2009年9月29日火曜日

当世キーワード(2009年9月③)

少し遅くなったが、27日にNHKラジオ第1で聞いた当世キーワード(亀井肇さん)の報告。
最初の二つは、頭髪が減少しつつあるわたしには、関心はありませんが、1個所ずつサイトを紹介しておきます。亀井さんは、「ボブヘアーも、自分らしく生きたいという心の現れ」とおっしゃていましたが…。

◇ボブ男

  http://mjwatch.jugem.jp/?eid=973
◇スジ盛りヘアー
  http://ameblo.jp/chidu-h/entry-10156055038.html

次のふたつは、生きづらくなってきた現在、生まれるべくして生まれたものでしょう。
◇貸しスーツ
  http://job.yomiuri.co.jp/news/ne_09071601.htm
◇ライド シェア
 http://notteco.jp/

◇歩き食べ族
これについては、自称、東京・新宿は余丁町のご隠居、橋本尚幸さんのブログ、Letter from Yochomachi が1ヶ月前に取り上げておいでです。そちらをご覧下さい。
 http://www.yochomachi.com/2009/07/blog-post_28.html

◇信州プレミアム牛肉
おいしそうだが、お高いンでしょうねえ。
http://www.pref.nagano.jp/nousei/nousei/oisiinet/contents-premium.html

2009年9月23日水曜日

もう一度宮沢賢治

昨日の宮沢賢治についてのブログの終わりに「役立つ情報」としてパルバースさん自身の朗読が聞かれるサイトのアドレスをご紹介しました。「ラジオ深夜便」9月号の38ページに次のように書かれているからです。
*パルバースさんによる"STRONG IN THE RAIN"の朗読を本誌ホームページ
(http://radio.nhk-sc.or.jp)で聞くことができます。
しかし、ここでは10月号に掲載されているものしか聞けません。いろいろ探してみましたが、NHKのサイトではだめのようです。
パルバースさんは「雨ニモマケズ」の英訳についてこう語っている。
「雨ニモマケズ」の英訳はいくつかあるのですが、そのどれもが、「マケズ」をそのまま否定形で訳していて、「ちょっと違うな」と思っていました。だからぼくの訳は、“Strong in the rain”で始まっています。「強い」という意味の“strong”で、「よし、やるぞ」という感じを出したかったんです。
それは賢治の願望であり、祈りでもあったから。
著作権のこともあるので、前半の英訳をご紹介する。
「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/欲ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシズカニワラッテイル/一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ/アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ/……」

Strong in the rain
Strong in the wind
Strong against the summer heat and snow
He is healthy and robust
Free from all desire
He never loses his generous spirit
Nor the quiet smile on his lips
He eats four go of unpolished rice
Miso and a few vegetables a day
He does not consider himself
In whatever occurs...his understanding
Comes from observation and experience
And he never loses sight of things

パルバースさんに関連するサイトなどを追加しておきます。
Strong in the Rain: Selected Poems
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→こちらも見てください。http://www17.ocn.ne.jp/~h-uesugi/eigodeyomitokukenji.html

2009年9月22日火曜日

昨日は宮沢賢治の命日だった

昨日、「今日は宮沢賢治の命日だ」と気づき、それを確かめようと、本棚から久しぶりに、2冊の本を取り出した。1冊は、
 
 山内修=編著『年表作家読本 宮沢賢治』   (河出書房新社)1981年9月発行

この本は、上段が年譜、下段がそれに沿った解説という構成になっていて、ページ数は印刷されていない。
賢治が亡くなったのは、1933(昭和8)年の9月21日。
 二一日、午前一一時半、賢治の寝ている二階から、突然「南無妙法蓮華経」と高々と唱題する声が聞こえてきたので、みな驚いて二階へ上がると、容態は急変していた。父が何かいい残すことはないかと聞くと、国訳の法華経を一千部印刷して、知己友人にわけてほしいという。父は賢治のいうことをまとめて文章にして賢治に確認した。
「合掌、私の全生涯の仕事はこの経をあなたのお手許に届け、そしてその中にある仏意にふれて、あなたが無上道に入られんことをお願いする外ありません。昭和八年九月二一日臨終の日に於いて、宮沢賢治」
 午後一時三〇分、永眠。(上段)
(ここまで読んで何気なく時計を見たら、正に午後1時30分ではないか! 偶然とはいえ、いささか驚いた。)同じページの下段には、賢治の弟、清六の文章が載せられている。
 父はその通りに紙に書いてそれを読んで聞かせてから、「お前も大した偉いものだ。後は何も言うことはないか。」と聞き、兄は「後はまた起きてから書きます。」といってから、私どもの方を向いて「おれもとうとうお父さんにほめられた。」とうれしそうに笑ったのであった。
 それから少し水を呑み、からだ中を自分でオキシフルをつけた脱脂綿でふいて、その綿をぽろっと落したときには、息を引きとっていた。九月二十一日午後一時三十分であった。
この文章は、書棚から持ってきたもう1冊の本、宮澤清六『兄のトランク』(筑摩書房 1987年9月)のⅣに収められている「兄賢治の生涯」の最終部分(p.238)でもある。
  ―――*―――*―――*―――*―――*―――
醇風国民学校2年生のとき、教室(特別教室であったと思うが、正確な名称は分からない)の板張りの床に座って、映画「風の又三郎」を見せてもらったのを覚えている。
     ―――*―――*―――*―――*―――*―――
賢治の作品を英訳したロジャー・パルバース(Roger Pulvers)という在日オーストラリア人(元アメリカ人)がいる。昨年、宮沢賢治賞を受賞した。
今年の5月17日と18日、2回にわたってNHKラジオ深夜便[こころの時代]のインタビューに出演した。この放送をCDに録音していたので、昨夜、聞き直してみた。

冒頭部分で、聞き手の鈴木健次さんが、「宮沢賢治賞を受賞された昨年は賢治の没後75年でしたね」と言ったのにたいして、パルバースさんは、「賢治が他界したのは1933年9月21日午後1時30分でした。2008年のその日その時、ぼくは授賞式出席のため花巻にいたので、賢治が〔イギリス海岸〕と名づけた北上川のほとりに立って、お祈りしました。賢治の魂が北上川の上空を散歩しているような気がしたものですから」と答えている。

彼はカリフォルニア大ロサンゼルス校、ハーバード大学大学院で政治学とソビエト近代史を専攻、ポーランド留学中スパイ容疑をかけられ帰国したが、ベトナム戦争さなかの母国を嫌って、1967年9月に来日した。その時のことを次のように語っている。
日本のことは何も知らなかったが、羽田国際空港に飛びました。そして都内のホテルに宿を取ると、屋台のおでん屋さんに入ったんですね。だから、ぼくが初めて覚えた日本語は、「チクワ」です(笑)。
先回、ブログ「 鳥取大震災」でも述べたように、竹輪屋の息子としてはうれしいですなw

日本語がまったく出来なかったのに、なぜ宮沢賢治を選んで学習したか、彼がなぜすぐれた詩人であるのか、インタビューはなかなか興味深い。しかし、前後合わせて100分前後の分量なので、要約するにも時間がかかる。幸い、雑誌に要約して採録されているから、すぐあとでご紹介する。

今日はこれにて失礼します。以下の情報を役立てていただければ幸甚です。

「ラジオ深夜便」9月号 350円
 インタビューの要約のあとに「雨ニモマケズ」の英訳も載っている。
 次のホームページで、パルバースさん自身の訳詞朗読が聴けます。
  http://radio.nhk-sc.or.jp/
◇次の書には、賢治の詩50編とその英訳詩が収録されています。 
英語で読む宮沢賢治詩集 (ちくま文庫)英語で読む宮沢賢治詩集 (ちくま文庫)
ロジャー・パルバース

筑摩書房 1997-04
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2009年9月18日金曜日

当世キーワード(2009年9月②)

NHKラジオ第1の[日曜あさいちばん]で、5時半過ぎに放送される亀井肇さんの【当世キーワード】。先ず、13日の放送から二つ、ご紹介。

◇あがる
この動詞にはたくさんの意味があって、使用される漢字も様々あるが、精神状態をときは「平常の落ち着きを失ってしまう」の意味で使っている。

最近の若い女性は
  気分が高揚する/うきうきする/うれしい
といった意味で使うそうだ。「るんるん」気分になることをいう、と言っていいのかな。

◇海賊党
Wikipedia をみると、スウェーデン、オーストリア、チェコ、スロバキア、フィンランド、ドイツ、アイルランド、イギリス、アメリカ合衆国、スイスの10カ国にできているそうだ。

おだやかでない党名だが、わたしの見たサイトを二つご紹介する。
・BENLI
・閑寂な草庵 - kanjaku -

今朝の放送から三つばかり。

◇圏外パパ
先回ご紹介した「ファーザーズ・バッグ」を持っているようなパパの対極にいるパパ。ご本家らしい次のサイトを見れば、汚名挽回できます。
さらにここへ

◇エコ恋愛(ラブ)
これも、元祖らしい、この本をアマゾンでどうぞ。
【出版社/著者からの内容紹介】
◎ 本書概要
無駄な告白はしない、余分なパワーは消費しない、交際してもハマらない
----不況下で恋愛にも「エコ」を求める男女が増える背景を分析し、新しい恋愛・結婚のあり方を考える。
◎【エコ恋愛(ラブ)婚】とは
【自分にも周りにもやさしい恋愛・結婚】のこと
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◇勉強カフェ
下記サイトで実例の一つをご覧あれ。今日はここまでにして、わたしは、インスタントのコーヒーでも飲みましょう。
   

小山晴子「かしわの力で海岸林をつくる」

今朝のNHKラジオ第1・[こころの時代]は元中学校教諭の小山晴子さんだった。

NHKのR1blo に次のように紹介されている。
小山晴子(こやま はるこ)さんは、40年間調べ続けた海岸林のマツとカシワの木の共生に関する本「マツ枯れを超えて ~カシワとマツをめぐる旅~」を出版しました。著書では、マツ枯れを防ぎ、これからの海岸林をつくる担い手は、カシワであると提言しています。
 海岸林は、風、飛砂、潮、霧などを防ぎ、田畑や住宅地を守っています。しかし、約200年前に植えられたマツによる海岸林はマツ枯れのため、その対応策が急がれています。
 なぜ、カシワが海岸林に有効なのかお話ししていただきます。
http://www.nhk.or.jp/r1-blog/050/26112.html
カシワ(柏)の葉は、柏餅をくるんでいたから、子ども時代からおなじみだけれど、米や麦などをたいて飯をつくることを「かしぐ(炊ぐ)」というが、そのとき、よくカシワの枝や葉を燃したことから「カシワ」という名前がついたそうだ。小山さんの話ではじめて知った。

鳥取市では砂丘の砂を減らさないように努めているが、日本全体としては、大切な土地を浸食や砂漠化から守ることは重要なのだ。

著書は2冊あるようだが最新のものは、

『マツ枯れを越えて-カシワとマツをめぐる旅』
小山晴子/著 秋田文化出版/発行 2008.11


本書では、枯れていく海岸の防砂林を調べていく中でわかってきた
カシワの木とマツの関係について述べられています。人間と樹木の関
わり方について考えさせられる一冊です。著者の前作「マツが枯れる」
の続編として発行されました。


鳥取県立図書館にはなかったが、秋田にはあるから、各県の図書館で取り寄せてもらい、帯出できるだろう。
 
秋田県立図書館
http://www.apl.pref.akita.jp/kensaku/kyodo/2009_1.html


マツ枯れを越えて―カシワとマツをめぐる旅



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2009年9月17日木曜日

鳥取大震災 3/3回

1943年9月10日(金曜日)。この日は雨だった。
…鳥取震災の日の前ぶれの雨のすさまじさも、眼に刻みこまれている。墨のような黒雲が、まるでハヤテのように走ってきてひろがり、イキナリ夜になったと思うほどまっくらになって、たちまち物凄い雨が鳥取の街をたたきつけた。
はねかえる白い水シブキが、高さ数米にも見えた。県庁前から市役所あたりまで、見る間に川になってしまった。
あの時の雨の異常さは、あとで人々に奇怪な感触さえ残したが、鳥取を一瞬のうちに恐怖の底にたたきこんだ大地震は、雨がようやく小止みになった直後に起こった。(注)
当時わが家は二軒あった。鹿野街道と川端通りが交わって十文字を作る。横棒が鹿野街道、縦棒が川端通りとする。この右下角にわが家があった。街道を右手の方へ行くと袋川になる。わが家から袋川の手前まではアーケードになっていて、ここを内市といい、昔は賑わっていた通りだった。
この内市の角屋の一軒であるわが家は[浪花屋]という練り製品製造業、平たく言えば、かまぼこ屋あるいは竹輪屋をやっていた。一階が仕事場で、二階に義兄夫婦が暮らしていた。
川端通りは浪花屋までが川端四丁目で、ここから十字の縦線を下にのばした通りは単に四丁目尻と呼ばれていた(現在は、川端五丁目)。袋川は川端通りとほぼ並行して流れきて、川端五丁目の半ばあたりから J字形に曲がる。再び文字を使えば、「サ」の―が鹿野街道、左の|が川端通り、右のノが袋川。そして四丁目尻と交わった川は、そのあと鹿野街道とほぼ並行して流れていく。
川端通りと並行して何本もの通りが左側にあって久松山へ近づいていく。川端五丁目の左が元魚町四丁目(旧魚町尻)、さらにその左が茶町と続く。これらの通りを、二分するように、鹿野街道と袋川の間に細い道が通っている。ちょうど川と三の文字が田を作るように。

もう一軒のわが家は、川端五丁目の鹿野街道よりのところにあった。現在二つのマンションが並立しているが、街道寄りのマンションのあるあたりだ。四つに仕切られた二階建ての長屋で、右端が華道か茶道の先生をしていたお婆さんが、その隣には中年の夫婦が住んでいて、次がわが家だった。四軒目は空き家で物置。裏側には住吉という料亭があって、長屋とは広い庭でへだてられていた。
この住まいに、両親と妹と四人で暮らしていた。

あの日学校から帰宅したのは午後2時か3時過ぎであったであろう。家にはだれもいなかったに違いない。(当時は、旅行にでも出かけなければ、留守になっても家に鍵を掛けたりはしなかった。)
冒頭に引用したように、雨が降っていた。かばんを置くと、増水した袋川の様子を見にでかけた。おそらく土手沿いを歩いて魚町尻へ出たのであろう。
母方の伯父の家に立ち寄った。妹も来ていて、二人の従姉妹と遊んでいた。わたしも三人に加わったが、どんな遊びをしていたのか、記憶にない。部屋は玄関の脇にある道路に面して大きな窓があった。

ゴォーという不気味な音がしたと思うと、ガタガタと音をたてて家が揺れ始めた。上下、左右、同時に揺れるような激しさで、棚から物が落ちてくる。あわてて立ち上がったが、すぐ足をすくわれたような格好で、しりもちをついてしまった。再び立ち上がったとき、窓ガラス越しに、道路をへだてた向かいの家の庭を囲む板塀が左右に波打つようにしなりながら倒れていくのが見えた。
この年の春、かなりの地震を体験していた。(例の醇風国民学校の日誌に、「三月四日 午後七時十三分鳥取地方ニ相当強度ノ地震アリ」との記述がある。)その時は、玄関の下駄箱の上あった植木の鉢が落ちて割れた。
だが、この時の揺れの激しさはその比ではなかった。われわれ四人のこどもは言葉にならない叫び声をあげるばかりだった。激しい揺れがとまると、はだしのまま、道路へとびだした。
波打っているのを見た板塀は倒れ、何本もの電柱は大きく傾き、電線は垂れ下がっている。鹿野街道の方はもうもうと土煙が上がって他にはなにも見えない。髪を振り乱したどこかの小母さんが、これもはだしのまま、何やら泣きわめきながら袋川の土手の方へ駆け抜けて行った。
四丁目尻と魚町尻の間には魚市場があった。魚町尻側に小さな事務所があり、その前の四丁目尻まで続く広い空間は柱だけが立っていて、スレート板の屋根を支えていた。同じ作りの青果市場が魚市場とL字を作るように、四丁目尻の通りに沿っていて、事務所は土手側にあった。どちらも前年に作られたように思う。
わが家の方へ振り向いてみると、この魚市場がぺしゃんこにつぶれ、灰色の大きな屋根が山形になって地面を覆い、四丁目尻の方の視界をさえぎっている。一瞬にして見慣れていた世界が一変してしまったという思いに圧倒された。
大きな地震の後には揺り戻しがあるという知識はもっていたが、とにかく家に帰らなくてはの一心で、妹を従姉妹に頼み、一人で大きな屋根を上り、越えたところで、わたしたちを探して、もしやと叔父の家へ向かってやって来た両親とばったり出会った。そのすぐ後、駆け付けてきた義兄姉ともいっしょになって、家族全員の無事を確かめ喜び合った。
四丁目尻の長屋は、一棟全体の一階がペしゃんこにつぶれ、二階はしゃんとして残っていた。
両親たちは、この日たまたま芝居見物に出かけるどこかの団体の仕出し弁当の注文を受けており、内市の店で忙しくしていた。そのため夕食が遅くなることを、妹とわたしは知っていたから伯父の家で遊んでいたのだ。
ぐらっと来たとき、父は義姉を相手に大きな鍋でてんぷらを揚げていたという。鍋の油がゆっさゆっさ揺れ、二人はありたけの野菜類を鍋に投げ込み、外へ飛び出した、と聞いた。この店は倒れず、全員が無事であった。すぐに長屋に駆けつけた両親は、わたしと妹が一階で下敷きになっていると思い、何度も大声で呼んだそうだが、もしやと一縷の望みをいだいて、伯父の家に向かったのだった。

長屋は一階が潰れてしまっただけではなかった。隣かお師匠さんの家のどちらかで火か出たのだ。あたりが暗くなりはじめた頃だったから、6時になる頃であったろうか、一階全体に回っていた火が、ぼっという音とともに、吹きあげるように二階全体に広がった。道路側の窓は窓ガラスはもちろん、窓枠も下に落ちてしまっていたから、一瞬、部屋の中が照明に照らされたように浮かび出た。窓際にあった机の上の本立ても、安藝ノ海の写真を入れた小さな写真立ても机上にあったし、アッツ島守備隊長・山崎大佐、連合艦隊司令長官・山本元帥の写真の額も長押の上にそのままあった。みんなあっという間に炎に包まれて焼けてしまった。そのとき、わたしは、はじめてわっと泣き出してしまった。
1936(昭和11)年末から発行されていた『乃木大将』『岩見重太郎』『金太郎』などをはじめ、何十冊かそろっていた「講談社の絵本」や幼稚園で購読していた『キンダーブック』も焼けてしまった。ランドセルも教科書や文房具もみんな焼けてしまった。階下の壁に貼っていた大きな世界地図も、縁側の近くに置いていた網を掛けた水盤のなかのカジカガエルも……。

魚市場は全壊したが、青果市場は被害を受けなかった。長屋の火が鎮まるころ近所の人たちが市場に集まってきた。二十世紀梨の入った木箱が積み上げられていたが、箱が崩れ落ちて、ナシが散乱していた。事務所の人が好きなだけ食べろ、というのでみんなが食べた。
母と姉が大きな釜で炊きあげたご飯をそのまま持ちこんで、にぎりめしを作って、まわりの人たちに振る舞った。仕出し弁当に使う料理も提供した。ふだん話をしたこともないような人たちも地震のときの有様を興奮したようにしゃべりあっていた。こんなとき、大人はよくしゃべるんだ、と子供心にも思った。

長屋ではお師匠さんだけが亡くなった。助けを求める声が聞こえたが、火のまわりが早くで救出できなかった。
市場の下はコンクリートだった。内市の家から持ち込んだ畳を並べ、布団を敷いて寝た。暗闇のなかで、亡くなったお師匠さんの燐が燃える青白い光が
ゆれていた…。

先回引用した『鳥取の震災』の「大震災」の部に、次のような『大因伯』10月号からの引用がある。その一部を孫引きする。
「また、鳥取市大黒座に出演し、同日夜の部開演前の六代目大谷友右衛門は、楽屋にあって顔作り中であったが、隣家が倒壊して楽屋にのりかかり、不幸圧死した」「鳥取駅前に小屋掛けをしていたサーカス団(引用者注:木下サーカス)も、この地震で団長が亡くなり、曲芸や象使いの子どもたちも三人圧死した」。(同書p.20)

大谷友右衛門の來鳥が、そしてその芝居の見物客の注文を受けたことが(父は気に入らない客のくずし物以外の注文は受け付けなかった)両親と妹とわたしの命を救ったのだ。

先回述べたように、醇風国民学校の児童16名がこの地震で亡くなった。そのうち、6名が茶町、1名が四丁目尻。妹とわたしは、その間にある魚町尻の家にいて助かったのである。亡くなった児童の内、同学年以外にも何人か、顔が思い浮かぶ子がある。みな10歳前後だ。生き残ったわたしは、あれから70年近くまで、こうして馬齢を重ねている……。

(注)『鶴田憲次遺文集 風に訊け』1982年 同編集委員会(pp.295-296)

2009年9月13日日曜日

鳥取大震災 2/3回

先回の記録的な記述に、もう2、3点、補足しておきたい。

1)当時の醇風国民学校の日誌の記入者が「恐懼感激ノ至リニタヘズ」と記した昭和天皇からのお見舞いについて、当時の県内発行の雑誌「大因伯」は、9月16日、小倉侍従の現地状況の詳細をお聞きになった天皇が「ご救恤(きゅうじゅつ)金として、ご内帑(ないど)金一封を鳥取県に下賜(かし)された。松平宮内大臣は、この日直ちに武島知事宛に、電報でその旨を伝達した」と報じている。
なお、上記引用文中にある難しい言葉は文脈からお分かりだと思うが、手元にある『福武国語辞典』で調べた結果を書いておく。

・救恤(きゅうじゅつ)  (貧困・被災などで)困っている人を助けること。
・内帑(ないど)金   天子の手元にある金。

2)わたしが未見であるとした『鳥取震災小誌』について、『鳥取の災害』のうち「鳥取大震災」を担当した芦村登志雄さんが[あとがき]のなかで次のように述べている。
…当時の記録は、戦争中の防諜事情もあって、殆ど残されてはいない。わずかに、特高警察の記録した『鳥取震災小誌』が、その面影を偲ばせるばかりである。
こんな記録がよく残っていたと思う。

3)この『小誌』は、中部第四十七部隊(鳥取連隊)をはじめとする軍の活動についても、詳細に記録している。

震災当日、川上部隊長は直ちに救援・救護のために全員に出動命令を下し、市内に出動し、警備、死傷者の収容救護、防火消防、県庁・鳥取駅・陸軍病院間の通信確保、さらに陸軍病院も、救護班を編制、鳥取駅・日赤病院・修立国民学校などで治療活動を展開した。
翌11日。前日の活動に加えて、鳥取駅、山陰本線・因美線の復旧作業。この日から夜間警備も開始。さらに、中部第五十二部隊より140名、舞鶴鎮守府から海軍軍医以下132名が来援。
12日。中部第五十四部隊より自動車隊3輌が来援、患者および衛生材料運搬に当たる。さらに、皆生と姫路の陸軍病院からも救護班が来援。
13日。東京陸軍軍医学校・岡山陸軍病院から、救護班が来援。

子供心にも、多くの兵隊さんたちの、きびきびした、統制ある行動が頼もしく、心強く感じられたのは事実だ。

4)戦時下であったから、鳥取震災のニュースは控えめに報道されたというが、全国からの物心両面の救援もあった。各府県から見舞金や、米をはじめとする食料品、衣類、日用雑貨品にいたるまで多くの物資が送られてきた。
海外からも、タイ国からは米3000石が寄贈され、中国(国民政府側)からは見舞金が寄せられたという。

5)さらに、芦村さんは、2)に引用した文の直前に、こう書いている。
あれから四十五年(引用者注:1988年)、戦後経済の飛躍的発展により、震災被害の残象は、どこにも見当らないほどに復興をみた。現在、少なくとも五十歳以下の市民で、鳥取大地震の悲劇を知る人は、全くいないといってよい。それほどに鳥取震災は、もはや風化し去ったのである。
この芦村さんの歎きからさらに21年が過ぎている。先回、マスコミさえ何も報じていないと嘆いたが、現状は当然というべきであろうか。

今回も『鳥取の災害』の中の、芦村登志雄さんが担当した[鳥取大震災]からの引用と孫引きに終始してしまった。
この本が刊行された当時の西尾優鳥取市長が、[はじめに]の中で次のように述べいる。 
わたしたちは、これらの災害をよき教訓として日々の暮らしに生かし、明るく住みよい鳥取市づくりを目指していきたいものです。そんな願いを込めた『鳥取の災害』を、家庭や職場にぜひ揃えてほしいとお勧めする次第です。
しかし、現在、鳥取市民の多くはこの本の存在すら知らないのではあるまいか。わたし自身、あらためて知ったことが多い。

そんなことで、このようなブログになってしまった。2回で終わる予定だったが、もう一回続けて、次回、わたし自身の思い出を記したい。

2009年9月10日木曜日

鳥取大震災 1/3回

9月1日は、[防災の日]であった。あらためてこの日の朝日新聞を開いてみたが、衆院選挙の記事ばかりで、「防災」なんかどっかへすっ飛んでしまっていた。この日が[防災の日]となったのは、言うまでもなく、関東大震災のあった日だからだ。

今日、10日は66年前、鳥取大震災のあった日である。朝日の鳥取版を見ても、郷土紙といわれる日本海新聞を見ても、1行の記事もない。それで、ブログにとりあげる気になった。

1995(平成7)年1月の阪神・淡路大震災の死者は6,434人といわれている。被災12市の当時の人口約30万人として、住民の2.4パーセントが死亡した。鳥取大震災の死亡者は鳥取市だけで1,025人だった。ウェブで調べてみたところ、市の人口は昭和15年が49,261人、昭和20年が51,848人というから、当時の人口を5万人として計算してみると、2.5パーセントということになる。

鳥取市社会教育事業団が発行している[郷土シリーズ」の第34巻『鳥取の災害―大地震・大火災―』から冒頭の部分を引用する。
一九四三(昭和十八)年九月十日、午後五時三十六分五十七秒、突如として、鳥取地方に大地震が起こった。この地震で鳥取の町並みは一瞬のうちに崩れ去ってしまった。
地震の規模は、直下型烈震で、マグニチュード七・四を記録した。この、震度の大きさからいえば、一九二三(大正十二)年の関東大震災、一九三三(昭和八)年の三陸沖地震につぐものといえよう。だが倒れた家や死傷者の率からすれば、かつて例のないほどの激しい地震であったことがわかる。
次いで地震の瞬間について、『鳥取県震災小誌』(引用者未見)から次のような引用がされている。
「……平和な各家庭においては、楽しい夕餉の支度に忙しく、官庁や会社等においても、残暑の名残りまだ消えやらぬ暑苦しい一日の勤めを終えて、やっと解放された気持ちで帰途につきつつあった。……略……道を歩いていた者は、瞬間に地上に投げ出されている自分を見出した。立ち上がろうにも立てないのである。そこかしこの家々からおこる悲痛な叫び声に続いて、バラバラと身一つで逃れ出る人びと。かくてこの瞬間に、家々の建物は、目の前で凄まじい土煙を立てて崩れて行ったのである。ほんの一瞬の出来ごとであるが、今までの平穏な世界は一変して、この世ながらの生地獄と化し、倒れた家の下敷きとなって瞬時に生命を失う者、悲痛な声をふりぼって助けを求める者、親を呼び子を求めて号哭する声は巷に充ち溢れ、あわれ罪なくして親を奪われ、傷つき、住むに家なく、逆上狂乱して右往左往する人々の姿は痛ましいというか、全く凄惨きわまりない、阿鼻叫喚の地獄であった。……略」(この引用文中の省略は『鳥取の災害』の著者)
この『鳥取の災害』には、わたしが通学していた醇風小学校の沿革誌からの引用がある。わたしも醇風と久松(当時は両国民学校)の戦時中の日誌のコピーを所有しているが、高校の教務部などが記録している教務日誌のようなもので、小学校では教頭さんあたりが記録していたものと思われる。当時はみな筆書きである。地震当日の記録では、校舎の被害の概要を記したあと、次のような記録がある。
尚、其ノ夜震災ニヨル火災発生ス。校下ニテハ鹿野町・元魚町・川端四丁目尻ニ起リ、倒壊・焼失ノ厄ニ遭遇セル家庭多数ニ上ル。
コノ大被害ノ外ニ、本校児童中、下校後家庭ニアリテ家屋ノ下敷トナリ、惨死ヲ遂ゲタル者一六名ノ多数ニ及ビシコト、マコトニ哀悼痛惜ノキワミデアル。ココニ罹災遭難児童ノ名ヲ記録シ、冥福ヲ祈ル。
死亡した児童は初六(初等科六年)から初一(初等科一年)まで全学年に及び、氏名と住所が記載されている。わたしは当時3年生だった。クラス数は3クラスで、1,2年生の時は男女共学で、黄組・青組・赤組、3年からは、男子組、女子組、混合組(男女一緒)に分かれた。死亡した児童は、むろん、みな氏名も記載されているが、同学年だけイニシャルをあげ、他学年は人数のみ記す。
初六 3名。初五 4名。初四 2名。
初三 S.Y.(川端四丁目尻) Y.M.(茶町) F.T.(元鋳物師町)。全員女子。
初二 3名。初一 1名。
死亡した児童の上記以外の住所は、新品治町、本町四丁目、新鋳物師町、鹿野町である。

もう一度、学校の記録に戻ると、翌11日には、「本日ヨリ震災ノタメ臨時休校トス。震災対策トシテ校下罹災民ニ対スル食糧配給本部ヲ学校ニ置キ之ガ救済ニ努ム。/応援奉仕隊多数来校。校下罹災家屋ノ取片付ケ作業ニ着手シ、本校ニ宿泊ス。」12日には「県庁会議室ニオイテ、安藤内務大臣ノ震災慰問激励ノ訓辞アリ。宮代校長出頭ス。(一部省略)本日大阪府救護班来校。本校ニ駐在シテ罹災者ノ救護ニ当ル。」さらに17日には「校庭ニ罹災民収容ノタメノ仮住宅建設工事ニ着手。姫路の陸軍工作隊ニヨル。」19日「御前十時ヨリ市役所市会議場ニオイテ、武島知事ヨリ畏キ聖旨伝達アリ。恐懼感激ノ至リニタヘズ。/午後五時武島知事親シク来校、震災復興状況ヲ視察セラレ激励ノ辞ヲ受ク。本日ヨリ天理教奉仕隊員約一五〇名来校、講堂内ニ宿泊。」その後も市内にある県立鳥取商業や市立高女の生徒達や兵庫県青少年工作隊などが来校し、校舎の取り片付け作業や修復工事に奉仕している。
翌10月になると、1日に、久松公園仁風閣前広場で開校し、教科書や学用品などが配分されている。当日の出席児童数は773名だったという。また、この日、校庭に罹災民仮住宅七棟が建築落成している。4日から二部授業が開始され、15日には、東京都国民学校職員児童代表として、東京都国民学校職員会幹事長、同会計部長、東京都四谷第五国民学校長、御徒町国民学校長の四人が来校し、見舞いを述べている。また彼らは、見舞金として五万一千一百六円を持参し、市の学務課に贈呈している。
11月16日には、震災死亡職員生徒児童合同慰霊祭が、県教育会主催の下、県立高女講堂で挙行された。12月10日には、醇風国民学校講堂で、16名の死亡児童の慰霊祭が行われた。

以上、いささか長すぎるほど紹介したのは、戦局が厳しくなってきたあの時期に救援活動や激励行動が敏速に行われていたことを知って欲しかったし、戦時下の被災記録がこんな形で残っているのは、『鳥取の災害』の著者も述べているように、珍しいからである。

長くなったので、ここまでとし、明日、わたしの個人的な思い出を書き加えたい。

※芦村登志雄・鷲見貞雄『鳥取の災害―大地震・大火災―』財団法人・鳥取市社会教育事業団 1988(昭和63)年9月10日

2009年9月6日日曜日

当世キーワード(2009年9月①)

【当世キーワード 2009年9月①】
◇石垣島ラー油
 略して「石ラー」ともいう。幻のラー油だそうな。
◇キャッシュパスポート
 海外旅行中、どこでも、いつでも、現地通貨を引き出せるカード。
◇シーナビ
 カーナビの海上版。
◇スーツ芸人
 ウッチャンナンチャンのように、スーツを着ている芸人のことだそうな。
◇シンプル族
 これ、読んでみて。Amazon の「内容紹介」には、こう書いてあります。  
自動車販売は減っているが自転車は人気だ。百貨店は苦しんでいるがユニクロは絶好調だ。エコ志向、ナチュラル志向、レトロ志向、和風好き、コミュニティ志向、先進国より世界遺産、農業回帰…新しい価値観が台頭してきたのだ。シンプル族が日本を変える。
今の日本の救世主かも。

◇ファーザーズバッグ
 マザーズバッグの父親版。

2009年9月1日火曜日

今日から9月

先月はブログの記事をほとんどアップしなかった。毎日コンピュータの前に坐ってはいたのだが……。
「ベネット父子」については、調べたいことがあるのに、県立図書館へも足が遠のいている。今月は何回か連続して掲載したい。
Twitterをはじめてみた。とりあえず、右のサイドバーにもアップした。ぶつぶつ独り言のつぶやきに終わることにならなきゃいいが、と危惧している。

◇Twitter を始めてみる気にさせてくれたサイト

Kamar Kecil di OnEco Travel