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2011年11月15日火曜日

お礼


わたしの古いブログ「映画『わかれ雲』2」を読んでいただいた、小林大二さんという方から、このブログのなかの下記の部分について、

「小淵沢は信州ではなく、山梨県北巨摩郡(現在は北杜市)です。国鉄小淵沢駅周辺でロケをしてます。 」

と、あやまりを指摘していただいた。
次の引用文中の赤字の部分である。

この映画を見た日の日記に、当時の「週刊朝日」に載った批評の全文を書き写している。900字を超えるが、引用する。

スタジオ・8プロダクションの第1回作品。新東宝の芸術祭参加作品だが、独立プロの悲しさに諸事切りつめた無理が目立つ。(例へば殆ど信州ロケで撮りながら、セリフは全部アフレコ、口とセリフが合わない場合多し)そうした技術的方面では東宝の「めし」などに著しく劣る。が、これは四年振りの五所監督作品として珍しいし、また捨てがたい抒情味もある小品である。ラジオ小説から五所、館岡、田中(澄江)が協力脚色し、信州の小淵沢の町のみすぼらしい宿屋、そこに泊まった女子大生、真砂子(沢村契恵子)と村の保健所の青年医師(沼田曜一)の淡い恋を描く。旅で発病した少女は宿の女中(川崎弘子)の看病を受けるが、ヒネクレ娘である。亡き実母を慕い、継母(福田妙子)を嫌う為のヒネクレ根性が医師への思慕と、無医村の実情をを知ることなどで、次第にとけて行く。
(→http://wwwgauna.blogspot.com/2007/05/2_02.html

しかし、このブログを発表した当時はもちろん、現在に至るまで、小淵沢は長野県内だと思っていた。小林さん、ありがとうございました。

当世キーワードはこちらから→http://wwwrambler3.blogspot.com/

2008年7月9日水曜日

美空ひばりが歌った「一本の鉛筆」

今月1日の朝日新聞に、
響け ひばりの「反戦」 CD化 広島で再発信
の見出しで、署名記事が掲載された。1974年の夏、広島テレビ主催の第1回広島平和音楽祭で、美空ひばりが歌った「一本の鉛筆」という歌のことだ。
最初に歌ってから14年後、死の前年に、ひばりは再び広島でこの歌を歌った。テレビでこの歌を歌っているひばりを見たのは、このとき、1988年の夏、であったと思う。
いい歌だと思った。ひばりにこんな歌があったのか、と驚いた。彼女はこの歌を自分の好きな10曲のなかの一曲に挙げていたという。
今回の記事は、今年3月、奈良岡朋子がテレビでこの詩を朗読したのをきっかけに、この歌が今月末にCD化されることになったことで、書かれている。

このことにふれているブログなど、多いだろうな、とおもいながら、検索してみたら、あるわ、あるわ、今回の朝日の記事のあとでも、ずいぶんある。
ここでは二つのサイトだけをご紹介しておく。

◇朝日新聞の記事(所によっては前日の夕刊)の全文は
http://www.asahi.com/showbiz/music/OSK200806300082.html
◇この歌の歌詞と、楽譜は
http://bunbun.boo.jp/okera/aaoo/ippon_enpitu.htm




2008年7月5日土曜日

映画 「姿三四郎」 2/2

先回、映画「姿三四郎」について覚えているのは、それぞれ、最初と最後に近い二つの場面しかない、と書いた。今回、65年ぶりにテレビでこの映画を見たとき、ほとんどの場面を、ああそうだ、こんな場面があったと思い出した。しかし、えっ、こんな画面があったんだ、と驚いた画面もいくつかあった。
出演者について言えば、藤田進(三四郎)と敵対する月形龍之介(檜垣源之助)の二人だけはしっかり覚えていた。
和尚役の高堂国典と柔術師範の志村喬はすぐに分かったが、修道館柔道の師範、矢野正五郎の大河内傳次郎は、時代劇でよく見た彼とは、顔も声も若々しく、「これが大河内傳次郎?」とすぐには分からなかった。
女優は、轟夕起子花井蘭子の二人きりだが、この映画に出演していた記憶は全くなかった。

何度も映画化されている小説に、吉川英治の『宮本武蔵』がある。あれは高2の夏休みだったと思う。市内の映画館で古い『宮本武蔵』映画が何本か立て続けに上映されたのを見に行ったことがある。お通役が轟夕起子と相馬千恵子の2本を見た記憶がある。当時知っていた轟夕起子は、丸顔で太り気味の女優だったから、若いお通の美しさに驚いた。(調べてみると、二人がお通を演じたのは轟が昭和12年、相馬は18年である。)
テレビで見た『姿三四郎』の轟夕起子も若くて、美しかった。

思い出話はこれくらいにしておこう。
佐藤忠男の労作に『日本映画史』全4巻がある。吉川英治の『宮本武蔵』は、戦前から戦後までなんども映画化されているが、佐藤は『宮本武蔵』と『姿三四郎』の類似性をこの中で指摘している。
扱う時代は江戸時代と明治の違いはあっても、「若くて純情で粗野で強すぎて求道的な」三四郎に「精神的な豊かさを与えようとする師の矢野正五郎と寺の和尚は沢庵、三四郎が惚れてしまう試合の相手の柔術家の娘(引用者注:轟夕起子)はお通、そして三四郎の前には対決しなければならない敵の柔術家たちがつぎつぎと現れて決闘に次ぐ決闘になり、その間、三四郎は、たんなる猛者から、ゆとりと内面的な深味のある真の強者へと成長してゆく。」
そしてこの小説(引用者注:富田常雄『姿三四郎』)は、みずみずしい鮮やかな技巧で映画ファンを唸らせる彼の素晴らしいデビュー作となった。一九四三年、すでに戦争は敗色があきらかになっていた頃である。これはしかし、非常に元気のいい映画だった。黒澤明監督は、この映画を、見事なエンターテインメントとしてつくりあげた。その面白さの第一にあげられるのは、何度もある柔道の闘争や試合の場面のアクションである。ひとつひとつの闘争が、それぞれ違った柔道の術で処理される。しかも、それらはすべて、ただむやみに激しく闘うのではない。はじめは静かに向かい合い、気合いを計り、最良のタイミングで行動が始まると、一瞬にして意表をつく激しい動作が生じてヒーローが相手を投げとばす。あるいは、ヒーローが何度投げられても決して転ばず、軽業のように立ち、さいごに鮮やかに相手を投げとばす。静と動、その間合い、その繰り返しのリズム、それらの巧みな演出が、これらの格闘場面にそれぞれに美しいスタイルを与えていた。
この映画の主役に抜擢された藤田進は、がっしりとした体つきに無骨な顔、朴訥な喋り方、野暮ったい動作など、すべての点で、これまでの二枚目の重要な条件だったスマートさとは遠く、コケの一念とでもいう感じで命令されたことを徹底的に忠実にやりとおすような芝居がよく似合う俳優だった。スターになると、つぎつぎと軍人役を与えられ、『加藤隼戦闘隊』(一九四四〉では、豪胆で沈着な戦闘機部隊の隊長を好演した。ときには激しく部下を叱咤するこの隊長が、ときにはまた、ガキ大将ふうの人なつっこい笑顔を見せるあたりが独特の持ち味で、これぞ、どんな無茶な命令にも耐えてニッコリ笑って死んでいける模範的な帝国軍人と思えた。(注1)
注1.佐藤忠男『日本映画史 2 1941-1959』増補版 岩波書店 2006/11/10 pp.63-64

2008年6月29日日曜日

映画「姿三四郎」1/2

1943(昭和18)年の8月も終わる頃、一人の少年が早朝の鹿野街道を歩いていた。1941年の4月に以前の小学校が「国民学校」と改称され、少年がその初等科3年生になった年の夏休みも終わろうとしていた頃で、「大東亜戦争」が始まってから1年9カ月が過ぎようとしていた。
前夜からの雨はあがっていたが、アスファルトで舗装された道はまだ濡れていて黒く光っている。少年は素足で、身につけているのはランニングシャツと短パンだけ。さすがに早朝の空気は冷たかった。普段彼が通っていた醇風国民学校は行程の半ば過ぎにあったが、学校に近づくまでには、体は十分に温まった。
彼が休み中に通っていたのは、久松山下にある公園の砂場の「鍛錬場」。鹿野街道を堀端に出て右折し、たくさんの蓮の花が咲いている堀にかかる大手橋を渡ると右手が鳥取一中のグラウンドで、道を隔てた左手が「鍛錬場」だった。ここで柔道の基本を学ぶのだ。
額の汗をぬぐいながら空を見上げると、昨夜の嵐の名残か、大きな黒雲が久松山の後ろから南東の方向へかなりの早さで流れて行く。少年は3カ月ほど前に見た映画「姿三四郎」の最後の決闘の場面を思い浮かべていた。「よ~し、三四郎のように強くなるぞ」。

映画「姿三四郎」を思い出すたびに、上に書いたような、遠い昔の自分の姿をいつも思い出す。そしてこの映画で思い出すといえば、いつも二つの場面だけであった。
自分の行動を師に叱られた三四郎(藤田進)が、道場となっている寺の庭の小さな池に跳び込み、そのまま池の中で杭につかまって一夜を過ごし、早朝、眼前の小さな一輪の蓮の花が開くのを見て、柔道の神髄に開眼する場面。
もう一つは、最後に、三四郎と月形龍之介演じる柔術家が、強い風の吹く草原のような場所で決闘する場面であった。

今年4月、テレビのBS②で「没後10年 黒澤明特集」の放送が始まった。彼の監督作品全30本の一挙放送だ。そして「姿三四郎」は、5月6日に放映された。この作品の監督が黒澤明であり、しかも彼の第一作目の映画であったこ
とも、初めて知った。この放送を見て、最後の決闘の場面は、わき上がる雲の映像がきわめて印象的であることを知り、「少年」があの日、黒雲の飛ぶのを見て三四郎を思いだしたわけを納得した。

この作品が出来たのが1943年3月であったこともわかったので、鳥取県立図書館でその年の3月以降の日本海新聞を調べたところ、同年5月6日(木)の紙面の広告を確認することができた。それによれば、この「東寶映画異色大作」は5月6日から12日までの一週間「本週は公休なし」で帝國館(戦後の第一映劇)において上映されたことがわかった。

この映画の原作が富田常雄の『姿三四郎』であり、紘道館は講道館、師範の矢野正五郎は嘉納治五郎、三四郎は当時、講道館四天王の一人と言われた西郷四郎であることは、いつしか知るようになっていた。

この小説を読んだことはないが、ブログを書くにあたって、ウェブを検索したところ、このあたりを詳しく書いているサイトがあった。やや古いサイトだがご紹介しておく。
http://www.iscb.net/mikio/9709/25/index.htm

2008年4月25日金曜日

映画「明日への遺言」 2/2回

今年2月25日午前1時台のNHKラジオ第1の【列島インタビュー】で
「今、映画で伝えたいこと」と題したインタビューが小泉堯史監督に対して行われた。聞き手はラジオ深夜便の遠藤ふき子アンカー。この放送は聞かなかったが、これが「ラジオ深夜便 No.94」5月号(NHKサービスセンター)に採録されていたのだ。このなかで1944(昭和19)年生まれの小泉監督が「明日への遺言」について述べていることをいくつかご紹介する。
・この作品の脚本を最初に書いたのは、14、5年前、黒澤明監督の助監督をやっていた頃。黒澤には常々、監督になるなら脚本を書かないとだめ、と言われていた。だから、読んでもらうのが楽しみでせっせと書いた。その中の一つが「明日への遺言」であった。『ながい旅』を読んで岡田中将に魅力を感じたし、「監督ってのは、最前線の司令官だ」と云っていた黒澤監督をもっとよく理解できるのではないか、という思いもあった。
・最初は誰も映画化に賛成しなかった。法廷の場面だけでなく回想場面や家族を描いて広がりをもたせられないか、などと言われたが、原作に添って「法廷の中での岡田中将」をとらえたかった。
・法廷のシーンが中心で動きがなく、しかも、10分近くキャメラを回し続ける場面がほとんどだから、舞台経験のある方がいいと思い、藤田まことさんにお願いした。
・「妻役の富司純子(ふじ・すみこ)さんも、傍聴席で夫の言葉をじっと聴き続けるシーンが多く会話は一切ないのですが、表情だけで妻の心を見事に表現してくださいました。」※
・台詞(せりふ)についても、できるだけ原作を生かして恣意的(しいてき)に作ることは極力しないようにした。英語の台詞もアメリカから取り寄せた公文書に全部照合したうえで書いた。原作もアメリカの公文書をもとに書かれているから。大岡昇平の原作は「事実が自分で歌う」ことを願っている。
※獄中からの手紙にこう書かれている。[ ]内は引用者注。「温子(はるこ)[中将の妻]連日法廷の傍聴御苦労である、話すことは規定が許さんが、私にはそなたの顔の表情の変化を見れば、其の意味は十分に通ずる。笑を交換する丈で結構々々。純子さん[玉川学園長小原国芳の次女。中将の長男陽(あきら)の妻]の御手紙にも、同じ意味のことを書いてあった。それでよい筈。」(原作。p151)

先回書き忘れていたのでここに書いておく。岡田中将を含む東海軍の公判は、1948年5月14日正午をもって結審した。3月8日の開始以来68日間であった。3月19日判決があったことは前述のとおりである。
岡田中将は、判決後も19名の部下の減刑請願や刑務所内の待遇改善に努めた。重労働終身刑の大西一大佐が1958年5月31日釈放されたのを最後に、それ以前に全員が釈放になっている。(B・C級戦犯はこの日をもって全員が釈放された。)

映画に戻る。「明日への遺言」のなかで2カ所、部下たちが小学唱歌「故郷」を歌う場面がある。
この映画が全国公開された際に配られた新聞紙大の紙の表裏に印刷した宣伝紙を、映画館で手渡された。13人の著名人と5人の一般人の、おそらく公開に先立つ試写会の感想が載せられている。そのなかで角淳一(毎日放送「ちちんぷいぷい」パーソナリティ と書かれているが、どんな番組か、どんな司会ぶりか、わたしは知らない)という人がこう書いている。

「故郷」をこんなに凄い歌だとは思わなかった。死を前にした男たちが唄うこの歌は祖国への賛歌であり、国歌でもある。こんなB級戦犯裁判があったことに驚きと感動を覚える。

原作にはない、この唱歌の場面を入れたのは、小泉監督だったのであろうか。前述のインタビュー記事のなかにはふれられていないので、わからない。
この歌について、ごうなは昨年の4月にこのブログでとりあげた。そこでも書いたように、この唱歌が尋常小学校第六学年用として世に出たのは、1914(大正3)年6月である。とっくに陸士を卒業し、この年の12月には鳥取の歩兵第40聯隊附の歩兵中尉となっていたのだから、小学校でこの歌を習ってはいない。むろん、聞いたり、あるいは歌った可能性はありうる。
『ながい旅』から引用する。
 岡田家は代々鳥取藩の藩医で、家が城に近い江崎町にあったのを、長女達子さんは憶えておられる。祖父乙松、祖母志可は夫婦養子であった。乙松氏は家業を継がず、鳥取地裁事務官の職を選んだ。京城の任地で没したのは、岡田資十七歳の時という。
中将は明治二十三年四月十四日生で、十七歳は数え年だから、明治三十九年となる。四十一年、陸軍士官学校へ入学されたのは、中学の成績がよく、軍人が志望だったからであるが、父の早逝に会って、士官学校が学費官給のためでもあったろう。軍人として特に縁故的背景はなく、刻苦して経歴を開かれた方である。(p.12)

岡田家があったという江崎町には、ごうなも数年暮らしたことがあるが、城山である久松山(きゅうしょうざん)の近くでその姿が大きく見える。また、中将の通った鳥取中学(現在の鳥取西高の前身)は、久松山下、三の丸跡にあった。だから、中将が「故郷」を聞いたり、歌ったりしたことがあったとすれば、「山」は久松山、「川」は袋川を思い浮かべたに違いなかろう。

岡田資中将が日蓮宗の信者であったことはすでに記した。大岡昇平は次のように書いている。
 二十一歳、士官学校生の頃、通りすがりの辻説教に興味を持ったのが、きっかけであった……この頃、軍人には、強く国家意識を持った日蓮宗に共鳴する者が多かった。しかし岡田中将には、狂信的熱狂はみられない。むしろ哲学的瞑想的なものである。死生観において、軍人勅諭五カ条であき足らず、法華経に支えを求めたことに、関心を持ったのであった。(p.201)

当時スガモ・プリズンに教誨師として有名な花山信勝師がいた。ひところ、その著書が評判になったことを覚えている。しかし、中将は彼とは意見が合わず、ことごとに対立したという。「罪を認め、ただ仏の慈悲にすがって南無阿弥陀仏を唱えてあの世へ行けばよい、との花山師の教えでは、死刑囚の荒ぶる心はなかなかおさまらないのであった。」(原作、P.207)

最後に付言する。この映画に感動された方は、ぜひ大岡昇平の『ながい旅』をお読みになってほしい。収録されている岡田中将の手紙、特に、死刑執行前日の1949年9月16日、家族に宛てた遺書を読んでいただきたい。中将の優しい心に接することができる。

◇文庫本は新潮文庫と角川文庫があるが、後者の方が入手しやすいと思う。
ごうなのおすすめ本棚 1


ながい旅 (角川文庫 お 1-2)

2008年4月24日木曜日

映画「明日への遺言」1/2回

13日(日曜日)の朝、有門橋から若桜橋まで袋川沿いの桜土手を、葉桜になりはじめた花を眺めながらのんびり歩いて、駅前商店街の〈鳥取シネマ〉に着いたのが上映10分前の午前9時50分。
この映画は3月1日より全国公開されたが、主人公の元陸軍中将岡田資(おかだ・たすく)の出身地、鳥取市では40日ばかり遅れて、12日からの上映となった。映画の始まる前に観客を数えてみると、50人弱程度で、女性が半数近くいたのは意外だった。
上映時間1時間50分の90%以上が法廷の場面である、異例とも言うべき映画が最後まで観客の心をはなさないところが、この映画の持つ力だろう。

太平洋戦争末期、1944(昭和19)年12月13日以降翌年の7月26日までに、名古屋はB29による38回の空襲を受けた。飛来機数は1,973機、被害は死者8,152、負傷者10,950、罹災者519,205人に及んだ。岡田中将は空襲の始まる前年末に東海軍需監理部長として名古屋へ来ていたが、敗戦の年の2月に東海軍管区司令官兼第十三方面軍司令官となった。
戦後、前述の空襲時に撃墜された機から落下傘で降下し、捕らえられた搭乗員、27名を正式の審理を行わず斬首して殺害した、として岡田中将以下20名の元軍人がB、C級戦犯として裁かれることになる。
岡田元中将がいわゆるスガモ・プリズン、巣鴨拘置所に収監されたのは1946(昭和21)年9月21日である。横浜法廷での審理開始が1948年3月8日になったのは、裁判の重点がA級戦犯に置かれていたからだ。

岡田中将は敗戦後自らが戦犯として裁かれることを覚悟しており、その法廷を最後の戦いの場とすることを決意していた。
1.米軍の爆撃は軍需施設の破壊をねらったものではなく、一般住民を殺戮する無差別爆撃であり国際法にもとるものだ(広島、長崎への原爆投下はその際たるものである)。従って、かかる無法を行った米兵は捕虜ではなく戦犯として処刑した。
2.これらの米兵を処刑した一切の責任は自分にある。
彼はこの2点を基本にして法廷に臨もうとしていた。陸軍士官学校時代に日蓮宗に帰依していた彼は、この法廷でのたたかいを「法戦」と呼んだ。

1948(昭和23)年1月、横浜裁判所で始まった裁判で彼はその「法戦」を戦い抜いた。同年5月19日、絞首刑の判決を受けた。映画にもあったが、判決後ただちに両手に手錠をかけられた彼は、傍聴席の前を通るとき妻の顔を見ながら「本望である」と言う。実際にそう言ったと記録されている。

19名の部下達は全員、死刑にはならなかった。この結果も岡田の願った通りとなった。彼は、刑務所内で若い部下たちの精神的支柱でありつづけた。
1949(昭和24)年9月17日午前0時30分、岡田資は刑死した。
(軍人にとって絞首刑は加辱刑である。しかし、占領軍最高司令官マッカーサーは最後まで銃殺刑を裁可しなかった。)

映画「明日への遺言(あしたへのゆいごん)」は、大岡昇平の『ながい旅』(注1)を映画化したものである。映画の原作というと小説と思われがちだが、むろん違う。ドキュメンタリーというべきだろう。大岡昇平は[後記]のなかで次のように言っている。
……岡田資の名を知ったのは昭和四十年……四十三年以来、作品にすることを考えた。……公判以来三十年経って、アメリカ国立公文書館所蔵の裁判記録が公開され……その実情が記録として判然と姿をあらわして来たのである。一部の人々に知られていたことだったが、これは戦後三十六年、米公文書の公開なしにはないことだった。「ながい旅」という題名には、それまでの時間を含んでいるつもりである。(pp.236-237)
―――――――――――――――――――
昨日ここまで書いていて、外出したところ、偶然、この映画の監督、小泉堯史(こいずみ・たかし)へのインタビュー記事を目にした。そこでとりあえずここまでを公開して、映画についての部分を明日公開したい。

(注1)大岡昇平『ながい旅』 新潮社 1982年5月15日

2007年7月8日日曜日

誕生日

今日はごうなの誕生日。この歳になって別に誕生日がうれしいわけでもないけれど、Blog People が誕生日を迎えた者のブログを紹介してくれるそうだから、7月8日がどんな日か、書いてみよう。と言ってはみても、Wikipedia の「今日は何の日?」に出ているようなことを書いてみてもしょうがないし……。

NHKのラジオ深夜便のカレンダーによれば、〈今日の誕生日の花〉はアヤメ科のグラジオラスで、その花言葉は「堅固 用心」。さらにこれにちなむ〈今日の一句〉は、
 グラジオラスゆるるは誰か来るごとし  永田耕一郎

である。この「誰か」は、「だれか、怪しいやつ」と用心すべき者よりも、「もしやあの人では」と、こころときめく「誰か」がふさわしいように思えるがいかが…。

1973(昭和48)年の今日、尾崎翠が市内末広温泉町の鳥取生協病院で亡くなった。75歳だった。
松岡正剛が「面影小学校出身の小野町子(尾崎翠のこと)が奏でるくらくらするような『第七官界彷徨』なんて、とうてい男には書けません」と言っている面影小学校は父親が校長だったとき、翠が通っていた学校だが、今も市内雲山にある。

昨年の今日、ハスキー ヴォイスの米国映画女優、ジューン・アリスン(June Allyson)が亡くなった。
88歳だった。
彼女の映画を最初に見たのは「若草物語」Little Women(1949)で、鳥取西高に入学してまもない、1950(昭和25)年5月7日のことだった。次女役のアリスンが主役で、長女がジャネット・リー、三女がエリザベス・テーラー、四女が名子役マーガレット・オブライエン。映画を見てたちまちアリスンのフアンになった。
9月に入って、英語のクラスがいっしょだったH君と、教科担任の川口勝先生に「なにか英書を読みたいのですが…」とお願いしたところ、3週間後に、研究社版の
Little Women by Louis Mary Alcott
を取り寄せて、与えられた。これが英書らしいものを読んだ最初だった。
その後、アリスンの映画は、ジイムェズ・スチュアートとの三部作のうち、
「甦る熱球」The Stratton Story(1949)
「グレン・ミラー物語」The Glenn Miller Story(1953)
を見た。

さて、今日の鳥取市の天気はどうであろうか。アメダス(所在地:鳥取市吉方 標高:7m)の結果は明朝書き加えることにしよう。

日照時間:2時間40分 降水量:なし 最大風速:5 m/s(13:00)
最高気温:27.6 ℃ 最低気温:19.8 ℃

今夜の月は、下弦である。

【松岡正剛の千夜千冊】
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0424.html 

【ごうなのおすすめ本棚】
 http://booklog.jp/users/gauna57/front/jm=&cate=368425&dm=udu
















2007年6月14日木曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/映画『母』

あれは還暦同窓会(正確に言えば、高校時代の同期生会)でのことであったから、今から十二三年前のことだ。市内湖山で開業医をしているN君に会った。高校卒業以来だから、40年(以上)ぶりになる。彼とは出身中学が異なっていたから、鳥取西高ではじめて出会い、1年生で同じクラスになった。
最初のホームルームで、全員が自己紹介をした。
N君はその時のことを覚えていて、そっくり繰り返した。

自分の姓名を言ったあとで、「ぼくは内市の蒲鉾屋の息子である。カーライル曰く、長き夜を泣き明かしたるものにあらずんば、いまだ共に人生を語るに足らず。以上」

ずいぶんとキザなことを言ったものだが、「変わった奴だなあ、と思い、いまでもその言葉を覚えている」とN君は言った。

当時、カーライルの著書をむろん読んでいたわけではない。ただ、そのころ、新渡戸稲造を崇拝していて、彼の愛読書のひとつが、カーライルの『衣裳哲学』であったことくらいは知っていた。
中学時代に、鶴見祐輔原作の映画『母』を見て、その映画の終わりにこのカーライルの言葉が大きく字幕に現れたのを見た記憶がある。

ネットで検索することを覚えてから、いろいろ古いことを調べることができるようになった。映画『母』は、最初、1929(昭和4)年に松竹が作っていて、高峰秀子が5歳の女の子の役で、審査を通って出演したことなどを知った。
これ以外では、1950(昭和25)年に同じく松竹で水谷八重子等が出演して作られていることがわかった。おそらくこの映画を見たのであろう。ただ、この年は毎日日記を記しているが1月ー4月の間にこの映画の記録がない。前年だったのかもしれない。映画のどの場面も記憶にないが、当時流行った三益愛子主演の母物映画とは違うという印象をもったことを覚えている。

2007年5月6日日曜日

映画「わかれ雲」 6

高校卒業後の話になる。
小学唱歌「ふるさと」についてのブログで書いたように、1953(昭和28)年の春、大学受験に失敗して、京都で浪人生活を送った、と書いた。
関西文理学院という予備校へ通った。下宿は市電の烏丸車庫の裏あたりで、北大路橋に比較的近いところにあった。

翌年の1月、受験に必要だった身体検査を、紫野保健所で受けた。レントゲン撮影の結果、左の胸部に疑わしい〈かげ〉があるとのことだった。そのことを告げた老医師は診断書には「著変なし」と書いておくから受験が終わったら精密検査を受けるようにと言った。温厚な感じの先生はわたしの立場に同情し、細かな点までいろいろ気をくばって注意を与え、かつ激励をしてくれた。

京都では外食生活だった。朝は、マーガリンを付けた食パンと下宿へ配達して貰った牛乳1本。昼と夜の食事のうち、一食は、うどん(当時ラーメンはなかった―あったとしても、その存在は知らなかった)、もう一食は主として烏丸食堂の定食だった。
定食は、丼一杯のご飯、みそ汁、香の物の3点セットで、食券があれば28円、無ければ35円。食券とは、区役所で「主要食糧購入通帳」を作ってもらい、それを使って一ヶ月分の外食券(40食分)を貰うのである。
上に述べた3点セットにプラスできるのが、冷や奴/30円、野菜サラダ、あるいはコロッケ(1個)/35円、ハムエッグ、あるいはビーフカツ/50円。(これらの値段も外食券がある場合)。食費は1日、100円以内でやりくりした。
京都にはじめて出た時の体重は56キロくらいあったが、一ヶ月後には1.5キロくらい減っていた。
こういった食事のことをはじめ、いろいろ考えて予備校もやめ、下宿も引き払って、1月31日に鳥取へ帰った。前年の4月21日以来、夏休み、年末年始の休みを除いて京都では200日ほど暮らしたことになる。

まだ京都にいた11月か12月のことだったと思う。下宿の二階の四畳半の部屋で読書していたとき、あのメロディーが、「わかれ雲」のあの旋律がかすかに聞こえたような気がして窓を開けた。どこかの家のラジオから流れてきたらしい。もうあの映画を見ることができなくても、あの曲はまた聞くことができるかもしれない、と思った。

鳥取へ帰ってすぐ精密検査を受けた。日赤病院の医師の診断は、都会での生活は無理というものであった。家族も少なくとも今後一年は鳥取でのんびり暮らすがいい、という意見だった。
同級生、H君の父上に「大阪に日本で一番の権威である先生がいるからその先生の判断を仰いだら」とすすめられた。等胸大の写真を日赤から借用してお送りした。2月10日に返事があり「無理をしなければどこで学生生活を送っても大丈夫」との判断をいただいた。むろん、こちらの判断に従った。もともと鳥取に近い京都か、大阪で、と言っていた母親を、京都も東京も同じだから、と説得した。幸い、早稲田の英文に合格した。

わたしがはじめて上京した、1954年頃、新宿に〈カチューシャ〉とか〈灯しび〉といった歌声喫茶ができ、ロシア民謡が盛んに歌われはじめた。映画「わかれ雲」の音楽は、ロシア民謡の「ともしび」であった。

川崎弘子は、1976年6月に亡くなった。64歳だった。福田蘭童もあとを追うように、その4ヶ月後に71歳で他界した。

2007年5月5日土曜日

映画「わかれ雲」 5

津村秀夫が「おちぶれ者の女中」の役で「五所的人物の哀愁」を帯びていると述べている川崎弘子にもっとも心を引かれたことは先にも述べた。
2年ほど前に、ウェブで採録したこの映画のストーリーを載せる。当時の「キネマ旬報」に掲載されたものだと思うが、確かなことは分からない。
信州の小さな町へ農村の風俗研究の旅で立ち寄った女子大学生のグループの一人の藤村眞砂子は、そこで突然発病してしまった。旅館山田館の女中おせんのはからいで、診療所の南医師の診察を受け、軽い肺炎だといわれた。眞砂子は一人静養のため山田館に残り、おせいの手厚い看病をうけ間もなく快方にむかった。間もなく東京から母の玉枝がむかえに来た。姉のように若く美しい母であったが、眞砂子は冷く母をさけて、一緒に帰ろうとはしなかった。淋しく帰る玉枝を駅へ送ったおせんは、彼女が眞砂子の義母であることを打明けられ、眞砂子のかたくなな心をときぼくしてやりたいと思うのだった。おせんは愛のない結婚だったが、その夫も、二人の間に出来た子供も失ってしまい世の苦しみを味いつくした女だった。眞砂子はそのおせんに心温いものを感じ、また山の町で献身的に働く南医師の真剣な生活態度を見たり、その医師やおせんと、更に山奥の無医村、長澤部落へ集団検診に同行、その村の分教場で、土地の古い因習と戦いながら幼い者の教育に努力している岡先生の姿を見て、眞砂子は自分一人の利己のなかにとじこもって、周囲の人々、殊に父や母の愛情を傷けていたことのあやまちを悟った。やがて出張の帰途、迎えに立ちよった父と共に、見ちがえるほど明るくなった眞砂子がおせんや南医師に送られて、山の町を立って行ったのだった。
この「おせん」を演じた川崎弘子は、1912(明治45・大正元)年の生まれだから、38~39歳だ。「物静かで心温まる感じ」と日記に記している。
おそらく、女子大生、眞砂子を前にしてだったろうが、おせんが自分の両手を見つめながら、「きれいな手なんて、つまりませんね」と、ぽつんと言った場面を今でも思い出す。

前述したように、この映画を見たのは、1951年12月26日であったが、30日の夜もう一度この映画だけを見に行って、その日の日記に「美しい信濃の景色、美しい人々の心」「何と言っても、おせんが一番良かった」などと書いている。さらに、「週刊朝日」の批評は間違っていない、と書いているが、津村秀夫の批評に一つだけ、不満があった。それは、彼がこの映画の音楽について一言もふれていないことであった。

洋画は別として、当時の日本映画の音楽と言えば、悲しそうな顔の女主人公が小川のほとりなどを独りで歩いていく場面などで、その映画の主題歌がバックに流れる、といったていどのものが多かった。
この映画は違っていた。むろん、主題歌などはない。哀愁を帯びた旋律が終始ハミングコーラスで流れていた。その旋律がいつまでも心に残っていたが、その後、二度と聞くことはなかった。

2007年5月4日金曜日

映画「わかれ雲」 4

津村の批評文について言えば、制作技術上の指摘はよく分からなかったが、中村是好、岡村文子、三津田健らベテランについての言及は理解できたし、行ったことはなかったけれど、「信濃風物詩」という言葉の中身も分かったような気がしていた。しかし、もっとも心に残ったのは「川崎弘子のおちぶれ者の女中自体が五所的人物の哀愁」と津村が述べている、川崎弘子だった。
彼女が美人女優としてもてはやされていたことは知っていたが、出演した映画を見た記憶はない。ただ「人妻椿」で見たことがあったんじゃないかなあと思い、ウェブ上でもいろいろ調べてみたがわからない。

明治時代の夭折した画家、青木繁(1882-1911)は、その代表作「海の幸」(1904)と「大穴牟知命(オホナムチノミコト=大国主命)」(1906)の中に、同じ画塾の学生であった福田たねの顔を描き込んいるといわれている。結婚はしなかった二人の間に生まれた男の子は古事記の山幸彦・海幸彦から幸彦と名付けられた。後の福田蘭童である。尺八の名手、釣りの達人などと呼ばれているが、わたしたちより若い人たちには、“ヒャラーリ、ヒャラリーコ、……”の笛吹童子の方が懐かしかろう。
福田蘭童はプレイボーイとも言われていて、川崎弘子と結婚したときには、いろいろと騒がれたらしい。蘭童の息子が石橋エータローで、はな肇とクレージーキャッツのピアニストとして活躍したが、蘭童の先妻の子である。

2007年5月3日木曜日

映画「わかれ雲」 3

批評家(Q)とは誰であるか?
当時辛口の批評で知られ、このアルファベットの一文字で通用していた津村秀夫である。
らむぶらーの本領を発揮して横道にそれるが、[歴史が眠る多磨霊園]というサイトは、津村家の墓を紹介しながらとんでもない間違いを犯している。
同墓所には信夫の長男で映画評論家の津村秀夫(1907~1985)も眠る。
津村信夫(1909~1944)は、生年を見れば分かるとおり、二つ年上の秀夫の父親なんてことはあり得ない。秀夫の弟である。信夫は立原道造らとともに、「四季」に属していた詩人で、三好達治は、つぎのように述べている。
山深い信州の自然や人間、繁華な都會に住む詩人たち數人の友人、津村君の短い生涯を傾けて愛したものは、その二つの焦點の上に凡そ集約されてゐたであらう。無邪氣な坊ちやん坊ちやんしたその清純な生涯は、それ自身一篇の童心豊かな抒情詩に外ならなかつたかも知れぬ。(p.215)*
さらに言えば、俳優の津村鷹志(本名、秀祐)が 秀夫の長男である(NHKの大河ドラマ「風林火山」に今川家の牧野成勝役で出演)。

* 三好達治『詩を讀む人のために』學生教養新書(至文堂)1952/06/01
現在、岩波文庫で入手可能。

そろそろ本道へもどりましょう。

ごうなのおすすめ本棚 1

詩を読む人のために


2007年5月2日水曜日

映画「わかれ雲」 2

この映画を見た日の日記に、当時の「週刊朝日」に載った批評の全文を書き写している。900字を超えるが、引用する。
スタジオ・8プロダクションの第1回作品。新東宝の芸術祭参加作品だが、独立プロの悲しさに諸事切りつめた無理が目立つ。(例へば殆ど信州ロケで撮りながら、セリフは全部アフレコ、口とセリフが合わない場合多し)そうした技術的方面では東宝の「めし」などに著しく劣る。が、これは四年振りの五所監督作品として珍しいし、また捨てがたい抒情味もある小品である。ラジオ小説から五所、館岡、田中(澄江)が協力脚色し、信州の小淵沢の町のみすぼらしい宿屋、そこに泊まった女子大生、真砂子(沢村契恵子)と村の保健所の青年医師(沼田曜一)の淡い恋を描く。旅で発病した少女は宿の女中(川崎弘子)の看病を受けるが、ヒネクレ娘である。亡き実母を慕い、継母(福田妙子)を嫌う為のヒネクレ根性が医師への思慕と、無医村の実情をを知ることなどで、次第にとけて行く。どうもそのとけ方は、新人沢村の未熟さで思うようにいかず、前半の不自然な硬直ぶりと、後半のハシャギ方の違いがあまりに目立つ。この映画を新宿の映画館まで(見に:引用者補注)行った筆者は、しかし往年の五所監督の秀作『伊豆の踊子』を想起した。ということは、この女学生趣味のセンチメンタルな抒情味に彼の古風さが出ていると同時に、また半面では、彼独特の美しい詩味も発露しているということ。たとへば川崎弘子のおちぶれ者の女中自体が五所的人物の哀愁だが、宿の亭主(中村是好)の描き方など逸品であり、その他女将(岡村文子)と娘(倉田マユミ)や同宿のイカサマな旅廻りの舞踊団の連中を配した安宿風俗が、それ自体信濃風物詩なのである。またセットを使わず、旅宿の内部まで実景を使用したが、その風物詩は三浦光雄の軟調の撮影効果に依ってこそ活きている。戦後は軟調が流行しないが、三浦技師は悪条件にもかゝわらず、よく主題にふさわしい効果をあげた。青年医師を甘ったるく描かなかったのもこの作の長所だが、訪ねて来た父(三津田健)と娘の出会いも淡々として味がある。但し、茂原式のフィルム色調を三ヶ所ばかり採用したのは感服できない。五所監督の再出発を祝福したいし、沢村や沢田(倉田の写し間違いか?:引用者注)の新人たちにも若干の望みを嘱する。(Q)
この批評文を掲載していた「週刊朝日」がいつ発行されたものか分からないが、批評家(Q)が新宿までこの映画を見に行ったと述べているので、インターネットで調べたところ、

新宿昭和館・昭和二十六年 (1951) 上映作品
 11/23(金)~29(木)
 「わかれ雲」沢村契恵子/沼田曜一  監督:五所平之助【当館封切】

という情報がヒットした。おそらく評者は、新宿昭和館でこの期間にこの映画を見たと考えてよかろう。そうだとすれば、11月下旬から12月中旬までの間に発行された「週刊朝日」に掲載されたものと推測できるし、ひと月遅れでこの映画を見た鳥取の高校生が、その日の日記にこの批評文を書き写すことができたわけだ。

2007年5月1日火曜日

映画「わかれ雲」 1

昨年の4月29日、沼田曜一という俳優が亡くなった。朝日新聞の死亡記事によれば、81歳だった。「(19)50年、映画『きけ、わだつみの声』のほか、映画やテレビに脇役として多数出演した」とある。

話はいきなり、わたしの高校時代に飛ぶ。当時、田舎町の中高生にとって映画は最大・最高の娯楽だった。
1951(昭和26)年12月25日、高一第二学期末試験の最終日、下校するとすぐ、当時川端通りにあった洋画上映館の第一映劇へ行った。クリフトン・ウェッブ(Clifton Webb)主演の「我が輩は新入生」‘Mr.Belvedere Goes to College.’(1949年作品)という愉快な喜劇作品。
翌日は昼食を終えるとすぐ、同じ川端通りにあった世界館へ同学年の友人三人と出かけた。そのうちの二人は前日第一映劇でも出会った友人だ。
映画は、大映映画「月から来た男」と新東宝映画「わかれ雲」の二本立て。映画館としては前者がメインであったに違いない。長谷川伸の原作を衣笠貞之助が、脚本・監督、主演は長谷川一夫 、乙羽信子。しかし、日記では、「全くくだらぬ映画」と切り捨てている。
もう一本の映画は、独立プロ(ダクション)の作品を新東宝が配給したもので、主演は沢村契恵子、沼田曜一の若いコンビだった。

2007年4月28日土曜日

小学唱歌「故郷(ふるさと)」の作曲者

 もう9ヶ月ばかり前の話で恐縮だが、NHKの朝の連続テレビ小説「純情きらり」。その第104回(2006/08/01)の一場面。失業中のジャズマン、秋山均(半海一晃)はラジオ番組で流す歌謡曲や唱歌のアレンジをする仕事を引き受け、桜子(宮崎あおい)に手伝ってほしいと言う。そのアレンジ曲がラジオから流れる場面で、アナウンサーが「岡野貞一作曲」と言うのが聞こえた。曲は「朧月夜」であったと思う。
 その翌々日の場面(8月3日、第106回)。前日の大雨で帰れなくなった秋山の代わりに桜子の編曲した曲が放送されることになる。マロニエ荘の住人たちはラジオの前に集まり、放送が始まる。「岡野貞一作曲、有森桜子編曲『ふるさと』」というアナウンスが今度ははっきりと聞こえた。

1953(昭和28)年、大学受験に失敗したわたしは、生まれて初めて、京都で一人暮らしの浪人生活を始めた。やがて郷愁病に罹ることになる。
鴨川の川辺を散歩しながら、よくこの歌を口ずさんだ。
山は久松山、川は袋川や狐川、そして千代川であった。「志を果たして」とは、当面「入試合格を果たす」ことであったが、五科目の国立はおぼつかなかった。いずれにせよ、この歌の作曲者が鳥取市出身の岡野貞一であることなどまったく知るよしもなかった。

文部省唱歌と呼ばれるこれらの歌―正確に言えば、『尋常小学読本唱歌』を前身とする『尋常小学唱歌』(全6冊)が出版されたのは、明治44年から大正3年にかけてのことだ。
これらの中の、たとえば、「春の小川」(第4学年用)や「朧月夜」「故郷」(第6学年用)の作曲者が岡野貞一であり、作詞者は、よく岡野とコンビを組んだ長野県出身の高野辰之であったことなどが明らかになったのは、昭和で言えば、早くても30年代の後半、あるいは40年代のことであったと思う。冒頭で挙げた朝ドラの場面は「大東亜戦争」のさなかのことで、岡野貞一の名前を告げるアナウンスがラジオから流れる、なんてことはありえなかったのである。