2009年3月31日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (23)

第14回で述べたように、スタンレーは、1943(昭和18)年7月初旬に入隊となった。ワシントンD.C.から、フロリダの海軍基地へ、そこで海兵隊所属が決定され、カリフォルニア州サンディエゴで訓練を受けた。その後ニューカレドニアに派遣され、11月末にガダルカナルへ到着したらしい。いよいよ日本軍と戦うこととなる。

しかし、前回記した通り、スタンレーがガ島に派遣されたとき、すでに日本軍は10ヶ月近く前の2月上旬に撤退していた。残っていたのは捕虜となった日本兵か、ジャングルに残されていたやせ細った死体ばかりだったにちがいない。
この1943(昭和18)年という年の戦況をざっと述べておく。第20回で紹介した保坂正康さんによれば、この一年は日本軍の「挫折」の後半から「崩壊」の年に当たる。

4月18日 連合艦隊司令長官・山本五十六、戦死。(大本営は、5月21日になって、これを公表。6月5日、国葬が行われた。)
5月29日 アッツ島守備隊、2638人玉砕。
9月8日 イタリア、連合軍に無条件降伏。
 (10日 鳥取大震災。M7.4。1083人死亡。全壊家屋7485戸)
10月21日 明治神宮外苑で出陣学徒壮行会。
11月24日 マキン島の日本軍守備隊玉砕。
   25日 タラワ島の守備隊玉砕。両島で5400余人戦死。
12月10日 文部省、学童の縁故疎開促進を発表。
   24日 徴兵年齢が19歳に引き下げられる。

スタンレーの手紙はこの年の11月25日付のものから、翌年の1月1日付まで、38通が妻のアリス宛てに発信されているという。
そのうちの33通の抄訳が、第1部として、『戦場から送り続けた手紙―ある米海軍士官の太平洋戦争―』に掲載されている。このブログでは、その内容をいくつか紹介しよう、と思う。




2009年3月22日日曜日

鳥取を愛したベネット父子 (22)

明治の日露戦争当時の肉弾突撃を繰り返したばかりでなく、飢餓と熱病のために兵達は死んでいった。ガ島が「餓島」といわれた所以だ。

十二月十六日 各部隊においてオタマジャクシを食する者多し。多少苦味あるも食べられる。夕刻より雨あり。
十二月十七日 午前腸悪し、午後下痢を伴う。情報によると月明のため駆逐艦の米輸送中止とか。欠食を覚悟す。
十二月十八日 松本中尉死亡す。久しくわれらの隊長なりし人なり。最近、戦友次々と死亡す。いずれも栄養失調なり。(福島県出身、遠藤清五上等兵)

十二月二十日 昨夜宮沢中尉死し、山野辺軍曹また死す。本日山岡上等兵死す。櫛の歯をひくように死んでいく。断腸。
十二月二十一日 小野寺准尉衰弱、小生も発熱。このまま中隊は全滅への道を歩んでいくのか。夕方、発狂せる兵の大声あり。毎日が死との対決だ。
十二月二十二日 小椋中尉死す。佐藤、馬場、佐々木、小野寺、徳永が危険状態。食糧の見通しなく、生き残れるものありや。(福島県出身、峰岸慶次郎中尉)


引用した日記は、いずれも『米軍が記録したガダルカナルの戦い』から引用した(p.183)。
同書にはタイトルにあるとおり、米軍が撮影した多くの戦死した日本兵の写真も掲載されている。
イル川河口の砂に半身を埋めている兵士の顔には幼さが残っている。ジャングルの中で死んでいる日本兵のやせ衰えた身体、等々。これらの写真をこのブログに載せることはとてもできない。

大本営もついにガダルカナル撤退を決断し、翌昭和18年1月4日に御前会議をセットした。「事態は重大であり、大晦日でもかまわない」という昭和天皇の発言により、異例の大晦日の御前会議が開かれ、撤退の裁断が下された。

1943(昭和18)年2月1日、5日、7日のいずれも夜、3回にわたって駆逐艦による撤退が行われた。奇跡的にこの撤退は米軍に気づかれなかった。大本営へは次のように打電された。
「二月七日午後十時、二万の英霊の加護により、ガ島残留総員の収容を完了したる事を報告す。収容に協力せられたる陸海軍各部隊に深く感謝す」

この島に日本陸海軍が上陸させた将兵は31,358名。生還した者、10,665名。還らぬ人となった将兵は、21,138名であった。(数字に誤差があるのはそれぞれの確認時期によって数字が違うためだという。)戦闘員の損耗率は66パーセントにも達している。
防衛庁戦史室の公刊戦史(室名は公刊当時の名称)は、「純戦死は五千~六千名と推定されているので、一万五千名前後が戦病に斃れたことになる」と述べ、その大半が「栄養失調症、熱帯性マラリア、下痢及び脚気等によるもので、その原因は実に補給の不十分に基づく体力の自然消耗によるものであった」とも述べているという。
編著者、平塚柾緒は言う。「事実、補給が不十分だったから餓死したのであるが、問題は補給できない状況下でどうして戦闘を強行したかである。それは、大本営陸軍部の愚をきわめた作戦指導に責任の大半がある。連合国軍の意図、質と量を読めなかっただけではなく、自軍の第一線部隊にまともな地図さえ与えられない状態にありながら、ただいたずらに兵員を送り続けたのだ。救いのある戦争は少ないが、それにしてもガダルカナルの戦闘は、その実態を知れば知るほど怒りとやりきれなさがこみあげてくる。」(p.7)

大本営は、2月9日、全国民に次のように告げた。
「ソロモン諸島ガダルカナル島に作戦中の部隊は、敵軍を同島の一角に圧迫し、その戦力を撃砕せり。よって二月上旬、部隊は同島を撤し、他に転進したり」

ガ島の戦い 3


2009年3月21日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (21)

先回述べたように、ミッドウェー海戦は、日本海軍の完敗であった。ガダルカナルの戦いは、日本陸軍の最初の完敗であった。
国語辞典でガダルカナル島を引いてみると「南太平洋、ソロモン諸島南東部の火山島。面積六五〇〇平方キロメートル。太平洋戦争中の日米激戦の地」と書かれている。四国の愛媛県とほぼ同じくらいの面積をもつこの島でどんな「激戦」があったのか。日本の一般国民がこの戦いについて知ったのは敗戦後のことである。
戦いの経過を並べてみると、こうなる。
1942(昭和17)年7月16日、この島で日本海軍の設営隊約2,600人が飛行場設営の作業に取りかかった。
長さ800メートル、幅60メートルの滑走路を完成させた2日後の8月7日、米海兵隊1個師団がガダルカナル島と、その北方のツラギ島に上陸開始。日本の海兵部隊は、飛行場設営のための軍属が大半を占めており、軍人は600名足らずであったという。米軍は抵抗らしい攻撃を受けることもなく上陸し、飛行場を占拠した。
その後の個々の戦闘についていちいち述べる必要はあるまい。以前紹介した『米軍が記録したガダルカナルの戦い』を編集した平塚柾緒の「あとがき」からの引用文などのご紹介にとどめたい。彼は、「大本営陸軍部の愚をきわめた作戦指導」を厳しく指摘している。
 
ガダルカナルに陸軍の戦闘部隊を送り込むことを決定したとき、ガ島のまともな地図さえなかったことは有名な話である。また師団の参謀クラスでさえ「ガダルカナル」という島がどこにあるかも知らなかったという証言は数多い。
 ニューギニアを攻略し、遠くフィジー、サモアまでも占領しようという日本軍が、その周辺地域の地図さえ準備していなかったというのだから、これは無謀というより無知と表現した方がいいかもしれない。日常的に「情報」を重視していれば、参謀本部はソロモン群島の地図などいくらでも準備できたはずである。
 この地図の一件を見ても分かるように、日本の大本営はガ島の米軍兵力をまったく予測できなかった。太平洋地域の米軍に関する情報をほとんど持っていなかったからだ。だから「せいぜい二~三千名の強行偵察部隊程度だろう」と勝手に決め込み、一木支隊を急遽派遣して決着をはかろうとした。
それで十分と見たのである。そこには戦略とか戦術といった作戦計画は皆無で、ただ敵を侮(あなど)った傲慢(ごうまん)さだけが見え隠れしている。
 さらに現地の指揮官もただただ「突っ込め―、突っ込め―」の肉弾斬り込みの白兵戦を強いるだけで、作戦といえる計略などはなかった。それは一木支隊に続く川口支隊でも同じであり、大本営から馳せ参じた作戦参謀の指導による第二師団の総攻撃でも変わりはなかった。
 ガ島戦は、日本軍の体質と欠点を余すところなく露出した戦いであった。しかし、その体質と欠点はついに是正されることなく、昭和二十年八月十五日の敗戦の日まで貫き通される。そのために命を奪われていった一般兵士の無念と怒りは、どう晴らせばいいのか。(p.205)
そして、この後にも引用されているが、当時陸軍士官学校を出たばかりの青年将校(二十一歳)であった亀岡高夫は昭和十七年十二月二十日の日記にこう書いている。
 食糧は本月中は全然渡らないのだそうだ。現在の手持ちの食糧で、この十二月を過ごさなければならぬ状況になったという。なんという困苦ぞ。歩兵操典(引用者注:教練の制式、戦闘原則および法則を規定した教則の書)に〝困苦欠乏に耐えよ〟とあるが、これほどの困苦欠乏がどこにあるというのか。軍司令官は第一線将兵を餓死させる気なのか。一体、第一線のこの悲境を知ってるのかどうか。(p.174)

2009年3月17日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (20)

前回紹介した『若い人に語る戦争と日本人』のなかで保坂正康さんは、三年八ヶ月あまり戦われた太平洋戦争を次の五つの期間に分けている。(p.153)

(一)昭和十六年十二月八日から十七年五月まで――勝利
(二)昭和十七年六月から十八年四月まで――挫折
(三)昭和十八年五月から同年十二月まで――崩壊
(四)昭和十九年一月から昭和二十年二月まで――解体
(五)昭和二十年三月から同年八月十五日まで――降伏

この(二)の「挫折」の最初となるのが、ミッドウェー海戦である。

1942(昭和17)年4月18日の米軍機による初の本土空襲に衝撃を受けた軍令部は、かねてからの主張であったアメリカとオーストラリア間を遮断し、中部太平洋、南西太平洋方面の制海権を確保するための作戦を展開しようとした。
その企図は、ソロモン群島を制圧し、ニューカレドニア、ニューヘブリデス、サモアへの進出、さらにこれと並行してニューギニア南方のポートモレスビーへ進攻しようというものであった。

5月7日から8日にかけて行われた珊瑚海海戦は、世界史上初の空母対空母の戦いであったが、日米ほぼ互角の損害を出した。
この海戦に次いで行われたのが、6月5日のミッドウェー海戦である。詳しい経緯は省略して、結果のみを記す。
日本側は、主力空母4隻、重巡1隻、飛行機285機、将兵3,054人(そのほとんどが優秀なパイロットであった)を一挙に失った。米側の損害は、空母1、駆逐艦1、飛行機150、死傷者307であった。
以後、日米の優劣は完全に逆転し、日本軍は一挙に退勢に向かった。
この日本軍の敗退の原因はいくつが挙げられるであろうが、その一つは、日本軍の暗号を米軍側が解読していたことにある。

開戦時、真珠湾攻撃の前に、在米大使館への指示電報が解読され、米国の首脳部は事前に日本軍の攻撃を予知していたことはすでに触れた。
・このミドウェー海戦でも、珊瑚海海戦後の日本艦隊の次の進路を必死に探っていた米海軍情報部は暗号解読に成功し、これを迎え撃つ準備を整えていた。
・翌1943(昭和18)年4月18日(むろん偶然だが、前年の東京初空襲と同日)、前線の兵士激励に向かった山本五十六長官の搭乗機が待ち伏せしていた米軍機にブーゲンビル島上空で襲撃され、長官は戦死した。これも米側が事前に暗号を解読し、長官の行動を4日前から知っていたからだ。

しかも、米側が暗号解読によって事前に日本軍の行動を知っていたことに、日本側はまったく気づいていなかったのである。

2009年3月3日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (19)

ここ何回か太平洋戦争について記してきた。大まかな流れを知っていただいた上で、スタンレー・ベネットがどうのような段階で戦いの場に出て行ったのか、知っておいていただきたいと思うからだ。
ここで、昨年の夏出版された一冊の新書をご紹介しておきたい。それは保坂正康『若い人に語る戦争と日本人』。
〈あとがき〉のはじめに、著者がこの本の執筆をもちかけられたとき、大学の講師をいていた頃の学生たちを思い出した、と書いている。著者はわたしより数歳下の方だが彼らにこう言ったと記している。
 君たちの父や母、それに祖父母が生きた時代を知ることは、君たちの義務である、そこから多くのことを学ばなければそれは失礼である、と私は強調してきました。いずれ君たちもまた子供や孫に、どのような人生を過ごしてきたのかは問われるはずだから、とも言ってきました。(p.180)



源氏物語の千年紀だ、直江兼続はかっこいい、というのも結構だが、まだ100年もたたない時代にどんな戦争をやったのかを、ぜひ知っておいて欲しい。

この本は、高校生や中学生たちにもぜひ読んで欲しいと思う。

いささか、脇道からさらにまた脇道へ入り込んでいるようだが、次回からもう少し太平洋戦争の経過を見ておきたい。



2009年3月2日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (18)

1942(昭和17)年4月18日の東京空襲は、爆撃を目前にした人々を除けば、さしたる影響を国民に与えなかった。だが、政府や陸・海軍当局には大きな衝撃を与えた。あのように簡単に敵機の首都進入を許してしまったからだ。

連合艦隊司令長官であった山本五十六大将は、もともと日独伊の三国軍事同盟に反対であったし、海軍次官当時、米国に滞在したこともあって日米の国力の違いを認識していた故に対米開戦にも反対であった。
彼は1884(明治17)年の生まれで、海軍兵学校卒業(32期)直後、日露戦争が勃発している。ロシアのバルチック艦隊を打ち破った日本海海戦には、装甲巡洋艦「日進」に少尉候補生として乗艦、左手の人差し指と中指を失う重傷を受けるという経歴を持っていた。
しかし、戦艦中心の時代は終わり、これからの海戦は空母と航空機が中心となると考え、戦艦大和の建造にも反対していた。
開戦が決定されたとき、軍人としてその決定に従ったが、開戦すれば短期決戦しかないと考えていた彼は、戦術的には空母を中心とする機動部隊による真珠湾奇襲を実行した。しかし、米軍機による東京空襲も予想していた。そして、山本の戦術をもっともよく研究していたのが、アメリカの太平洋艦隊であったということになる。