日本では発売が来月末になる、米国アップル社の新型携帯端末のiPad を在米の知人や友人に頼んで手に入れた人々がその使用感を述べている文章をウェブ上でいくつか読んできたが、この文章に心をうたれた。
iPadで電子書籍iBooksをさわってみて驚いた。文字はくっきり鮮やかで読みやすい。挿絵もカラーで美しい。そして指先で画面に触れると、まるでほんとうの紙のページをめくるような感覚で自由自在に操れるのだ。無線でネットとつながり、好きな本を随時購入できる。それをiPadの中に作った自分の本棚に並べられる。この小さな装置の中に蔵書のすべてがすっぽりおさまり、本を探したり、単語やフレーズを検索することもたやすい。メディアというものの明日に、私はあらためて思いをはせた。シャーレの中で培養される細胞、水中に棲む魚、地上に生きる人間、それぞれを取り囲んでいる培養液、水、空気・重力・温度などを生物学では媒体=メディア(単数形はメディウム)と呼ぶ。培養細胞、魚はそれぞれの媒体の存在を知らないし、人間は媒体の存在を気にせず、自覚していないが、それぞれがその媒体と確実に接しており、その接点で媒体に支えられている。
先に、私は、細胞がメディアの存在に気づかないまま、しかしそれに確実に接していると記した。その接し方を(より正確にいえば、生命という球体が媒体とある一点で接していることを)科学用語では、タンジェントという。タンジェントはまた、形容詞タンジブル(tangible)につらなる。触れてわかること。手ざわり感がもてること。
細胞にとってメディアとは、単に栄養素や酸素や成長因子を溶かしこんだ溶液(ストック)ではない。接する時、接した点で物質とエネルギーと情報の交換が行われる。それが生化学反応を引き起こし、生命という動的な平衡を支える。そのとき初めて細胞にとってメディアはメディアとしての意味を持つ。
そのように考えると私たちにとってメディアとは何かが見える。…(中略)…それに接すると流れが導かれ、反応を引き起こすもの……そのとき初めて意味を持つ動的なものとしてある。そして、接するときのタンジブルさこそがその実体を示す。
残念なことに、私は接点としてのiPadをとてもタンジブルなものに感じた。なぜ残念かといえば、紙の書籍や紙の新聞に、私はずっと特別な手触りと愛着を感じてきたからである。
でもそれは私たち旧世代の感傷であろう。これから生まれてくる世代にとって、iPad(あるいはそれに類するもの)は、ハイテクでもなくローテクでもない。アナログでもなくデジタルでもない。彼らにとってそれはタンジブルな第一言語(ネイティブラングエッジ)としてそこにある。
ヒトが地球上に出現しておよそ700万年。紙がタンジブルだった数千年は、その中の一瞬として、まもなく確実に終わる。しかし、流れとして、その流れ方としてのメディアは私たちとともにあり続ける。
うーん、早く実際にiPadに触れて、そのタンジブルさを実感してみたい。
参考サイト→ http://www.bloom-cafe.com/archives/221
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