2008年12月27日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (9)

ヘンリー・ベネットが日本語を聞き、話すだけでなく古い日本語の文章を読むこともできたことはすでに述べた。妻のアンナも、歴史、宗教、考古学などの読書こそ英語であったが、日本語に堪能であったという。
しかし、子どもたちに対する教育方針は、アメリカ人として育て、帰国後にハンディキャップを持たせないようにしょうというものだった。
米国の通信教育専門の学校から教材を取り寄せ、朝食後からお昼まで、週5日勉強した。
長女のサラは4年まで通信教育で勉強し、神戸の外国人学校、カナディアン・アカデミィの小学校4年へ編入された。ハイスクールまでカナダ式の一貫教育校で、寄宿生50人、通学生150人であったという。サラに1年半遅れて、長男のスタンレーもこの小学校の寄宿生となった。

1917(大正6)年、ベネットの一家は米国へ帰国した。当時、アメリカ人宣教師は、7年外国で勤務すると一年の帰国が認められたという。一家は、母アンナの出身地であるフィラデルフィア市郊外のジャーマンタウンで暮らした。7歳のスタンレーにとっては最初のアメリカ体験だった。彼は姉のサラとともに、母の母校、ジャーマンタウン・フレンズ・スクールに通った。小学校から高校まであるこの学校は創立が1845(弘化2)年の私立学校で、主にクエーカー教徒の子弟のためのものであったが、教育水準が高いことから他宗派の家の子どもたちも通学するようになっていた。元駐日大使で夫人が日本人だったエドウィン・ライシャワーもここの卒業生だという。
1年後、家族は日本へ帰ってくるが、4、5年後母アンナの健康に問題が生じた。1923(大正12)年、アンナは軽井沢で乳癌の手術を受けた。
翌年の夏、一家はジャーマンタウンへ戻った。

1927(昭和2)年ヘンリーは単身日本へ帰り、翌年アンナも下の二人の娘をつれて鳥取へ帰ってきた。カレッジへ通っていたサラとスタンレーはアメリカに残った。この二人が戦前、最後の短い来日をしたのは、1930(昭和5)年の夏、両親の銀婚式を祝うためだった。このとき、一家は野尻、軽井沢、富士山、日光へ行っている。

1934(昭和9)年7月、一時帰国したベネット夫妻は、1936(昭和11)年3月、鳥取へ帰ってきた。子どもたちは全員アメリカに残った。鳥取駅には県知事をはじめ多くの人々が出迎え、ヘンリー・ベネットは次のように挨拶したという。
「鳥取の地へ帰ってまいりました。これからは日米の親善と交流、そして幼児教育とキリスト教の伝道に一生を捧げるとともに、日本と山陰の歴史や文化の研究を続け、愛児フレデリックが眠るこの地に、妻とともに骨を埋めるつもりです。」

しかし、時代はこのヘンリーの言葉の実現を許さなかった。
翌1937年、日中戦争が起こり、翌38年には東京オリンピックの中止、さらに39年、ノモンハン事件、1940年には、日本軍の北印進駐、日独伊三国軍事同盟締結などなど、国際情勢は緊迫し、日米関係も悪化していった。
1939(昭和14)年の春、ベネット家親類縁者のつどいがあり、ヘンリーとアンナは渡米した。どうしても日本へ戻るというヘンリーの身を案じて病気になったアンナを残して、ヘンリーは日本へ発った。
翌1940(昭和15)年の夏、在米の妻を見舞ったヘンリーは、二度と日本へ帰ることはできなかった。
 日本側の資料では、日米関係の悪化に伴い、日本の官憲が圧力をかけたのではないか。申し訳なかった。という雰囲気がにじみ出る。
 だが、サラによると、責任はアメリカ政府にあるという。鳥取へ単身帰ろうとしたヘンリーに対し、アメリカ政府が日本行きを禁止、許可を出さなかったのだという。こうして、約三十六年もの歳月をすごした鳥取との別離を、ヘンリーは余儀なくされたのだ。
 ヘンリーは悲しい報告を鳥取の協会関係者へ書き、家具などは皆で分けてほしいと頼んだ。
(今回は最後の引用部分はもちろん、ほとんど『スタンレー・ベネットの生涯』の中の pp.69-71 からの引用である。)

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