『回想の米原昶』の年譜(鶴岡征雄・編)は由谷について「橋浦泰雄などとともに鳥取県における大正デモクラシーの草わけ的存在だった。この叔父に可愛いがられた。専制主義への反撥は叔父の影響によるものかもしれない。」と記している。
わたしは明治三十五年に入学し、仝四十年に卒業したのだが、明治三十七,八年には、あの日露戦争があつて、国をあげて、好戦的な国民感情がみなぎつていた。そのころ因伯時報(いまの日本海新聞の前身)の書評欄に、大要つぎのような意味の平民新聞批評がのつた。この一部5銭の週刊新聞を読みたくなった由谷少年は、店の売上金を少しずつくすねて購読した。「書いてあることの大部分は、チンプンカンプンで、よくわかつたとはいえない」が「その論調の新鮮さや、その文章の悲壮さは、いたく少年のこころを刺激」した。さらに続けてこう述べている。
「ロシア討つべしという怒濤のような風潮のなかで、ひとり平民新聞のみは、平和を呼号し、非戦論をとなえている。
吾人は、平民新聞が力説するところの思想に、いささかも組するものでない。しかしながら、何ものをもおそれず、その所信をつらぬき、堂々の非戦論を展開する、その不屈の論旨は、まさに一読驚嘆に値する。」
文章の一字一句は、勿論いまはおぼえてはいないが、以上のような要旨が、明治調の文章で、書かれてあつたものだ。(pp.23―24)
この平民新聞に、日本で始めて、マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」が訳載されたことをおぼえている。ブルジョアジーという語は、「紳士閥」と訳されていたし、プロレタリアートの訳語は、たしか「平民」だつたとおもう。自慢してよいかどうかわからないが、鳥取県で共産党宣言をはじめて読んだのは、おそらくはわたしだつたのかもしれない。ここで私事をふくめて書いておくと、5月4日のブログ〈映画「わかれ雲」6〉の中で述べた、ごうなの胸のレントゲン写真を大阪の医大の先生に送って下さった同級生H君の父上は、由谷義治の従弟であり、この当時、鳥取中学の二級下で、由谷家に下宿していたのである。そして、Hさんの同級生に、前掲の米原昶年譜からの引用文中の橋浦泰雄の弟、時雄らもいて、「かれらも段々に平民新聞の熱心な読者になつ」ていったのである。(p.26)
その後平民新聞は、当局の圧迫で、廃刊になつたが、廃刊号は、前面あかい活字ですられていたので、いまでもつよく印象にのこつている。廃刊のことばとして「人黙しなば、石叫ぶべし」という名文句があつた。刀折れ、矢つきて人が沈黙すると、心なき石が人にかわつて真実をさけぶだろうという、悲痛そのもののことばであつた。(p.25)
由谷が鳥取中学時代に「因伯時報」に投書した一文が『自伝』の中(p.35)に採録されている。
「あゝ社会主義! 天来の福音か、地妖の魔語か、それを以て直ちに国賊なりと罵り排斥する愛国者諸君等は、社会主義の神髄を知って、しかく罵り排斥するものか? われは怪しむ、君らは食わずぎらいの徒のみと! 一片の卑見を捨てゝ、寛大的度胸をもつて社会主義の神髄を会得せよ。さらば君らは直ちにかかつてわが社会主義に来らん。これ百鬼夜行的大飢饉道に転々煩悶し、苦悩せる人の子をパラダイスに導く天来の福音なればなり。あゝ満天下の志士諸君、乞う来たれ、来たってわが社会主義の神髄に到達せよ。さらば諸君、すみやかにそれを謳歌し賛美すべけん。」ペンネームは「羊我生」を使った。「義治」の義の字を上下に二分したものだ。
また、ここで私事をふくめて書いておくと、1894年創刊の「因伯時報」とともに後の「日本海新聞」に発展した「山陰隔日新報」を1883年に創刊したのは、ごうなの大伯父である。
(注1)竹本 節・編『由谷義治自伝 上巻』1959年9月1日発行
発行所:由谷義治自伝刊行会
由谷義治
因伯時報
山陰隔日新報
日本海新聞
平民新聞
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