2009年2月10日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (15)

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1941年12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃は、日本にとっては大成功だった。
午前1時30分(ホノルル時間、7日午前6時)[赤城(アカギ)]など6隻の空母から次々に発進した雷撃機、爆撃機、戦闘機など、第1波・183機の大編隊は1時間49分後、隊長機から発信された「トトトト(全機突撃セヨ)」を受けて、湾内に停泊していたアメリカ太平洋艦隊の主力艦を急襲した。湾内に係留されていた[アリゾナ][オクラホマ]など8隻の巨大戦艦が次々に轟音とともに煙と炎を挙げていく。(第2波攻撃隊167機は第1波から1時間15分後に母艦から発進した。)
隊長の淵田美津雄中佐(当時39歳)は、全機突撃の命令から4分後「トラトラトラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)」と打電した。この発信は[赤城]の中継を待つまでもなく、東京の大本営、広島湾の旗艦[長門]も直接受信したという。

この日、午前7時、日本国民はラジオから流れるNHK放送を聞いた。
「臨時ニュースを申しあげます。臨時ニュースを申しあげます」
勇壮な軍艦マーチが流れた後、
「大本営陸海軍部午前7時発表。帝國陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
これが大本営発表の第1号であった。

しかし、事実上の宣戦布告である米国に対する最後通達「対米通牒(覚書)」は、在ワシントンの日本大使館員の怠慢と無規律によって解読と浄書が遅れ、奇襲攻撃から1時間近くも遅れて手交された。
そのため、この攻撃は卑劣な行為として、アメリカ国民の怒りを買い、Remember Pearl Harbor! (真珠湾を忘れるな!)と戦意を昂揚させた。もともとこの攻撃は開戦に消極的であった連合艦隊司令長官の山本五十六大将が先制攻撃によって米太平洋艦隊を壊滅させ、米国民の戦意を喪失させようとしたものであったが、その意図は裏目に出る結果となった。

【参考図書】
『昭和二万日の全記録 第6巻 太平洋戦争』講談社 1990年1月
『日録20世紀 1941』講談社 1997年7月
中田整一 編/解説『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社 2007年12月 

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