戦前の日本のこどもたち(とくに男の子たち)が夢中になったマンガは、阪本牙城の「タンクタンクロー」(大日本雄弁会講談社の雑誌「幼年倶楽部」1934年(昭和9)1月号から1936年12月号にかけて連載)、島田啓三の「冒険ダン吉」(1931-1939年「少年倶楽部」)、田河水泡の「のらくろ」(1931-1941年「少年倶楽部」)などであった。
1934年生まれのわたしには、幼稚園時代に買ってもらった「キンダーブック」や講談社の絵本はあったが、これらのマンガを掲載している雑誌や布装丁の単行本を読むためには、それらを所有している兄や姉がいる同級生に借りるほかなかった。
その後のマンガで記憶に残っているのは、戦後まもなく、「小学生新聞」(正確な紙名は失念)に連載がはじまった医学生のお兄さんの作品と紹介されていたマンガ(題名はこれまた失念)の絵を好ましく思って、その絵をまねて描いたりしたことがある。そのお兄さんが手塚治虫だった。以来、マンガを読んだことはない。
前世紀の90年代に、たとえば、呉智英や関川夏央たちがマンガを論じているのを読んで、ふーん、と思ったことがあっても、マンガを読んだことはない。

昨年の十一月末に、再放映されたNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀 /闘いの螺旋、いまだ終わらず~漫画家・井上雄彦」を偶然見て驚いた。『バガボンド』と言うマンガが吉川英治の『宮本武蔵』であることもはじめて知ったが、武蔵の大写しの顔を描くためにあれだけ考え、悩み、意を決して一気に描く仕事ぶりと描き上げた絵を見て、さらに驚いた。これもマンガか!

そんなわたしも、娘たちが見ていたテレビを通してであろうか、
ゲッゲッ、ゲゲゲのゲー/朝は寝床で グーグーグー/たのしいな たのしいな/おばけにゃ 学校もしけんも/なんにもない/…
という歌を憶えている。
何年か前、境港市に用事で出かけた折に、妖怪たちのブロンズ像が並ぶ通りを歩いたこともあった。しかし、いまだにそのマンガを読んだことはない。

先週の月曜日(3月29日)から、NHKのテレビ、ラジオの番組が新年度の番組に変わった。番組名の変わったものもあるし、新番組もスタートした。連続テレビ小説、いわゆる「朝ドラ」も、8時から「ゲゲゲの女房」が始まった。脚本は山本むつみ。原作は、ドラマの題名からいっても、水木しげる(武良茂)の妻、武良布枝(むら・ぬのえ)の『ゲゲゲの女房』といっていいだろう。  

水木しげるについては、かつてこのブログでも紹介した『昭和二十年夏、僕は兵士だった』
にあるように、九死に一生を得た体験の持ち主であることも承知していた。(ただ、このドラマが始まった日の早朝、午前0時台から再放映されたNHKスペシャル「鬼太郎が見た玉砕」
http://www.nhk.or.jp/nagoya/kitaro/midokoro.html

を見逃したのは、まことに残念であった。)

このドラマが始まる前に、原作の『ゲゲゲの女房』を読んでみた。さきほど述べたように、
歌の文句は多少覚えてはいたが、どうして「ゲゲゲの鬼太郎」や「ゲゲゲの女房」なのか、まったく分かってはいなかった。鳥取県西部の米子や境港ではどうか知らないが、東部の鳥取では、子供のころ、(いちばん)ビリのことを「ゲゲ」といっていた。「下々」とか「下の下」の意であろうか。現在のこどもたちが使っているか、どうかは知らない。
この本を読んでやっとわかった。

『ゲゲゲの鬼太郎』というタイトルも水木の発案でした。
「オレが小さいころ、シゲル」といえず、自分のことをゲゲルといっていたから、「ゲゲ」とガキ大将仲間から呼ばれていた。だからゲゲゲの鬼太郎でもいいんだ」
水木はそういって笑っていました。(p.152)

これなら「ゲゲゲの女房」すなわち「(みずき)あるいは(むら)しげるの女房」だ。

さて、朝のドラマがはじまって、ちょうど2週間になった。先週は布美枝の子供時代。7歳の布美枝役の菊池和澄(あすみ)、10歳の布美枝(佐藤未来)、祖母役(ナレーションも)の野際陽子らが好演。今週はのっぽのヒロイン、布美枝役の松下奈緒登場。なかなかいい。ワンマン亭主の大杉漣は流石、もの静かで控えめの妻役、古手川祐子もいい。
この2週間のドラマは、原作では[第1章 静かな安来の暮らし]で、20ページあまりのなんの事件もない序章的な部分だ。
脚本の山本むつみは、金曜時代劇「御宿かわせみ」でデビュー以来、幅広いジャンルの作品を手がけてきただけあって、さすがと思わせる。来週からが楽しみだ。

最後に、「NHKウィークリー ステラ」4/2号に掲載されている武良布枝さんの談話の一部をご紹介しておこう。
主人は、何ひとつ私に甘い言葉をかけてくれるわけではないし、ロマンチックなこともぜんぜんなかったですね。でも、一生懸命仕事に打ち込んでいる彼の姿は、私の中では輝いていたんです。本当に努力の人でしたから。あれだけ努力した人間が報われないことはないと、心のうちでは思っていました。(中略)私はもちろんですが、主人も、『ゲゲゲの女房』が朝ドラの原案になったということは、心の中で大いに喜んでくれていると思います。ここまで元気でやってこられて、こうして喜ばしいことがまた生じて――。本当にみなさまに感謝しております。このうえは、多くの方にこのドラマを見ていただけるよう、お祈りしております。(p.11)
  

2010年1月22日金曜日

縦書きで読みたい

ブログは横書きの世界だ。横書きでなければ書けない言語が多いから、当然と言えば当然だが、縦書きでブログが書けたら、と思うことがある。
短歌や俳句のブログをやってる人は、縦書きを望んでいるだろう。どちらもやらないわたしも、縦書きで読めたらいいな、と思うことがよくある。
なによりも困るのは、何回かに分けて連続するブログを書くときだ。15回の続きものを書くと、初回のブログは15回分を下って読むことになる。しかも、1回分ごとに[上→下]、2回目の上までいって、また1回分を[上→下]……。このくり返しだ。

縦書きのブログがまったくないわけではない。たとえば、

こういうのは、フリーではないよね。
今日もグーグル検索をやって70ページばかり見たが「縦書きブログサービスは企業さま向けのものです。現在、個人さま向けには行っておりません。悪しからずご了承をお願いいたします」みたいなのが、二、三あっただけだ。

そこで、ブログの中から15回続けた「米原万里の父」のテキスト・ファイルを、縦書きができるエディタ(Virtical Editor) に流し込み、ひとつのテキスト文書にまとめた。このエディタでは、ルビも簡単につけることができる。これで新しい縦書きの文書「米原万里の父と祖父」ができた。

ご存知のように、漱石や子規などの作品をはじめ多数の文学作品などを無料で提供している「青空文庫」のようなものがある。「青空文庫」形式に対応の縦書きテキストビューワーがいくつもあって、縦書き、ルビつきの文章を楽に読むことができる。 ほんとうにありがたいことだ。わたしはその中のひとつ、「窓の中の物語」を愛用している。ぜひこれをインストールしていただきたい。(無料だし、気に入らなけばアンインストールしていただけばいい。) ↓ 下のいずれからでも,インストールできます。(わたしのブログを読まなくても、青空文庫などを読むことができますからネ。)

そうは言っても、わたしのブログを読んでほしいわけです。そのためには15回分の新しい「米原万里の父と祖父」をお渡ししなければなりません。

クラウドの時代になりました。「雲!」のなかから受け取っていただくのがいいと思います。クラウドもいろいろありますが、わたしは DropBox の中に置きました。

友人、知人にメールで案内をする予定ですが、こういうかたちで読んでみてやろうという方がいらっしゃれば、下記にメールをいただければ、ご案内します。
 gauna@helen.ocn.ne.jp

そんなややこしいことをしなくても、いいじゃないか、という方はぜひご教示ください。(下の写真は、クリックすれば、大きくなります。)

        ↑「設定」をクリックし、下の「各種設定」をクリックすれば ↓
      
↑右下の、□”青空文庫”ルビ対応 には必ずチェックを入れてください。

2009年10月6日火曜日

田中菊雄『現代読書法』で知った新渡戸稲造

昨日、堀正岳さんのサイトを訪れて、驚いた。田中菊雄『現代読書法』が紹介されていたからである。このサイトはときどき拝見していろいろ学習させていただいているが、若い人がこの本を取り上げていることに驚いたけれど、またうれしくもあった。
この本の内容については堀さんが丁寧、かつ的確に紹介されているから、ぜひそのサイトをご覧いただきたい。
  http://lifehacking.jp/2009/10/book-reading-for-the-modern-age/

わたしは、これに便乗して、思い出話をさせていただく。
さっそく本棚から田中先生の著書を抜き出してみたら、下記の6冊があった。

『現代讀書法 現代人は如何に讀むべきか』柁谷書院 昭和17年1月
『現代読書法』三笠書房 1961年5月
『英語学習法』研究社 昭和33年8月
『英語研究者のために』講談社学術文庫 1992年1月
『知的人生に贈る どう生きるかを考える書』三笠書房 1983年7月
『岩波英和辞典 新版』岩波書店 1958年3月 
(*この辞典は、島村盛助・土居光知・田中菊雄の共著となっているが、田中の血と汗の結晶である。)

最初に挙げた『現代読書法』の裏表紙見返しの遊び紙に次のようにペン書きしている。

以前に、戦後版を購入していたが、四月の火事(注:1952年4月17日の 鳥取大火)で焼失してしまった。それを今日、増田古書店で買った。この書物には多大の利益を得た。本を読んで書き入れや、抄録をするようになったのも此の書の影響である。書中に引用せられている多くの書籍は、自分にとって極めて有益な良書紹介であった。新渡戸先生の著書を知り、読み、先生を崇拝するようになったのも、この書及び、同著者の「私の人生探求」の御陰である。この書が再び自分の書棚に収まることとなったのは嬉しい。(昭和27年6月29日)

上記書込みにもあるように、新渡戸稲造の『修養』を県立図書館から借りだして読み、感銘を受けた。この本をどうしても自分の書棚に置きたいと思った。しかし、明治44年の発行だから、古書店でも入手は難しかろうと、筆写することを決心した。新制中学3年生の秋、1948年9月12日の日記にその決意を記している。

図書館の本の帯出期間は限定されているから、3人の親友にも頼んで代わる代わる帯出してもらい、筆写を続けた。その後、親友の一人が自宅の蔵にあったと言ってきて、この本を借りっぱなしにすることができた。「大正五年十月一日縮刷五十一版」の小型本だった。
翌年「昭和二十五年十二月二十二日午後七時」筆写完了。

B4の罫紙の両面に朱色の縦罫が14行書きできるように引かれた用紙に、ガラスペンとインクで筆写した。ちょうど罫紙300枚、600ページだった。年の暮れではあったが、27日に、製本屋の主人が「感心した」と言って、わざわざ届けてくれた。「修 養  新渡戸稲造著」と背文字も刻されていた。2年後の大火の際も、これだけはという思いで持ち出した本の一冊として現在も書棚にある。
Posted by Picasa
もちろん現在では、教文館の新渡戸稲造全集もあるし、タチバナ教養文庫の一冊として『修養』も容易に入手できる。
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2009年9月23日水曜日

もう一度宮沢賢治

昨日の宮沢賢治についてのブログの終わりに「役立つ情報」としてパルバースさん自身の朗読が聞かれるサイトのアドレスをご紹介しました。「ラジオ深夜便」9月号の38ページに次のように書かれているからです。
*パルバースさんによる"STRONG IN THE RAIN"の朗読を本誌ホームページ
(http://radio.nhk-sc.or.jp)で聞くことができます。
しかし、ここでは10月号に掲載されているものしか聞けません。いろいろ探してみましたが、NHKのサイトではだめのようです。
パルバースさんは「雨ニモマケズ」の英訳についてこう語っている。
「雨ニモマケズ」の英訳はいくつかあるのですが、そのどれもが、「マケズ」をそのまま否定形で訳していて、「ちょっと違うな」と思っていました。だからぼくの訳は、“Strong in the rain”で始まっています。「強い」という意味の“strong”で、「よし、やるぞ」という感じを出したかったんです。
それは賢治の願望であり、祈りでもあったから。
著作権のこともあるので、前半の英訳をご紹介する。
「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/欲ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシズカニワラッテイル/一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ/アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ/……」

Strong in the rain
Strong in the wind
Strong against the summer heat and snow
He is healthy and robust
Free from all desire
He never loses his generous spirit
Nor the quiet smile on his lips
He eats four go of unpolished rice
Miso and a few vegetables a day
He does not consider himself
In whatever occurs...his understanding
Comes from observation and experience
And he never loses sight of things

パルバースさんに関連するサイトなどを追加しておきます。
Strong in the Rain: Selected Poems
Strong in the Rain: Selected PoemsRoger Pulvers


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英語で読み解く賢治の世界 (岩波ジュニア新書)
英語で読み解く賢治の世界 (岩波ジュニア新書)Roger Pulvers

おすすめ平均
stars英訳で賢治の理解が深まる
stars賢治と英語の世界

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→こちらも見てください。http://www17.ocn.ne.jp/~h-uesugi/eigodeyomitokukenji.html

2009年9月22日火曜日

昨日は宮沢賢治の命日だった

昨日、「今日は宮沢賢治の命日だ」と気づき、それを確かめようと、本棚から久しぶりに、2冊の本を取り出した。1冊は、
 
 山内修=編著『年表作家読本 宮沢賢治』   (河出書房新社)1981年9月発行

この本は、上段が年譜、下段がそれに沿った解説という構成になっていて、ページ数は印刷されていない。
賢治が亡くなったのは、1933(昭和8)年の9月21日。
 二一日、午前一一時半、賢治の寝ている二階から、突然「南無妙法蓮華経」と高々と唱題する声が聞こえてきたので、みな驚いて二階へ上がると、容態は急変していた。父が何かいい残すことはないかと聞くと、国訳の法華経を一千部印刷して、知己友人にわけてほしいという。父は賢治のいうことをまとめて文章にして賢治に確認した。
「合掌、私の全生涯の仕事はこの経をあなたのお手許に届け、そしてその中にある仏意にふれて、あなたが無上道に入られんことをお願いする外ありません。昭和八年九月二一日臨終の日に於いて、宮沢賢治」
 午後一時三〇分、永眠。(上段)
(ここまで読んで何気なく時計を見たら、正に午後1時30分ではないか! 偶然とはいえ、いささか驚いた。)同じページの下段には、賢治の弟、清六の文章が載せられている。
 父はその通りに紙に書いてそれを読んで聞かせてから、「お前も大した偉いものだ。後は何も言うことはないか。」と聞き、兄は「後はまた起きてから書きます。」といってから、私どもの方を向いて「おれもとうとうお父さんにほめられた。」とうれしそうに笑ったのであった。
 それから少し水を呑み、からだ中を自分でオキシフルをつけた脱脂綿でふいて、その綿をぽろっと落したときには、息を引きとっていた。九月二十一日午後一時三十分であった。
この文章は、書棚から持ってきたもう1冊の本、宮澤清六『兄のトランク』(筑摩書房 1987年9月)のⅣに収められている「兄賢治の生涯」の最終部分(p.238)でもある。
  ―――*―――*―――*―――*―――*―――
醇風国民学校2年生のとき、教室(特別教室であったと思うが、正確な名称は分からない)の板張りの床に座って、映画「風の又三郎」を見せてもらったのを覚えている。
     ―――*―――*―――*―――*―――*―――
賢治の作品を英訳したロジャー・パルバース(Roger Pulvers)という在日オーストラリア人(元アメリカ人)がいる。昨年、宮沢賢治賞を受賞した。
今年の5月17日と18日、2回にわたってNHKラジオ深夜便[こころの時代]のインタビューに出演した。この放送をCDに録音していたので、昨夜、聞き直してみた。

冒頭部分で、聞き手の鈴木健次さんが、「宮沢賢治賞を受賞された昨年は賢治の没後75年でしたね」と言ったのにたいして、パルバースさんは、「賢治が他界したのは1933年9月21日午後1時30分でした。2008年のその日その時、ぼくは授賞式出席のため花巻にいたので、賢治が〔イギリス海岸〕と名づけた北上川のほとりに立って、お祈りしました。賢治の魂が北上川の上空を散歩しているような気がしたものですから」と答えている。

彼はカリフォルニア大ロサンゼルス校、ハーバード大学大学院で政治学とソビエト近代史を専攻、ポーランド留学中スパイ容疑をかけられ帰国したが、ベトナム戦争さなかの母国を嫌って、1967年9月に来日した。その時のことを次のように語っている。
日本のことは何も知らなかったが、羽田国際空港に飛びました。そして都内のホテルに宿を取ると、屋台のおでん屋さんに入ったんですね。だから、ぼくが初めて覚えた日本語は、「チクワ」です(笑)。
先回、ブログ「 鳥取大震災」でも述べたように、竹輪屋の息子としてはうれしいですなw

日本語がまったく出来なかったのに、なぜ宮沢賢治を選んで学習したか、彼がなぜすぐれた詩人であるのか、インタビューはなかなか興味深い。しかし、前後合わせて100分前後の分量なので、要約するにも時間がかかる。幸い、雑誌に要約して採録されているから、すぐあとでご紹介する。

今日はこれにて失礼します。以下の情報を役立てていただければ幸甚です。

「ラジオ深夜便」9月号 350円
 インタビューの要約のあとに「雨ニモマケズ」の英訳も載っている。
 次のホームページで、パルバースさん自身の訳詞朗読が聴けます。
  http://radio.nhk-sc.or.jp/
◇次の書には、賢治の詩50編とその英訳詩が収録されています。 
英語で読む宮沢賢治詩集 (ちくま文庫)英語で読む宮沢賢治詩集 (ちくま文庫)
ロジャー・パルバース

筑摩書房 1997-04
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2009年9月18日金曜日

小山晴子「かしわの力で海岸林をつくる」

今朝のNHKラジオ第1・[こころの時代]は元中学校教諭の小山晴子さんだった。

NHKのR1blo に次のように紹介されている。
小山晴子(こやま はるこ)さんは、40年間調べ続けた海岸林のマツとカシワの木の共生に関する本「マツ枯れを超えて ~カシワとマツをめぐる旅~」を出版しました。著書では、マツ枯れを防ぎ、これからの海岸林をつくる担い手は、カシワであると提言しています。
 海岸林は、風、飛砂、潮、霧などを防ぎ、田畑や住宅地を守っています。しかし、約200年前に植えられたマツによる海岸林はマツ枯れのため、その対応策が急がれています。
 なぜ、カシワが海岸林に有効なのかお話ししていただきます。
http://www.nhk.or.jp/r1-blog/050/26112.html
カシワ(柏)の葉は、柏餅をくるんでいたから、子ども時代からおなじみだけれど、米や麦などをたいて飯をつくることを「かしぐ(炊ぐ)」というが、そのとき、よくカシワの枝や葉を燃したことから「カシワ」という名前がついたそうだ。小山さんの話ではじめて知った。

鳥取市では砂丘の砂を減らさないように努めているが、日本全体としては、大切な土地を浸食や砂漠化から守ることは重要なのだ。

著書は2冊あるようだが最新のものは、

『マツ枯れを越えて-カシワとマツをめぐる旅』
小山晴子/著 秋田文化出版/発行 2008.11


本書では、枯れていく海岸の防砂林を調べていく中でわかってきた
カシワの木とマツの関係について述べられています。人間と樹木の関
わり方について考えさせられる一冊です。著者の前作「マツが枯れる」
の続編として発行されました。


鳥取県立図書館にはなかったが、秋田にはあるから、各県の図書館で取り寄せてもらい、帯出できるだろう。
 
秋田県立図書館
http://www.apl.pref.akita.jp/kensaku/kyodo/2009_1.html


マツ枯れを越えて―カシワとマツをめぐる旅



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2009年5月27日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (36)

【26年ぶりの「帰国」】
父ヘンリーの死から6ヶ月後の1956(昭和31)年11月、スタンレーは26年ぶりに鳥取の地に戻った。
「子供時代に去った日本、ことに鳥取へ戻るためには、戦勝国アメリカの人間にとってさえも、二十六年という歳月が必要だったのだ。スタンレーは四十六歳になっていた」と加藤恭子は書いている。
 この年の十一月、第一回アジア・大洋州地区電子顕微鏡会議が東京で開かれ、スタンレーが特別講演に招待されたのだった。彼は「細胞学と組織学における電子顕微鏡の貢献」と題する講演を英語で行った。
 
 その中で彼は、この学会が自分の生まれた国へ帰る二十六年ぶりの機会になった感動を述べたあとで、こう続けている。
「日本海に近い小さな都市鳥取で、私は生まれ、育ちました。そこは西洋の影響があまり強くない土地でしたので、日本の古くからの、そしてすばらしい文化的伝統に密接にふれながら育ったのです。こうした子供の日々の経験は、すばらしい文化、そして日本人や他のアジアの人たちが成し遂げた芸術的な業績に対し、変わらない賞賛とそれを楽しむ気持ちを私の中に植えつけました」
 この招待講演の実現には、その年四月に帰国した山田英智の尽力があった。彼はこの年に久留米大学解剖学の教授に就任していた。
 ……………………
 学会が終わると、スタンレーと英智は山陰線の夜行列車の薄暗い寝台車にもぐり込んだ。
 十一月一日の早朝、鳥取駅着。寒い朝だったが、空はくっきりと晴れていた。生まれ故郷の土地に降り立った感慨が、駅前のまだ扉を下した家々を、無言のまま眺めているスタンレーからひしひしと感じられた。
 最近アメリカから赴任してきた宣教師の家にまず立ち寄り、朝食をとった。小さな家だった。赤ん坊を抱えた夫人にとっては、異郷での生活が苦しそうな感じだった。新婚間もない父と母が、二日かけて中国山脈を越えた日のことを、スタンレーは連想していたのかもしれない。
 朝食後、久松山に登った。ずんずんと一人で先に立って登るスタンレーのあとを、英智も追った。城跡からは、朝日に照らされる鳥取の町が一望できる。じっと立ち尽くすスタンレーの姿を、英智は少し離れた場所から見つめていた。
(帰って来た……)
長身のスタンレーの身体全体が、鳥取の町へ向かってそう語りかけているようであった。
 スタンレーが生まれ育った「宣教師館」は、戦後進駐軍によって使用され、失火により焼失してしまっていた。焼け跡にたたずむスタンレーの脳裡には、「異人屋敷」ともよばれた「宣教師館」でのあれこれが去来していたにちがいない。機械好きのスタンレーは、おもちゃを片はしから分解した。足の踏場もなかった自室……、庭で遊ぶ子供たち……。そしてその中には、あのフレデリックも交じっていたかもしれない。
 孤児院、教会、幼稚園、どこでも大歓迎だった。昔を知る人たちが集まって、アルバムを広げ思い出話がはずんだ。
「まあ、こんなに大きくなって……」
 と、スタンレー少年の成長した姿に眼を細める老婦人たち。尾崎誠太郎をはじめ、幼な友だちは、話し始めるとすぐ、〝子供の顔〟になってしまうのだった。
 ……………………………………………
 フレデリックの墓にも詣でた。
 「花を捧げてじっとぬかずく教授の上に松風がかすかな音を立てます」
 と英智は記している。
 母のアンナは、スタンレーのみやげ話を楽しみにしている。長年の伴侶を失ったばかりのアンナのために、スタンレーはあちこちの写真を撮りまくった。一つ一つの場所を、スタンレーは鮮明に記憶していた。
 長年心の中だけで想い続けてきた土地に、スタンレーは戦争をはさみ、まさに二十六年ぶりに立っていた。そして、この昭和三十一年以降、彼は何度も何度も鳥取へ帰って来る(引用者付記:この前5字に傍点あり)ことになる。
   (『スタンレーの生涯』pp.138―141)
今回はほとんど引用のみになってしまった。著者にたいしても、このブログを読んでくださった方にも申し訳ないと思う。
ただ、付記しておかねばならないことがある。スタンレーが鳥取へ帰ってきたのが、11月1日の早朝であったとすれば、学会は10月であったはずである。逆に、学会が11月であったとすれば、鳥取へ帰ってきたのは、11月X日か、12月1日ということになる。
この点を確認することは今のわたしにはできないし、また、ここでは、学会での発言と鳥取へ帰ってきたスタンレーの様子を知ることでいいだろうと思っている。



2009年5月15日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (35)

【両親の死】
スタンレーの最初の弟子となった山田英智の『電子顕微鏡とともに』(城島印刷、1984年)の中に「砂山」と題したエッセイがあり、スタンレーの父、ヘンリーの晩年の姿を描いているという。
加藤恭子が『スタンレー・ベネットの生涯』の中(pp.136-137)で引用しているのを孫引きしておく。
1955年の4月5日、フィラデルフィアでの第6回アメリカ組織化学会に出席したスタンレーは山田を伴って、2日目の午後の講演と夜の発表の間の短い時間に、フィラデルフィア郊外のジャーマンタウンに当時住んでいたヘンリーを訪問したのである。
「ドアをノックしますと扉が開いて小柄で痩せた上品なお母さんが出てみえて中に案内されました。居間にはお父さんが椅子に座したままで挨拶されます。肥って血色がよくとても八十に近いと思は(ママ)れません。然し脳溢血の為に半身不随で殊に視覚に障害を受けて殆んど今では見えないということなのです。(略)小さな声で断片的に出る話は日本の昔のことでした。始めて鳥取に赴任する時未だ汽車もなく人力車で山陽道から山を越えていった話。その時、車夫に一円あげたら警官から多すぎるといって注意されたとか、日光を見ぬ中は結構というなとか」
みんなで夕食をとって、すぐに辞去した二人を、出口まで見送った母のアンナは、「さよなら、またいらっしゃい」と山田英智に日本語で別れを告げたという。

 加藤恭子は書いている。
 ヘンリーとアンナから届いたクリスマスプレゼンとのことを、スタンレーの幼な友だち尾崎誠太郎は、はっきりと記憶している。鉛筆百本と、アメリカの少年少女雑誌から人物写真を切り抜いたもの。「日曜学校の生徒さんたちに。今の私たちには、これだけしか送れません」という手紙が添えてあった。(p.137)
1956(昭和31)年5月7日にヘンリー・ベネットは死去した。
母のアンナは97歳まで生き、1973年12月20日、タルサで死去した。1966年に彼女が書いた鳥取の思い出を『スタンレー・ベネットの生涯』(p.222)から、これまた孫引きしておく。
「宣教師たちは英語やアメリカ文化を伝えようとしましたが、関係は相互的なものでした。こちらが与えたよりずっと多くのものを、私たちはもらったのでした。教育水準の高さ、礼儀と名誉の尊重など、私たちは日本人を尊敬するようになりました。私たちがいくつかの間違いを犯したにもかかわらず、人々が私たちに与えて下さった思いやりのある理解、親切、誠実な友情を、私たちは決して忘れないでしょう。子供たちは日本で育ち、ほかの国の人々との〝友愛〟の大切さを学びました。私たちが日本に住むことができたことを、感謝しています」

2009年5月14日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (34)

【若い日本人科学者たちの養成と、日本の電子顕微鏡製造技術への貢献】

先回の終わりに引用した文のなかで加藤恭子が述べていたように、戦場から戻ったスタンレーの心の中では日本、わけてもこども時代を過ごした鳥取への望郷の思いが大きくふくらんでいったのであろう。その具体的の表れの一つが、日本人研究者の育成と日本における電子顕微鏡の発展を手助けすることであった。

1954(昭和29)年の5月、一人の日本人が横浜から二週間の船旅の後、サンフランシスコに着いた。2日後、夜行列車でシアトルへ。針葉樹林がどこまでも続く景色を眺めつつ、不安を胸に抱きながら彼はシアトルのキングス駅に降り立つ。
「…トランクを下げて歩いてゆくと、出口のところで、額の広い、がっちりした体格の白人が、にこやかに笑みをみせながら日本語で話しかけてきた。『山田さんですか。私がベネットです。荷物はそれだけですか』
これが、スタンレーと日本人弟子第一号、山田英智との出会いであった。
(この項、『スタンレー・ベネットの生涯』pp.125-126 による。)

山田は当時、30歳を過ぎたばかりで、九州大学医学部解剖学教室の助教授だった。山田を含む9人の日本人がスタンレーの下で指導を受けた。これが「第一世代」である。

スタンレーは、1961年から約八年をシカゴ大学で過ごすが、日本人の弟子はとっていない。
1969年にノース・カロライナ大学へ移ってからのスタンレーに師事した若手研究者たちが「第二世代」である。その第一号が飯野晃啓。1938(昭和13)年北海道生まれで、鳥取大学医学部を卒業後、同大学助手となっていた。
1966年神戸で開かれた国際解剖学会議での彼の発表―偏光顕微鏡観察によるキチン質の形態学―を最前列で聞いていたスタンレーが「非常に面白い。いい発表ですね」と誉め、アメリカに来るように、さっそった。
晃啓は、妻の佳世子、二歳の光伸とともに、一九七〇年から七一年にかけて、客員助教授としてベネット研究室に在籍することになった。第二世代第一号の弟子である。一九七〇年四月二十八日午後にチャペル・ヒル着。
晃啓が鳥取大学医学部硬式テニス部の文集に書いたエッセイによると、スタンレーは飛行場まで出迎えてくれたという。

「手を上げて待っていてくれ、流暢な日本語で迎えてくれ、疲れも吹き飛んでしまった」
第一世代第一号の山田英智以来、スタンレーが示してきた心遣いである。遠来の客の心細さが彼の日本語のひと言で吹き飛ぶことを知っていたのだろうか。しかも、スタンレー自身大好物の羊かんを、
「これは虎屋のですから、召し上がって下さい」
と、佳世子に手渡した。箱入りで、ちゃんとのし紙がかかっていた。
スタンレー愛用のベンツには東大寺、東照宮、善光寺など、お守りがざらざらとぶら下げてあった。
「保険に入るより安いですからねえ」
と、スタンレー。(『スタンレー・ベネットの生涯』p.239)
この{第二世代」は六人だった。
これらの人々は、加藤恭子の言葉を借りると、「日本における解剖学の発展に寄与する錚々(そうそう)たる学者」たちとなって、「ベネット会」を結成していた。加藤恭子の二冊の本は、この会の要請によって生まれたものである。

いまひとつ、日本の電子顕微鏡の製作に関するベネットの貢献にふれておきたいが、正直に言って、わたしにはよくわからない。

・日本でも1932(昭和7)年頃から電子顕微鏡という言葉(electron microscope の訳語として)が生まれ、1939年には電子顕微鏡発展のための基礎を担う委員会ができたこと。

・日立研究所が電子顕微鏡1号機を作ったのは1942(昭和17)年春のことであったこと。

・日本における研究は戦争で中断したが、国分寺にあった日立の中央研究所は戦災をまぬがれ研究が続けられていたこと。

・戦後、なんども来日したスタンレー(彼は物理や電気にも強く、図面を見ただけですべてが分かり、すべてを読み取ってしまったという)の助言や弟子たちの厳しい注文などを受けて、「今日、世界で最も優秀な電子顕微鏡を生産しているのは、日立製作所、日本電子株式会社を中心とする日本のメーカーである」(『スタンレー・ベネットの生涯』p.180)こと。

加藤恭子が様々な文献を読み、取材を重ねて、この面についてもよく調べて書いていることにただただ感心するばかりだ。

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2009年5月5日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (33)

1945(昭和20)年10月31日付で兵役を解除されたスタンレーは、その2日後、ボストン郊外のブルックラインへ再び戻ってきた。一家そろっての生活がまた始まった。

戦争の始まる前年、1940年の夏、スタンレーの父ヘンリーは、次男のフレデリックが眠る鳥取の地に骨を埋めたいという夢を断たれて、アメリカへ帰ってきた。ブルックラインに大きな家を非常に安く手に入れることができて、スタンレーの一家も移ってきた。
長女のイーデスは1937年生まれ、祖母の名前をもらった次女のアンナは1939年生まれだった。この家に移って間もない42年の春、祖父の名前をもらった長男のヘンリーが生まれた。そして、スタンレーが戦場にいた1944年の2月はじめの雪の日、女の子が生まれ、ペイシェンスと名づけられた。
この年、祖父ヘンリーと祖母アンナは政府の仕事でワシントンへ移ったので、スタンレーが帰ってきたとき、この家には妻のアリスと四人の子供だけが住んでいた。

スタンレーは、ハーバード大学を休職扱いで戦場に赴いていた。
退役後、MIT、マサチューセッツ工科大学理学部細胞学教室に、助教授として迎えられた。

ここでの3年間が終わった時点で、ハーバード大学医学部教授と、シアトルにあるワシントン州立大学医学部解剖学教授と科長の職と、二つの口がかかってきた。スタンレーは、熟慮の末、後者を選択した。この選択について加藤恭子は次のように述べている。(『スタンレー・ベネットの生涯』pp.106-107)
   電子顕微鏡が、将来の医学、生物学にとっていかに重要になるかを見抜いたのも、その〝才能〟であったのだろう。だが、その〝才能〟は、日本に対しても働いたにちがいない。
 十三歳で日本を離れたスタンレーが再度日本とのかかわり合いを持つことになったのは、いわば異常な状況においてだった。ガダルカナル、沖縄など、〝敵〟としての日本、日本人との再会であった。
 だが、ワシントン州立大学の正教授と科長の地位を得ることによって、望ましい形での交流に乗り出すことができる。実現させられる(引用者注:原文には、左の7文字に傍点)という思いがあったのかもしれない。あるいはそれが、彼にとっては、自己と日本人の傷への〝癒しの道〟だったかのかもしれない。
 彼の心の中には、二つの計画があったのではないだろうか。日本人研究者の育成に手を貸すこと。そして、日本における電子顕微鏡の発展を助けること。
 もちろん、この二つだけが彼の後半生における重要な計画であったわけではない。彼自身の研究を実りのあるものにしていくこと。そして、何よりもまずアメリカ市民として、アメリカにおける電子顕微鏡を用いた細胞生物学のレベルを上げることに尽力しなければならなかった。
 だが、同時に、彼の心の底には、日本に対して何か確たるものがあったように思える。
 その〝何か〟とは、日本人へ対する愛着と言ってよいかもしれない。「私たちはここへ骨を埋めるために戻ってきました」と告げたヘンリーとアンナから引き継いだ鳥取への望郷の思いかもしれない。
 だが、その〝何か〟は、いつのころからか、スタンレーの心の中に巣喰い、成長し続けたように見える。

2009年4月30日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (32)

前回、戦後に話を移すと述べたが、もう1回だけ、沖縄でのスタンレーについて書いておきたい。

米軍は3月26日から27日にかけて、沖縄本島西方にある慶良間(けらま)列島座間味(ざまみ)島、渡嘉敷(とかしき)島などへ上陸し、多くの住民が集団自決している。
本島への上陸を開始したのは、先回述べたように、4月1日の早朝であった。本島への上陸はほとんど日本軍の抵抗を受けなかったが、その後86日間にわたって日本軍の抵抗に苦しめられた。
この闘いでは町ぐるみ、村ぐるみ、住民たちが正規軍に組み込まれて、多くの死傷者を出した。
さらに学徒も動員され、男子は中学校・師範学校生徒1779人のうち890人、女子は高等女学校・師範学校生徒581人のうち334人が死亡した。
日本軍による住民の虐待もしばしばあった。日本本土の楯として犠牲を強いられた住民の死者は正規軍の2.2倍に及んだ事実を忘れてはいけない。
(この項、『昭和二万日の全記録』第7巻p.68 & p.92による。)

このような沖縄戦のさなかにいて、スタンレー・ベネットはどうして長い手紙を76通も書くことができたのか、いぶかる人もいるだろう。

慶良間列島に米軍が上陸した直後、総司令官ニミッツ海軍元帥の名で、米国海軍軍政府布告第一号が布告され、その地域が米軍の軍政下に入ったことが宣言された。
沖縄戦に参加した米軍は、陸軍三個師団、海兵二個師団であった。この海兵師団で編制されていた第三水陸両面作戦軍司令官は、ガイガー将軍だった。
スタンレーは、この将軍の参謀本部付軍医中佐だったのである。
検閲の関係から、あまり具体的に語ってはいないが、スタンレーは軍医としての任務の他に、種々の仕事にたずさわっていたらしい。医薬品など、日本軍の残留物資の調査収集、文書の翻訳、住民対策などである。(『沖縄からの手紙』p.119)
すでに引用した手紙からも推測できるように、スタンレーは多くの住民たちとも直接接触し、彼らの惨状に心を痛め、いろいろと親切に対応している。
住民についての彼の報告や意見は上層部でも評価され、彼自身もこのような仕事で米軍に対しても住民のためにも貢献できると自負もし、軍政府へ入ることを希望もしたが、1945年7月、スタンレーは沖縄を去る。
戦闘にこそ直接参加しなかったにせよ、多忙な毎日を送っていた。一日の仕事を終えた夜、妻への手紙を書き続けたのであろう。いずれにせよ、彼の健筆ぶりには驚く。
加藤恭子の2冊の本の中でもかなりのページをさいている、沖縄の医師、家坂幸三郎との邂逅と交流についても割愛する。
最後に、もう一度だけ、妻アリスへの手紙を一部引用しておきたい。
 君からもらった手紙のことだが、…「私が家族に対して責任感をもつようには、あなたはもっていないと思えてならないのよ。あなたのお仕事はそちらですものね」と言っている。君の言い方は少々不公平なので、ショックだった。二年半以上、アメリカでも何千もの家族が戦争により連絡を断たれ、我々のような少数の人間のみが連絡が取れているのだ。今のところ、私は日本語を話す最高位の将校であるため、あらゆる軍事行動において、日本語を話す一般住民と接し、陣頭指揮に当たっている。ヒューマニズムと我が国のために最善を尽くしている。たとえ、大して成功しなかったとしても、何千もの家族を救うことができるのだ。さらなる戦争を避けるために、今すぐに住民を再教育し、新たな出発をさせなければならない。このために可能な限り力を尽くしたいと思っている。
 今、沖縄島民という文明人を、我々は武力で制圧した。我々も彼らを理解できないし、彼らも我々を理解しない。このギャップの架け橋になるのは、私のような者だ。ほんのわずかな人間のみが、この使命を果たすことができるのだ。アリス、寂しいときに思い出してほしい―私はここでは必要とされ、私が実行に移そうとすることは我が家の将来の平和と同じように大切だ―ということを。困窮する無数の人々を救うために、連絡を断たれている我が軍の家族を最小限にするために、しばらく、君とともに暮らすことをあきらめなければならない。アリス、将来、平和な生活が我々に訪れるためにも、今現在を犠牲にしなければならないのだと、私は言いたいのだよ。どんなにか君には辛かろうが、我々の完全な勝利によって、沖縄の母親たちの多くが夫を失い、想像を絶する辛苦を味わっている現実を君に理解してほしい。この戦時下に、自分以外の人々を救うことで、私は君や家族に対する責任を遂行しているつもりだ。」(1945年5月23日付。『戦場からの手紙』pp.143-144)
日本の無条件降伏まで、あと一ヶ月後となる7月10日、スタンレー・ベネットは沖縄を去り、21日までグアム島、それから真珠湾へと送られた。戦後の9月7日、休暇でワシントンへ帰り、10月31日付で海軍から除隊となった。

 

2009年4月22日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (31)

スタンレーの沖縄上陸2日目の手紙(四月三日付)からの引用。
 この島は気持ちのよい所で、すばらしい。いろいろな点でハワイやグアムよりよいと思う。畑は整然として、肥沃。本土と同じように、ヒバリが畑から囀(さえず)りながら舞い上がったりしている。枝ぶりのよい松の木が道路に沿って並び、ハイビスカスの花は生け垣に咲き乱れ、島は緑に包まれている。
 多くの家屋が損害を被っているのを見るのは、とても心が痛む。日常生活がいきなり断ち切られた痕跡が家のあちこちに見られる。一軒などでは洗う間もなかった食器、あわてて縫い針が刺さったままになっている縫いかけの子供服、用意したまま火のつけてないかまどなどが、そのままになっている。そこここに、子供や大人が息絶えてころがっている。辺り一面というわけでもないのが、せめてもの幸せだ。多くの家屋は爆撃や砲撃を受けていたことがわかったが、大部分の住民はその前に家を離れていたのだ。二人の女が洗濯をしていたので、話しかけてみた。彼女たちは那覇出身で、激しい爆撃が始まってからは山の中に住んでいたそうだ。自分の家が残っているのかどうか知らなかった。方言でしゃべっていたが、よくわかった。
 こんなところが、日本の一角の最初の占領に参加した私の印象だ。沖縄は、鳥取県とか島根県などと同じように、れっきとした日本の一つの県なのだ。那覇はこの島の県庁所在地だが、多分まもなく陥ちることになるだろう。もし日本軍の弱さが見せかけのものでなく、本当だったとすると、もうこっちのものと思ってよいのかもしれない。

四月六日(金)
 この辺りの住民は今では私のことをよく知っていて、敬意を表してくれる。「先生」と日本語で呼んでくれるし、彼らの援助に力を尽くす我々に感謝している。住民は日本軍より、ここの方が自分たちをずっと大切に扱ってくれると病院の軍医に言ったそうだが、よくわかる。何か困ったことはにか尋ねようと、私も何回か足を運んだが、二、三人が出てきて丁重にお辞儀をし、謝意を表す。彼らのことを「すばらしい人々」だと、今朝リヴィングストン軍医が言っていたが、確かに皆穏やかで感謝の心に満ち、忍耐強い人々だ。
ここまでは、昨日エディタで打ち込んでいたのだが、こんな調子でスタンレーの手紙を紹介していたら、きりがない。どんどんブログの回数が増えるばかりだ。このあたりで切り上げて、先に進まねば、と考えた。もともと、このテーマを書き始めたのは、
1)ベネット父子をはじめ家族の人々について、こういうアメリカ人たちがいたことを知って欲しい。
2)これらに人々に関心を寄せていただいて、ぜひ、加藤恭子さんの著書と編訳書を一人でも多くの人に読んでいただきたい。
と願っているからにほかならない。
確かに、両書とももはや新刊書では入手できないが、古書として入手が可能だし、図書館からの借り出しも可能であろう。(鳥取県立図書館では帯出可能であることを確認している。)

次回で、太平洋戦争時代を終えて、戦後のベネット一家について、スタンレーを中心に紹介させていただきたい。
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2009年4月21日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (30)

『戦場からの手紙』の第2部ともいうべき、スタンレーの「沖縄からの手紙」は、1945(昭和20)年3月10日―あの東京大空襲の日から始まっている。
日付を追って数えてみると、3月―7通、4月―17通、5月―20通、6月―27通、7月(7日まで)―5通、計76通の抄訳が収録されている。いずれも妻、アリス宛のものだ。勝ち戦を進めている米軍の、しかも一般兵士ではなく、士官級の地位にあったとは言え、その健筆ぶりには驚かざるをえない。(スタンレーは、ガダルカナル島にいたときと同様、軍医としての任務と、日本語による情報収集などに当たっていたらしい。)

沖縄戦については、若い人たちもそれなりの知識をもっているであろう。前回の『若い人に語る戦争と日本人』からの引用にとどめておく。ただ、米軍が上陸した日のことと、スタンレーがはじめて上陸した日のことについては、やや詳しく記し、彼の手紙も長めに引用する。その後は、手紙の中でわたしが興味、関心を抱いた部分をいくつか紹介することにとどめておきたい。

4月1日早朝、米軍は沖縄本島中部の嘉手納(かでな)・北谷(ちゃたん)海岸に上陸した。上陸軍は1時間もたたないうちに四個師団16,000人になり、戦車部隊も上陸。午前中に嘉手納と読谷(よみたん)飛行場を占領、日没までに60,000人が上陸して師団砲兵もすべて上陸を完了した。米軍の戦死者は28人だった。
守備についていた日本軍の、ある高級参謀であった大佐は、戦後こう書いている。
「午前八時、敵上陸部隊は、千数百隻の上陸用舟艇に搭乗し、一斉に海岸に殺到し始めた。その壮大にして整然たる隊形、スピードと重量感に溢れた突進振りは、真に堂々、大海嘯(だいかいしょう)の押し寄せるが如き光景である。」
「実に奇怪な沖縄戦開幕の序幕ではある。アメリカ軍は、ほとんど防備のない嘉手納海岸に莫大(ばくだい)な鉄量を投入して上陸する。敵を洋上に撃滅するのだと豪語したわが空軍は、この重大な時期に出現しない」(八原博通『沖縄決戦』読売新聞社)
(この項は『昭和二万日の全記録 第7巻 廃墟からの出発』p.68 による。)

こんな有様で、大本営は「本土決戦」を叫んでいたのだ。
四月一日(日)午前十時四十分の日付をもつスタンレーの長い手紙は、「沖縄上陸の初段階は成功を収めたという報告が艦に届く。」という一文で始まっている。
翌日付の手紙も長いものだが、はじめて沖縄に上陸した日のことを細かく記しているので、3分の2あまりを引用する。
 八時半、上陸用意の命令。…
 …上陸してみると、島はいろいろな作物の収穫期らしく、実った穀物や豆類は、取り入れを待つばかり。畦道沿いにながめたが、段々畑やサンゴ礁を石垣に使って囲った畑は、トラックなどでひどく踏みつけられてはいるものの、戦火による損害は少ない模様。
 村を通り抜けていくにつれ、グアムに比べて比較的損害の少ないのにびっくりした。いはいえ、焼失し、粉々になった家も多い。あちこちに穴のあいた家もある。
 村には木陰があり、静かでなかなかよい。太い道はなく、細い小路が通じている。沖縄人は石工芸に優れているとみえ、不揃いに切り取ったサンゴをぴったりと組み合わせた石塀で庭を囲っている。その石塀には細かい葉の華奢な蔓草が一面にびっしりとからみついており、種々の老木はあちこちでその石塀をまたぐようにして、根を張っている。老木から出た無数の気根は、塀の中の石と一体になり、ゆるい編み目模様をつけたようになった幹は、石塀を取り囲み、食い込んで、その一部のようになっている。立派な松や桑の木が木陰を作り、多くの家にはゼラニウムやスミレの花がきれいに咲き乱れている。肥溜めが点在し、あちこちに馬、豚、山羊などの死骸はあるものの、町は不潔だという感じはしない。
 ……
 戻ってから野戦用非常食の昼食をすませ、住む所を探しに村へ向かって出発した。住み心地のよさそうなかやぶきの家を見つけたが、壁は砲弾で穴だらけだった。箒を見つけてきて瓦礫を掃除し、戸棚を整理して荷物をしまった。ホレースはハンモックを吊り、私は簡易ベッドをしつらえ、かやを吊って落ち着いたところだ。この家の主は、防空壕に日用品や書類などを保管していた。我々はこれらの品々を注意深く集め、住民が帰ってきたときのために、家の中へ入れ、しまっておいた。
 村には住民の姿はなかった。逃げてしまっていたのだ。我々は洞窟で、二人の老人と二人の老婦人とが隠れているのを見つけた。私が踏み入ったとき、彼らはふとんの下に隠れた。ふとんの外に出すと、一人の老婦人が、「殺さないで」と嘆願した。万一にそなえて、私は弾をこめたピストルをかまえていたし、同行したコフ大尉もそうだった。私は、「おばあさん」と日本語で声をかけ、「心配しないように。保護するから」と告げた。彼女は手を合わせ、膝をつき、頭を地面につけて礼を言った。だが、私の日本語はあまり彼らに通じないようだったし、彼らの沖縄弁は私にはわからなかった。若い人なら両方が話せるので、私はあとでちゃんとした日本語を話せる中学生を一人連れ、担架を携えて洞窟に戻った。怪我をしている老婦人を乗せ、他の人たちも助け出して水陸両用戦車に乗せた。彼らは驚いたように成り行きを見守っていたが、これで面倒を見てもらえるさきができたのだ。
 住民たちはうろたえながらあちこちをさまよっているが、軍政府の人たちは手を尽くして世話をしている。海兵員たちは親切で、子供たちにはキャンディをやり、年寄りや体の弱った人たちを運び込んできたりし、略奪など、見る限りほとんどない。島民は漆器づくりに優れ、何軒かの家で見事なものを見つけた。中には漆器や陶磁器や急須などを持っていった者もあるが、概して兵士たちは品行方正である。




2009年4月18日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (29)

保坂正康が「解体」と名付けた段階の末期になると、人間を爆弾にするという段階になった。

1944(昭和19)年10月20日、関行男大尉以下24名の神風(しんぷう)特別攻撃隊が編制され、敷島、大和、朝日、山桜の4隊に区分された。(本居宣長「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」によって命名されたのであろう。)
特別攻撃隊は編制翌日から出撃し、25日に関大尉の率いる敷島隊の9機が空母1隻を沈没、2隻を大破させる戦果を挙げると、陸軍も特別攻撃隊を編制した。こうして陸・海軍とも体当たり攻撃を「制式化」し、翌年1月までに海軍が106回(約440機)、陸軍が62回(約400機)実施した。
『若い人に語る戦争と日本人』で保坂は次のように書いている。
 …乗っているパイロットは、当初こそ海軍兵学校出身の軍人もいましたが、その大半は学徒出陣で軍に徴用された現役の大学生たちでした。彼らはわずかの訓練を受けただけで、特攻機を操り、アメリカ軍の艦艇をめざして体当たり攻撃をつづけたのです。
 …こうした人間爆弾を作戦のなかにとり入れたこの期の大本営は、軍事的にも、人間的にもまさに「解体」していたといえるでしょう。(p.165)
このような人間爆弾は、これだけではなかった。この年11月には人間魚雷「回天」がつくられた。魚雷を1人の乗員で操作できるように改造したもので、約1550キロの爆弾ごと敵艦に体当たりするのだ。
このように人命を消耗品扱いにする特攻を冷ややかにとらえ、次のような川柳を残して死んでいった学徒出陣の青年たちもいた。
 生きるのは良いものと気が付く三日前
 神様と思えばおかしこの寝顔
 体当たりさぞ痛かろうと友は征き
  特攻のまずい辞世を記者はほめ
「桜花」という人間爆弾は、飛行機につり下げられて目標近くで切り離される人間ロケットで、爆弾は1200キロ、乗員1人。ブリキと木材を多用した「剣」と呼ばれた、爆弾800キロ、乗員1人の特攻専用機もあった。
米軍は、死を賭したこのような特攻を非常に恐れたけれども、絶対に命中しないといわれた「桜花」に対しては、「BAKA[バカ]BOMB[ボン=爆弾]と嘲笑していたという。(マンガの「天才バカボン」はこれとは全く関係ない。念のため。)
(この項の記述は『昭和二万日の全記録 第6巻 太平洋戦争』pp.360-361によって記した。)

いよいよ日本は1945年3月から始まる「降伏」への道を歩むことになる。
2月19日、米軍は硫黄島に上陸を開始した。5日間でこの島の攻略を終える予定であった米軍第四海兵師団は、地下20~30メートル、総延長28キロに及ぶ強固な地下陣地網を使った日本軍の抵抗に、半数の9098人の死傷者(死者は6591人)を出し、3月18日、ハワイに引き揚げ再び戦線に戻ることはなかった。
一方日本軍も、3月3日までに指揮官の65パーセントが死傷、22500人の兵力も3500人までに落ち、組織的な戦闘は困難になっていた。
3月17日、兵団長の栗林忠道中将は大本営に訣別の辞と辞世の歌を打電、日本軍守備隊は全滅した。
米軍司令部は、上陸4日後の2月23日には「世界で一番攻め難い島」と発表しており、前述のように大きな犠牲も払ったのだが、同日、擂鉢山占領、翌日には千鳥飛行場の修復を始め、3月12日爆撃機用滑走路を完成させている。
その日の3日前の3月9日から10日にかけて、B29、298機による東京大空襲が行われ、江東地区は全滅した。
これまでのB29は一万メートル以上の上空を飛び、都市の軍需生産施設が攻撃目標の中心であったが、東京大空襲は非戦闘員を対象にした、はじめての無差別絨毯(じゅうたん)爆撃であった。以後、このような無差別爆撃は繰りかえされ、東京空襲も四月、五月と徹底的に継続されることになる。
この空襲による正確な被害状況ははっきりとはしていないが、10万人近い死亡者を出し、広島・長崎の原爆に匹敵する大規模な被害を与えた。
なお、あえて付記しておく。この爆撃の計画の責任者は太平洋方面第二〇空軍司令官であったカーチス・ルメイだった。彼は、1963年の4月に米空軍参謀総長として来日、日本政府は航空自衛隊建設に貢献したとの理由で、勲一等旭日大綬章を彼に贈った。
(この項目は『昭和二万日の全記録 第7巻 廃墟からの出発』pp.48-49 および pp.57-58 によって記した。)

保坂正康さんは、次のように書いている。
 この「降伏」の期に、もっとも戦争の苛酷さを肌身(はだみ)で感じたのは沖縄(おきなわ)県民でした。日本で唯一(ゆいいつ)本土決戦の戦場となったこの地では、四月に一八万人のアメリカ軍の上陸により戦闘が始まりました。これに対して守備隊の約七万五〇〇〇人の日本軍将兵は、しばらくは持久作戦をとりました。しかしアメリカ軍の圧倒的な攻撃の前に、戦闘を行っても充分に戦うことができず、しだいに日本軍は壊滅的な打撃を受けることになります。六月二十三日に守備隊の司令官である牛島満(うしじまみつる)が自決し、日本軍は実質的に壊滅したのです。
 沖縄戦では、県民や兵士を含めて二〇万人近い犠牲者がでています。このなかには、日本軍の兵士がときに沖縄の人たちをスパイ扱(あつか)いして殺害したケースもあるといわれますし、民間人がときに楯(たて)がわりにされて戦死したこともありました。あるいは、アメリカ軍の捕虜になったり保護されることは好ましくないとして、自決した者もいました。
 こうした状態になっても、大本営は本土決戦にこだわりました。彼ら軍人たちの戦略とは、とにかく敗戦につぐ敗戦の状態であったにせよ、いちどは戦勝の機会を得てそれをもとに有利な条件で講和を結ぼうというものでした。あるいは中国やソ連と講和をして、対米英の「百年戦争」を考える者もいました。しかし、どのような戦略をもって戦争をいているのか、この戦争の目的は何だったのかなどを問うどころではなく、ただひたすら軍事で決着をつけようと考えるだけだったのです。
(『若い人に語る戦争と日本人』pp.169-170)
スタンレー・ベネットは、いよいよ沖縄へ向かうこととなる。
 


2009年4月16日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (28)

スタンレー・ベネットは、いよいよ太平洋戦争最後の地上戦となる沖縄へ向かうことになる。

中3になったばかりの孫が、来週、修学旅行で沖縄へ行くという。 
世界史上はじめて原爆を投下された広島、長崎であれ、当時の中学生や女学校の生徒たちを含む全県民が戦闘に巻き込まれた沖縄であれ、修学旅行でこれらの地を訪れる彼らが、あの戦争についてどんな学習をしているのであろうか。「語り部」と呼ばれている人たちから悲惨な体験談を聞くのかもしれない。それも大事なことだが、なぜそんなことになったのか、当時の指導者たちはどのような国をつくろうし、どのようにあの戦争を推し進めてきたのか、どうして日本国民はその道を突き進んでいったのか、などなどを知り、考えることが大切だと思う。そのためにも、右サイドに紹介している保坂正康さんの『若い人に語る戦争と日本人』はぜひとも若い人たちに読んでほしい本のひとつだ。これまでにも何度かこの本に触れてきたが、昭和18年5月~12月の「崩壊」の時期の「命を捨てる戦い」について述べている部分を、長くなるが、もう一度だけ、引用しておきたい。(原文のルビはカッコ内に入れた。)
 …この八か月ほどの間に、日本の戦闘はきわめて歪(ゆが)んだ形になってしまったのです。その例が五月末からのアッツ島での戦いであり、玉砕(ぎょくさい)でした。私は、日本の軍事指導者がもっとも責任を問われることはふたつあると思います。ひとつはアッツ島にみられるような玉砕であり、もうひとつは戦争の後半にみられる特別攻撃隊による作戦行動です。
 …アリューシャン列島の西端に位置するこの島(東西約五六キロ、南北約二四キロ)は、ほとんど人の住んでいない島でした。この地からアメリカ軍の攻撃があったら困るということで、日本は守備隊を置いたのですが、昭和十八年五月からアメリカ軍の本格的な攻撃を受けています。
 二五〇〇人の守備隊は、二万人近いアメリカの海兵隊員の攻撃を受けながら二週間近くももちこたえましたが、その後山崎保代(やまさきやすよ)守備隊長をはじめとする生存兵士が、最後の肉弾作戦を行いました。援軍も補給もないままにその身を銃弾に代え、アメリが軍にむかっていったのです。このときの様子を、アメリカ軍のある中尉が次のように書き残しています。そこには、「どの兵隊も、どの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握(にぎ)っている。最後の突撃というのに皆どこか負傷しているのだろう。足をひきずり、膝(ひざ)をするようにゆっくりと近づいてくる」とあり、アメリカ兵はたどたどしい日本語で「降参せい、降参せい」と叫(さけ)んだとあります。だがそれにもかかわらずむかってくる。それで一斉に機関銃を発して撃ち殺したというのです。
そして、保坂は、自らが行った講演(平成7年「戦争史研究国際フォーラム)での結論づけを引用し、さらに本文を続けている。 
(私たちのなかに)こうした玉砕に対して、日本人の精神性を表すものとしての見方をとることがある。あるいは物量に劣(おと)る日本の戦いとみた場合、こうした精神性を対峙(たいじ)させる考えもある。だがつぶさに見ていくと、こうした玉砕作戦そのもののなかに、やはり大本営参謀たちに欠けていた思想があるのではないかと思う。

 この思想とは、兵士を「人間」としてみていない不遜な態度のことです。
 この「崩壊」の期に、七月、八月、九月のコロンバガラ島沖海戦、ブーゲンビル島沖海戦、ギルバート諸島、マーシャル群島、それにラバウル大空襲と、アメリカ軍は次々と日本の占領地域を爆撃してきました。アッツ島玉砕は、国内では戦時美談として語られ、「アッツにつづけ」が合言葉になっていきました。歌までつくられましたが、それは命を捨てて戦えという意味でもありました。冷静な判断よりも、感情を主体にした思い込みや陶酔が重視されていくのもこのときからだったのです。(pp.158-160)
この年、わたしは国民学校初等科の3年生(現在の小3)だった。
4月29日アッツ島の日本軍が玉砕し、5月に山本五十六連合艦隊司令長官の戦死が公表され(戦死は4月18日)、元帥を追贈され6月5日国葬が行われた。

そして、9月10日の夕刻鳥取市を大きな地震が襲った。当時わたしは現在の川端5丁目にあった二階建ての四軒長屋に住んでいた。長屋は一階がぺしゃんこにつぶれ、二階はしゃんとしていたが窓のガラス戸は壊れてなくなっていた。(普通であれば夕食を始める時刻で、一家全滅になっていたかもしれなかった。両親の仕事が忙しかったため、家は無人であった。)
隣家から出た火はつぶれた一階全体に廻っていたのだろう。暗闇が近くなった頃、ボッと音を立てて突然火が二階に移り、室内を明るく照らした。
階段をあがった三畳間の、久松山が大きく見える窓の前に、わたしの机と椅子があった。前年照國とともに横綱になった安藝ノ海―あの双葉山の七〇連勝を阻止した安藝ノ海の写真を小さな額に入れて机上に置いていた。その写真立てが倒れないでうらを見せたまま、ちゃんと立っていた。
階段側の鴨居の上に二枚の額を掲げていた。奥の方は山崎大佐、手前の方は山本元帥の写真だった。それらを見た瞬間、炎が部屋中に広がった。その時はじめて、わたしはわっと泣き出した。
   
    刃も凍る北海の 御盾と立ちて二千余騎
    精鋭こぞるアッツ島 山崎大佐指揮を執る
    山崎大佐指揮を執る

今でもこの歌をうたうことができる。

閑話休題。保坂さんは「崩壊」に続く「解体」―昭和19年1月~翌20年2月―について、こう書いている。
 …日本は実質的に戦争をつづける国力を失っているにもかかわらず、玉砕や特攻作戦を行うことになりました。もはや軍事という物量による戦闘や政治の延長としての戦争という意味あいは薄(うす)れ、自己陶酔にふけっていたと私は分析しています。開戦時の精神主義が前面に出てきて、たとえば昭和十九年七月まで首相、陸相、そして参謀総長(この年二月に就任。軍令、軍政の両権をにぎる完全なる独裁体制)だった東條英機は、国民にむけて「戦争というのは最終的には意志と意志との闘いである。負けたと思ったときが負けである)と説く有様でした。
 これは私が以前から言ってきたことですが、「負けたと思ったときが負け」というのは冷静な判断をするな、客観的な考えなどもつな、指導者の言うことだけを聞け、という恐るべき論理です。…
 こういう精神的な逃げ場のない迷路のなかに入りこんでしまった日本は、はたして戦争を戦っていたといえるのだろうか、というのが私の考えです。これはもう文化の領域と思えますが、軍事指導者たちはこういう文化的にも恥ずかしい論を用いて、戦争という現実を戦っていたのです。ここに「昭和の戦争の過ち」があると、私は指摘したいのです。(pp.161-163)
そしてこの年10月、人間爆弾、神風特別攻撃隊が編成される。

2009年4月13日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (27)

スタンレーの[ガダルカナル島からの手紙]は、第23回で書いたように、保坂正康のいう日本軍「崩壊」の時期の末期にあたる。彼はガ島で日本軍と直接戦ってはいなかった。

1944(昭和19)年1月~45年2月は「解体」、3月~8月15日が「降伏」の最終期である。
具体的には、
・6/19-20 マリアナ沖海戦で、日本海軍惨敗。
・7/7 前年5月のアッツ島についで、4万人余のサイパン島守備隊玉砕。
 (日本人住民の半数1万余が死亡)→B29による本土爆撃が射程距離内 となる。
・10/24-25 レイテ沖海戦で「武蔵」など主力艦を喪失。神風特攻隊5機がはじめて出撃。
・11/20 人間魚雷「回天」による発の攻撃。
・11/24 B29、111機が東京を初めて本格的に空襲。
・1945/1/10 B29、334機、前夜から東京大空襲
・3/17 硫黄島の日本軍守備隊が全滅。

スタンレーの[ガダルカナルよりの手紙]は、既述したように、1943年11月25日付から翌年の1月1日付まで38通、そのうち33通の抄訳が、『戦場からの手紙』の第1部として収録されている。その収録されている手紙の最後は、12月29日付のものである。
その後、スタンレーはどこにいたのであろうか。加藤恭子によれば、検閲もあって居場所を明らかにできなかったが、妻のアリスは、ガ島は海兵隊の重要な基地であったから同島を出たり入ったりしていた可能性がある、と推測していたという。そしてその後の手紙からアリスが判読した結論を次のように伝えている。
 スタンレーは、ガダルカナルからニューカレドニアに戻ったのではないだろうか。そして、またガダルカナルに滞在し、一九四四年夏にはグアム戦に参加した。(引用者注:7月21日、米軍、グアム島に上陸開始。8月11日、日本守備隊玉砕。)それからまたガダルカナルへ戻り、一九四五年一月と二月はハワイの真珠湾。それからガダルカナルへ戻ったあと、沖縄戦に向けて出航したのではないか。これがアリスの意見である。(p.85)
前述の通り、東京大空襲の日、硫黄島の日本軍守備隊玉砕の直前の3月10日、スタンレー・ベネットの「沖縄からの手紙」が始まっている。

2009年4月11日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (26)

ガダルカナル島から発信されたスタンレー・ベネットの手紙(妻宛)は、1943(昭和18)年11月24日付~翌年1月1日付まで、38通が発信されている。そのうち、33通の抄訳が第1部として『戦場からの手紙』に収録されている。
これらの手紙はほとんど毎日書かれていたことになる。スタンレーの健筆ぶりに驚く。日本兵も手紙や手帳、日記などの記録を多くの者が残していることが知られている。しかし、特に手紙では、検閲されるためにこのように、妻への愛を伝えることはできなかったであろう。(ここでは、それらの言葉を引用しないが。)さらに日々このような手紙を書くゆとりなど、戦場の日本兵にはなかったことであろう。

前回同様、日本(人)への思いや日本語の勉強ぶりがうかがえる部分を中心に引用を続ける。 
今日もまた〝町〟へ行った。陸軍病院内の憲兵に見張られている一病棟で捕虜の尋問をするためである。捕虜たちは食事が口に合わず、果物と米、日本茶がほしいと言う。だから、午後PXでキャンディー・バーとクッキーを彼らのために買った。帰りがけに、どこかで果物が手に入らないかとジープの運転手に聞いてみた。キャンプから三マイルほどの村の近くにパパイヤの木があるのを知っている、と彼は答えた。それを手に入れられるかどうか、私には疑問だった。ところが、この運転手はジープを運転していき、八つの見事なパパイヤを盗んできてくれた。日本兵捕虜の〝我がボーイズ〟のために、おかげで果物も手に入れることができた。たぶんオレンジもいくらか手に入れられるだろう。(12月2日付 pp.31-32)

 オレンジ、パパイヤ、クッキーそれにチョコレートなどを病院にいる私の捕虜の患者たちに持っていったが、哀れさを感じるほどに感謝された。尻に大きな潰瘍のある男は、私が海軍軍医と聞くと、私に面倒をみてもらえるよう、海軍病院に連れていってほしいと頼んだ。自分は海軍軍人なのだから、そう取り計らわれるべきだと言うのだが、ここの捕虜たちは陸軍憲兵隊の管理下にある。そのような移送は、当然不可能だ。
 私は自分用の語学クラスを作った。フェンスの囲いの中で最も優秀な捕虜を選び、指導教官になるよう要請し、私の間違えそうな個所を訂正してほしいと依頼した。今日の彼との二時間の勉強中、いくつかの単語を漢字に置き換えてもらった。彼が大変協力的なので助かる。本人も仕事を楽しんでいる様子なので、毎日続けたいと思っている。このキャンプの通訳たちより、私の日本語はうまいそうだ。ヌーメアとオーストラリアには、私などよりもっとうまい通訳がたくさんいるはずなのだが。(12月3日付。pp.32-33)

……午後中、単語カードに明け暮れ、1000以上のカードを作成した。カタカナやひらがな、変則的な読み方のものなどだが、およそ二百十一は精通している単語。およそ三百五十は部分的にわかっているが、まだ努力が必要なもの。百五十の熟語は記憶ずみのほうに入れた。勉強の成果で語彙が増え続け、面白くてたまらない。(12月8日付。p.36)

 レヴィンソン少尉と一緒に、今日フェンスの中の捕虜収容所に出かけた。私は「桃太郎」や「もしもしかめよ」などの日本の歌を歌って彼を楽しませた。(12月20日付。p.43)

 ……陸軍病院に行き、金沢出身の十八歳の青年と話をした。純真無垢な青年だ。この若さでこんな苦境にいるなんて、本当に気の毒なことだ。戦争がおわったら、こうした若者たちにも、人並みの幸せを掴んでほしいと思った。そうしてあげるのが、私たちの義務なのだ。彼らは自分たち自身ではそれができないだろうから。(12月23日付。pp.51-52)

 一日のほとんどを、日本海軍についての日本語の本を翻訳して過ごした。非常に興味深い本だ。日本人の心理を理解するための助けになるからである。日本人の最大の弱点の一つだけ指摘するならば、データを客観的に読み、それを偏見なしに評定する能力を育てなかったことだろう。私の意見では、この欠点が彼らにこの戦争を始めさせたし、彼らを敗北へと導くことでもあろう。持ち合わせの単語カードを全部使い切ってしまった。新しいのが来るのを今か今かと待ち構えているところだ。五千枚頼んだが多すぎるとは思わない。そちらにあれば、すぐ送ってくれないだろうか。(12月26日付。p.54)