もう一度、敗戦前の話に戻る。
1929(昭和4)年、米原昶がフランス留学を、という父親の最後の説得を聞き入れず、その志を貫いて敗戦後の「政治犯釈放の日」までの16年間をどのように生きてきたか―その概略を先回ご紹介した。その間、父親の米原章三はどうしていたのか、若干述べておきたい。引用を含め、資料はすべて『米原章三傳』(編集・発行 同刊行会)による。なお、本書についてはこの「米原万里の父」の最終回に詳しくご紹介する。米原章三は1932(昭和7)年9月(すなわち昶が北海道での地下生活から、再び東京へ戻った年の3か月前)貴族院議員となり、1946(昭和21)年4月、貴族院議員を辞している。つまり、この間絶えず上京していたということになる。
六男の米原弘(1919年・大正8年生まれ。東京大学名誉教授)が『傳』に「東京の宿」という一文を寄稿している(pp.324―328)。以下は、必要な箇所だけを抜き出して結びつけるといった、著者に対してたいへん失礼な引用をしているが、お許しいただきたい。「…」は省略〔 〕内は引用者の付加「/」は改行を表している。
父が東京に長く滞在するようになったのは貴族院議員に選出されてからだろうが、私はその頃、鳥取二中の生徒だったし、…山口高等学校に進んだので、東京での父の宿が何処であったかはよく知らない。/…父の常宿を初めて訪ねたのは昭和十五年三月初めのことで、神田駿河台の日昇館である。…〔ここ〕を利用させてもらって、東京大学の受験をした。その当時、鳥取から上京される多くの方が、この日昇館を利用しておられたようである。10年ほど前、いやもっと以前のことだったかもしれない。「週刊読書人」に、井上ひさしがこんなエピソードまで書かれている人物事典があると紹介していた。【地下活動をしていた米原昶と貴族院議員でもあった父親の米原章三が東京駅(頭)でばったり顔を合わせる。互いに互いを認め合いながらも、二人はそのまま無言で別れざるをえなかった。】
私が東京大学農学部の学生になった…頃から、父は港区琴平町の村上旅館に常宿を移した。多分、国会に近いという事がその理由だったろう。…私は本郷の下宿で、父からの呼び出しを楽しみにしたものだ。父からの呼び出しは大抵食事を一緒にしようというもので、当時二十才前後の食い盛りだった私にとって、父のおごりは干天の慈雨だった。食事は外の飲食店やホテルに出掛けるのではなくて、近くの有名店から村上旅館に取り寄せて、父子で卓を囲むもので、随分度々御馳走になり、戦地に行っている兄弟に悪いなあと思う程だった。…特に、すき焼きを自分で味付けし、少々濃味に甘辛くしたものを「どうだ、旨いだろう。食え、食え」といって奨めたものである。
在学中に太平洋戦争が始り、私は卒業すると直ぐに陸軍技術部に入隊した。技術将校になると自宅からの通勤が認められる。丁度その頃、長兄穣が高知高等学校の教師から、文部省の課長に転勤になって東京に住んでいた。私は神奈川県登戸の第九陸軍技術研究所に勤務することになったので、兄と一緒に暮らすことにした。たまたま、兄の知人の家が麻布広尾町に空いていたので、そこを借りることになった。…今でも麻布広尾といえば東京山手の一等級住宅地である。隣は大東亜大臣の桜井兵五郎氏の邸であった(今はそこに立派な西ドイツ大使館が建っている)。そこに、かなりの庭のついた平屋建五十坪位の家を借りたのである。兄との二人住まいには、少々もったいない位であった。父が上京するとそこへ来るようになった。多分、戦争が激しくなり、食料事情も悪化して、村上旅館も、都心でゆうゆうと旅館業をやっていられなくなったからだと思う。/そこから父は議会に通った。父の上京は年に数回だったが、父の運ぶ物資は、物の無い東京住いの者にとっては大きな恵みであった。
昭和十九年空襲が始まり、中野に住んでいた代議士の叔父由谷義治は叔母を鳥取に帰し、我々と合流することになった。昭和二十年、空襲は益々激しく、東京は焼のが原となって行く。麻布は、その九割までが焼け…た。だが、私達の住んだ家は、隣が有栖川公園という地の利もあって、焼け残った。都心に近い家が焼けなかったので、便利なこともあったろう。今度は三好英之代議士(引用者注:長女世志子がその長男に嫁す)が栃木県選出の故森下国男代議士と共に同居を求めてやってこられた。終戦間際になって、一軒の家に四人の国会議員と一緒に住まうことになったのである。…
終戦後、陸軍から復員して、東京大学の研究室に復帰した。待遇は無給副手である。兄も文部省にそのままだったので広尾で一緒に暮らした。都内は焼のが原なので、父も上京するとそこへやって来た。(以下省略)
井上は何故この例を取り上げたのだろう、と思ったが、その後、彼が米原ユリと再婚していることを知り、合点した。
それはそれでいいのだが、肝心の事典の名称を忘れてしまっている。いろいろ調べてみて日外アソシエーツの『近代日本社会運動史人物大事典』ではあるまいか、と見当をつけた。〔本の検索 books search〕という有り難いフリーソフトで調べてみると、総索引も含めて5巻からなるこの事典を所蔵しているのは中国地方では広島、山口、岡山の県立図書館だけである。
そこで、鳥取県立図書館を通して、「上記のような記述がその事典にあったら、コピーを送って欲しい」むね、岡山県立図書館へ依頼して貰った。しかし「米原昶」の項目自体が無かったとのことであった。
「なにごとであれ、これはと思ったらメモせよ」の教訓をあらためて思い知らされているが、どなたか、ご教示いただけませんか?
『米原章三傳』 『近代日本社会運動史人物大事典』 「週刊読書人」 米原章三 米原弘 貴族院議員 井上ひさし
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