随想と歌集を合わせた『雁皮の庭』という著書もある、歌人の伊谷ます子は、愛真幼稚園の前身である鳥取幼稚園の第二回卒業生で、鳥取教会へも通った経歴を持つ人だった。その彼女がベネット夫妻について語った言葉が、『近代百年 鳥取県百傑伝』中の伊谷隆一「ベネット」伝中に引用されている。そしてその内容は後の松田章義による「ベネット」伝(『鳥取県 郷土が誇る人物誌』)、加藤恭子の『日本を愛した科学者 スタンレー・ベネットの生涯』にも、受け継がれている。
伊谷ます子によると、ベネットは自分より遅れて鳥取へやって来たエストラ・コーという女性宣教師と一緒に自転車で伝道範囲の浦富、青谷、八頭まで出掛けたという。鳥取県東部を知っている人であれば、舗装もされていなかった当時の道を、これらの地区へ鳥取市内の中心地から自転車で往復することがどんなにたいへんなことか、よく分かるであろう。
ミス・コーについて伊谷は「鳥取の青年層に伝道し、多数の人を導き、多大なる貢献のあった人」と述べており、加藤恭子は『S・ベネットの生涯』の中(p.47)で「長身のコーは、紺のワンピースがよく似合う清らかな美しさで人々を惹きつけたという」と書いている。ベネット夫妻について伊谷が語っている言葉を二カ所引用しよう。
当時鳥取教会は畳敷でしたが、(引用者補記:ヘンリー・ベネットは)何時までも正座して信者と語り、上手な日本語で説教もされました。又非常に音楽的才能があり、その低音はきれいで、ヴァイオリンの音色は信者をして容易に恍惚境に入らせる事が出来ました。(引用者注:さきほど述べた自転車による伝道の際にも、いつもヴァイオリンを持っていったという。)賛美歌の四百九十六番「うるわしの白百合」と云うのがお得意で、今でもそのバスが耳によみがえって来る様です。いささか引用が長すぎたかも知れない。しかし、ベネット夫妻の人柄がよく偲ばれるし、伊谷の言葉の中に古い鳥取弁が匂うような箇所がいくつかあって、私には懐かしい。
非常に日本の歴史を勉強され、特に鳥取の歴史に関心があったようです。
(中略。次の「氏」はヘンリーのこと)当時氏の秘書をしていられた平岡とみ氏は「先生は池田候の日記(引用者注:今後触れるときがくるが『因府年表』のことと思われる)を持っていられ、それを英訳していましたが、毎日どんな難しい漢字をたづねられるかと心配でなりませんでした。」と述懐されている。
又ある夏、山中湖に家族揃って避暑に行く事になりました。家族は先に汽車で行き、氏は自転車で行く事になりました。然し自転車で漸く山中湖に到着した途端に、鳥取教会の信者の人の昇天をきかされ、たちどころにその足で鳥取に引き返して行ったと云うエピソードもあります。
夫人は名門の出身であると聞いていました。婦人会を組織し当時としては珍しい西洋料理や菓子、編物を教え育児の相談等をして皆から喜ばれ親しまれていた様です。私は小さい時「雪ヤケ」がひどくて難儀をしていましたが、夫人から頂いた薬、今から思うとメンソレータムではなかったかと思いますけれど、それがよく効いて早く癒った事もありました。又私の姉と兄が相次いで亡くなった時も両親はどれ丈親切に慰められたかと云う事も忘れる事が出来ません。「上村のおばあさん」と云う教会員で、全く身寄りのない老人を最後まで親切に世話をしてお上げになった事も、教会員達の心の中に何時までも灯となって残っています。(中略)夫人は現在も米国にて九十歳の高齢を保ち、帰国後も尚鳥取を忘れず、折にふれて献金など送って来る事があります。(『百傑伝』pp.644-645)
なお、ベネット夫人のアンナは1973(昭和48)年12月20日に死去した。97歳だった。
1979(昭和54)年、ヘンリーとアンナの長男、スタンレー・ベネットが戦後何度目かの来日の際、「鳥取へ帰ってきた」(彼はいつもこう言ったという)とき、NHK鳥取の「マイク訪問」に出演して板倉正明アナウンサーの質問に「格調高い日本語で答えた」という。このとき、伊谷ます子が同席していた。スタンレー自身が「聖人のような人でした」と言っているヘンリーについて「いつもにこにこしていらしたもので、ちっとも外国の方というような隔てはなかったものです」と語っているそうだ。この放送の4年後の1983年に亡くなった。「この番組の録音テープは、スタンレーの日本語での肉声をとどめる現存テープの数少ないものの一つである」と、加藤恭子は書いている。(『S・ベネットの生涯』pp.50-51)
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