2010年8月19日木曜日

トランクの中の日本 (2/2回)

紹介したい写真はいろいろあるが、少年少女を撮った2枚の写真をご紹介する。カメラを扱う私の技術が未熟なためでもあるが、写真に付された文章も読んでいただきたいと思うからだ。
最初は例の「直立不動の少年」。




………
 焼き場に一〇歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。
私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は廻れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?(pp.96-97)
[長崎の小学校にて]
この教室を訪れたとき、私は壊れた窓や校庭であったはずの場所が完全に破戒されている様を見て、深い悲しみに襲われた。子供たちは驚くほど規律正しく手も動かさずに静かに座っていた。私は教室に侵入者のように現れたが、子供たちは私に目を向ける様子もなく、ただじっと先生の話を注意深く聞いていた。そして先生も私を無視して、授業を続けているのであった。疎外感がこみ上げ、私はさっさと写真を撮るとそこを後にした。(pp.94-95)







上の説明文のタイトルが「小」学校となっているが、「国民」学校が正しい。昨日のブログで紹介したオダネルの文中にも書かれているように、彼が日本に滞在していたのは1945年9月から翌年の3月までの7か月間であった。1941年4月から1947年3月までは国民学校であった。
この写真の最前列左の女の子の服に縫いつけられている名札には「奈(?)○○國民學(校)」と書かれている。○○の部分の漢字は判読できない。ネットで調べてみたが具体的な学校名は確認できなかった。

ただ、この写真をもう一度アップしたのは、子どもたちの目を見て欲しかったからだ。写真に写っている最前列の子どもたちの足は男女ともみな素足だ。机の上には教科書やノートもない生徒もいる。なんの授業かも分からない。しかし、教師の顔を見上げている、子どもたちの真剣な目を見てほしい。

わたしも6年間国民学校に通った世代だ。焼き場に立っている少年も、この教室の少年少女たちもたぶん同じ年齢だ。違っていても2歳は違っていまい。これらの写真を見るたびに、熱いものがこみあげてくる。

これらの写真を残してくれたジョー・オダネルさんは、奇しくも、2007年の8月9日、長崎・原爆の日に亡くなった。85歳だった。



2010年8月18日水曜日

トランクの中の日本 (1/2回)

あれはいつのことであったか? 正確には思い出せない。後で述べることから、推測すると、1992年か、その翌年のことであったと思われる。
新聞の記事、というより記事とともに掲載されていた一枚の写真に衝撃を受け、心を打たれた。この写真は一昨年の夏、NHK総合テレビでも放映され、多くのブログがとりあげた。

2008年8月7日(木) 午後8時~8時49分、「解かれた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI~」
(→http://www.nhk.or.jp/special/onair/080807.html

1995年6月に『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』が小学館から発行され、「あの少年に会える」とすぐに買った。

冒頭で推測したのは、この写真集の帯にこう書かれているからだ。
1990年からアメリカで、ついで1992年から日本各地で彼の写真展は開催され、話題を集める。しかし、この夏に予定されていたワシントンのスミソニアン博物館での原爆写真展は、すでに報道されたように在郷軍人の圧力でキャンセルされた。ここにおさめられた57点の写真は、スミソニアンではついに展示されなかった真実の記録である。
さらに同じ帯に「1993年、日本で開かれた写真展で食い入るように写真を見つめる人々。」という説明と写真も載っている。

この写真集は現在でも入手できるので、ここで紹介しておきます。


この写真集に、なぜこのような題名が付けられたのか?
寫眞の撮影者、ジョー・オダネル(Joe O'Donnell)自身の言葉「読者の方々へ」を引用しよう。

私ジョー・オダネルは、アメリカ海兵隊のカメラマンとして、1945年9月2日に佐世保に近い海岸に上陸した。空襲による被害状況を記録する命令を受け、23歳の軍曹だった私は、日本各地を歩くことになった。
私用のカメラも携え、日本の本土を佐世保、福岡から神戸まで、そしてもちろん広島、長崎も含めた50以上の市町村に足をのばした。カメラのレンズを通して、そのとき見た光景の数々が、のちに私の人生を変えてしまうことになろうとは知る由もなかった。
1946年3月、本国に帰還した私は、持ち帰ったネガをトランクに収め、二度と再び開くことはないだろうと思いながら蓋を閉じた。生きていくためにすべてを忘れてしまいたかったのだ。
しかし45年後、戦後の日本各地で目撃した悪夢のような情景からどうしても逃れられないと思うようになった。私はトランクを開けると、湿気からもネズミの害からも奇跡的に無傷だったネガを現像し、写真展を開催した。
この本は私の物語である。私自身の言葉で、私の撮影した写真で、戦争直後の日本で出会った人々の有り様を、荒涼とした被爆地を、被爆者たちの苦しみを語っている。胸をつかれるような寫眞を見ていると、私は否応なく、辛かった1945年当時に引き戻されてしまう。そして、私のこの物語を読んでくださった読者の方々には、なぜひとりの男が、終戦直後の日本行脚を忘却の彼方に押しやることができず、ネガをトランクから取り出してまとめたか、その心情を理解していただけると思う。
1995年4月 ジョー・オダネル

2010年8月3日火曜日

平和な夏は甲子園だ!

平和な夏は甲子園での全国高校野球選手権大会だ。
鳥取県予選では、母校、鳥取西高は初日の第二試合で米子西高に7対2で敗れ、早々と姿を消してしまった。
決勝戦では、昨年城北高校に初の甲子園出場を阻まれた米子北高を、今年も東部の八頭高が4-1で破り、7度目の甲子園を決めた。

8月1日、全国の49代表校が決まった。
昨日、こんなブログを見つけた。
http://d.hatena.ne.jp/rationality/20100730/1280454982


49代表校の中で初出場は、昨年の半数、6校だ。その中に茨城県代表、水城(すいじょう)高校がある。ブログは、この高校の野球部のことではなく、現校長さんが若かった頃、水戸の定時制・通信制高校で「硬」式野球部を監督、指導なさったときの話だ。

このサイトに多くの人が感想を述べている。感銘を受けたという人もあれば、否定的な声もある。わたしはいい話だと思うから、ご紹介した。

2010年8月1日日曜日

會津八一と戦没学生たち

毎年夏がくると、蝉の声とともにあの戦争の時代を思い出す。子ども時代の体験もあるが、さまざまなメディアがさまざまな視点からあの時代をとりあげるからでもある。

先月28日の夜、NHK-ETVで放映された日曜美術館ー「広目天のまなざし・會津八一と戦没学生が見た奈良の仏」ーを見た。7月18日(日)9:00~9:45に放映されたものの再放送だ。

1943(昭和18)年10月21日午前8時、東京の明治神宮外苑陸上競技場(現・国立競技場)で、文部省主催の「出陣学徒壮行会」が開かれた。
夜来の雨の中、東京及び近県七十七校の学生が制服制帽にゲートルを巻き、剣つき銃を肩にかつぎ、各校の校旗を先頭に行進していく。
東條英機首相、岡部長景文相らの激励を受け、出陣学徒代表が「……生等もとより生還を期さず」と答辞を述べ、観覧席からは各校の校歌が沸き上がり、それらの歌声はいつしか「海ゆかば」「紅(くれない)の血は燃ゆる」の大合唱となり、神宮の杜(もり)にこだました。(『昭和二万日の全記録』講談社などによる)

当時、わたしは国民学校の三年生であったが、大学卒業後、郷里の高校の教壇に立つようになったとき、先輩である同僚のなかには、戦地に向かう大学生としてあの雨中を行進した人、スタンドで雨に濡れた小旗を振りながら涙ながらに歌をうたった女子学生であった人がいたのである。

剣つき銃を肩に雨中行進した学生たちのなかには、当然、早稲田大学の学生たちもいた。
彼らに日本美術を教えていたのが、會津八一(1881年―1956年)であった。


     ↑http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0718/index.html

秋艸道人、渾斎の雅号をもち、歌人・書家・美術史家として有名だが、新潟尋常中学校(現県立新潟高等学校)を経て、東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講し、1906年早稲田大学英文科卒業。卒業論文にはキーツをとりあげた。1934年、文学博士。1948年、早大名誉教授。戦後は故郷の新潟に在住。(同じ大学学部に学び、卒論に同じキーツを選んだはるか下の後輩として、ただただ、小さくなって平伏するのみである。)


會津八一自身「一回読み切り講義」と称していた美術史の講義は、しばしば、脱線もしたが、最後の決まり文句は「理屈を言わずに、奈良を歩いて来い!」であったという。

前述の学徒出陣の年、昭和十八年の秋、これが最後となる10日間の奈良旅行を行うことになった。會津は半紙を50枚の短冊に切って寺の名前を書いたものを畳に並べて、計画を練った。宿はいつも決まっていて、會津教授の定宿、奈良公園前の「日吉館」だった。



    ↑http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0718/index.html

テレビではその旅行に参加した学生の一人、89歳の金田 弘(かなだ・ひろし)さんが登場した。戒壇院四天王像のうち、會津八一に似ているといわれていた廣目天を身近に見たとき、いつでも出征できると思ったという金田さんは、この旅の途中で入隊することになった。別れのあいさつに會津の部屋を訪れたとき、彼はこう言ったという。
君は今でも歌を作っているか。作りたまえ。
良寛や芭蕉も君らの歳では大した歌や句はまったくない。
長生きして実らせよ。井戸水をどんどん汲み出したあとで、本当の地下水が現れる。
命を無駄にするな。学問を続けよ。
金田さんは、姫路の師団に入隊したが、病を得て除隊になった。

奈良の航空部隊に入隊した別の学生は、毎朝のジョギングの途中に、日吉館の看板を手でさすっては走り続けたという。その看板の文字は師の書いたものであった。この学生はフィリピン沖で戦死した。
けふも また
いくたりたちて
なげきけむ
あじゅらがまゆの
あさき ひかげに
この番組の中で會津八一として何度か登場する寺田 農(てらだ・みのり)は、「先生は学生たちが生きて帰ってくることを願っていたのではないか。みずからも守り、生徒たちにも示した學規の最初には、この生を愛すべし、と書かれているし…」と言う。また言う。「なんども見ているうちに先生が廣目天に似てきたのではないか。」


 

戦地に向かう学生たちの多くが小さな仏像の写真を買い求めたという。弥勒菩薩が人気だった。学生たちは母の写真の代わりに仏像の写真を持って往ったのではあるまいか、とも。

唐招提寺に會津八一の遺骨の一部がおさめられている。
おほてらの 
まろき はしらの
つきかげを
つちに ふみつつ
ものをこそ おもへ

付記:実物重視の学問、実学を重んじた會津八一は、3000点もの東洋美術の資料を自らの給与の半分以上を使って集めた。現在は早稲田大学會津八一記念博物館に収められているという。かつて文学部の図書館だったところだ。
http://www.waseda.jp/aizu/index-j.html

久しく、早稲田の杜を訪れていないよなぁ。