国語辞典でガダルカナル島を引いてみると「南太平洋、ソロモン諸島南東部の火山島。面積六五〇〇平方キロメートル。太平洋戦争中の日米激戦の地」と書かれている。四国の愛媛県とほぼ同じくらいの面積をもつこの島でどんな「激戦」があったのか。日本の一般国民がこの戦いについて知ったのは敗戦後のことである。
戦いの経過を並べてみると、こうなる。
1942(昭和17)年7月16日、この島で日本海軍の設営隊約2,600人が飛行場設営の作業に取りかかった。
長さ800メートル、幅60メートルの滑走路を完成させた2日後の8月7日、米海兵隊1個師団がガダルカナル島と、その北方のツラギ島に上陸開始。日本の海兵部隊は、飛行場設営のための軍属が大半を占めており、軍人は600名足らずであったという。米軍は抵抗らしい攻撃を受けることもなく上陸し、飛行場を占拠した。
その後の個々の戦闘についていちいち述べる必要はあるまい。以前紹介した『米軍が記録したガダルカナルの戦い』を編集した平塚柾緒の「あとがき」からの引用文などのご紹介にとどめたい。彼は、「大本営陸軍部の愚をきわめた作戦指導」を厳しく指摘している。
ガダルカナルに陸軍の戦闘部隊を送り込むことを決定したとき、ガ島のまともな地図さえなかったことは有名な話である。また師団の参謀クラスでさえ「ガダルカナル」という島がどこにあるかも知らなかったという証言は数多い。そして、この後にも引用されているが、当時陸軍士官学校を出たばかりの青年将校(二十一歳)であった亀岡高夫は昭和十七年十二月二十日の日記にこう書いている。
ニューギニアを攻略し、遠くフィジー、サモアまでも占領しようという日本軍が、その周辺地域の地図さえ準備していなかったというのだから、これは無謀というより無知と表現した方がいいかもしれない。日常的に「情報」を重視していれば、参謀本部はソロモン群島の地図などいくらでも準備できたはずである。
この地図の一件を見ても分かるように、日本の大本営はガ島の米軍兵力をまったく予測できなかった。太平洋地域の米軍に関する情報をほとんど持っていなかったからだ。だから「せいぜい二~三千名の強行偵察部隊程度だろう」と勝手に決め込み、一木支隊を急遽派遣して決着をはかろうとした。
それで十分と見たのである。そこには戦略とか戦術といった作戦計画は皆無で、ただ敵を侮(あなど)った傲慢(ごうまん)さだけが見え隠れしている。
さらに現地の指揮官もただただ「突っ込め―、突っ込め―」の肉弾斬り込みの白兵戦を強いるだけで、作戦といえる計略などはなかった。それは一木支隊に続く川口支隊でも同じであり、大本営から馳せ参じた作戦参謀の指導による第二師団の総攻撃でも変わりはなかった。
ガ島戦は、日本軍の体質と欠点を余すところなく露出した戦いであった。しかし、その体質と欠点はついに是正されることなく、昭和二十年八月十五日の敗戦の日まで貫き通される。そのために命を奪われていった一般兵士の無念と怒りは、どう晴らせばいいのか。(p.205)
食糧は本月中は全然渡らないのだそうだ。現在の手持ちの食糧で、この十二月を過ごさなければならぬ状況になったという。なんという困苦ぞ。歩兵操典(引用者注:教練の制式、戦闘原則および法則を規定した教則の書)に〝困苦欠乏に耐えよ〟とあるが、これほどの困苦欠乏がどこにあるというのか。軍司令官は第一線将兵を餓死させる気なのか。一体、第一線のこの悲境を知ってるのかどうか。(p.174)
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