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2010年8月19日木曜日

トランクの中の日本 (2/2回)

紹介したい写真はいろいろあるが、少年少女を撮った2枚の写真をご紹介する。カメラを扱う私の技術が未熟なためでもあるが、写真に付された文章も読んでいただきたいと思うからだ。
最初は例の「直立不動の少年」。




………
 焼き場に一〇歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。
私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は廻れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?(pp.96-97)
[長崎の小学校にて]
この教室を訪れたとき、私は壊れた窓や校庭であったはずの場所が完全に破戒されている様を見て、深い悲しみに襲われた。子供たちは驚くほど規律正しく手も動かさずに静かに座っていた。私は教室に侵入者のように現れたが、子供たちは私に目を向ける様子もなく、ただじっと先生の話を注意深く聞いていた。そして先生も私を無視して、授業を続けているのであった。疎外感がこみ上げ、私はさっさと写真を撮るとそこを後にした。(pp.94-95)







上の説明文のタイトルが「小」学校となっているが、「国民」学校が正しい。昨日のブログで紹介したオダネルの文中にも書かれているように、彼が日本に滞在していたのは1945年9月から翌年の3月までの7か月間であった。1941年4月から1947年3月までは国民学校であった。
この写真の最前列左の女の子の服に縫いつけられている名札には「奈(?)○○國民學(校)」と書かれている。○○の部分の漢字は判読できない。ネットで調べてみたが具体的な学校名は確認できなかった。

ただ、この写真をもう一度アップしたのは、子どもたちの目を見て欲しかったからだ。写真に写っている最前列の子どもたちの足は男女ともみな素足だ。机の上には教科書やノートもない生徒もいる。なんの授業かも分からない。しかし、教師の顔を見上げている、子どもたちの真剣な目を見てほしい。

わたしも6年間国民学校に通った世代だ。焼き場に立っている少年も、この教室の少年少女たちもたぶん同じ年齢だ。違っていても2歳は違っていまい。これらの写真を見るたびに、熱いものがこみあげてくる。

これらの写真を残してくれたジョー・オダネルさんは、奇しくも、2007年の8月9日、長崎・原爆の日に亡くなった。85歳だった。



2010年8月18日水曜日

トランクの中の日本 (1/2回)

あれはいつのことであったか? 正確には思い出せない。後で述べることから、推測すると、1992年か、その翌年のことであったと思われる。
新聞の記事、というより記事とともに掲載されていた一枚の写真に衝撃を受け、心を打たれた。この写真は一昨年の夏、NHK総合テレビでも放映され、多くのブログがとりあげた。

2008年8月7日(木) 午後8時~8時49分、「解かれた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI~」
(→http://www.nhk.or.jp/special/onair/080807.html

1995年6月に『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』が小学館から発行され、「あの少年に会える」とすぐに買った。

冒頭で推測したのは、この写真集の帯にこう書かれているからだ。
1990年からアメリカで、ついで1992年から日本各地で彼の写真展は開催され、話題を集める。しかし、この夏に予定されていたワシントンのスミソニアン博物館での原爆写真展は、すでに報道されたように在郷軍人の圧力でキャンセルされた。ここにおさめられた57点の写真は、スミソニアンではついに展示されなかった真実の記録である。
さらに同じ帯に「1993年、日本で開かれた写真展で食い入るように写真を見つめる人々。」という説明と写真も載っている。

この写真集は現在でも入手できるので、ここで紹介しておきます。


この写真集に、なぜこのような題名が付けられたのか?
寫眞の撮影者、ジョー・オダネル(Joe O'Donnell)自身の言葉「読者の方々へ」を引用しよう。

私ジョー・オダネルは、アメリカ海兵隊のカメラマンとして、1945年9月2日に佐世保に近い海岸に上陸した。空襲による被害状況を記録する命令を受け、23歳の軍曹だった私は、日本各地を歩くことになった。
私用のカメラも携え、日本の本土を佐世保、福岡から神戸まで、そしてもちろん広島、長崎も含めた50以上の市町村に足をのばした。カメラのレンズを通して、そのとき見た光景の数々が、のちに私の人生を変えてしまうことになろうとは知る由もなかった。
1946年3月、本国に帰還した私は、持ち帰ったネガをトランクに収め、二度と再び開くことはないだろうと思いながら蓋を閉じた。生きていくためにすべてを忘れてしまいたかったのだ。
しかし45年後、戦後の日本各地で目撃した悪夢のような情景からどうしても逃れられないと思うようになった。私はトランクを開けると、湿気からもネズミの害からも奇跡的に無傷だったネガを現像し、写真展を開催した。
この本は私の物語である。私自身の言葉で、私の撮影した写真で、戦争直後の日本で出会った人々の有り様を、荒涼とした被爆地を、被爆者たちの苦しみを語っている。胸をつかれるような寫眞を見ていると、私は否応なく、辛かった1945年当時に引き戻されてしまう。そして、私のこの物語を読んでくださった読者の方々には、なぜひとりの男が、終戦直後の日本行脚を忘却の彼方に押しやることができず、ネガをトランクから取り出してまとめたか、その心情を理解していただけると思う。
1995年4月 ジョー・オダネル

2010年4月10日土曜日

NHK朝ドラ「ゲゲゲの女房」

先週の月曜日(三月二十九日)、NHKテレビで朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」が始まった。水木しげるの奥さん、武良布枝(むら ぬのえ)の同名の作品のドラマ化である。

今や世界の共通語となった「マンガ」だが、戦前の日本のこどもたち(とくに男の子たち)が夢中になったマンガは、阪本牙城の「タンクタンクロー」(大日本雄弁会講談社の雑誌「幼年倶楽部」1934年(昭和9)1月号から1936年12月号にかけて連載)、島田啓三の「冒険ダン吉」(1931-1939年「少年倶楽部」)、田河水泡の「のらくろ」(1931-1941年「少年倶楽部」)などであった。
1934年生まれのわたしには、幼稚園時代に買ってもらった「キンダーブック」や講談社の絵本はあったが、これらのマンガを掲載している雑誌や布装丁の単行本を読むためには、それらを所有している兄や姉がいる同級生に借りるほかなかった。
その後のマンガで記憶に残っているのは、戦後まもなく、「小学生新聞」(正確な紙名は失念)に連載がはじまった医学生のお兄さんの作品と紹介されていたマンガ(題名はこれまた失念)の絵を好ましく思って、その絵をまねて描いたりしたことがある。そのお兄さんが手塚治虫だった。以来、マンガを読んだことはない。
前世紀の90年代に、たとえば、呉智英や関川夏央たちがマンガを論じているのを読んで、ふーん、と思ったことがあっても、マンガを読んだことはない。

昨年の十一月末に、再放映されたNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀 /闘いの螺旋、いまだ終わらず~漫画家・井上雄彦」を偶然見て驚いた。『バガボンド』と言うマンガが吉川英治の『宮本武蔵』であることもはじめて知ったが、武蔵の大写しの顔を描くためにあれだけ考え、悩み、意を決して一気に描く仕事ぶりと描き上げた絵を見て、さらに驚いた。これもマンガか!

そんなわたしも、娘たちが見ていたテレビを通してであろうか、
ゲッゲッ、ゲゲゲのゲー/朝は寝床で グーグーグー/たのしいな たのしいな/おばけにゃ 学校もしけんも/なんにもない/…
という歌を憶えている。
何年か前、境港市に用事で出かけた折に、妖怪たちのブロンズ像が並ぶ通りを歩いたこともあった。しかし、いまだにそのマンガを読んだことはない。

先週の月曜日(3月29日)から、NHKのテレビ、ラジオの番組が新年度の番組に変わった。番組名の変わったものもあるし、新番組もスタートした。連続テレビ小説、いわゆる「朝ドラ」も、8時から「ゲゲゲの女房」が始まった。脚本は山本むつみ。原作は、ドラマの題名からいっても、水木しげる(武良茂)の妻、武良布枝(むら・ぬのえ)の『ゲゲゲの女房』といっていいだろう。  

水木しげるについては、かつてこのブログでも紹介した『昭和二十年夏、僕は兵士だった』
にあるように、九死に一生を得た体験の持ち主であることも承知していた。(ただ、このドラマが始まった日の早朝、午前0時台から再放映されたNHKスペシャル「鬼太郎が見た玉砕」
http://www.nhk.or.jp/nagoya/kitaro/midokoro.html

を見逃したのは、まことに残念であった。)

このドラマが始まる前に、原作の『ゲゲゲの女房』を読んでみた。さきほど述べたように、
歌の文句は多少覚えてはいたが、どうして「ゲゲゲの鬼太郎」や「ゲゲゲの女房」なのか、まったく分かってはいなかった。鳥取県西部の米子や境港ではどうか知らないが、東部の鳥取では、子供のころ、(いちばん)ビリのことを「ゲゲ」といっていた。「下々」とか「下の下」の意であろうか。現在のこどもたちが使っているか、どうかは知らない。
この本を読んでやっとわかった。

『ゲゲゲの鬼太郎』というタイトルも水木の発案でした。
「オレが小さいころ、シゲル」といえず、自分のことをゲゲルといっていたから、「ゲゲ」とガキ大将仲間から呼ばれていた。だからゲゲゲの鬼太郎でもいいんだ」
水木はそういって笑っていました。(p.152)

これなら「ゲゲゲの女房」すなわち「(みずき)あるいは(むら)しげるの女房」だ。

さて、朝のドラマがはじまって、ちょうど2週間になった。先週は布美枝の子供時代。7歳の布美枝役の菊池和澄(あすみ)、10歳の布美枝(佐藤未来)、祖母役(ナレーションも)の野際陽子らが好演。今週はのっぽのヒロイン、布美枝役の松下奈緒登場。なかなかいい。ワンマン亭主の大杉漣は流石、もの静かで控えめの妻役、古手川祐子もいい。
この2週間のドラマは、原作では[第1章 静かな安来の暮らし]で、20ページあまりのなんの事件もない序章的な部分だ。
脚本の山本むつみは、金曜時代劇「御宿かわせみ」でデビュー以来、幅広いジャンルの作品を手がけてきただけあって、さすがと思わせる。来週からが楽しみだ。

最後に、「NHKウィークリー ステラ」4/2号に掲載されている武良布枝さんの談話の一部をご紹介しておこう。
主人は、何ひとつ私に甘い言葉をかけてくれるわけではないし、ロマンチックなこともぜんぜんなかったですね。でも、一生懸命仕事に打ち込んでいる彼の姿は、私の中では輝いていたんです。本当に努力の人でしたから。あれだけ努力した人間が報われないことはないと、心のうちでは思っていました。(中略)私はもちろんですが、主人も、『ゲゲゲの女房』が朝ドラの原案になったということは、心の中で大いに喜んでくれていると思います。ここまで元気でやってこられて、こうして喜ばしいことがまた生じて――。本当にみなさまに感謝しております。このうえは、多くの方にこのドラマを見ていただけるよう、お祈りしております。(p.11)
  

2010年1月5日火曜日

『昭和二十年夏、僕は兵士だった』

梯久美子(かけはし・くみこ)の『昭和二十年夏、僕は兵士だった』を「まえがき」の最初および最後と、目次だけを引用してご紹介する。
↓下の画像をクリックしてください。梯さんが直接、あなたに語りかけます。

 昭和二〇年夏。戦争は、敗けて終わった。二〇代の若者の多くが、兵士として終戦を迎えた(本書でいう兵士とは、兵卒の意味ではなく、戦うための人員として戦争に動員された人のすべてを指す)。生き残ったかれらは、仕事を見つけ、あるいはもう一度学校で学び直し、社会へと出ていった。
 廃墟の中から新しい日本を作ったのは、かれら若い兵士だった世代である。敗戦国の兵士たちが、戦後を生きるとはどういうことだったのか。戦争の記憶は、かれらの中に、どのような形で存在し、その後の人生にどう影響を与えてきたのだろうか。
 …………
 この本の中で話を聞いた……五氏は、終戦時に一八歳から二六歳だった。現在はそれぞれの分野の第一人者であり、功成り名を遂げた人たちと言っていいだろう。
 かれらもまた、あの夏、ひとりの兵士だった。ゼロからスタートして、何者かになったのである。その半生は、戦争に敗けた国が、どのようにして立ち上がっていったかの物語でもある。

(もくじ)
賭博、男色、殺人―――。
南の島でわたしの部下は、何でもありの荒くれ男たち。…………金子兜太
でもわたしは彼らが好きだった。

脚にすがってくる兵隊を
燃えさかる船底に蹴り落としました。         …………大塚初重   
私は人を殺したんです。一八歳でした。

逃げるなら大陸だ。
私は海峡に小舟でこぎ出そうと決めました。     …………三國連太郎
徴兵忌避です。女の人が一緒でした。

もうねえ、死体慣れしてくるんです。
紙くずみたいなもんだな。               …………水木しげる
川を新聞紙が流れてきたのと同じです。

マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、そして 沖縄特攻。
二〇歳の頃に経験したことにくらべれば、      …………池田武邦
戦後にやったことなんか大したことない。

以上の五氏について、改めてご紹介する必要もあるまいが、簡単に記しておく。

金子兜太(かねこ・とうた)1919年生まれ。俳人。句集多数。
大塚初重(おおつか・はつしげ)1926年生まれ。日本考古学会の第一人者として、登呂遺跡をはじめ、多くの発掘を手がける。
三國連太郎(みくに・れんたろう)1923年生まれ。1951年映画「善魔」で主演デビュー(当時わたしは高1で、この映画を見た。)
水木しげる(みずき・しげる)1922年生まれ。今年の3月からNHKの連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』が始まりますネ。
池田武邦(いけだ・たけくに)1924年生まれ。戦後、霞ヶ関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビル、ハウステンボス等を手がけた建築家。いずれ、このブログであらためて取り上げたいと思っている。

2009年12月31日木曜日

昭和十六年十二月八日⑦最終回

なぜ横山艇についての報告が見あたらないのか?
なぜ今回発見された横山艇は、三つに分断されているのか、なぜそれぞれの部分にチェインやワイヤーが乱雑に巻き付けられていたのか? 

今回の調査に同行した軍事評論家のパークス・スティーベンスンさんは米海軍が戦争中に引き上げ、切断して捨てたのだと、推定した。
開戦直後、米国では、なぜ日本軍の真珠湾攻撃を許したのか、議会を中心に、調査や検討が行われていた。そういう最中に横山艇は発見されたのではないか? 米軍艦艇による敵潜水艦発見の通信が米海軍司令部に無視されたこともあった。追求を免れるための隠蔽だったのではないか、という。日本が軍神として騒いでいても、われわれにとっては何でもないのだということを示すためだったかもしれない、ともいう。

徹底的に分解調査された酒巻艇は、復元されて米国中を巡回した。戦意高揚のために利用されたのだ。ルーズベルト大統領も「見物」し、六千万ドル以上の戦時国債を売ったという。
一方日本では、捕虜になった酒巻少尉を消し去り「九軍神」を作った。軍部のなかには酒巻が自殺することを望む者もいたという。事実、彼自身二回自殺に失敗している。酒巻は米国で得た情報を手紙で遺族に知らせたりもしている。
(『九軍神は語らず』の巻末にある《主要参考文献》の中に『捕虜第一号』新潮社 1949、『俘虜生活四ヶ年の回顧』東京講演会 1947 があげられているが、いずれも未読である。)

米国においても、日本においても、彼らはプロパガンダに利用されたのだ。
日本では、軍人、学者、小説家、が競うように「九軍神」を讃える文章を書き、歌人、俳人、詩人たちも讃歌をつくった。
かつて、個人紙に今回と同じテーマをとりあげた。そのとき引用した文章を今回も引用しておきたい。幸田露伴の孫、青木玉の『小石川の家』からの引用である。
 …どんなに 祖父が怒っても戦争は拡大し、中国各地に兵は進められて行った。親類の甥達は召集を受け、近所で毎日のように御用聞きに来ていた魚屋の息子も炭屋の跡取りも佐倉の連隊へ集められ外地へ行く先も知らされず送り出されて行った。
祖父は自身老いて力なく、国を守るべき息子はとうに先立っている。たまらなかったに違いない。古書を扱っていた人に中国の雲南の地図を取り寄せさせて、新聞やラジオのニュースを聞いて、どこへ兵士が派遣されたか自分も地図の上で道を辿った。この地方はどんな気候で地形はどうなっている。今の季節はどんな風が吹き、雨はどんな降り方をするか、炎熱酷暑、洪水泥濘、ろくな食べ物もなく、風土病に冒されれば全滅の憂き目に逢う。軍を預かる者は何を考えているのだ。古くからこの地であった戦さに、かくも無謀な兵の進め方をした者は無い、と怒りと悲しみで活火山のようになった。遂に真珠湾攻撃の特攻隊、人間魚雷、病んで仰臥したまゝ白髪も、白くなった鬚も震えて、
「ああ若い者がなあ、若い者が」
と号泣し 、私は居たたまれず部屋から飛び出してしまった。(pp.124-125)
露伴翁こそ、あの時代にあって、まともな精神を持ち続けた稀有な人物の一人であったと思う。

最後の特殊潜航艇の艇長となった植田一雄さんは、言った。「十名の若者たちは、わずか一ヶ月足らずの訓練を受けて出陣したのだ。不運にも戦果をあげることはできながったが、それはそれでいいではないか。軍神になぞしなくてもいい。任務を果たすべく、努力を尽くしたんだ。」
植田さんと同じように訓練を受けて出陣した4000名の若者たちが命を捨てた。

68年の歳月が流れた今も、真珠湾沖合い6キロ、水深400メートルの海底に放置されたままの横山艇。植田さんはいう。「あの司令塔に乗っておられたことは、間違いないですからねえ。」

別れるときがきた。植田さんは、遺族や戦友から預かった写真を調査艇の丸窓にかざしながら、呼びかける。「みなさん、お元気で、おふたりによろしくとおっしゃていました。横山さーん、上田さーん、安らかにお休みください……」






2009年12月30日水曜日

昭和十六年十二月八日⑥

5隻の特殊潜航艇のうちい4隻については確認できているのだから、今回発見されたのは、当然、横山艇である。これまで引用してきた『九軍神は語らず』のなかでも、横山艇が開戦日の午後10時41分に「トラトラトラ」を打電したとき、その艇は確かに、「真珠湾内に在ったが、爆雷に悩まされ、二本の魚雷は、すでに発射されていた。死場所を求めて…湾内を三日間さまよったあげく、壮烈な最期を遂げた。」と、牛島秀彦は書いているだけである。

横山艇の母潜水艦、伊十六潜(艦長、山田薫中佐 http://74.125.153.132/search?=cache:DxFqjklK4pQJ:www2.ocn.ne.jp/~srekishi/sensuikantyou.html+%E4%BC%8A%EF%BC%91%EF%BC%96%E5%8F%B7%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6%E3%80%80%E8%89%A6%E9%95%B7%E3%80%80%E5%B1%B1%E7%94%B0%E8%96%AB&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp)の電信兵だった岡山在住の出羽吉次さん(90歳)が、このテレビで次のように証言した。

横山さんとは階級は違うが、同い年で、潜水艇の建設段階からいっしょに仕事をした。横山艇が母潜を離れるとき、自分が最後に電話で話をした。元気で帰って来て下さいと言ったら、母潜に戻って「送り狼」
を連れてくるようなことはしない。こちらは二人ですむ。親艦の100人を助けるためにも、絶対に帰ってこない、と答えたという。
出羽さんは、その日ずっと横山艇に波長を合わせて待機していた。夜、10時41分、突然、「キラ」と一回だけ受信した。出羽さんは、日誌に、「キラ」(「トラ」)完受ス、と記入し、その旨通信長に報告して判断をまかせた、という。

映画の題名にもなってみなさんがご承知のように「トラトラトラ」は、「ワレ奇襲ニ成功セリ」の暗号電文でった。モールス信号ではトラは「・・―・・/・・・」だ。キラは「―・―・・/・・・」。つまり、トとキのちがいは、最初の「・」と「―」の1音の違いだ。
いずれにせよ、このキラを大本営はアリゾナ撃沈と結びつけ「九軍神」をでっち上げたのだ。

牛島秀彦も、アリゾナ撃沈は、時間的にも、特殊潜行艇によるものではないことを、ハッキリ言っているが、牛島の死の9年後に、出版された自叙伝のなかで、真珠湾攻撃の総指揮官だった淵田美津雄は次のように書いている。
 私が、十二月二十六日(引用者注:昭和十六年)拝謁で上京していたとき、大本営の潜水艦主務参謀の有泉龍之介中佐が、私のところへやって来て、「淵田中佐、アリゾナの撃沈を特別攻撃隊の戦果に呉れないか」と、もちかけたのである。私は苦笑した。
「別に功名争いするわけではないし、特殊潜航艇は特攻だから、その功績を大々的に吹聴してあげたいのはやまやまだけれどね、アリゾナは無理だよ。それはね、アリゾナはフォード島東側の繋留柱にかかっていたのだが、その外側にヴェスタルという工作艦が横付けしていたので、アリゾナには魚雷は利かなかったのだよ。従って特殊潜航艇の魚雷による轟沈などと発表したのでは、あとあと世界の物笑いになるよ」
 有泉中佐…は憤然として出て行ってしまった。(注1)
今回の調査の際、特別の許可を得て、二人の潜水夫が沈んでいるアリゾナの側面を調べたが、魚雷の当たった痕跡は発見できなかった。
また、横山艇についての記録はアメリカ側には全くない、というか残されていなかった。次回、最終回で述べたい。

注1 中田整一編/解説『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』
  講談社 2007年12月8日発行 p.140
  テレビでは、淵田の自筆原稿を紹介していた。




2009年12月24日木曜日

昭和十六年十二月八日⑤

第②回の冒頭に書いたように、今月6日の夜、NHKスペシャルがアメリカ公共放送WGBHとの国際共同制作「真珠湾の謎~悲劇の特殊潜行艇」を放映した。

17年前、ハワイ大学の海洋調査船が真珠湾沖合6キロで、偶然、日本海軍の特殊潜行艇の残骸を発見した。今年3月、日米の共同調査団がこれを調査することになった。使用された深海調査艇は、水深2000メートルまで10時間潜水可能で、水圧に耐えるカメラも装備していた。
搭乗できるのは三人で、日本人は植田一雄さん(83歳)が参加した。

真珠湾攻撃から2年後の1943年12月8日に封切りされた松竹映画「海軍」は、真っ先に真珠湾へ突入した横山正治少佐(軍神となって二階級特進)をモデルとしたもので、大本営海軍報道部が企画したものであるが、植田さんは、この映画を見て感激し、16歳で海軍兵学校に入学した。
特殊潜航艇は改良され、5人乗りの「蛟龍(こうりゅう)」となり、植田さんは艇長となって、特攻訓練を受けたが、戦後は、海上自衛隊を経て退役した。

深海調査艇は、水深380メートルのところで特殊潜航艇らしきものを発見、植田さんは、8の字のネット・カッターを確認して、日本海軍の特殊潜航艇だと断定した。さらに二本の魚雷は発射されており、これこそが横山艇に間違いないと言った。

もう一度、開戦時の真珠湾に戻る。
真珠湾からはるかに離れた裏オアフのベローズ・ビーチ沖合いのサンゴ礁に座礁した酒巻艇は、翌朝発見され、米軍によって分解され徹底的に調査、研究された。

水上機母艦カーチスと応急出動艦モナハンに魚雷を発射した岩佐艇は、その2隻によって撃沈され。2週間後引き上げられたが、損傷があまりにも大きかったので、「葬送の儀式を行ったうえ、…乗員二名の遺体を収めたまま当時建築中の潜水艦基地の基礎固めに用いられた。」「1947(昭和22)年3月、ハワイの米軍当局は、遺品として、真珠湾底の泥にまみれた海軍大尉の袖章を日本に送還、遺族(特別攻撃隊隊員中、大尉は岩佐直治隊長のみ)に送付された。」(『九軍神は語らず』 p.78&79)

前回、X-1艇とした特殊潜航艇は、「1960(昭和35)年6月13日、真珠湾湾口からダイヤモンド・ヘッドへ向かって、1.8キロ、深さ23メートルの海底から引き揚げられた。」「牡蠣(かき)が艇全体に付着して、艇番号もわからず、司令塔に砲弾痕…電池室付近に爆雷攻撃を受けた痕跡があるほか、艇体の破損は少なかった。/二本の魚雷は装着されたままで、未発射。その火薬は、約十九年間も海底にありながら、有効だった。/衝撃的なことは、艇内に、二名の乗組員の遺骨、遺歯がなかったことだ。遺留されたものは、作業衣一着、靴一足、一升瓶一本のみで、艇内は整理されていた。/…米海軍当局は、『搭乗員は沈没と同時に艇外に脱出、逃亡したものと推測される』とした。」(同上書 pp.73-74)
さらに、「司令塔ハッチの掛金が内側からはずされている」という米側の報告と、万一の場合には浮上上陸して敵陣に切り込むために、携行する日本刀と拳銃も艇内になかったことから、牛島秀彦はこう推測している。「搭乗員二名は、艇を浮上させ、司令塔ハッチを開いて、斬込みを敢行せんがために、海上に脱出した。」さらに、「真珠湾湾口からわずか一・八キロ。この海域は、裏オアフの海上とは違って波浪も穏やかで、人喰い鮫もめったに出ない。/また脱出したと見られる時刻には、未だ日本機による空爆も始まっておらず、海は、“平穏で、すばらしいハワイの海”なはずである。/…たかだか一・八キロの沖合いから陸地めざして泳ぎつくことは、『帝国海軍の遠泳の訓練』に比べれば、全く文字どおり屁の河童(ヘのカッパ)ではないか。/…オアフ島で、日本海軍軍人による斬込事件はない。/事実は小説より奇なり―。『九軍神』中二名(もしくは一名)が、脱出に成功をなし、ずうっとハワイの人となって生きつづけている可能性はある。」(同上書 pp.74-75)

日本軍の空爆の始まる前、6時45分にウォードが撃沈したX-1艇は無人だったことになる。このX-1艇は、1961(昭和36)年夏、日本に返還され、原形に復元されて、海上自衛隊第一術科学校教育参考館に安置されている。(同上書 p.73)

開戦当日の朝、巡洋艦セントルイスを湾口で魚雷攻撃したX-2艇は、魚雷を危うくかわしたセントルイスによって撃沈された。この艇は2002年に引き上げられている。

したがって、今回発見された特殊潜航艇は、横山艇ということになる。

2009年12月15日火曜日

昭和十六年十二月八日④

時計を逆戻りさせて、4隻の伊号潜水艦が真珠湾湾口に逆扇形に並んでいたところへ戻ろう。(以下「0012」のように、4桁数字で表示しているのは、現地時間で「午前零時12分」をいう。)
もう一つ付記しておく。これから書く内容は、ほとんどすべて、牛島秀彦の『九軍神は語らず』(講談社文庫)によっている。その親版は、1976年11月に講談社より刊行されている。これは、たいへんな労作で、今回のテレビ番組もこの本によるところが少なくないだろうと、思っている。

12月7日、5隻の母潜水艦から5隻の特殊潜航艇(甲標的)が真珠湾内に向かって発進した。
0042、横山艇。0116、岩佐艇、0215、古野艇。0257、広尾艇。0333、酒巻艇。
湾口は潜水艦の進入を防ぐための防潜網が下ろされていて、米軍の艦船が出入するたびに上げ下げされていた。そのため、潜航艇の前面には8字型のフェンス・カッターが取りつけられていた。彼らは、湾内侵入に成功しても、0800に始まる日本空軍の爆撃が終了するまでは海底で待機し、その後、残存している敵艦船に2本しかない魚雷を発射することになっていた。

0342、湾口付近で作業中の米掃海艇の1隻が、外方3.2キロの海面に小型潜航艇の潜望鏡を発見、付近を哨戒中の駆逐艦ウォードに発光信号。同艦は30分間付近の海上を捜索したが何も発見できなかった。潜望鏡発見の時刻、状況からして、横山艇であったと思われる。
0500直前に掃海艇を入港させるため、防潜網が開かれ横山艇が侵入したと考えられる。

0633、哨戒からもどる途中の偵察機がまたもや国籍不明の小型潜航艇を発見、位置を明確にするため発煙弾二個を投下した。その艇は工作船アンタレスの後ろをぴったりとつけて、湾内に侵入しようとしていた。
駆逐艦ウォードが現場に急行、0645、その艇に90メートルの至近距離から発砲、第2弾目を司令塔に命中させ、さらに爆雷攻撃を加えて沈没させた。
アメリカ海軍は、0756に開始された日本機による奇襲より1時間早く、日本海軍の秘密兵器を撃沈した。(ここでは、この艇をX-1艇としておく。)

0730、日本軍機の空爆開始直前に、駆逐艦ウォードの音波探知機が、新たな挙動不審の潜航艇をとらえた。ウォードは激しい爆雷攻撃を浴びせ、潜航艇はかなりのダメージを受け、多量の油を漏らしながらも追跡を逃れて、湾口攻撃を断念、空爆を避けて湾外へ脱出をはかる米艦をねらった。
1000頃、湾口に姿を現した巡洋艦セントルイスに魚雷二本を発射したが、危うくかわされて、魚雷は水道入口のサンゴ礁にあたって爆発した。
魚雷を二本発射すると、潜航艇の艇首は急に軽くなって海面に跳ね上がり、司令塔までが海上に浮上する。今度はセントルイスが司令塔を砲撃し、ルード船長はこれを撃沈したと、判断した。この撃沈された艇をX-2とする。

0835、応急出動艦モナハンは、日本軍機の空爆中であったが、湾内を航行中、信号兵が、水上機母艦カーチスが「敵潜水艦発見」の信号をあげていると艦橋に報告した。カーチスは日本機の急降下爆撃を受け、甲板上は火の海になっていた。まさか、と思っていたモナハンの艦長に「あの海面に見えるものは何でしょう」と艦橋にいた部下が言った。「どうやら敵潜水艦のようだ」という艦長の言葉が終わらぬうちに、その敵艦がカーチスめがけて魚雷を発射した。至近距離過ぎて魚雷は命中せず、パールシティのドックに命中した。モナハンの艦長はフルスピードを命じ、この潜航艇めがけて突進した。今度はモナハンめがけて魚雷が発射されたが、これもはずれてフォード島の海岸で爆発した。
その間、カーチスは、飛び出すように浮上した潜航艇の司令塔に射撃を浴びせ、艇長を即死させた。フルスピードで進んできたモナハンは潜航艇に激突し、その上を乗り越えた。さらに爆雷攻撃を加え、潜航艇の前部を吹っ飛ばした。無残な姿で撃沈されたのは、岩佐艇であった。

最後に母艦を離れた(0333)酒巻艇は、ジャイロ・コンパスの故障のために出動が遅れていた。そして、無謀にも故障が治らないまま発進したのである。そして0817、真珠湾口水道の東側のサンゴ礁に座礁して、米駆逐艦ヘルムに発見され砲撃を受けた。後進を繰り返しやっと離礁し、砲弾にも当たらず、再び潜航したが、座礁を繰り返し、魚雷発射装置の故障、圧搾空気やバッテリーのガス漏れなどで、艇内の気圧が上昇し、二人の疲労困憊はその極に達していた。真珠湾からはるかに離れた裏オアフのベローズ・ビーチ沖合いのサンゴ礁に座礁したとき、電池が放電しきって進むことができなくなった。上陸を決意した二人は、艇を残し、陸に向かって泳ぎ始めた。酒巻少尉は浜辺に人事不省で倒れているところを、日系二世のデイヴィド・M・阿久井軍曹に捕らえられ、この戦争の捕虜第1号になった。稲垣二曹は、極度の疲労で溺死したか、当時よく出没していた人食い鮫にやられたらしいという。

2009年12月14日月曜日

昭和十六年十二月八日③

ちょっとわき道にそれるが、今回のブログ記事を書くのにモタモタしていたら、昨13日の朝日新聞の【昭和史再訪】が12月8日の太平洋戦争開戦を取りあげて、(ハワイ=石川雅彦)がこんなことを書いていた。

……敗戦による国の崩壊へと突き進む起点が「真珠湾」だった。
 日本からはるか6千キロ。現在でもジェット機で7時間かかる。真珠湾をながめ、私は「よく、まあ、 こ んなところまで」と無謀さにあきれる。
 日本海軍は空母6隻に最新鋭の零戦を載せてハワイに向かった。だがそれは、真珠湾以降を 考えない日本海軍の「総力戦」だった。

引用した部分のなかでも、とくに零戦で真珠湾攻撃をしたなんて、ウソを書いてはいけない。

真珠湾攻撃総隊長であった淵田美津雄の自叙伝(注2)から引用しておく。
 オアフ島に向かう第一波空中攻撃隊の進撃隊形は、私の総指揮官機が先頭に立って、その直後に、私が直率する水平爆撃隊四十九機が続いている。右側に五百米離れて、…雷撃隊四十機…。左側には…降下爆撃隊五十一機…。そして…制空隊四十三機の零戦が、これら編隊軍の上空を警戒援護しながら、随伴しているのであった。(p.110)
二波にわたって発進した飛行機は、360機であった。

注2.編/解説 中田整一『淵田美津雄自叙伝』講談社 2007年12月8日

2009年12月12日土曜日

昭和十六年十二月八日②

去る6日(日)のNHKスペシャルで、「真珠湾の謎―悲劇の特殊潜航艇」が放映された。

1941年11月18日午後8時、大型巡洋潜水艦丙型の伊号潜水艦の4隻が、広島県倉橋島からハワイ真珠湾へ向かって出港した。各艦は特殊潜航艇を搭載していた。もう1隻は搭載する潜航艇の転輪羅針儀(ジャイロ・コンパス)が故障のため、翌19日午前2時16分出港した。
艦名・艦長:特殊潜航艇指揮官・同付は下記の通り。

伊22・揚田清猪中佐:岩佐直治大尉・佐々木直吉一曹
伊16・山田 薫中佐:横山正治中尉・上田 定(かみた・さだむ)二曹
伊18・大谷清教中佐:古野繁実中尉・横山薫範(しげのり)二曹
伊20・山田 隆中佐:広尾 彰少尉・片山義雄二曹
伊24・花房博志中佐:酒巻和男少尉・稲垣 清二曹

特殊潜航艇の10名の出身県は、岩佐大尉・群馬、横山中尉・鹿児島、古野中尉・福岡、広尾少尉・佐賀、酒巻少尉・徳島。佐々木一曹・島根、上田二曹・広島、横山二曹・鳥取、片山二曹・岡山、稲垣二曹・三重。(なお、母艦、伊16号の山田薫艦長も鳥取県出身である。)

士官の最年長は岩佐大尉の27歳、最年少は広尾少尉の22歳で、いずれも江田島の海軍兵学校出身
、艇付の最年長、最年少は佐々木一曹の28歳、片山二曹の24歳だ。

後で改めて紹介するが、『九軍神は語らず』の著者、牛島秀彦は「選別された十名は、いずれも申し合わせたように、…地方出身者であり、都会出身者は、一人もいない。」「彼等の大半は、農家出身で、子だくさんのなかで育ち、貧しく、寡黙で、剛毅木訥型だ。」と述べている。(23ー24ページ)

広島の倉橋島から出航した各潜水艦は、昼間は潜行、夜間は水上航行でハワイを目指した。開戦二日前の12月6日の日没までに、真珠湾湾口から185キロ圏に到達し、夜間に浮上して最後の特殊潜航艇発進準備を完了した。開戦前夜、5隻の母潜水艦は湾口を包むように逆扇型の隊形に並んでいていた。湾口までの距離は10~23キロであった。

2009年12月10日木曜日

昭和十六年十二月八日①

12月8日。「天声人語」は次のように結ばれていた。
▼今日が何の日か知らない若い世代が、ずいぶん増えていると聞く。わが身も含めて4人に3人が戦後生まれになった今、風化はいっそう容赦ない。伝える言葉に力を宿らせたいと、かつて破滅への道を踏み出した日米開戦の日に思う。
翌9日の「朝日川柳」にはこんな句が採られている。
   語りたい八日聞く人誰もいず

天声人語子に励まされ、この川柳に苦笑いしながら、このブログ記事を書く。

昭和16年12月8日(以下日時は東京時間)、午前7時、ラジオは臨時ニュースを伝えた。「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部午前六時発表―帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」のアナウンスが二度繰り返された。この日は月曜日であったから、醇風国民学校でも宮代校長が朝礼の壇上で開戦を告げ、少国民としての心構えを訓示したはずである。
「はずである」と書いたのは、ラジオの臨時ニュースも校長訓話もまったく記憶にないからだ。

当時の校長訓話がどのようなものであったか、兵庫県の加古川国民学校の「式日訓話記録」から冒頭部分を引用してみよう。12月11日に行われた「対米英戦争宣戦の大詔奉読式訓話」である。
何時になったらば、アメリカ、イギリスに対する宣戦の大詔を拝する事が出来るのかと、我々一億の国民は、実に待ちに待って今日に至りましたが、勿体無くも去る八日、アメリカ合衆国及イギリスに対し、宣戦の大詔を御煥発になりました。
我々国民として、感激此の上もない次第であると存じます。恐らく皆さんや私共が一生を通じて、こうした大詔を拝する事は、これが最後であろうと思います。私はこれで大詔を拝する事は三回目であります。日清日露両戦争と、此の度の対米英戦争と三回であります。
一昨日に、即ち十二月八日、午前十一時三十分、ラジオを通じて、宣戦の大詔が御煥発になった事を知って、只それだけの事を皆さんにお知らせしました。続いて十一時四十五分、宣戦の大詔の奉読あり、東條首相の「宣戦の大詔を拝して」と題する涙のこぼれる様なお話があったのでありました。
幸に十時頃にサイレン吹鳴禁止の命令(引用者注:空襲警報などをサイレンで知らせるため、学校の授業の開始、終了などをサイレンで知らせることを禁止したと思われる。)があったのと同時に、校長室のラジオをかけておいて、仕事をしていたので、この事が一早く知る事が出来、皆さんにお知らせもし、詔書の拝読や、首相のお話も、校内放声装置のお蔭で、聞く事が出来ました事は、他の学校でも数多く無い事でしょう。
……国力からいっても、軍備からいっても、経済力からいっても、世界一々々々と自分から誇っているし、又実力も持っているアメリカ合衆国並に地球上太陽の没する事のないという、広い領地を持つイギリスが、この太平洋方面の作戦の大事な基地にしている、アメリカのハワイや、ミッドウエイや、ウエイク、フィリッピン、又イギリスの香港、マレー、シンガポール等を電光石火の如く、八日午前三時を期して、米英両国の軍隊が立上がるひまもない程に爆撃し、又軍艦を轟沈する等、陸海軍の手ぎわのよさ、このニュースを聞いた皆さんの嬉しさ、私共の感激は死んでも忘れる事は出来ないと思います。(後略)注1.pp.270-271
長い引用になってしまったが、これで全体のざっと三分の一である。なお、原文は旧仮名遣いになっているが、現代仮名遣いに改めた。(続く)

注1.『加古川市史料2 加古川小学校式日訓話記録』加古川市史編さん室
   平成5年3月31日

2009年7月14日火曜日

原爆の恐怖

わたし如きが今さら紹介するまでもないが、田口元さんの『百式』というサイトがあって、ユニークな海外のウェブサイトを毎日1件ずつ紹介している。(http://www.100shiki.com/)
昨日は、地域を指定すると、その地域を攻撃できる核兵器がどれぐらいあるかを教えてくれる『Nukeometer』というサイトを紹介していた。

もうすぐ広島、長崎での原爆による犠牲者の鎮魂を祈り、不戦を誓う日を迎える。
月から見た地球の美しさを見たばかりだが、今日は、その地球の住民であるわれわれの愚行に思いを致そう。

田口さんは「情報の正確さについては賛否両論あるだろうが、何かを考えるきっかけにはなるかもですね・・・」と言っているが、人間の怖さと愚かしさを改めて考えてみましょう。

攻撃目標は鳥取にしましたが、日本中どこにしても数字は同じであろう。しかし、自分の住んでいるところを記入して、この核弾頭の数字を見るべきでしょう。

(写真をクリックすれば、拡大します。)

2009年5月27日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (36)

【26年ぶりの「帰国」】
父ヘンリーの死から6ヶ月後の1956(昭和31)年11月、スタンレーは26年ぶりに鳥取の地に戻った。
「子供時代に去った日本、ことに鳥取へ戻るためには、戦勝国アメリカの人間にとってさえも、二十六年という歳月が必要だったのだ。スタンレーは四十六歳になっていた」と加藤恭子は書いている。
 この年の十一月、第一回アジア・大洋州地区電子顕微鏡会議が東京で開かれ、スタンレーが特別講演に招待されたのだった。彼は「細胞学と組織学における電子顕微鏡の貢献」と題する講演を英語で行った。
 
 その中で彼は、この学会が自分の生まれた国へ帰る二十六年ぶりの機会になった感動を述べたあとで、こう続けている。
「日本海に近い小さな都市鳥取で、私は生まれ、育ちました。そこは西洋の影響があまり強くない土地でしたので、日本の古くからの、そしてすばらしい文化的伝統に密接にふれながら育ったのです。こうした子供の日々の経験は、すばらしい文化、そして日本人や他のアジアの人たちが成し遂げた芸術的な業績に対し、変わらない賞賛とそれを楽しむ気持ちを私の中に植えつけました」
 この招待講演の実現には、その年四月に帰国した山田英智の尽力があった。彼はこの年に久留米大学解剖学の教授に就任していた。
 ……………………
 学会が終わると、スタンレーと英智は山陰線の夜行列車の薄暗い寝台車にもぐり込んだ。
 十一月一日の早朝、鳥取駅着。寒い朝だったが、空はくっきりと晴れていた。生まれ故郷の土地に降り立った感慨が、駅前のまだ扉を下した家々を、無言のまま眺めているスタンレーからひしひしと感じられた。
 最近アメリカから赴任してきた宣教師の家にまず立ち寄り、朝食をとった。小さな家だった。赤ん坊を抱えた夫人にとっては、異郷での生活が苦しそうな感じだった。新婚間もない父と母が、二日かけて中国山脈を越えた日のことを、スタンレーは連想していたのかもしれない。
 朝食後、久松山に登った。ずんずんと一人で先に立って登るスタンレーのあとを、英智も追った。城跡からは、朝日に照らされる鳥取の町が一望できる。じっと立ち尽くすスタンレーの姿を、英智は少し離れた場所から見つめていた。
(帰って来た……)
長身のスタンレーの身体全体が、鳥取の町へ向かってそう語りかけているようであった。
 スタンレーが生まれ育った「宣教師館」は、戦後進駐軍によって使用され、失火により焼失してしまっていた。焼け跡にたたずむスタンレーの脳裡には、「異人屋敷」ともよばれた「宣教師館」でのあれこれが去来していたにちがいない。機械好きのスタンレーは、おもちゃを片はしから分解した。足の踏場もなかった自室……、庭で遊ぶ子供たち……。そしてその中には、あのフレデリックも交じっていたかもしれない。
 孤児院、教会、幼稚園、どこでも大歓迎だった。昔を知る人たちが集まって、アルバムを広げ思い出話がはずんだ。
「まあ、こんなに大きくなって……」
 と、スタンレー少年の成長した姿に眼を細める老婦人たち。尾崎誠太郎をはじめ、幼な友だちは、話し始めるとすぐ、〝子供の顔〟になってしまうのだった。
 ……………………………………………
 フレデリックの墓にも詣でた。
 「花を捧げてじっとぬかずく教授の上に松風がかすかな音を立てます」
 と英智は記している。
 母のアンナは、スタンレーのみやげ話を楽しみにしている。長年の伴侶を失ったばかりのアンナのために、スタンレーはあちこちの写真を撮りまくった。一つ一つの場所を、スタンレーは鮮明に記憶していた。
 長年心の中だけで想い続けてきた土地に、スタンレーは戦争をはさみ、まさに二十六年ぶりに立っていた。そして、この昭和三十一年以降、彼は何度も何度も鳥取へ帰って来る(引用者付記:この前5字に傍点あり)ことになる。
   (『スタンレーの生涯』pp.138―141)
今回はほとんど引用のみになってしまった。著者にたいしても、このブログを読んでくださった方にも申し訳ないと思う。
ただ、付記しておかねばならないことがある。スタンレーが鳥取へ帰ってきたのが、11月1日の早朝であったとすれば、学会は10月であったはずである。逆に、学会が11月であったとすれば、鳥取へ帰ってきたのは、11月X日か、12月1日ということになる。
この点を確認することは今のわたしにはできないし、また、ここでは、学会での発言と鳥取へ帰ってきたスタンレーの様子を知ることでいいだろうと思っている。



2009年5月15日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (35)

【両親の死】
スタンレーの最初の弟子となった山田英智の『電子顕微鏡とともに』(城島印刷、1984年)の中に「砂山」と題したエッセイがあり、スタンレーの父、ヘンリーの晩年の姿を描いているという。
加藤恭子が『スタンレー・ベネットの生涯』の中(pp.136-137)で引用しているのを孫引きしておく。
1955年の4月5日、フィラデルフィアでの第6回アメリカ組織化学会に出席したスタンレーは山田を伴って、2日目の午後の講演と夜の発表の間の短い時間に、フィラデルフィア郊外のジャーマンタウンに当時住んでいたヘンリーを訪問したのである。
「ドアをノックしますと扉が開いて小柄で痩せた上品なお母さんが出てみえて中に案内されました。居間にはお父さんが椅子に座したままで挨拶されます。肥って血色がよくとても八十に近いと思は(ママ)れません。然し脳溢血の為に半身不随で殊に視覚に障害を受けて殆んど今では見えないということなのです。(略)小さな声で断片的に出る話は日本の昔のことでした。始めて鳥取に赴任する時未だ汽車もなく人力車で山陽道から山を越えていった話。その時、車夫に一円あげたら警官から多すぎるといって注意されたとか、日光を見ぬ中は結構というなとか」
みんなで夕食をとって、すぐに辞去した二人を、出口まで見送った母のアンナは、「さよなら、またいらっしゃい」と山田英智に日本語で別れを告げたという。

 加藤恭子は書いている。
 ヘンリーとアンナから届いたクリスマスプレゼンとのことを、スタンレーの幼な友だち尾崎誠太郎は、はっきりと記憶している。鉛筆百本と、アメリカの少年少女雑誌から人物写真を切り抜いたもの。「日曜学校の生徒さんたちに。今の私たちには、これだけしか送れません」という手紙が添えてあった。(p.137)
1956(昭和31)年5月7日にヘンリー・ベネットは死去した。
母のアンナは97歳まで生き、1973年12月20日、タルサで死去した。1966年に彼女が書いた鳥取の思い出を『スタンレー・ベネットの生涯』(p.222)から、これまた孫引きしておく。
「宣教師たちは英語やアメリカ文化を伝えようとしましたが、関係は相互的なものでした。こちらが与えたよりずっと多くのものを、私たちはもらったのでした。教育水準の高さ、礼儀と名誉の尊重など、私たちは日本人を尊敬するようになりました。私たちがいくつかの間違いを犯したにもかかわらず、人々が私たちに与えて下さった思いやりのある理解、親切、誠実な友情を、私たちは決して忘れないでしょう。子供たちは日本で育ち、ほかの国の人々との〝友愛〟の大切さを学びました。私たちが日本に住むことができたことを、感謝しています」

2009年5月14日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (34)

【若い日本人科学者たちの養成と、日本の電子顕微鏡製造技術への貢献】

先回の終わりに引用した文のなかで加藤恭子が述べていたように、戦場から戻ったスタンレーの心の中では日本、わけてもこども時代を過ごした鳥取への望郷の思いが大きくふくらんでいったのであろう。その具体的の表れの一つが、日本人研究者の育成と日本における電子顕微鏡の発展を手助けすることであった。

1954(昭和29)年の5月、一人の日本人が横浜から二週間の船旅の後、サンフランシスコに着いた。2日後、夜行列車でシアトルへ。針葉樹林がどこまでも続く景色を眺めつつ、不安を胸に抱きながら彼はシアトルのキングス駅に降り立つ。
「…トランクを下げて歩いてゆくと、出口のところで、額の広い、がっちりした体格の白人が、にこやかに笑みをみせながら日本語で話しかけてきた。『山田さんですか。私がベネットです。荷物はそれだけですか』
これが、スタンレーと日本人弟子第一号、山田英智との出会いであった。
(この項、『スタンレー・ベネットの生涯』pp.125-126 による。)

山田は当時、30歳を過ぎたばかりで、九州大学医学部解剖学教室の助教授だった。山田を含む9人の日本人がスタンレーの下で指導を受けた。これが「第一世代」である。

スタンレーは、1961年から約八年をシカゴ大学で過ごすが、日本人の弟子はとっていない。
1969年にノース・カロライナ大学へ移ってからのスタンレーに師事した若手研究者たちが「第二世代」である。その第一号が飯野晃啓。1938(昭和13)年北海道生まれで、鳥取大学医学部を卒業後、同大学助手となっていた。
1966年神戸で開かれた国際解剖学会議での彼の発表―偏光顕微鏡観察によるキチン質の形態学―を最前列で聞いていたスタンレーが「非常に面白い。いい発表ですね」と誉め、アメリカに来るように、さっそった。
晃啓は、妻の佳世子、二歳の光伸とともに、一九七〇年から七一年にかけて、客員助教授としてベネット研究室に在籍することになった。第二世代第一号の弟子である。一九七〇年四月二十八日午後にチャペル・ヒル着。
晃啓が鳥取大学医学部硬式テニス部の文集に書いたエッセイによると、スタンレーは飛行場まで出迎えてくれたという。

「手を上げて待っていてくれ、流暢な日本語で迎えてくれ、疲れも吹き飛んでしまった」
第一世代第一号の山田英智以来、スタンレーが示してきた心遣いである。遠来の客の心細さが彼の日本語のひと言で吹き飛ぶことを知っていたのだろうか。しかも、スタンレー自身大好物の羊かんを、
「これは虎屋のですから、召し上がって下さい」
と、佳世子に手渡した。箱入りで、ちゃんとのし紙がかかっていた。
スタンレー愛用のベンツには東大寺、東照宮、善光寺など、お守りがざらざらとぶら下げてあった。
「保険に入るより安いですからねえ」
と、スタンレー。(『スタンレー・ベネットの生涯』p.239)
この{第二世代」は六人だった。
これらの人々は、加藤恭子の言葉を借りると、「日本における解剖学の発展に寄与する錚々(そうそう)たる学者」たちとなって、「ベネット会」を結成していた。加藤恭子の二冊の本は、この会の要請によって生まれたものである。

いまひとつ、日本の電子顕微鏡の製作に関するベネットの貢献にふれておきたいが、正直に言って、わたしにはよくわからない。

・日本でも1932(昭和7)年頃から電子顕微鏡という言葉(electron microscope の訳語として)が生まれ、1939年には電子顕微鏡発展のための基礎を担う委員会ができたこと。

・日立研究所が電子顕微鏡1号機を作ったのは1942(昭和17)年春のことであったこと。

・日本における研究は戦争で中断したが、国分寺にあった日立の中央研究所は戦災をまぬがれ研究が続けられていたこと。

・戦後、なんども来日したスタンレー(彼は物理や電気にも強く、図面を見ただけですべてが分かり、すべてを読み取ってしまったという)の助言や弟子たちの厳しい注文などを受けて、「今日、世界で最も優秀な電子顕微鏡を生産しているのは、日立製作所、日本電子株式会社を中心とする日本のメーカーである」(『スタンレー・ベネットの生涯』p.180)こと。

加藤恭子が様々な文献を読み、取材を重ねて、この面についてもよく調べて書いていることにただただ感心するばかりだ。

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2009年5月5日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (33)

1945(昭和20)年10月31日付で兵役を解除されたスタンレーは、その2日後、ボストン郊外のブルックラインへ再び戻ってきた。一家そろっての生活がまた始まった。

戦争の始まる前年、1940年の夏、スタンレーの父ヘンリーは、次男のフレデリックが眠る鳥取の地に骨を埋めたいという夢を断たれて、アメリカへ帰ってきた。ブルックラインに大きな家を非常に安く手に入れることができて、スタンレーの一家も移ってきた。
長女のイーデスは1937年生まれ、祖母の名前をもらった次女のアンナは1939年生まれだった。この家に移って間もない42年の春、祖父の名前をもらった長男のヘンリーが生まれた。そして、スタンレーが戦場にいた1944年の2月はじめの雪の日、女の子が生まれ、ペイシェンスと名づけられた。
この年、祖父ヘンリーと祖母アンナは政府の仕事でワシントンへ移ったので、スタンレーが帰ってきたとき、この家には妻のアリスと四人の子供だけが住んでいた。

スタンレーは、ハーバード大学を休職扱いで戦場に赴いていた。
退役後、MIT、マサチューセッツ工科大学理学部細胞学教室に、助教授として迎えられた。

ここでの3年間が終わった時点で、ハーバード大学医学部教授と、シアトルにあるワシントン州立大学医学部解剖学教授と科長の職と、二つの口がかかってきた。スタンレーは、熟慮の末、後者を選択した。この選択について加藤恭子は次のように述べている。(『スタンレー・ベネットの生涯』pp.106-107)
   電子顕微鏡が、将来の医学、生物学にとっていかに重要になるかを見抜いたのも、その〝才能〟であったのだろう。だが、その〝才能〟は、日本に対しても働いたにちがいない。
 十三歳で日本を離れたスタンレーが再度日本とのかかわり合いを持つことになったのは、いわば異常な状況においてだった。ガダルカナル、沖縄など、〝敵〟としての日本、日本人との再会であった。
 だが、ワシントン州立大学の正教授と科長の地位を得ることによって、望ましい形での交流に乗り出すことができる。実現させられる(引用者注:原文には、左の7文字に傍点)という思いがあったのかもしれない。あるいはそれが、彼にとっては、自己と日本人の傷への〝癒しの道〟だったかのかもしれない。
 彼の心の中には、二つの計画があったのではないだろうか。日本人研究者の育成に手を貸すこと。そして、日本における電子顕微鏡の発展を助けること。
 もちろん、この二つだけが彼の後半生における重要な計画であったわけではない。彼自身の研究を実りのあるものにしていくこと。そして、何よりもまずアメリカ市民として、アメリカにおける電子顕微鏡を用いた細胞生物学のレベルを上げることに尽力しなければならなかった。
 だが、同時に、彼の心の底には、日本に対して何か確たるものがあったように思える。
 その〝何か〟とは、日本人へ対する愛着と言ってよいかもしれない。「私たちはここへ骨を埋めるために戻ってきました」と告げたヘンリーとアンナから引き継いだ鳥取への望郷の思いかもしれない。
 だが、その〝何か〟は、いつのころからか、スタンレーの心の中に巣喰い、成長し続けたように見える。

2009年4月30日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (32)

前回、戦後に話を移すと述べたが、もう1回だけ、沖縄でのスタンレーについて書いておきたい。

米軍は3月26日から27日にかけて、沖縄本島西方にある慶良間(けらま)列島座間味(ざまみ)島、渡嘉敷(とかしき)島などへ上陸し、多くの住民が集団自決している。
本島への上陸を開始したのは、先回述べたように、4月1日の早朝であった。本島への上陸はほとんど日本軍の抵抗を受けなかったが、その後86日間にわたって日本軍の抵抗に苦しめられた。
この闘いでは町ぐるみ、村ぐるみ、住民たちが正規軍に組み込まれて、多くの死傷者を出した。
さらに学徒も動員され、男子は中学校・師範学校生徒1779人のうち890人、女子は高等女学校・師範学校生徒581人のうち334人が死亡した。
日本軍による住民の虐待もしばしばあった。日本本土の楯として犠牲を強いられた住民の死者は正規軍の2.2倍に及んだ事実を忘れてはいけない。
(この項、『昭和二万日の全記録』第7巻p.68 & p.92による。)

このような沖縄戦のさなかにいて、スタンレー・ベネットはどうして長い手紙を76通も書くことができたのか、いぶかる人もいるだろう。

慶良間列島に米軍が上陸した直後、総司令官ニミッツ海軍元帥の名で、米国海軍軍政府布告第一号が布告され、その地域が米軍の軍政下に入ったことが宣言された。
沖縄戦に参加した米軍は、陸軍三個師団、海兵二個師団であった。この海兵師団で編制されていた第三水陸両面作戦軍司令官は、ガイガー将軍だった。
スタンレーは、この将軍の参謀本部付軍医中佐だったのである。
検閲の関係から、あまり具体的に語ってはいないが、スタンレーは軍医としての任務の他に、種々の仕事にたずさわっていたらしい。医薬品など、日本軍の残留物資の調査収集、文書の翻訳、住民対策などである。(『沖縄からの手紙』p.119)
すでに引用した手紙からも推測できるように、スタンレーは多くの住民たちとも直接接触し、彼らの惨状に心を痛め、いろいろと親切に対応している。
住民についての彼の報告や意見は上層部でも評価され、彼自身もこのような仕事で米軍に対しても住民のためにも貢献できると自負もし、軍政府へ入ることを希望もしたが、1945年7月、スタンレーは沖縄を去る。
戦闘にこそ直接参加しなかったにせよ、多忙な毎日を送っていた。一日の仕事を終えた夜、妻への手紙を書き続けたのであろう。いずれにせよ、彼の健筆ぶりには驚く。
加藤恭子の2冊の本の中でもかなりのページをさいている、沖縄の医師、家坂幸三郎との邂逅と交流についても割愛する。
最後に、もう一度だけ、妻アリスへの手紙を一部引用しておきたい。
 君からもらった手紙のことだが、…「私が家族に対して責任感をもつようには、あなたはもっていないと思えてならないのよ。あなたのお仕事はそちらですものね」と言っている。君の言い方は少々不公平なので、ショックだった。二年半以上、アメリカでも何千もの家族が戦争により連絡を断たれ、我々のような少数の人間のみが連絡が取れているのだ。今のところ、私は日本語を話す最高位の将校であるため、あらゆる軍事行動において、日本語を話す一般住民と接し、陣頭指揮に当たっている。ヒューマニズムと我が国のために最善を尽くしている。たとえ、大して成功しなかったとしても、何千もの家族を救うことができるのだ。さらなる戦争を避けるために、今すぐに住民を再教育し、新たな出発をさせなければならない。このために可能な限り力を尽くしたいと思っている。
 今、沖縄島民という文明人を、我々は武力で制圧した。我々も彼らを理解できないし、彼らも我々を理解しない。このギャップの架け橋になるのは、私のような者だ。ほんのわずかな人間のみが、この使命を果たすことができるのだ。アリス、寂しいときに思い出してほしい―私はここでは必要とされ、私が実行に移そうとすることは我が家の将来の平和と同じように大切だ―ということを。困窮する無数の人々を救うために、連絡を断たれている我が軍の家族を最小限にするために、しばらく、君とともに暮らすことをあきらめなければならない。アリス、将来、平和な生活が我々に訪れるためにも、今現在を犠牲にしなければならないのだと、私は言いたいのだよ。どんなにか君には辛かろうが、我々の完全な勝利によって、沖縄の母親たちの多くが夫を失い、想像を絶する辛苦を味わっている現実を君に理解してほしい。この戦時下に、自分以外の人々を救うことで、私は君や家族に対する責任を遂行しているつもりだ。」(1945年5月23日付。『戦場からの手紙』pp.143-144)
日本の無条件降伏まで、あと一ヶ月後となる7月10日、スタンレー・ベネットは沖縄を去り、21日までグアム島、それから真珠湾へと送られた。戦後の9月7日、休暇でワシントンへ帰り、10月31日付で海軍から除隊となった。

 

2009年4月22日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (31)

スタンレーの沖縄上陸2日目の手紙(四月三日付)からの引用。
 この島は気持ちのよい所で、すばらしい。いろいろな点でハワイやグアムよりよいと思う。畑は整然として、肥沃。本土と同じように、ヒバリが畑から囀(さえず)りながら舞い上がったりしている。枝ぶりのよい松の木が道路に沿って並び、ハイビスカスの花は生け垣に咲き乱れ、島は緑に包まれている。
 多くの家屋が損害を被っているのを見るのは、とても心が痛む。日常生活がいきなり断ち切られた痕跡が家のあちこちに見られる。一軒などでは洗う間もなかった食器、あわてて縫い針が刺さったままになっている縫いかけの子供服、用意したまま火のつけてないかまどなどが、そのままになっている。そこここに、子供や大人が息絶えてころがっている。辺り一面というわけでもないのが、せめてもの幸せだ。多くの家屋は爆撃や砲撃を受けていたことがわかったが、大部分の住民はその前に家を離れていたのだ。二人の女が洗濯をしていたので、話しかけてみた。彼女たちは那覇出身で、激しい爆撃が始まってからは山の中に住んでいたそうだ。自分の家が残っているのかどうか知らなかった。方言でしゃべっていたが、よくわかった。
 こんなところが、日本の一角の最初の占領に参加した私の印象だ。沖縄は、鳥取県とか島根県などと同じように、れっきとした日本の一つの県なのだ。那覇はこの島の県庁所在地だが、多分まもなく陥ちることになるだろう。もし日本軍の弱さが見せかけのものでなく、本当だったとすると、もうこっちのものと思ってよいのかもしれない。

四月六日(金)
 この辺りの住民は今では私のことをよく知っていて、敬意を表してくれる。「先生」と日本語で呼んでくれるし、彼らの援助に力を尽くす我々に感謝している。住民は日本軍より、ここの方が自分たちをずっと大切に扱ってくれると病院の軍医に言ったそうだが、よくわかる。何か困ったことはにか尋ねようと、私も何回か足を運んだが、二、三人が出てきて丁重にお辞儀をし、謝意を表す。彼らのことを「すばらしい人々」だと、今朝リヴィングストン軍医が言っていたが、確かに皆穏やかで感謝の心に満ち、忍耐強い人々だ。
ここまでは、昨日エディタで打ち込んでいたのだが、こんな調子でスタンレーの手紙を紹介していたら、きりがない。どんどんブログの回数が増えるばかりだ。このあたりで切り上げて、先に進まねば、と考えた。もともと、このテーマを書き始めたのは、
1)ベネット父子をはじめ家族の人々について、こういうアメリカ人たちがいたことを知って欲しい。
2)これらに人々に関心を寄せていただいて、ぜひ、加藤恭子さんの著書と編訳書を一人でも多くの人に読んでいただきたい。
と願っているからにほかならない。
確かに、両書とももはや新刊書では入手できないが、古書として入手が可能だし、図書館からの借り出しも可能であろう。(鳥取県立図書館では帯出可能であることを確認している。)

次回で、太平洋戦争時代を終えて、戦後のベネット一家について、スタンレーを中心に紹介させていただきたい。
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2009年4月21日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (30)

『戦場からの手紙』の第2部ともいうべき、スタンレーの「沖縄からの手紙」は、1945(昭和20)年3月10日―あの東京大空襲の日から始まっている。
日付を追って数えてみると、3月―7通、4月―17通、5月―20通、6月―27通、7月(7日まで)―5通、計76通の抄訳が収録されている。いずれも妻、アリス宛のものだ。勝ち戦を進めている米軍の、しかも一般兵士ではなく、士官級の地位にあったとは言え、その健筆ぶりには驚かざるをえない。(スタンレーは、ガダルカナル島にいたときと同様、軍医としての任務と、日本語による情報収集などに当たっていたらしい。)

沖縄戦については、若い人たちもそれなりの知識をもっているであろう。前回の『若い人に語る戦争と日本人』からの引用にとどめておく。ただ、米軍が上陸した日のことと、スタンレーがはじめて上陸した日のことについては、やや詳しく記し、彼の手紙も長めに引用する。その後は、手紙の中でわたしが興味、関心を抱いた部分をいくつか紹介することにとどめておきたい。

4月1日早朝、米軍は沖縄本島中部の嘉手納(かでな)・北谷(ちゃたん)海岸に上陸した。上陸軍は1時間もたたないうちに四個師団16,000人になり、戦車部隊も上陸。午前中に嘉手納と読谷(よみたん)飛行場を占領、日没までに60,000人が上陸して師団砲兵もすべて上陸を完了した。米軍の戦死者は28人だった。
守備についていた日本軍の、ある高級参謀であった大佐は、戦後こう書いている。
「午前八時、敵上陸部隊は、千数百隻の上陸用舟艇に搭乗し、一斉に海岸に殺到し始めた。その壮大にして整然たる隊形、スピードと重量感に溢れた突進振りは、真に堂々、大海嘯(だいかいしょう)の押し寄せるが如き光景である。」
「実に奇怪な沖縄戦開幕の序幕ではある。アメリカ軍は、ほとんど防備のない嘉手納海岸に莫大(ばくだい)な鉄量を投入して上陸する。敵を洋上に撃滅するのだと豪語したわが空軍は、この重大な時期に出現しない」(八原博通『沖縄決戦』読売新聞社)
(この項は『昭和二万日の全記録 第7巻 廃墟からの出発』p.68 による。)

こんな有様で、大本営は「本土決戦」を叫んでいたのだ。
四月一日(日)午前十時四十分の日付をもつスタンレーの長い手紙は、「沖縄上陸の初段階は成功を収めたという報告が艦に届く。」という一文で始まっている。
翌日付の手紙も長いものだが、はじめて沖縄に上陸した日のことを細かく記しているので、3分の2あまりを引用する。
 八時半、上陸用意の命令。…
 …上陸してみると、島はいろいろな作物の収穫期らしく、実った穀物や豆類は、取り入れを待つばかり。畦道沿いにながめたが、段々畑やサンゴ礁を石垣に使って囲った畑は、トラックなどでひどく踏みつけられてはいるものの、戦火による損害は少ない模様。
 村を通り抜けていくにつれ、グアムに比べて比較的損害の少ないのにびっくりした。いはいえ、焼失し、粉々になった家も多い。あちこちに穴のあいた家もある。
 村には木陰があり、静かでなかなかよい。太い道はなく、細い小路が通じている。沖縄人は石工芸に優れているとみえ、不揃いに切り取ったサンゴをぴったりと組み合わせた石塀で庭を囲っている。その石塀には細かい葉の華奢な蔓草が一面にびっしりとからみついており、種々の老木はあちこちでその石塀をまたぐようにして、根を張っている。老木から出た無数の気根は、塀の中の石と一体になり、ゆるい編み目模様をつけたようになった幹は、石塀を取り囲み、食い込んで、その一部のようになっている。立派な松や桑の木が木陰を作り、多くの家にはゼラニウムやスミレの花がきれいに咲き乱れている。肥溜めが点在し、あちこちに馬、豚、山羊などの死骸はあるものの、町は不潔だという感じはしない。
 ……
 戻ってから野戦用非常食の昼食をすませ、住む所を探しに村へ向かって出発した。住み心地のよさそうなかやぶきの家を見つけたが、壁は砲弾で穴だらけだった。箒を見つけてきて瓦礫を掃除し、戸棚を整理して荷物をしまった。ホレースはハンモックを吊り、私は簡易ベッドをしつらえ、かやを吊って落ち着いたところだ。この家の主は、防空壕に日用品や書類などを保管していた。我々はこれらの品々を注意深く集め、住民が帰ってきたときのために、家の中へ入れ、しまっておいた。
 村には住民の姿はなかった。逃げてしまっていたのだ。我々は洞窟で、二人の老人と二人の老婦人とが隠れているのを見つけた。私が踏み入ったとき、彼らはふとんの下に隠れた。ふとんの外に出すと、一人の老婦人が、「殺さないで」と嘆願した。万一にそなえて、私は弾をこめたピストルをかまえていたし、同行したコフ大尉もそうだった。私は、「おばあさん」と日本語で声をかけ、「心配しないように。保護するから」と告げた。彼女は手を合わせ、膝をつき、頭を地面につけて礼を言った。だが、私の日本語はあまり彼らに通じないようだったし、彼らの沖縄弁は私にはわからなかった。若い人なら両方が話せるので、私はあとでちゃんとした日本語を話せる中学生を一人連れ、担架を携えて洞窟に戻った。怪我をしている老婦人を乗せ、他の人たちも助け出して水陸両用戦車に乗せた。彼らは驚いたように成り行きを見守っていたが、これで面倒を見てもらえるさきができたのだ。
 住民たちはうろたえながらあちこちをさまよっているが、軍政府の人たちは手を尽くして世話をしている。海兵員たちは親切で、子供たちにはキャンディをやり、年寄りや体の弱った人たちを運び込んできたりし、略奪など、見る限りほとんどない。島民は漆器づくりに優れ、何軒かの家で見事なものを見つけた。中には漆器や陶磁器や急須などを持っていった者もあるが、概して兵士たちは品行方正である。




2009年4月18日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (29)

保坂正康が「解体」と名付けた段階の末期になると、人間を爆弾にするという段階になった。

1944(昭和19)年10月20日、関行男大尉以下24名の神風(しんぷう)特別攻撃隊が編制され、敷島、大和、朝日、山桜の4隊に区分された。(本居宣長「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」によって命名されたのであろう。)
特別攻撃隊は編制翌日から出撃し、25日に関大尉の率いる敷島隊の9機が空母1隻を沈没、2隻を大破させる戦果を挙げると、陸軍も特別攻撃隊を編制した。こうして陸・海軍とも体当たり攻撃を「制式化」し、翌年1月までに海軍が106回(約440機)、陸軍が62回(約400機)実施した。
『若い人に語る戦争と日本人』で保坂は次のように書いている。
 …乗っているパイロットは、当初こそ海軍兵学校出身の軍人もいましたが、その大半は学徒出陣で軍に徴用された現役の大学生たちでした。彼らはわずかの訓練を受けただけで、特攻機を操り、アメリカ軍の艦艇をめざして体当たり攻撃をつづけたのです。
 …こうした人間爆弾を作戦のなかにとり入れたこの期の大本営は、軍事的にも、人間的にもまさに「解体」していたといえるでしょう。(p.165)
このような人間爆弾は、これだけではなかった。この年11月には人間魚雷「回天」がつくられた。魚雷を1人の乗員で操作できるように改造したもので、約1550キロの爆弾ごと敵艦に体当たりするのだ。
このように人命を消耗品扱いにする特攻を冷ややかにとらえ、次のような川柳を残して死んでいった学徒出陣の青年たちもいた。
 生きるのは良いものと気が付く三日前
 神様と思えばおかしこの寝顔
 体当たりさぞ痛かろうと友は征き
  特攻のまずい辞世を記者はほめ
「桜花」という人間爆弾は、飛行機につり下げられて目標近くで切り離される人間ロケットで、爆弾は1200キロ、乗員1人。ブリキと木材を多用した「剣」と呼ばれた、爆弾800キロ、乗員1人の特攻専用機もあった。
米軍は、死を賭したこのような特攻を非常に恐れたけれども、絶対に命中しないといわれた「桜花」に対しては、「BAKA[バカ]BOMB[ボン=爆弾]と嘲笑していたという。(マンガの「天才バカボン」はこれとは全く関係ない。念のため。)
(この項の記述は『昭和二万日の全記録 第6巻 太平洋戦争』pp.360-361によって記した。)

いよいよ日本は1945年3月から始まる「降伏」への道を歩むことになる。
2月19日、米軍は硫黄島に上陸を開始した。5日間でこの島の攻略を終える予定であった米軍第四海兵師団は、地下20~30メートル、総延長28キロに及ぶ強固な地下陣地網を使った日本軍の抵抗に、半数の9098人の死傷者(死者は6591人)を出し、3月18日、ハワイに引き揚げ再び戦線に戻ることはなかった。
一方日本軍も、3月3日までに指揮官の65パーセントが死傷、22500人の兵力も3500人までに落ち、組織的な戦闘は困難になっていた。
3月17日、兵団長の栗林忠道中将は大本営に訣別の辞と辞世の歌を打電、日本軍守備隊は全滅した。
米軍司令部は、上陸4日後の2月23日には「世界で一番攻め難い島」と発表しており、前述のように大きな犠牲も払ったのだが、同日、擂鉢山占領、翌日には千鳥飛行場の修復を始め、3月12日爆撃機用滑走路を完成させている。
その日の3日前の3月9日から10日にかけて、B29、298機による東京大空襲が行われ、江東地区は全滅した。
これまでのB29は一万メートル以上の上空を飛び、都市の軍需生産施設が攻撃目標の中心であったが、東京大空襲は非戦闘員を対象にした、はじめての無差別絨毯(じゅうたん)爆撃であった。以後、このような無差別爆撃は繰りかえされ、東京空襲も四月、五月と徹底的に継続されることになる。
この空襲による正確な被害状況ははっきりとはしていないが、10万人近い死亡者を出し、広島・長崎の原爆に匹敵する大規模な被害を与えた。
なお、あえて付記しておく。この爆撃の計画の責任者は太平洋方面第二〇空軍司令官であったカーチス・ルメイだった。彼は、1963年の4月に米空軍参謀総長として来日、日本政府は航空自衛隊建設に貢献したとの理由で、勲一等旭日大綬章を彼に贈った。
(この項目は『昭和二万日の全記録 第7巻 廃墟からの出発』pp.48-49 および pp.57-58 によって記した。)

保坂正康さんは、次のように書いている。
 この「降伏」の期に、もっとも戦争の苛酷さを肌身(はだみ)で感じたのは沖縄(おきなわ)県民でした。日本で唯一(ゆいいつ)本土決戦の戦場となったこの地では、四月に一八万人のアメリカ軍の上陸により戦闘が始まりました。これに対して守備隊の約七万五〇〇〇人の日本軍将兵は、しばらくは持久作戦をとりました。しかしアメリカ軍の圧倒的な攻撃の前に、戦闘を行っても充分に戦うことができず、しだいに日本軍は壊滅的な打撃を受けることになります。六月二十三日に守備隊の司令官である牛島満(うしじまみつる)が自決し、日本軍は実質的に壊滅したのです。
 沖縄戦では、県民や兵士を含めて二〇万人近い犠牲者がでています。このなかには、日本軍の兵士がときに沖縄の人たちをスパイ扱(あつか)いして殺害したケースもあるといわれますし、民間人がときに楯(たて)がわりにされて戦死したこともありました。あるいは、アメリカ軍の捕虜になったり保護されることは好ましくないとして、自決した者もいました。
 こうした状態になっても、大本営は本土決戦にこだわりました。彼ら軍人たちの戦略とは、とにかく敗戦につぐ敗戦の状態であったにせよ、いちどは戦勝の機会を得てそれをもとに有利な条件で講和を結ぼうというものでした。あるいは中国やソ連と講和をして、対米英の「百年戦争」を考える者もいました。しかし、どのような戦略をもって戦争をいているのか、この戦争の目的は何だったのかなどを問うどころではなく、ただひたすら軍事で決着をつけようと考えるだけだったのです。
(『若い人に語る戦争と日本人』pp.169-170)
スタンレー・ベネットは、いよいよ沖縄へ向かうこととなる。