2009年2月19日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (17)

開戦の翌年、1942(昭和17)年の前半を、年表風に記しておきたい。

1月02日 日本軍は、フィリピンの首都マニラ市に無血入城した。
2月14日 スマトラ島最大の油田パレンバンに陸軍の落下傘部隊が奇襲降下して油田と精油所を占領確保。(*1)
  15日 シンガポールを占領し、2日後「昭南島」と改称。(*2)
  22日 米大統領、極東軍司令官ダグラス・マッカーサー大将に比島(=フィリピン)退出を命令。
3月08日 ビルマ(現在のミャンマー)の首都ラングーン(現在のヤンゴン)占領。
  09日 ジャワ島のバンドン占領。ジャワのオランダ・インド軍降伏。
11日 マッカーサー、コレヒドール島を脱出。(*3)
4月09日 バターン半島のアメリカ・フィリピン軍降伏。(*4)
  18日 米B25、東京、名古屋など、本土を初空襲。(*5)
5月07日 コレヒドール島の米軍降伏。
  27日 ミドウェー作戦開始。(*6)
     ―――☆―――☆―――☆―――☆―――☆―――
(*1)小2の頃、その落下傘部隊のニュース映像を映画館で見て、〈かっこ いい〉と思った。「空の神兵」(梅木三郎作詞、高木東六作曲)という歌もなかなかいい歌で、よく歌ったものだ。
(*2)この日、英軍司令官パーシバル中将に「イエスか、ノーか」と迫る猛将〝マレーの虎〟山下奉文(ともゆき)中将の「居丈高」な姿の映像や絵画もよく見かけた。しかし、「あれは通訳がよくなくて、それでイエスなのかノーなのか確かめただけだったそうだ」と昭和史研究家でもある半藤一利は語っている。山下という人は誤解の多い人で、本当は大変合理的な考え方をする人だった」とも。戦後の1947年2月、戦犯としてマニラ郊外で処刑された。 
(*3)オーストラリアのダーウィンについた時、彼が記者団に言った「また、私は帰る(I shall return.)」が後に有名になった。
(*4)この時の捕虜は約7万人。食料、収容施設、輸送の準備がないまま、後方までの行程、約60キロを4~5日がかりで歩かされた。〝バターン死の行進〟と呼ばれ、約5000人の捕虜が死亡した。本間司令官は戦後の軍事裁判で責任を問われて、処刑された。
(*5)日本軍の真珠湾攻撃以来、敗北の続いていたアメリカの軍部は、国民の戦意を高めるため、日本の首都東京への空襲を計画した。4月2日、米空母ホーネットは、飛行甲板に16機の中型爆撃機B25を飛行甲板に搭載してサンフランシスコを出港した。13日、北太平洋上で機動部隊と合流して一路東京をめざした。
18日の早朝、この機動部隊は、太平洋沿岸を哨戒していた日本軍の第二三日東丸に発見された。そのため、米軍機は、夜間爆撃の予定を約10時間も早めることになった。
東京まで1200キロ。空爆後帰着する予定の中国大陸までたどり着くには燃料もぎりぎりの地点だった。
攻撃隊(ドゥリットル隊)は、18日の真昼、東京上空に到着した。警視庁消防部の記録では、空襲開始午後0時10分、空襲警報は爆弾投下後の0時25分に発令された。
この日、東京では朝から防空演習が行われていた。実際に爆弾が投下され、高射砲が打ち上げられても、本物の空襲であることに気づかない人が多かったという。
日東丸から米機動部隊発見の報を受けていた海軍も、空襲は翌朝と判断していた。空母が航続距離の長い陸上機を運ぶとは予想していなかったからだ。
日本側は完全に虚をつかれたかたちとなった。
ドゥリットル隊16機のうち、13機は東京、川崎、横須賀を、3機は名古屋、神戸などを攻撃した。死者50人(うち東京では39人)、家屋損害361戸などの被害をうけた。
米機は反撃らしい反撃も受けないで日本を離れたが、当初の計画が10時間も早まったため、中国大陸到着はすでに夜になっていた。手違いは米軍側にも損害をもたらした。
米軍機の避難先であった中国・麗水飛行場では、管制灯が消され、地上砲火まで浴びせられた。米軍機は飛行場付近に強制着陸、あるいは落下傘降下を行ったが、5人が墜落死あるいは溺死し、8人が日本軍の捕虜となった。このうち3人は日本軍によって処刑され,1人は獄死した。
この空襲について、日本の東部軍司令部は、空襲直後「敵九機を撃墜、我方(引用者:ワガホウ)の損害は軽微なる模様」と発表、翌日の朝日新聞は「〝必勝〟の民防空に凱歌」「我家をまもる女子/街々に健気な隣組群」、さらに22日付夕刊には「かくて敵機を撃墜せり/千葉、大島沖で猛追撃」の記事が掲載された。
一方、この東京初空襲の報は、アメリカ国民の士気を大いに鼓舞したという。

以上、この項は、ほとんど『昭和二万日の全記録 第6巻』pp.148-149 からの引用である。戦時の報道についても知って欲しいと思い、あえて長い引用とした。
(*6)次回、この海戦について詳しく述べたい。

今回の参考資料は、前々回、(15)回に同じ。

2009年2月16日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (16)

もう一度1941(昭和16)年12月8日(以下日本時間で記す)に戻ろう。

この日、午前0:17から1時間30分、真珠湾の防潜網が引き上げられ、日本海軍の特殊潜航艇が湾内に潜入。
0:20、米海軍通信局は、傍受した日本の対米通牒(覚書)の暗号解読文を海軍首脳に配布。
1:25、マーシャル米陸軍参謀総長、対米通牒暗号解読文を読む。
2:15,米駆逐艦ウォ―ド、真珠湾口の外側で正体不明の潜水艦(日本軍の特殊潜航艇)を撃沈。
2:30、ワシントンの日本大使館が対米通牒暗号文の解読を終える。
2:36、オアフ島の米軍レーダー、接近する飛行機群を探知したが、日本の攻撃隊と気付かず。
3:19、淵田美津雄第一次攻撃隊長「全機突撃セヨ」と命令打電。(この時間は予定より11分早かった。)3分後、淵田少佐「トラ・トラ・トラ」を発信。
3:28、ハワイ海軍航空隊司令官、全世界に「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と無線放送。
3:31、真珠湾の米戦艦アリゾナ、火薬庫に爆撃を受けて大爆発を起こし、沈没。
3:42、太平洋上の米軍第八任務部隊(ハルゼー提督指揮、空母エンタープライズ他)、戦闘配置につく。
3:47、ルーズベルト大統領、真珠湾攻撃の報告を受ける。
3:50、ワシントンの海軍省に真珠湾攻撃の第一報。
     駐米日本大使館、対米通牒の全文の浄書を終える。
4:05、野村・来栖両大使、ハル長官に「対米通牒(覚書)」を手交。
4:30、東郷外相、官邸で真珠湾攻撃の報告を受ける。
5:00、ルーズベルト大統領、政府・軍首脳と「戦争会議」を開く。
5:30、第二次攻撃隊、真珠湾から引きあげる。
【以上、『昭和二万日の全記録 第6巻』の pp.112-113 より、抜粋。】

この日、日本軍は真珠湾攻撃よりも早く、午前2時15分にマレー半島コタバルの敵前上陸に成功した。前日の7日、マレー作戦部隊輸送船団に接近中の英軍機を日本陸軍の戦闘機が撃墜した。これが太平洋戦争最初の攻撃であった。
さらに8日には、日本軍は、シンガポール、香港、グアム島攻略を開始した。 10日にはマレー沖海戦で、イギリスの戦艦プリンス・オヴ・ウェールズとレパルスを撃沈。25日には香港を占領した。 





2009年2月10日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (15)

話は戻る。

1941年12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃は、日本にとっては大成功だった。
午前1時30分(ホノルル時間、7日午前6時)[赤城(アカギ)]など6隻の空母から次々に発進した雷撃機、爆撃機、戦闘機など、第1波・183機の大編隊は1時間49分後、隊長機から発信された「トトトト(全機突撃セヨ)」を受けて、湾内に停泊していたアメリカ太平洋艦隊の主力艦を急襲した。湾内に係留されていた[アリゾナ][オクラホマ]など8隻の巨大戦艦が次々に轟音とともに煙と炎を挙げていく。(第2波攻撃隊167機は第1波から1時間15分後に母艦から発進した。)
隊長の淵田美津雄中佐(当時39歳)は、全機突撃の命令から4分後「トラトラトラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)」と打電した。この発信は[赤城]の中継を待つまでもなく、東京の大本営、広島湾の旗艦[長門]も直接受信したという。

この日、午前7時、日本国民はラジオから流れるNHK放送を聞いた。
「臨時ニュースを申しあげます。臨時ニュースを申しあげます」
勇壮な軍艦マーチが流れた後、
「大本営陸海軍部午前7時発表。帝國陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
これが大本営発表の第1号であった。

しかし、事実上の宣戦布告である米国に対する最後通達「対米通牒(覚書)」は、在ワシントンの日本大使館員の怠慢と無規律によって解読と浄書が遅れ、奇襲攻撃から1時間近くも遅れて手交された。
そのため、この攻撃は卑劣な行為として、アメリカ国民の怒りを買い、Remember Pearl Harbor! (真珠湾を忘れるな!)と戦意を昂揚させた。もともとこの攻撃は開戦に消極的であった連合艦隊司令長官の山本五十六大将が先制攻撃によって米太平洋艦隊を壊滅させ、米国民の戦意を喪失させようとしたものであったが、その意図は裏目に出る結果となった。

【参考図書】
『昭和二万日の全記録 第6巻 太平洋戦争』講談社 1990年1月
『日録20世紀 1941』講談社 1997年7月
中田整一 編/解説『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社 2007年12月 

2009年2月2日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (14)

1939(昭和14)年スタンレーは海軍予備軍に応募した。妻のアリスによれば、ドイツと日本における軍国主義の台頭に悩み、ことにヒトラーのチェコスロヴァキア侵攻以後は、ヒトラーを阻止しなければの思いが強かったらしい。
すでに日本語の知識があることを告げていたスタンレーは、1943(昭和18)年7月初旬に入隊となった。ワシントンD.C.から、フロリダの海軍基地へ、そこで海兵隊所属が決定され、カリフォルニア州サンディエゴで訓練を受けた。その後ニューカレドニアに派遣され、11月末にガダルカナルへ到着したらしい。いよいよ日本軍と戦うこととなる。
加藤恭子は次のように述べている、
「生まれ故郷の日本に対して戦うのは、辛くはなかったでしょうか?」
 という質問に、妻のアリスは、
「いいえ、戦ったのは、日本人に対してではありませんもの。日本の軍国主義指導者に対してでしたから」
 と答える。
 鳥取育ちの妹、メアリー・クラーク(Mary Clark)は,
「苦しんでいました。同胞が同胞に対して戦うようなものだと…」
 と答える。
 どちらも、真実なのであろう。(pp.14-15)
今回は、引用も含め、次の本によって書いた。

スタンレー・ベネット 加藤恭子/今井萬亀子[編訳]『戦場から送り続けた手紙―ある米海軍士官の太平洋戦争―』The Japan Times 1995年7月

以後、『戦場からの手紙』と略称する。