2008年12月31日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (10)

前回は、歴史年表からいくつかの出来事を思いつくままに並べて、日米関係が悪化して行き、鳥取の地に骨を埋めるというヘンリー・ベネットの思いを果たすことができなくなった、と書いた。
いよいよ日米開戦となるわけだが、その前に、アメリカで暮らすことになったスタンレーのその後について、急いで振り返ってみたい。

加藤恭子は次のように記している。
 十三歳で本格的にアメリカに住むことになったスタンレーにとっては、生活のレベルの高さは、鳥取のそれと比べると、びっくりするようなものであったにちがいない。しかも、私立学校の生徒たちの多くは、裕福な家庭から来ている。宣教師の質素な家庭、しかも大正時代の日本で育った少年にとって、かなりの違和感があったとしても不思議ではない。
 姉のサラによると、一九二〇年代の鳥取市内では、各戸に電気と水道があった。だが、電気は電灯に使うだけで、ほかの電気用品に使うことはできなかった。電気冷蔵庫などはなかったし、自動車も少なく、人力車を使っていた。暖房はこたつと火鉢にたより(引用者注:昭和10年代でもこの通りであった)、男の子たちは制服を着ていたが女の子たちは着物に袴。女性は着物、成人男子もほとんどが着物に袴だった。それに比べ、一九二〇年代のフィラデルフィアでは、ほとんどの家が自動車、ラジオ、電気冷蔵庫などをもっていたという。
「だからと言って、鳥取での生活が原始的だなどと思ったことは、一度もありません。私たちは、大好きでした」
 とサラはつけ加えるのだ。(pp.78-79)
1929(昭和4)年、スタンレーはオハイオ州オーバリン・カレッジに入学。寄宿舎の食堂で皿洗いのアルバイトをやりながら、1932年に卒業し、その秋、ハーバード大学医学部に入学した。
大学でも、家からの仕送りだけでは学費がまかなえず、大学食堂のウェイターや教授たちの家の暖房係のアルバイトをした。当時は、地下室にある炉で石炭を燃やし家中を暖めていたという。
2年目から、解剖学の教授がスタンレーのために奨学金をとってくれ、勉学に専念できるようになったという。
4年生になり、フェローシップ(大学院学生・研究員に与えられる特別奨学金)をもらえることが分かったので、以前からつきあっていたアリス・ルーサ(Alice Roosa)と結婚することを決意する。
彼女もスタンレーと同じ年にオーバリン・カレッジに入学していたが、専攻がスタンレーは化学、アリスは体育と違っていたので、二人は出会わなかった。3年生になって、二人が心理のコースを受講したことで知り合った。アリスは快活で向上心が強く、優等生だった。
アリスの家は、父方も母方も、曾祖父、祖父、父が医者という医者一家で、アリスも医学部へ進みたかったが、「家庭と医学は両立しない」という父の意見に従って断念したという。カレッジ卒業後、ニューヨーク州の両親の家に帰り、近くのハイスクールの体育教師となった。スタンレーは毎日のように手紙を書き、アリスも返事を出した。
1935(昭和10)年7月に、二人はアリスの父の家で結婚式を挙げた。朝の8時半にスタンレーの父、ヘンリーによって式を挙げ、その後、家族でいっしょに朝食をとるだけの簡単なものであったという。

1936年、スタンレーはハーバード大学医学部を優等で卒業した。
1年間無給のインターンをやり、1937年9月、ボストンへ戻ってハーバード大学医学部のフェロー、1939年からは解剖学の講師となった。

(今回は『S・ベネットの生涯』pp.78-83 による)

0 件のコメント:

コメントを投稿