2008年4月29日火曜日

二つのサイト

今日は二つのサイトを紹介したい。
前期あるいは後期の高齢者であろうが、その医療制度を長寿医療制度と呼ぼうと、独居老人と云われようと「おひとりさま」とてめえでおっしゃろうと、
どうでもよろしい。とにかく、わたしどもとしては、長い期間を入院などして若い人たちにご迷惑をかけないで、「ぴんぴん、ころり」で旅立ちたいと思っている。
ところで、最近はアンチエイジングだの抗加齢だのといった言葉が流行り始めている。今日はこんなサイトを見ていささか、驚いた。
 人の老化の度合いを調べる抗加齢ドックが注目されている。通常の人間ドックに含まれない検査項目を設け、将来起こりうる生活習慣病などの予防に役立てられるのが特徴。予防医学の切り札として「健康寿命」をのばすと期待されている。
東京都渋谷区の東海大学東京病院は、2006年6月に抗加齢ドックを始めた。検査項目の内容に応じ、12万1800円のAコースと8万8200円のBコース、通常ドックと組み合わせた“簡易版”のCコース(7万9800円)がある。
その上、≪究極100万円コース≫まで紹介されている。アンチエイジングも金がかかるものです。まあ、こちらは若者に迷惑をかける訳じゃあないから、お金持ちのご老体は次のサイトを見て、ご自由にご決断下さい。
 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/living/122026/

もう一つのサイトは、Lifehacking.jp さん
 
http://lifehacking.jp/2008/04/the-years-are-short/
の「小さな幸せを記録するデバイス」で紹介されている
The Happiness Project http://www.happinessproject.typepad.com/
というサイトで見ることのできる1分間のムービー。
英語の速読の学習にもなる。「小さな幸せを記録するデバイス」の訳文を読んだあとでもトライしてみてはどうでしょう。 前記のサイトを訪問して、右のサイドにある下記をクリックすると、1分間ムービーが見られる。お金は全くいらない。ごうなはこのサイトを知ったことの方がうれしい。

これをクリックするとムービーが見られる。

最後に出る、この言葉もいいですね。年を取るとしみじみそう思う。

The days are long, but the years are short.

(一日は長いが、一年は短い。)

2008年4月25日金曜日

映画「明日への遺言」 2/2回

今年2月25日午前1時台のNHKラジオ第1の【列島インタビュー】で
「今、映画で伝えたいこと」と題したインタビューが小泉堯史監督に対して行われた。聞き手はラジオ深夜便の遠藤ふき子アンカー。この放送は聞かなかったが、これが「ラジオ深夜便 No.94」5月号(NHKサービスセンター)に採録されていたのだ。このなかで1944(昭和19)年生まれの小泉監督が「明日への遺言」について述べていることをいくつかご紹介する。
・この作品の脚本を最初に書いたのは、14、5年前、黒澤明監督の助監督をやっていた頃。黒澤には常々、監督になるなら脚本を書かないとだめ、と言われていた。だから、読んでもらうのが楽しみでせっせと書いた。その中の一つが「明日への遺言」であった。『ながい旅』を読んで岡田中将に魅力を感じたし、「監督ってのは、最前線の司令官だ」と云っていた黒澤監督をもっとよく理解できるのではないか、という思いもあった。
・最初は誰も映画化に賛成しなかった。法廷の場面だけでなく回想場面や家族を描いて広がりをもたせられないか、などと言われたが、原作に添って「法廷の中での岡田中将」をとらえたかった。
・法廷のシーンが中心で動きがなく、しかも、10分近くキャメラを回し続ける場面がほとんどだから、舞台経験のある方がいいと思い、藤田まことさんにお願いした。
・「妻役の富司純子(ふじ・すみこ)さんも、傍聴席で夫の言葉をじっと聴き続けるシーンが多く会話は一切ないのですが、表情だけで妻の心を見事に表現してくださいました。」※
・台詞(せりふ)についても、できるだけ原作を生かして恣意的(しいてき)に作ることは極力しないようにした。英語の台詞もアメリカから取り寄せた公文書に全部照合したうえで書いた。原作もアメリカの公文書をもとに書かれているから。大岡昇平の原作は「事実が自分で歌う」ことを願っている。
※獄中からの手紙にこう書かれている。[ ]内は引用者注。「温子(はるこ)[中将の妻]連日法廷の傍聴御苦労である、話すことは規定が許さんが、私にはそなたの顔の表情の変化を見れば、其の意味は十分に通ずる。笑を交換する丈で結構々々。純子さん[玉川学園長小原国芳の次女。中将の長男陽(あきら)の妻]の御手紙にも、同じ意味のことを書いてあった。それでよい筈。」(原作。p151)

先回書き忘れていたのでここに書いておく。岡田中将を含む東海軍の公判は、1948年5月14日正午をもって結審した。3月8日の開始以来68日間であった。3月19日判決があったことは前述のとおりである。
岡田中将は、判決後も19名の部下の減刑請願や刑務所内の待遇改善に努めた。重労働終身刑の大西一大佐が1958年5月31日釈放されたのを最後に、それ以前に全員が釈放になっている。(B・C級戦犯はこの日をもって全員が釈放された。)

映画に戻る。「明日への遺言」のなかで2カ所、部下たちが小学唱歌「故郷」を歌う場面がある。
この映画が全国公開された際に配られた新聞紙大の紙の表裏に印刷した宣伝紙を、映画館で手渡された。13人の著名人と5人の一般人の、おそらく公開に先立つ試写会の感想が載せられている。そのなかで角淳一(毎日放送「ちちんぷいぷい」パーソナリティ と書かれているが、どんな番組か、どんな司会ぶりか、わたしは知らない)という人がこう書いている。

「故郷」をこんなに凄い歌だとは思わなかった。死を前にした男たちが唄うこの歌は祖国への賛歌であり、国歌でもある。こんなB級戦犯裁判があったことに驚きと感動を覚える。

原作にはない、この唱歌の場面を入れたのは、小泉監督だったのであろうか。前述のインタビュー記事のなかにはふれられていないので、わからない。
この歌について、ごうなは昨年の4月にこのブログでとりあげた。そこでも書いたように、この唱歌が尋常小学校第六学年用として世に出たのは、1914(大正3)年6月である。とっくに陸士を卒業し、この年の12月には鳥取の歩兵第40聯隊附の歩兵中尉となっていたのだから、小学校でこの歌を習ってはいない。むろん、聞いたり、あるいは歌った可能性はありうる。
『ながい旅』から引用する。
 岡田家は代々鳥取藩の藩医で、家が城に近い江崎町にあったのを、長女達子さんは憶えておられる。祖父乙松、祖母志可は夫婦養子であった。乙松氏は家業を継がず、鳥取地裁事務官の職を選んだ。京城の任地で没したのは、岡田資十七歳の時という。
中将は明治二十三年四月十四日生で、十七歳は数え年だから、明治三十九年となる。四十一年、陸軍士官学校へ入学されたのは、中学の成績がよく、軍人が志望だったからであるが、父の早逝に会って、士官学校が学費官給のためでもあったろう。軍人として特に縁故的背景はなく、刻苦して経歴を開かれた方である。(p.12)

岡田家があったという江崎町には、ごうなも数年暮らしたことがあるが、城山である久松山(きゅうしょうざん)の近くでその姿が大きく見える。また、中将の通った鳥取中学(現在の鳥取西高の前身)は、久松山下、三の丸跡にあった。だから、中将が「故郷」を聞いたり、歌ったりしたことがあったとすれば、「山」は久松山、「川」は袋川を思い浮かべたに違いなかろう。

岡田資中将が日蓮宗の信者であったことはすでに記した。大岡昇平は次のように書いている。
 二十一歳、士官学校生の頃、通りすがりの辻説教に興味を持ったのが、きっかけであった……この頃、軍人には、強く国家意識を持った日蓮宗に共鳴する者が多かった。しかし岡田中将には、狂信的熱狂はみられない。むしろ哲学的瞑想的なものである。死生観において、軍人勅諭五カ条であき足らず、法華経に支えを求めたことに、関心を持ったのであった。(p.201)

当時スガモ・プリズンに教誨師として有名な花山信勝師がいた。ひところ、その著書が評判になったことを覚えている。しかし、中将は彼とは意見が合わず、ことごとに対立したという。「罪を認め、ただ仏の慈悲にすがって南無阿弥陀仏を唱えてあの世へ行けばよい、との花山師の教えでは、死刑囚の荒ぶる心はなかなかおさまらないのであった。」(原作、P.207)

最後に付言する。この映画に感動された方は、ぜひ大岡昇平の『ながい旅』をお読みになってほしい。収録されている岡田中将の手紙、特に、死刑執行前日の1949年9月16日、家族に宛てた遺書を読んでいただきたい。中将の優しい心に接することができる。

◇文庫本は新潮文庫と角川文庫があるが、後者の方が入手しやすいと思う。
ごうなのおすすめ本棚 1


ながい旅 (角川文庫 お 1-2)

2008年4月24日木曜日

映画「明日への遺言」1/2回

13日(日曜日)の朝、有門橋から若桜橋まで袋川沿いの桜土手を、葉桜になりはじめた花を眺めながらのんびり歩いて、駅前商店街の〈鳥取シネマ〉に着いたのが上映10分前の午前9時50分。
この映画は3月1日より全国公開されたが、主人公の元陸軍中将岡田資(おかだ・たすく)の出身地、鳥取市では40日ばかり遅れて、12日からの上映となった。映画の始まる前に観客を数えてみると、50人弱程度で、女性が半数近くいたのは意外だった。
上映時間1時間50分の90%以上が法廷の場面である、異例とも言うべき映画が最後まで観客の心をはなさないところが、この映画の持つ力だろう。

太平洋戦争末期、1944(昭和19)年12月13日以降翌年の7月26日までに、名古屋はB29による38回の空襲を受けた。飛来機数は1,973機、被害は死者8,152、負傷者10,950、罹災者519,205人に及んだ。岡田中将は空襲の始まる前年末に東海軍需監理部長として名古屋へ来ていたが、敗戦の年の2月に東海軍管区司令官兼第十三方面軍司令官となった。
戦後、前述の空襲時に撃墜された機から落下傘で降下し、捕らえられた搭乗員、27名を正式の審理を行わず斬首して殺害した、として岡田中将以下20名の元軍人がB、C級戦犯として裁かれることになる。
岡田元中将がいわゆるスガモ・プリズン、巣鴨拘置所に収監されたのは1946(昭和21)年9月21日である。横浜法廷での審理開始が1948年3月8日になったのは、裁判の重点がA級戦犯に置かれていたからだ。

岡田中将は敗戦後自らが戦犯として裁かれることを覚悟しており、その法廷を最後の戦いの場とすることを決意していた。
1.米軍の爆撃は軍需施設の破壊をねらったものではなく、一般住民を殺戮する無差別爆撃であり国際法にもとるものだ(広島、長崎への原爆投下はその際たるものである)。従って、かかる無法を行った米兵は捕虜ではなく戦犯として処刑した。
2.これらの米兵を処刑した一切の責任は自分にある。
彼はこの2点を基本にして法廷に臨もうとしていた。陸軍士官学校時代に日蓮宗に帰依していた彼は、この法廷でのたたかいを「法戦」と呼んだ。

1948(昭和23)年1月、横浜裁判所で始まった裁判で彼はその「法戦」を戦い抜いた。同年5月19日、絞首刑の判決を受けた。映画にもあったが、判決後ただちに両手に手錠をかけられた彼は、傍聴席の前を通るとき妻の顔を見ながら「本望である」と言う。実際にそう言ったと記録されている。

19名の部下達は全員、死刑にはならなかった。この結果も岡田の願った通りとなった。彼は、刑務所内で若い部下たちの精神的支柱でありつづけた。
1949(昭和24)年9月17日午前0時30分、岡田資は刑死した。
(軍人にとって絞首刑は加辱刑である。しかし、占領軍最高司令官マッカーサーは最後まで銃殺刑を裁可しなかった。)

映画「明日への遺言(あしたへのゆいごん)」は、大岡昇平の『ながい旅』(注1)を映画化したものである。映画の原作というと小説と思われがちだが、むろん違う。ドキュメンタリーというべきだろう。大岡昇平は[後記]のなかで次のように言っている。
……岡田資の名を知ったのは昭和四十年……四十三年以来、作品にすることを考えた。……公判以来三十年経って、アメリカ国立公文書館所蔵の裁判記録が公開され……その実情が記録として判然と姿をあらわして来たのである。一部の人々に知られていたことだったが、これは戦後三十六年、米公文書の公開なしにはないことだった。「ながい旅」という題名には、それまでの時間を含んでいるつもりである。(pp.236-237)
―――――――――――――――――――
昨日ここまで書いていて、外出したところ、偶然、この映画の監督、小泉堯史(こいずみ・たかし)へのインタビュー記事を目にした。そこでとりあえずここまでを公開して、映画についての部分を明日公開したい。

(注1)大岡昇平『ながい旅』 新潮社 1982年5月15日

2008年4月15日火曜日

花は盛りに……

花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。



昔、高校時代に習った徒然草一三七段、書き出しの一文だ。別にこの言葉に従ったわけではないが、満開の声を聞いてから、「花見」が「鼻見」になるのを恐れて、一週間ばかり外出しなかった。葉桜になりつつあるが、花はまだまだ残っている。





2008年4月11日金曜日

追悼 毛利彰さん

 イラストレーターの毛利彰(もうり・あきら)さんが、一昨日の早朝、鳥取市内の病院で亡くなったという。今朝の朝日新聞の訃報欄で知った。
鳥取西高では一年下級で、親しくしてはいなかったが、3,4年前であったか、弥生町のバー〈貝〉で二,三度お目にかかったことがある(一度は奥さんと一緒だった)。ネットで見ると住所が市内の相生町になっているから、鳥取に帰ってきていたんだ。ちっとも知らなかった。
ご冥福をお祈りします。

2008年4月10日木曜日

A6手帳あれこれ(3)

4.もう一度スリム化したA6手帳について書く。

カヴァは左右にポケットのあるもの。新潮文庫のYonda? キャンペーン(だったかな?)で文庫本のカヴァにある三角形のマークを何枚か送って頂戴したものだ。色は真っ黒で、丈夫なしおりがついているのも気に入っている。

左右のポケットを利用した遊び紙を数ページずつ作ることができるので、クリアブックは不必要だが、邪魔にならないから一応組み込んでいる。



5.文庫本の日記帳も、新潮文庫、ちくま文庫などがあるが、A6手帳にどうしてもスケジュール欄が欲しい人には、ちくま文庫がいいかも。

月間だけでいいひとは、1ページ4区分された日記用のページを日付を無視、A6手帳として使用できる。日記欄が終わったら、A6手帳を併用すればいい。文庫の方を予定やスケジュール・プラン、ToDoなどに使うのであればむろん、、最初から併用できる。

それにしても(余計なことだが)ほぼ日手帳はどうしてほとんどの文庫本のように、コーティングした紙のカヴァを付けないのだろう? 背には年号だけ印刷してあればいい。使い終わったあと、他の文庫本などと本棚に並べることもできるのに。多くの人は自分でカヴァを作っているんだろうなあ。



6.そうそう、手帳に付いてるペン差しのことだが、アレは要らないと思う。常に手帳を携帯しているような人が筆記用具の1本も携帯していないなんて、考えられない。こだわりのペンを持っている人も少なくないだろうし、ペン差しにあわせてペンを買うなんてばかげている。

もっともペン差しにこだわっている人もいる。

日垣 隆『知的ストレッチ入門』(大和書房 2006年)のなかで、著者は、バーチカル・スケジュール手帳として、能率手帳の「キャレルA6」と高橋書店の「リシェル3」について5項目の比較を行い、後者に軍配をあげている。その項目のひとつが、ペン差しの有無で、むろん、後者にはある(pp.207-208)。



7.ごうなのA6手帳にA6ノートがもう1冊入っているのは、外国語の単語帳である。元来ごうなが愛用しているのは、名刺判のカードである。外国語の単語を覚えるには、その単語を含む短文を学習するのが一番だと思っているから。外国語学習なんて自慢しているのではない。アンチ・ボケリングのためだ。そうはいっても、喫茶店などで前期高齢者末期の老人が単語カードをくりながらもぐもぐ口を動かしているのは、どうもね。

そこで、このA6ノートが役に立つ。ノートの2ページをそれぞれ4等分し、左ページに外国語(英語でなくてもいいぞ! アンチ・ボケリング! アンチ・・・・・!)を、右ページに日本語や、語形変化などを記入する。(左にラテン語、右に英語なんて、カッコいい)

ちょうどいい本がある。もう一度英語学習をしょうという社会人向きの本だが、この本のページを写真で見ていただくのが早かろう。



どうです。これなら、コーヒーを飲みながら(いや、飲むのも忘れて! これも、カッコいい!!)ぶつぶつ、もぐもぐ口を動かしても、「黙読もできん老人が文庫本をぶつぶつ声に出して読んどるわい」という光景ではないか。



8.最後に、もうひとつ。この愛すべきA6手帳は、やはりポケットよりバッグの中に入れておくのがいい。そこで名刺型カードを常にポケットに入れておく。カードは片面印刷の広告紙を名刺型に切断したものだ。このカードのケースがいい。1972年に king が 発売を始めたもの。写真でお見せしてもいいが現在は発売されていないだろうからやめておく。素材はごうなには分からないが、プラスチックみたいなもの。片面は名刺より縦横が数㎜小さい窓で、この窓から顔を出しているカードにメモなどを書き付ける。裏側にもカードを親指で出し入れするための、ずっと小さい窓があるが、この長方形のケースの一方の短辺が取り外しできて、カードの出し入れは簡単にできる。これさえあれば、立ったままでも、机などなくても、さっとメモを書き付けることができる。

東大教授で天文学の泰斗であった堀源一郎先生が、この廃物利用の広告紙裏利用カードの用途を20項目挙げている。( 『書斎の小道具たち』 情報センター出版局 1982年 pp.149-152)

これとペンさえあれば、いつでもメモが書けるし、固いカードでなく、広告紙を使ったカードは、ケースを横長に持って記録すれば、そのままA6手帳に貼り付けることができる。その上赤や黄色のカラフルなぺーじになる。高級な革製のジョッタなどは要りません。

このケースは、もはや入手できないだろうが、広告紙利用のカードはどんどん作って、名刺入れに入れておけばいい。お金のある方は、ぺらぺらのカードのほうがおすすめだ。                     

もちろん、名刺カードケースにはペンホルダーはついていないから、必ずポケットにペンをお忘れなく。ごうなは「前・後期高齢者」用改良型(!?)腰リールにキーとゼブラのペンポッドだけは付けているので大丈夫。最大の問題点は酔っぱらったときなんだよなあ、



9.これで今回の「手帳あれこれ」を終わるが、もう一つおまけに、もう一冊、ご紹介しておく。高島俊男『座右の名文 ぼくの好きな十人の文章家』の、斎藤茂吉の項に、[執拗なる手帳魔―「手帳の記」]なる好文章がある。



さらにもう一つ、Moleskine Pocket Ruled Notebook を使って【「全てを手帳に記録する」、ユビキタス・キャプチャーの実践】という文章を載せた堀E.正岳さんのサイトをご紹介しておく。

 http://lifehacking.jp/2007/04/ubiquitous-capture-habit/



2008年4月9日水曜日

A6手帳あれこれ(2)

 奥野宜之さんは、序文のなかで、「自分の開発した方式は(その人にとって)必ず最高」なのだから、「自分流にアレンジする方がいい」とのべている。わたしの場合、今使用している手帳にせよ、第2A6手帳にせよ、奥野さんの手帳とどこが違うのか? ご参考になるかどうかは分からないが、「ごうな流」を述べるのがこのブログの目的であり、少しでも読者のお役に立つことができれば、うれしい。

1.コンピュータの普及とともに、いろいろな文書がA4を中心に作られるようになってきている。あの「超」の字を流行らせ、やたらと「超」を付けた品のない題名の書籍を氾濫させた野口悠紀夫先生の、またまた「超」の付いた整理手帳は、すべてA4を基本とした用紙を折りたたんだものである。さまざまな+αの用紙もA4である。
奥野さんもA版用紙に印刷したものを切ったり折ったりして、スケジュール表などをA6手帳に補充している。【自己実現寺】さんのサイトで知った【こどらん】さんのノート術も同様だ。
【自己実現寺】さんはA6で統一するために「能率手帳キャレルA6バーチカル2を使用し始めた」と書いていらっしゃるが、A6のCampusノートは(先回書いたように)キャレルのカヴァに差し込んでご使用なのだろうか?

2.わたしの場合、シート類を印刷して補充するようなことはしない。ごうなは元来横着者。そのうえ、70代半ばになろうかという歳になれば、スケジュール表なんてものは不用になる。ウェブ上のスケジュール表やいくつかのリマインダーも試みたが、記入することがほとんどない。宝の持ち腐れである。
A6以下の大きさの年間カレンダーが1枚あればいい。記憶すべき予定がある日はマーカーでその日付をチェックしておく。その日の予定の内容、日時、場所などは、付箋紙に書いて手帳のしかるべき場所に張っておくだけでいい。その日になったら、関係のある付箋紙だけをA6手帳の記入欄の近辺に移動させる。記録の一部とする場合は、付箋紙そのものも記事の一部として、剥がれないようにさらに糊付けしておけばいい。

3.しかし、何でもかでもみなA6手帳に張ってしまうことはしない。A6手帳はどんなにふくれても少し厚めの文庫本を携帯している、といった感じがいい。文字どおり 「all-in-one 」にしなくてもいいと思う。
ごうなの場合、切り抜きの台紙となるB5の用紙(26穴のバインダーにも納められる)も、山根式袋ファイルもまだわんさと(!?)あるので、使わないのはもったいない。
肝心なことは、そういう切り抜きや資料の所在がA6手帳や、コンピュータによる検索で、素早く、かつ正確に分かるようにしておくことだ。何でもかでも小さな手帳の中に、というのはかえって、手間と時間がかかるのではあるまいか。手帳の利便性は、保存した資料の場所を即座にその場でメモする点にあると思う。[検索→手帳→資料]あるいは[検索→資料]、そのいずれの場合があってもいいだろう。小さなものは直接手帳に貼り付けて保存すればいい。大きなものは縮小コピーをしたり、折りたたんだりするのは手間暇かかって面倒だ。

むろん、別の場所に置く資料を分類したりすると大変だ。山根方式も、押し出し方式も越えた「超」整理方式を確立(?)しなければならない。
このことについては、もう少し試行錯誤した上で、ご報告する。いずれにしても、コンピュータによる検索のおかで可能になったわけで、そのへんの工夫ももう少し検討してみたい。
ということで、そろそろ今のA6手帳から第2A6手帳にスリム化しようと思っている。(続く)
【自己実現寺】http://mugenmirai.livedoor.biz/archives/51496973.html
【cafe こどらん】http://blog.livedoor.jp/codran/archives/50684232.html






2008年4月5日土曜日

A6手帳あれこれ(1)

◇◇改めて考えてみるほどのことでもないが、ごうなの手帳歴も40年を越えている。
浮気性かも知れない。名のある手帳はほとんどみな一度は手にしている。既製品だけでなくこの世に一つしかない独自の24時間手帳(5分刻み、ワレット型。1か月分1冊)を印刷所に注文して、十数年使っていたこともある。
今は、この間のブログに書いたように、文庫版のノートを使っている。
この手帳を何と呼べばいいだろうか。『情報は1冊のノートにまとめなさい』の表紙には 万能「情報整理ノート」と書いてあり、序文の中で著者の奥野宜之さんは「100円ノート式」と呼んでおく、と書いている。ここでは【自己実現寺】さんが書いているように、A6手帳と呼ぶことにする。

ごうながA6ノートを使うようになったのは、ほぼ日手帳が最初だ。3か月ほどは、日記帳風に使っていたが、いつの間にか日付や時間軸をまったく無視して、メモだけをどんどん書いていった。ボールペンはもとより、万年筆でもとても書きやすい、あの紙質はピカイチだった。あの紙で横罫だけのシンプルなノートを作ってくれれば直ぐに飛びつくのだが。
紙質を別にして、大きめの文字でどんどんメモを書いていくのにA6の大きさがぴったりで、満足した。文字だけではない。簡単な図なども書くことができる。はがきや文庫本の大きさに慣れ親しんでいるせいかもしれない。
ポケットにはやや大きいかもしれないが、老眼鏡や携帯電話などを持てば、小さいショールダーバッグくらいは必携だからかまわない。

◇◇A6手帳は、今のところコクヨ Campus のAかBだろう。老眼のごうなは罫が[7㎜×18行/48枚]のAを使っている。無印良品の[ノート・6㎜横罫/32枚]は、表紙がしっかりしているし、値段もCampusの半分強だ。100円ショップの製品も悪くない。
「どんどん、なんでもメモってやろう」と、ど~んとまとめ買いするのもいいだろう。

◇◇ A6手帳をそのままポケットに入れても、むろん、かまわない。1冊使い切るのに何か月も要することはないだろう。ちゃちな表紙であっても、手帳がぼろぼろになるなんて、考えられないもの。

◇◇A6手帳だけでなく、[+α]ということになれば、カヴァが必要になる。使い方はいろいろ工夫できるだろう。以下は「ごうな流」だ。

◇◇現在、ほぼ日手帳のカヴァを使っている。名刺やカードなどを入れるポケットと、2本のしおりを活用したいからだ。左右のポケットが2重になっているのも便利だし、カヴァの外側の左に大きなポケットがあるのも有難い。ただ邪魔になるペン差しははずした。このことについてはあとで触れる。

◇◇A6手帳だが、そのまま差し込んで使うにはカヴァが大きすぎる。まず第2A6手帳を作る。
カヴァは何でもいいのだが、2003年に使った能率手帳キャレル(Carell)のそれがぴったりだったので活用した。左右のポケットの深さがたっぷりあるのもいい。さらに、A6手帳の2ページ分のやや厚めの紙を2~3枚ずつ重ねて二つ折りにして左右のポケットに差し込めば、手帳の前後に、4~6ぺーじの遊び紙ができる。ここには、付箋紙を何枚か貼り付けたり、たとえばコレクトの透明ポケット(大きさは名刺判前後のものがいろいろある)などを貼り付ければ何かと便利だろう。
これで立派なA6手帳が出来た。

◇◇現在のごうな流手帳は、すでに述べたように、この第2A6手帳の左表紙をほぼ日手帳の左ポケットに差し込み、右ポケットにはコレクトのA6クリアブックともう1冊のA6手帳の右表紙を差し込んで使っている。

◇◇ わたしにとっては、あくまでも第2A6手帳が本命である。もしクリアブックがどうしても必要ならば、同じコレクトのB7が使えるし、同じA6手帳を3冊バインドすることも可能だ。
(次回では、『情報は1冊のノートに……』についての意見も述べたいと思う。)


2008年4月3日木曜日

満開近し

昨日の午後5時頃の写真。(4月4日鳥取市にも満開宣言が出た。)





今朝9時過ぎの写真。対岸(左岸)にも、所々に桜の木がある。3枚目の写真は午前11時頃。