明治の日露戦争当時の肉弾突撃を繰り返したばかりでなく、飢餓と熱病のために兵達は死んでいった。ガ島が「餓島」といわれた所以だ。
十二月十六日 各部隊においてオタマジャクシを食する者多し。多少苦味あるも食べられる。夕刻より雨あり。
十二月十七日 午前腸悪し、午後下痢を伴う。情報によると月明のため駆逐艦の米輸送中止とか。欠食を覚悟す。
十二月十八日 松本中尉死亡す。久しくわれらの隊長なりし人なり。最近、戦友次々と死亡す。いずれも栄養失調なり。(福島県出身、遠藤清五上等兵)
十二月二十日 昨夜宮沢中尉死し、山野辺軍曹また死す。本日山岡上等兵死す。櫛の歯をひくように死んでいく。断腸。
十二月二十一日 小野寺准尉衰弱、小生も発熱。このまま中隊は全滅への道を歩んでいくのか。夕方、発狂せる兵の大声あり。毎日が死との対決だ。
十二月二十二日 小椋中尉死す。佐藤、馬場、佐々木、小野寺、徳永が危険状態。食糧の見通しなく、生き残れるものありや。(福島県出身、峰岸慶次郎中尉)
引用した日記は、いずれも『米軍が記録したガダルカナルの戦い』から引用した(p.183)。
同書にはタイトルにあるとおり、米軍が撮影した多くの戦死した日本兵の写真も掲載されている。
イル川河口の砂に半身を埋めている兵士の顔には幼さが残っている。ジャングルの中で死んでいる日本兵のやせ衰えた身体、等々。これらの写真をこのブログに載せることはとてもできない。
大本営もついにガダルカナル撤退を決断し、翌昭和18年1月4日に御前会議をセットした。「事態は重大であり、大晦日でもかまわない」という昭和天皇の発言により、異例の大晦日の御前会議が開かれ、撤退の裁断が下された。
1943(昭和18)年2月1日、5日、7日のいずれも夜、3回にわたって駆逐艦による撤退が行われた。奇跡的にこの撤退は米軍に気づかれなかった。大本営へは次のように打電された。
「二月七日午後十時、二万の英霊の加護により、ガ島残留総員の収容を完了したる事を報告す。収容に協力せられたる陸海軍各部隊に深く感謝す」
この島に日本陸海軍が上陸させた将兵は31,358名。生還した者、10,665名。還らぬ人となった将兵は、21,138名であった。(数字に誤差があるのはそれぞれの確認時期によって数字が違うためだという。)戦闘員の損耗率は66パーセントにも達している。
防衛庁戦史室の公刊戦史(室名は公刊当時の名称)は、「純戦死は五千~六千名と推定されているので、一万五千名前後が戦病に斃れたことになる」と述べ、その大半が「栄養失調症、熱帯性マラリア、下痢及び脚気等によるもので、その原因は実に補給の不十分に基づく体力の自然消耗によるものであった」とも述べているという。
編著者、平塚柾緒は言う。「事実、補給が不十分だったから餓死したのであるが、問題は補給できない状況下でどうして戦闘を強行したかである。それは、大本営陸軍部の愚をきわめた作戦指導に責任の大半がある。連合国軍の意図、質と量を読めなかっただけではなく、自軍の第一線部隊にまともな地図さえ与えられない状態にありながら、ただいたずらに兵員を送り続けたのだ。救いのある戦争は少ないが、それにしてもガダルカナルの戦闘は、その実態を知れば知るほど怒りとやりきれなさがこみあげてくる。」(p.7)
大本営は、2月9日、全国民に次のように告げた。
「ソロモン諸島ガダルカナル島に作戦中の部隊は、
敵軍を同島の一角に圧迫し、
その戦力を撃砕せり。よって二月上旬、部隊は同島を撤し、他に
転進したり」