2009年4月30日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (32)

前回、戦後に話を移すと述べたが、もう1回だけ、沖縄でのスタンレーについて書いておきたい。

米軍は3月26日から27日にかけて、沖縄本島西方にある慶良間(けらま)列島座間味(ざまみ)島、渡嘉敷(とかしき)島などへ上陸し、多くの住民が集団自決している。
本島への上陸を開始したのは、先回述べたように、4月1日の早朝であった。本島への上陸はほとんど日本軍の抵抗を受けなかったが、その後86日間にわたって日本軍の抵抗に苦しめられた。
この闘いでは町ぐるみ、村ぐるみ、住民たちが正規軍に組み込まれて、多くの死傷者を出した。
さらに学徒も動員され、男子は中学校・師範学校生徒1779人のうち890人、女子は高等女学校・師範学校生徒581人のうち334人が死亡した。
日本軍による住民の虐待もしばしばあった。日本本土の楯として犠牲を強いられた住民の死者は正規軍の2.2倍に及んだ事実を忘れてはいけない。
(この項、『昭和二万日の全記録』第7巻p.68 & p.92による。)

このような沖縄戦のさなかにいて、スタンレー・ベネットはどうして長い手紙を76通も書くことができたのか、いぶかる人もいるだろう。

慶良間列島に米軍が上陸した直後、総司令官ニミッツ海軍元帥の名で、米国海軍軍政府布告第一号が布告され、その地域が米軍の軍政下に入ったことが宣言された。
沖縄戦に参加した米軍は、陸軍三個師団、海兵二個師団であった。この海兵師団で編制されていた第三水陸両面作戦軍司令官は、ガイガー将軍だった。
スタンレーは、この将軍の参謀本部付軍医中佐だったのである。
検閲の関係から、あまり具体的に語ってはいないが、スタンレーは軍医としての任務の他に、種々の仕事にたずさわっていたらしい。医薬品など、日本軍の残留物資の調査収集、文書の翻訳、住民対策などである。(『沖縄からの手紙』p.119)
すでに引用した手紙からも推測できるように、スタンレーは多くの住民たちとも直接接触し、彼らの惨状に心を痛め、いろいろと親切に対応している。
住民についての彼の報告や意見は上層部でも評価され、彼自身もこのような仕事で米軍に対しても住民のためにも貢献できると自負もし、軍政府へ入ることを希望もしたが、1945年7月、スタンレーは沖縄を去る。
戦闘にこそ直接参加しなかったにせよ、多忙な毎日を送っていた。一日の仕事を終えた夜、妻への手紙を書き続けたのであろう。いずれにせよ、彼の健筆ぶりには驚く。
加藤恭子の2冊の本の中でもかなりのページをさいている、沖縄の医師、家坂幸三郎との邂逅と交流についても割愛する。
最後に、もう一度だけ、妻アリスへの手紙を一部引用しておきたい。
 君からもらった手紙のことだが、…「私が家族に対して責任感をもつようには、あなたはもっていないと思えてならないのよ。あなたのお仕事はそちらですものね」と言っている。君の言い方は少々不公平なので、ショックだった。二年半以上、アメリカでも何千もの家族が戦争により連絡を断たれ、我々のような少数の人間のみが連絡が取れているのだ。今のところ、私は日本語を話す最高位の将校であるため、あらゆる軍事行動において、日本語を話す一般住民と接し、陣頭指揮に当たっている。ヒューマニズムと我が国のために最善を尽くしている。たとえ、大して成功しなかったとしても、何千もの家族を救うことができるのだ。さらなる戦争を避けるために、今すぐに住民を再教育し、新たな出発をさせなければならない。このために可能な限り力を尽くしたいと思っている。
 今、沖縄島民という文明人を、我々は武力で制圧した。我々も彼らを理解できないし、彼らも我々を理解しない。このギャップの架け橋になるのは、私のような者だ。ほんのわずかな人間のみが、この使命を果たすことができるのだ。アリス、寂しいときに思い出してほしい―私はここでは必要とされ、私が実行に移そうとすることは我が家の将来の平和と同じように大切だ―ということを。困窮する無数の人々を救うために、連絡を断たれている我が軍の家族を最小限にするために、しばらく、君とともに暮らすことをあきらめなければならない。アリス、将来、平和な生活が我々に訪れるためにも、今現在を犠牲にしなければならないのだと、私は言いたいのだよ。どんなにか君には辛かろうが、我々の完全な勝利によって、沖縄の母親たちの多くが夫を失い、想像を絶する辛苦を味わっている現実を君に理解してほしい。この戦時下に、自分以外の人々を救うことで、私は君や家族に対する責任を遂行しているつもりだ。」(1945年5月23日付。『戦場からの手紙』pp.143-144)
日本の無条件降伏まで、あと一ヶ月後となる7月10日、スタンレー・ベネットは沖縄を去り、21日までグアム島、それから真珠湾へと送られた。戦後の9月7日、休暇でワシントンへ帰り、10月31日付で海軍から除隊となった。

 

2009年4月22日水曜日

鳥取を愛したベネット父子 (31)

スタンレーの沖縄上陸2日目の手紙(四月三日付)からの引用。
 この島は気持ちのよい所で、すばらしい。いろいろな点でハワイやグアムよりよいと思う。畑は整然として、肥沃。本土と同じように、ヒバリが畑から囀(さえず)りながら舞い上がったりしている。枝ぶりのよい松の木が道路に沿って並び、ハイビスカスの花は生け垣に咲き乱れ、島は緑に包まれている。
 多くの家屋が損害を被っているのを見るのは、とても心が痛む。日常生活がいきなり断ち切られた痕跡が家のあちこちに見られる。一軒などでは洗う間もなかった食器、あわてて縫い針が刺さったままになっている縫いかけの子供服、用意したまま火のつけてないかまどなどが、そのままになっている。そこここに、子供や大人が息絶えてころがっている。辺り一面というわけでもないのが、せめてもの幸せだ。多くの家屋は爆撃や砲撃を受けていたことがわかったが、大部分の住民はその前に家を離れていたのだ。二人の女が洗濯をしていたので、話しかけてみた。彼女たちは那覇出身で、激しい爆撃が始まってからは山の中に住んでいたそうだ。自分の家が残っているのかどうか知らなかった。方言でしゃべっていたが、よくわかった。
 こんなところが、日本の一角の最初の占領に参加した私の印象だ。沖縄は、鳥取県とか島根県などと同じように、れっきとした日本の一つの県なのだ。那覇はこの島の県庁所在地だが、多分まもなく陥ちることになるだろう。もし日本軍の弱さが見せかけのものでなく、本当だったとすると、もうこっちのものと思ってよいのかもしれない。

四月六日(金)
 この辺りの住民は今では私のことをよく知っていて、敬意を表してくれる。「先生」と日本語で呼んでくれるし、彼らの援助に力を尽くす我々に感謝している。住民は日本軍より、ここの方が自分たちをずっと大切に扱ってくれると病院の軍医に言ったそうだが、よくわかる。何か困ったことはにか尋ねようと、私も何回か足を運んだが、二、三人が出てきて丁重にお辞儀をし、謝意を表す。彼らのことを「すばらしい人々」だと、今朝リヴィングストン軍医が言っていたが、確かに皆穏やかで感謝の心に満ち、忍耐強い人々だ。
ここまでは、昨日エディタで打ち込んでいたのだが、こんな調子でスタンレーの手紙を紹介していたら、きりがない。どんどんブログの回数が増えるばかりだ。このあたりで切り上げて、先に進まねば、と考えた。もともと、このテーマを書き始めたのは、
1)ベネット父子をはじめ家族の人々について、こういうアメリカ人たちがいたことを知って欲しい。
2)これらに人々に関心を寄せていただいて、ぜひ、加藤恭子さんの著書と編訳書を一人でも多くの人に読んでいただきたい。
と願っているからにほかならない。
確かに、両書とももはや新刊書では入手できないが、古書として入手が可能だし、図書館からの借り出しも可能であろう。(鳥取県立図書館では帯出可能であることを確認している。)

次回で、太平洋戦争時代を終えて、戦後のベネット一家について、スタンレーを中心に紹介させていただきたい。
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2009年4月21日火曜日

鳥取を愛したベネット父子 (30)

『戦場からの手紙』の第2部ともいうべき、スタンレーの「沖縄からの手紙」は、1945(昭和20)年3月10日―あの東京大空襲の日から始まっている。
日付を追って数えてみると、3月―7通、4月―17通、5月―20通、6月―27通、7月(7日まで)―5通、計76通の抄訳が収録されている。いずれも妻、アリス宛のものだ。勝ち戦を進めている米軍の、しかも一般兵士ではなく、士官級の地位にあったとは言え、その健筆ぶりには驚かざるをえない。(スタンレーは、ガダルカナル島にいたときと同様、軍医としての任務と、日本語による情報収集などに当たっていたらしい。)

沖縄戦については、若い人たちもそれなりの知識をもっているであろう。前回の『若い人に語る戦争と日本人』からの引用にとどめておく。ただ、米軍が上陸した日のことと、スタンレーがはじめて上陸した日のことについては、やや詳しく記し、彼の手紙も長めに引用する。その後は、手紙の中でわたしが興味、関心を抱いた部分をいくつか紹介することにとどめておきたい。

4月1日早朝、米軍は沖縄本島中部の嘉手納(かでな)・北谷(ちゃたん)海岸に上陸した。上陸軍は1時間もたたないうちに四個師団16,000人になり、戦車部隊も上陸。午前中に嘉手納と読谷(よみたん)飛行場を占領、日没までに60,000人が上陸して師団砲兵もすべて上陸を完了した。米軍の戦死者は28人だった。
守備についていた日本軍の、ある高級参謀であった大佐は、戦後こう書いている。
「午前八時、敵上陸部隊は、千数百隻の上陸用舟艇に搭乗し、一斉に海岸に殺到し始めた。その壮大にして整然たる隊形、スピードと重量感に溢れた突進振りは、真に堂々、大海嘯(だいかいしょう)の押し寄せるが如き光景である。」
「実に奇怪な沖縄戦開幕の序幕ではある。アメリカ軍は、ほとんど防備のない嘉手納海岸に莫大(ばくだい)な鉄量を投入して上陸する。敵を洋上に撃滅するのだと豪語したわが空軍は、この重大な時期に出現しない」(八原博通『沖縄決戦』読売新聞社)
(この項は『昭和二万日の全記録 第7巻 廃墟からの出発』p.68 による。)

こんな有様で、大本営は「本土決戦」を叫んでいたのだ。
四月一日(日)午前十時四十分の日付をもつスタンレーの長い手紙は、「沖縄上陸の初段階は成功を収めたという報告が艦に届く。」という一文で始まっている。
翌日付の手紙も長いものだが、はじめて沖縄に上陸した日のことを細かく記しているので、3分の2あまりを引用する。
 八時半、上陸用意の命令。…
 …上陸してみると、島はいろいろな作物の収穫期らしく、実った穀物や豆類は、取り入れを待つばかり。畦道沿いにながめたが、段々畑やサンゴ礁を石垣に使って囲った畑は、トラックなどでひどく踏みつけられてはいるものの、戦火による損害は少ない模様。
 村を通り抜けていくにつれ、グアムに比べて比較的損害の少ないのにびっくりした。いはいえ、焼失し、粉々になった家も多い。あちこちに穴のあいた家もある。
 村には木陰があり、静かでなかなかよい。太い道はなく、細い小路が通じている。沖縄人は石工芸に優れているとみえ、不揃いに切り取ったサンゴをぴったりと組み合わせた石塀で庭を囲っている。その石塀には細かい葉の華奢な蔓草が一面にびっしりとからみついており、種々の老木はあちこちでその石塀をまたぐようにして、根を張っている。老木から出た無数の気根は、塀の中の石と一体になり、ゆるい編み目模様をつけたようになった幹は、石塀を取り囲み、食い込んで、その一部のようになっている。立派な松や桑の木が木陰を作り、多くの家にはゼラニウムやスミレの花がきれいに咲き乱れている。肥溜めが点在し、あちこちに馬、豚、山羊などの死骸はあるものの、町は不潔だという感じはしない。
 ……
 戻ってから野戦用非常食の昼食をすませ、住む所を探しに村へ向かって出発した。住み心地のよさそうなかやぶきの家を見つけたが、壁は砲弾で穴だらけだった。箒を見つけてきて瓦礫を掃除し、戸棚を整理して荷物をしまった。ホレースはハンモックを吊り、私は簡易ベッドをしつらえ、かやを吊って落ち着いたところだ。この家の主は、防空壕に日用品や書類などを保管していた。我々はこれらの品々を注意深く集め、住民が帰ってきたときのために、家の中へ入れ、しまっておいた。
 村には住民の姿はなかった。逃げてしまっていたのだ。我々は洞窟で、二人の老人と二人の老婦人とが隠れているのを見つけた。私が踏み入ったとき、彼らはふとんの下に隠れた。ふとんの外に出すと、一人の老婦人が、「殺さないで」と嘆願した。万一にそなえて、私は弾をこめたピストルをかまえていたし、同行したコフ大尉もそうだった。私は、「おばあさん」と日本語で声をかけ、「心配しないように。保護するから」と告げた。彼女は手を合わせ、膝をつき、頭を地面につけて礼を言った。だが、私の日本語はあまり彼らに通じないようだったし、彼らの沖縄弁は私にはわからなかった。若い人なら両方が話せるので、私はあとでちゃんとした日本語を話せる中学生を一人連れ、担架を携えて洞窟に戻った。怪我をしている老婦人を乗せ、他の人たちも助け出して水陸両用戦車に乗せた。彼らは驚いたように成り行きを見守っていたが、これで面倒を見てもらえるさきができたのだ。
 住民たちはうろたえながらあちこちをさまよっているが、軍政府の人たちは手を尽くして世話をしている。海兵員たちは親切で、子供たちにはキャンディをやり、年寄りや体の弱った人たちを運び込んできたりし、略奪など、見る限りほとんどない。島民は漆器づくりに優れ、何軒かの家で見事なものを見つけた。中には漆器や陶磁器や急須などを持っていった者もあるが、概して兵士たちは品行方正である。




2009年4月18日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (29)

保坂正康が「解体」と名付けた段階の末期になると、人間を爆弾にするという段階になった。

1944(昭和19)年10月20日、関行男大尉以下24名の神風(しんぷう)特別攻撃隊が編制され、敷島、大和、朝日、山桜の4隊に区分された。(本居宣長「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」によって命名されたのであろう。)
特別攻撃隊は編制翌日から出撃し、25日に関大尉の率いる敷島隊の9機が空母1隻を沈没、2隻を大破させる戦果を挙げると、陸軍も特別攻撃隊を編制した。こうして陸・海軍とも体当たり攻撃を「制式化」し、翌年1月までに海軍が106回(約440機)、陸軍が62回(約400機)実施した。
『若い人に語る戦争と日本人』で保坂は次のように書いている。
 …乗っているパイロットは、当初こそ海軍兵学校出身の軍人もいましたが、その大半は学徒出陣で軍に徴用された現役の大学生たちでした。彼らはわずかの訓練を受けただけで、特攻機を操り、アメリカ軍の艦艇をめざして体当たり攻撃をつづけたのです。
 …こうした人間爆弾を作戦のなかにとり入れたこの期の大本営は、軍事的にも、人間的にもまさに「解体」していたといえるでしょう。(p.165)
このような人間爆弾は、これだけではなかった。この年11月には人間魚雷「回天」がつくられた。魚雷を1人の乗員で操作できるように改造したもので、約1550キロの爆弾ごと敵艦に体当たりするのだ。
このように人命を消耗品扱いにする特攻を冷ややかにとらえ、次のような川柳を残して死んでいった学徒出陣の青年たちもいた。
 生きるのは良いものと気が付く三日前
 神様と思えばおかしこの寝顔
 体当たりさぞ痛かろうと友は征き
  特攻のまずい辞世を記者はほめ
「桜花」という人間爆弾は、飛行機につり下げられて目標近くで切り離される人間ロケットで、爆弾は1200キロ、乗員1人。ブリキと木材を多用した「剣」と呼ばれた、爆弾800キロ、乗員1人の特攻専用機もあった。
米軍は、死を賭したこのような特攻を非常に恐れたけれども、絶対に命中しないといわれた「桜花」に対しては、「BAKA[バカ]BOMB[ボン=爆弾]と嘲笑していたという。(マンガの「天才バカボン」はこれとは全く関係ない。念のため。)
(この項の記述は『昭和二万日の全記録 第6巻 太平洋戦争』pp.360-361によって記した。)

いよいよ日本は1945年3月から始まる「降伏」への道を歩むことになる。
2月19日、米軍は硫黄島に上陸を開始した。5日間でこの島の攻略を終える予定であった米軍第四海兵師団は、地下20~30メートル、総延長28キロに及ぶ強固な地下陣地網を使った日本軍の抵抗に、半数の9098人の死傷者(死者は6591人)を出し、3月18日、ハワイに引き揚げ再び戦線に戻ることはなかった。
一方日本軍も、3月3日までに指揮官の65パーセントが死傷、22500人の兵力も3500人までに落ち、組織的な戦闘は困難になっていた。
3月17日、兵団長の栗林忠道中将は大本営に訣別の辞と辞世の歌を打電、日本軍守備隊は全滅した。
米軍司令部は、上陸4日後の2月23日には「世界で一番攻め難い島」と発表しており、前述のように大きな犠牲も払ったのだが、同日、擂鉢山占領、翌日には千鳥飛行場の修復を始め、3月12日爆撃機用滑走路を完成させている。
その日の3日前の3月9日から10日にかけて、B29、298機による東京大空襲が行われ、江東地区は全滅した。
これまでのB29は一万メートル以上の上空を飛び、都市の軍需生産施設が攻撃目標の中心であったが、東京大空襲は非戦闘員を対象にした、はじめての無差別絨毯(じゅうたん)爆撃であった。以後、このような無差別爆撃は繰りかえされ、東京空襲も四月、五月と徹底的に継続されることになる。
この空襲による正確な被害状況ははっきりとはしていないが、10万人近い死亡者を出し、広島・長崎の原爆に匹敵する大規模な被害を与えた。
なお、あえて付記しておく。この爆撃の計画の責任者は太平洋方面第二〇空軍司令官であったカーチス・ルメイだった。彼は、1963年の4月に米空軍参謀総長として来日、日本政府は航空自衛隊建設に貢献したとの理由で、勲一等旭日大綬章を彼に贈った。
(この項目は『昭和二万日の全記録 第7巻 廃墟からの出発』pp.48-49 および pp.57-58 によって記した。)

保坂正康さんは、次のように書いている。
 この「降伏」の期に、もっとも戦争の苛酷さを肌身(はだみ)で感じたのは沖縄(おきなわ)県民でした。日本で唯一(ゆいいつ)本土決戦の戦場となったこの地では、四月に一八万人のアメリカ軍の上陸により戦闘が始まりました。これに対して守備隊の約七万五〇〇〇人の日本軍将兵は、しばらくは持久作戦をとりました。しかしアメリカ軍の圧倒的な攻撃の前に、戦闘を行っても充分に戦うことができず、しだいに日本軍は壊滅的な打撃を受けることになります。六月二十三日に守備隊の司令官である牛島満(うしじまみつる)が自決し、日本軍は実質的に壊滅したのです。
 沖縄戦では、県民や兵士を含めて二〇万人近い犠牲者がでています。このなかには、日本軍の兵士がときに沖縄の人たちをスパイ扱(あつか)いして殺害したケースもあるといわれますし、民間人がときに楯(たて)がわりにされて戦死したこともありました。あるいは、アメリカ軍の捕虜になったり保護されることは好ましくないとして、自決した者もいました。
 こうした状態になっても、大本営は本土決戦にこだわりました。彼ら軍人たちの戦略とは、とにかく敗戦につぐ敗戦の状態であったにせよ、いちどは戦勝の機会を得てそれをもとに有利な条件で講和を結ぼうというものでした。あるいは中国やソ連と講和をして、対米英の「百年戦争」を考える者もいました。しかし、どのような戦略をもって戦争をいているのか、この戦争の目的は何だったのかなどを問うどころではなく、ただひたすら軍事で決着をつけようと考えるだけだったのです。
(『若い人に語る戦争と日本人』pp.169-170)
スタンレー・ベネットは、いよいよ沖縄へ向かうこととなる。
 


2009年4月16日木曜日

鳥取を愛したベネット父子 (28)

スタンレー・ベネットは、いよいよ太平洋戦争最後の地上戦となる沖縄へ向かうことになる。

中3になったばかりの孫が、来週、修学旅行で沖縄へ行くという。 
世界史上はじめて原爆を投下された広島、長崎であれ、当時の中学生や女学校の生徒たちを含む全県民が戦闘に巻き込まれた沖縄であれ、修学旅行でこれらの地を訪れる彼らが、あの戦争についてどんな学習をしているのであろうか。「語り部」と呼ばれている人たちから悲惨な体験談を聞くのかもしれない。それも大事なことだが、なぜそんなことになったのか、当時の指導者たちはどのような国をつくろうし、どのようにあの戦争を推し進めてきたのか、どうして日本国民はその道を突き進んでいったのか、などなどを知り、考えることが大切だと思う。そのためにも、右サイドに紹介している保坂正康さんの『若い人に語る戦争と日本人』はぜひとも若い人たちに読んでほしい本のひとつだ。これまでにも何度かこの本に触れてきたが、昭和18年5月~12月の「崩壊」の時期の「命を捨てる戦い」について述べている部分を、長くなるが、もう一度だけ、引用しておきたい。(原文のルビはカッコ内に入れた。)
 …この八か月ほどの間に、日本の戦闘はきわめて歪(ゆが)んだ形になってしまったのです。その例が五月末からのアッツ島での戦いであり、玉砕(ぎょくさい)でした。私は、日本の軍事指導者がもっとも責任を問われることはふたつあると思います。ひとつはアッツ島にみられるような玉砕であり、もうひとつは戦争の後半にみられる特別攻撃隊による作戦行動です。
 …アリューシャン列島の西端に位置するこの島(東西約五六キロ、南北約二四キロ)は、ほとんど人の住んでいない島でした。この地からアメリカ軍の攻撃があったら困るということで、日本は守備隊を置いたのですが、昭和十八年五月からアメリカ軍の本格的な攻撃を受けています。
 二五〇〇人の守備隊は、二万人近いアメリカの海兵隊員の攻撃を受けながら二週間近くももちこたえましたが、その後山崎保代(やまさきやすよ)守備隊長をはじめとする生存兵士が、最後の肉弾作戦を行いました。援軍も補給もないままにその身を銃弾に代え、アメリが軍にむかっていったのです。このときの様子を、アメリカ軍のある中尉が次のように書き残しています。そこには、「どの兵隊も、どの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握(にぎ)っている。最後の突撃というのに皆どこか負傷しているのだろう。足をひきずり、膝(ひざ)をするようにゆっくりと近づいてくる」とあり、アメリカ兵はたどたどしい日本語で「降参せい、降参せい」と叫(さけ)んだとあります。だがそれにもかかわらずむかってくる。それで一斉に機関銃を発して撃ち殺したというのです。
そして、保坂は、自らが行った講演(平成7年「戦争史研究国際フォーラム)での結論づけを引用し、さらに本文を続けている。 
(私たちのなかに)こうした玉砕に対して、日本人の精神性を表すものとしての見方をとることがある。あるいは物量に劣(おと)る日本の戦いとみた場合、こうした精神性を対峙(たいじ)させる考えもある。だがつぶさに見ていくと、こうした玉砕作戦そのもののなかに、やはり大本営参謀たちに欠けていた思想があるのではないかと思う。

 この思想とは、兵士を「人間」としてみていない不遜な態度のことです。
 この「崩壊」の期に、七月、八月、九月のコロンバガラ島沖海戦、ブーゲンビル島沖海戦、ギルバート諸島、マーシャル群島、それにラバウル大空襲と、アメリカ軍は次々と日本の占領地域を爆撃してきました。アッツ島玉砕は、国内では戦時美談として語られ、「アッツにつづけ」が合言葉になっていきました。歌までつくられましたが、それは命を捨てて戦えという意味でもありました。冷静な判断よりも、感情を主体にした思い込みや陶酔が重視されていくのもこのときからだったのです。(pp.158-160)
この年、わたしは国民学校初等科の3年生(現在の小3)だった。
4月29日アッツ島の日本軍が玉砕し、5月に山本五十六連合艦隊司令長官の戦死が公表され(戦死は4月18日)、元帥を追贈され6月5日国葬が行われた。

そして、9月10日の夕刻鳥取市を大きな地震が襲った。当時わたしは現在の川端5丁目にあった二階建ての四軒長屋に住んでいた。長屋は一階がぺしゃんこにつぶれ、二階はしゃんとしていたが窓のガラス戸は壊れてなくなっていた。(普通であれば夕食を始める時刻で、一家全滅になっていたかもしれなかった。両親の仕事が忙しかったため、家は無人であった。)
隣家から出た火はつぶれた一階全体に廻っていたのだろう。暗闇が近くなった頃、ボッと音を立てて突然火が二階に移り、室内を明るく照らした。
階段をあがった三畳間の、久松山が大きく見える窓の前に、わたしの机と椅子があった。前年照國とともに横綱になった安藝ノ海―あの双葉山の七〇連勝を阻止した安藝ノ海の写真を小さな額に入れて机上に置いていた。その写真立てが倒れないでうらを見せたまま、ちゃんと立っていた。
階段側の鴨居の上に二枚の額を掲げていた。奥の方は山崎大佐、手前の方は山本元帥の写真だった。それらを見た瞬間、炎が部屋中に広がった。その時はじめて、わたしはわっと泣き出した。
   
    刃も凍る北海の 御盾と立ちて二千余騎
    精鋭こぞるアッツ島 山崎大佐指揮を執る
    山崎大佐指揮を執る

今でもこの歌をうたうことができる。

閑話休題。保坂さんは「崩壊」に続く「解体」―昭和19年1月~翌20年2月―について、こう書いている。
 …日本は実質的に戦争をつづける国力を失っているにもかかわらず、玉砕や特攻作戦を行うことになりました。もはや軍事という物量による戦闘や政治の延長としての戦争という意味あいは薄(うす)れ、自己陶酔にふけっていたと私は分析しています。開戦時の精神主義が前面に出てきて、たとえば昭和十九年七月まで首相、陸相、そして参謀総長(この年二月に就任。軍令、軍政の両権をにぎる完全なる独裁体制)だった東條英機は、国民にむけて「戦争というのは最終的には意志と意志との闘いである。負けたと思ったときが負けである)と説く有様でした。
 これは私が以前から言ってきたことですが、「負けたと思ったときが負け」というのは冷静な判断をするな、客観的な考えなどもつな、指導者の言うことだけを聞け、という恐るべき論理です。…
 こういう精神的な逃げ場のない迷路のなかに入りこんでしまった日本は、はたして戦争を戦っていたといえるのだろうか、というのが私の考えです。これはもう文化の領域と思えますが、軍事指導者たちはこういう文化的にも恥ずかしい論を用いて、戦争という現実を戦っていたのです。ここに「昭和の戦争の過ち」があると、私は指摘したいのです。(pp.161-163)
そしてこの年10月、人間爆弾、神風特別攻撃隊が編成される。

2009年4月13日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (27)

スタンレーの[ガダルカナル島からの手紙]は、第23回で書いたように、保坂正康のいう日本軍「崩壊」の時期の末期にあたる。彼はガ島で日本軍と直接戦ってはいなかった。

1944(昭和19)年1月~45年2月は「解体」、3月~8月15日が「降伏」の最終期である。
具体的には、
・6/19-20 マリアナ沖海戦で、日本海軍惨敗。
・7/7 前年5月のアッツ島についで、4万人余のサイパン島守備隊玉砕。
 (日本人住民の半数1万余が死亡)→B29による本土爆撃が射程距離内 となる。
・10/24-25 レイテ沖海戦で「武蔵」など主力艦を喪失。神風特攻隊5機がはじめて出撃。
・11/20 人間魚雷「回天」による発の攻撃。
・11/24 B29、111機が東京を初めて本格的に空襲。
・1945/1/10 B29、334機、前夜から東京大空襲
・3/17 硫黄島の日本軍守備隊が全滅。

スタンレーの[ガダルカナルよりの手紙]は、既述したように、1943年11月25日付から翌年の1月1日付まで38通、そのうち33通の抄訳が、『戦場からの手紙』の第1部として収録されている。その収録されている手紙の最後は、12月29日付のものである。
その後、スタンレーはどこにいたのであろうか。加藤恭子によれば、検閲もあって居場所を明らかにできなかったが、妻のアリスは、ガ島は海兵隊の重要な基地であったから同島を出たり入ったりしていた可能性がある、と推測していたという。そしてその後の手紙からアリスが判読した結論を次のように伝えている。
 スタンレーは、ガダルカナルからニューカレドニアに戻ったのではないだろうか。そして、またガダルカナルに滞在し、一九四四年夏にはグアム戦に参加した。(引用者注:7月21日、米軍、グアム島に上陸開始。8月11日、日本守備隊玉砕。)それからまたガダルカナルへ戻り、一九四五年一月と二月はハワイの真珠湾。それからガダルカナルへ戻ったあと、沖縄戦に向けて出航したのではないか。これがアリスの意見である。(p.85)
前述の通り、東京大空襲の日、硫黄島の日本軍守備隊玉砕の直前の3月10日、スタンレー・ベネットの「沖縄からの手紙」が始まっている。

2009年4月11日土曜日

鳥取を愛したベネット父子 (26)

ガダルカナル島から発信されたスタンレー・ベネットの手紙(妻宛)は、1943(昭和18)年11月24日付~翌年1月1日付まで、38通が発信されている。そのうち、33通の抄訳が第1部として『戦場からの手紙』に収録されている。
これらの手紙はほとんど毎日書かれていたことになる。スタンレーの健筆ぶりに驚く。日本兵も手紙や手帳、日記などの記録を多くの者が残していることが知られている。しかし、特に手紙では、検閲されるためにこのように、妻への愛を伝えることはできなかったであろう。(ここでは、それらの言葉を引用しないが。)さらに日々このような手紙を書くゆとりなど、戦場の日本兵にはなかったことであろう。

前回同様、日本(人)への思いや日本語の勉強ぶりがうかがえる部分を中心に引用を続ける。 
今日もまた〝町〟へ行った。陸軍病院内の憲兵に見張られている一病棟で捕虜の尋問をするためである。捕虜たちは食事が口に合わず、果物と米、日本茶がほしいと言う。だから、午後PXでキャンディー・バーとクッキーを彼らのために買った。帰りがけに、どこかで果物が手に入らないかとジープの運転手に聞いてみた。キャンプから三マイルほどの村の近くにパパイヤの木があるのを知っている、と彼は答えた。それを手に入れられるかどうか、私には疑問だった。ところが、この運転手はジープを運転していき、八つの見事なパパイヤを盗んできてくれた。日本兵捕虜の〝我がボーイズ〟のために、おかげで果物も手に入れることができた。たぶんオレンジもいくらか手に入れられるだろう。(12月2日付 pp.31-32)

 オレンジ、パパイヤ、クッキーそれにチョコレートなどを病院にいる私の捕虜の患者たちに持っていったが、哀れさを感じるほどに感謝された。尻に大きな潰瘍のある男は、私が海軍軍医と聞くと、私に面倒をみてもらえるよう、海軍病院に連れていってほしいと頼んだ。自分は海軍軍人なのだから、そう取り計らわれるべきだと言うのだが、ここの捕虜たちは陸軍憲兵隊の管理下にある。そのような移送は、当然不可能だ。
 私は自分用の語学クラスを作った。フェンスの囲いの中で最も優秀な捕虜を選び、指導教官になるよう要請し、私の間違えそうな個所を訂正してほしいと依頼した。今日の彼との二時間の勉強中、いくつかの単語を漢字に置き換えてもらった。彼が大変協力的なので助かる。本人も仕事を楽しんでいる様子なので、毎日続けたいと思っている。このキャンプの通訳たちより、私の日本語はうまいそうだ。ヌーメアとオーストラリアには、私などよりもっとうまい通訳がたくさんいるはずなのだが。(12月3日付。pp.32-33)

……午後中、単語カードに明け暮れ、1000以上のカードを作成した。カタカナやひらがな、変則的な読み方のものなどだが、およそ二百十一は精通している単語。およそ三百五十は部分的にわかっているが、まだ努力が必要なもの。百五十の熟語は記憶ずみのほうに入れた。勉強の成果で語彙が増え続け、面白くてたまらない。(12月8日付。p.36)

 レヴィンソン少尉と一緒に、今日フェンスの中の捕虜収容所に出かけた。私は「桃太郎」や「もしもしかめよ」などの日本の歌を歌って彼を楽しませた。(12月20日付。p.43)

 ……陸軍病院に行き、金沢出身の十八歳の青年と話をした。純真無垢な青年だ。この若さでこんな苦境にいるなんて、本当に気の毒なことだ。戦争がおわったら、こうした若者たちにも、人並みの幸せを掴んでほしいと思った。そうしてあげるのが、私たちの義務なのだ。彼らは自分たち自身ではそれができないだろうから。(12月23日付。pp.51-52)

 一日のほとんどを、日本海軍についての日本語の本を翻訳して過ごした。非常に興味深い本だ。日本人の心理を理解するための助けになるからである。日本人の最大の弱点の一つだけ指摘するならば、データを客観的に読み、それを偏見なしに評定する能力を育てなかったことだろう。私の意見では、この欠点が彼らにこの戦争を始めさせたし、彼らを敗北へと導くことでもあろう。持ち合わせの単語カードを全部使い切ってしまった。新しいのが来るのを今か今かと待ち構えているところだ。五千枚頼んだが多すぎるとは思わない。そちらにあれば、すぐ送ってくれないだろうか。(12月26日付。p.54)

2009年4月10日金曜日

鳥取を愛したベネット父子 (25)

ガダルカナル島からの第1信は、1943年11月24日付のものだ。全文を引用する。
最愛のアリス
 無事この島に上陸したので、また手紙が出せるようになった。小石だらけの海岸からは、大小の島々が見渡せる。私のテントは、五〇ヤード先のココヤシの木々の間に張られた。鮮やかな深紅色のオウムたちが飛び回り、甲高い声で鳴きながら追いかけ合っている。
 テント内の床は、小石だらけ。壁は布張りだが、電灯が灯り、上官用の席と食堂が仕切られている。地面は清潔で小石が多く、雑草は生えているが、埃っぽくはない。
 今朝九時の下船から、このキャンプへの輸送手配が整うまで、照りつける太陽の下でえんえんと待たされた。私はココヤシの下の箱に腰を下ろし、日本語カードを見直していた。
 君に最後の手紙を送ったのは金曜日で、所持品をまとめヌーメアを発つ前だった。土曜日の午後、乗船。新しい高速艇で、乗り心地は上々。大半は日本語の勉強をして過ごした。新しい漢字をずいぶん学んだ。ここには八から一○インチもある大ムカデがいて、噛まれるととても痛いそうだ。クロコダイル、サメ、アカエイ、バラクーダなどもいるので用心するようにとのこと。
 マラリアにかかりやすいので、アタブリンを服用しはじめた。暗くなってからはズボンの折り返しは靴下の中へ押し込み、袖は下ろし、衿はボタンをかけ、肌が出ている所には防虫剤を塗っている。(『戦場からの手紙』pp.25-26)

第21回で紹介した亀岡高夫の日記と比べてみて欲しい。軍隊での階級はほぼ同じなのだが、戦闘中の手記と日本軍撤退から10ヶ月後の手紙であることを考慮しても、両者の違いにあらためて驚かざるをえない。

 キャンプにある洗濯屋へ、汚れものを全部持って行った。下士官が二人、シアーズ・ローバックの洗濯機を動かしている。お金が足りなかったので、今夜のとことは衣類を置いてきた。
 食堂で、感謝祭のディナー。七面鳥は手際よく焼け、肉汁もおいしい。スクウォッシュのパイ、新鮮なルバーブ、さやいんげん、マッシュポテト、ビートのピクルス、チョコレートミルクなどが並び、果汁たっぷりの新鮮なフロリダオレンジが一つずつ出され、ロックキャンディーもあった。
 そのあと、海岸へ散歩に出た。海辺にはかなりの〝戦争の遺物〟が残っているが、ほとんど記念品として拾われている。小さな流れが海岸を切るように海へと注いでいる所へ出た。ズボンとズボン下を脱ぎ靴を持って向こう岸へ渡ると、靴と靴下以外一糸まとわぬ裸となった。この島では皆このいでたちだが、これだと体のすみずみまで洗えるうえにきれいに日焼けする。シャワーを浴びてさっぱりしたが、こうして毎日風呂に入れる限り、この戦争にも耐えていけそうだ。(11月25日付。p.27)

日本軍やこの戦争についての私の考え方は変わってきている。この戦争は、昨年の夏に考えていたほど長くは続くまい。恐らくあと二年もしたら、日本は占領されるだろう。日本軍の巧妙な戦いぶりは落ち目になってきている。こう書きながらも、私にはサム・ハートレット発電機の軸受けに油をさしていた日本のおじいさんのことが思い出されるのだ。日本人は、よい人たちだと思うのだ。この対日戦では、日本をとことん痛めつけることになりかねない。(11月26日付。p.28)

 PX(軍内の売店)で今日十月十八日付のハワイで印刷された『タイム』誌を買った。これがまさしく私にとって最新のニュースになる。
 今日は日本語の勉強に長い時間をかけ、新しい文字をたくさん学んだ。皆、私の所にラベル、本、チラシ、墓標、名札など何でも翻訳してほしいものを持ち込むようになっている。いずれも、初めて目に触れる文字が混じっているので骨が折れるが、練習にはなるし興味もある。(11月27日付。p.29)

2009年4月6日月曜日

鳥取を愛したベネット父子 (24)

スタンレーが、戦争中にどんな手紙を妻に書き送っていたのか、紹介することは難しい。直接『戦場から送り続けた手紙―ある米海軍士官の太平洋戦争―』(『戦場からの手紙』)を読んでいただくのがいいわけだが、ここでは、わたしが興味を抱いたり、ぜひ紹介したいと思ったことなどを、引用を主にしてお伝えしたい。

太平洋戦争当時、アメリカ人が日本人に対して抱いていた偏見、人種差別のことについて以前のブログでふれた(1月23日付の第13回のブログ)。このことについて、もう一度書いておきたい。

このことについて、加藤恭子は『スタンレー・ベネットの生涯』のなかでも書いているが、『戦場からの手紙』のなかでも触れている。
 手紙の中でスタンレーが〝ジャプス〟を使うのは、日本軍に対してだけであり、日本人について語るときには、〝ジャパニーズ〟に戻る。つまり、スタンレーの頭の中には、軍国主義者〝ジャプス〟が〝ジャパニーズ〟を間違った方向へ導く、それをどうにかするために何か自分にできることはないか、何かをしなければならない、という考えがあったのではないだろうか。ただ、実際に戦場に出て行ったのは、鳥取での幼友だちのような、ふつうの日本人であった。その辺りの矛盾も、スタンレーは意識していたに違いない。(p.14)
また、脇道にそれるが、過日、書斎の片付けをしていた折り、古い切り抜きの束のなかにこんなものがあった。「日本経済新聞」1988年8月18日号(p.30)からの切り抜きである。
【ロンドン十七日=土屋記者】日本人に対する差別用語と言われてきた「ジャップ(JAP)が欧州でファッション・ブランドとして登場、差別用語を脱皮したと話題を呼んでいる。
 採用したのは高田賢三のファッションブテック「ケンゾー(KENZO)」で、同氏が欧州に登場した一九七〇年代初めにマスコミがそのファッションを「ジャングル・ジャップ」と呼んだのが今回のブランド名採用の由来と説明している。
 昨冬から出荷したジャップ・ブランドは売れ行き好調で、特に反発はない様子。高田氏はもともと人気の高いデザイナーだが、同氏が日本人であることを強調するブランド名だったことも、若者の間に広がる「日本へのあこがれ」を刺激したと指摘する人もいる。
 差別用語使用には慎重な英国放送協会(BBC)によれば、ニュースなど一般的な放送では「ジャップ」を使用しないのが原則だが、劇やバラエティー番組などはこの限りではないという。
 同協会の広報担当ギョーンジョンズ氏は「戦後四十年以上が過ぎ差別用語としての意識は薄れた。英国人のことを『ブリッツ(BRITS)』と呼ぶように、ジャップもむしろ親しみのある呼び方に変わってきている」と指摘している。

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