2007年10月17日水曜日

米原万里の父 (最終回)

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米原章三翁は鳥取県の政・財界でまさに八面六臂の大活躍をしたが(具体的な業績については、あえて割愛した)、むろん、仕事ばかりしていたわけではない。『米原章三傳』のなかで鈴木実さんが書いている。

 ……冷たい水を入れた大きなコップをかたわらに、愛用のウイスキー・グラスを傾けつつ、無心に盤を囲むのが、多忙な彼にとっての何よりの楽しみだった。(p.254)
中高生のころ、日の丸クラブとか呼ばれていたところで、そのような章三翁の姿を何度か見た記憶がある。そんなとき、碁の相手をしていたのは鈴木さんであった。



「仮に章三がその生涯において苦難を味わった時期があるとすれば、昭和二十三年から同二十六年にいたる追放の期間であろう。(pp.252―253)」と鈴木さんは書いているが、「年譜」によれば公職追放になったのは1947(昭和22)年の10月である。

たぶん、この年の秋か冬の初めのことであったと思う。酒の相手が欲しい、と章三翁に父が呼ばれて出掛けていった。翁は64歳、父は一歳年下である。父は毎日晩酌をやっていたが、人に呼ばれてのこのこ酒を飲みに出掛けるような人間ではなかった。が、この時は違っていたらしい。それにしても、学歴を含め、まったく異なる人生経歴を持つふたりがどんな話をしながら飲んだのだろう、と現在のわたしは思う。何はともあれ、父はウイスキーを飲み過ぎてべろんべろんになって帰宅し、戻してしまった。こんな父を見たのは、後にも先にもこのときだけである。

ついでにもう一つ、ばかな思い出話をすれば、早大時代に東京で偶然章三翁と出会ったことがあった。別れ際に翁は千円札を出して「菓子でも買って食べんさい」と言った。当時、千円で酒が2升買えた。無論というのも変だが、酒代に消えてしまった。



『米原章三傳』の見返しに、翁愛用の印章の印影が八つ印刷されている。そのうちの四つを紹介する。むろん、すべて縦書きである。

〔爾地塩}〔爾愛隣]。キリスト教にうといわたしでも、前者がマタイ伝5.13の「あなたがたは、地の塩である。」によることはわかる。翁は早稲田大学政治経済科時代、神田の下宿から徒歩でかよっていたが、その途中に富士見町教会があった。この教会を主宰していた植村正久によって洗礼を受け、熱心な教徒となった。しかし、婿養子となった米原家は浄土真宗であった。ために、かなり長い間苦しんだけれども、親鸞の教えの中にキリスト教と共通するものを見出し、改宗したと言われている。

三つ目は〔吾唯足知〕(2字2行)。「ワレタダ足ルヲ知ル」。これは石庭で有名な京都の龍安寺の茶室の蹲踞(相撲のソンキョ:つくばい)、すなわち、茶室の庭先に低く据え付けた、手や口を清めるための手水(ちょうず)を張っておく鉢である。この写真のあるブログ「ちぃの日記」を見つけたので、そちらで見てください。  http://yaplog.jp/chi--nyan/archive/41



今日のブログに載せている写真はこのつくばいを模した青銅製の灰皿である。章三翁のなにかのお祝いの引き出物の一つ。「年譜」を見ると、1955(昭和30)年11月に「金婚式ならびに長男夫妻の銀婚式をともに祝う」とあるから、そのとき母がいただいてきたものかもしれない。

最後の一つは、「描夢無悔人生」(3字2行)。

『米原章三傳』本文篇の最後となる鈴木実さんの文章(p.255)を引用する。

 「夢を描いて悔なき人生」、その座右銘を刻んだ顕彰碑が、昭和四十年七月一日、鳥取商工会館前に建てられたときには、欣然として除幕式に元気な姿をみせた章三であったが、それに先立って昭和三十九年十一月三日には生存者叙勲の栄に浴して、勲二等瑞宝章を受けた。同十一月二十八日、鳥取市民体育館で開催された祝賀会で、満場の参会者を前にした章三は、朗々とした音声でその生涯を回顧し、自らの幸福を感謝した。寿命百二十才説を信奉して、悔なき生涯を事業に捧げたこの巨人が、彼を敬愛する郷党に対する、最後の謝辞であった。

昭和四十二年十月十九日午後十一時五十五分、米原章三は智頭町の自宅に、八十四才をもって永眠する。葬儀は知事石破二朗らが葬儀委員となって、同月二十五日午後一時、鳥取市民体育館で盛大に執行された。参列するもの県内外より千余名であった。

戒名は慈恩院殿寿岳簡堂大居士である。
簡堂は章三翁の生前の雅号であった。



       





2007年10月10日水曜日

米原万里の父 (15)

米原万里の父と題して14回続けてきたなかで、ときどき言及した祖父の米原章三翁(1883―1967)について紹介しておきたい。第13回で述べたように『米原章三傳』を紹介し、さらに同書からの二つの引用によつて米原章三という人物を知ってほしい。同書は現在入手しがたいだろうし、引用文はともに翁の人物像を見事に描出していると考えるからである。

『米原章三傳』は、1978(昭和53)年6月発刊された。編集・発行は米原章三傳刊行会。
「本文篇」は8章、255ページ。「寄稿篇」は、長男、六男、長女、次女をふくむ28名が寄稿している。「参考資料」として関連諸家系図、鳥取県郡市町村図(明治22年)、米原章三年譜。
修は徳永職男(鳥取大学名誉教授)、松尾尊兊(まつお・たかよし)(京都大学助教授)、浜崎洋三(県史編纂専門委員)。
本文篇執筆は、第1・2章 篠村昭二(鳥取東高教諭)、第3・4・5・6・7章第4節、第8章第1節 小谷進(米原章三伝刊行会主事)、第7章第5節,第8章第2節以降 鈴木実(鳥取県経営者協会専務理事)
〔ごうな注:カッコ内の役職は出版当時〕
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「編集後記」に浜崎洋三は、本書に対する自負を述べ、章三翁が歴史上に占めている位置について的確に指摘している。(p.350)
 監修には、章三翁に縁故の深い徳永職男鳥取大学名誉教授と、松尾尊兊京都大学助教授にあたっていただいた。特に、日本近現代史研究の斯学界の最先端にある松尾助教授の多くの助言と示唆を受けて本書ができあがったことは、本書が鳥取県地方史のみならず日本近現代史研究を進める上に役割の一端を果しうるものとなったと自負している。
監修と編集の任の一端を負った筆者の私見をのべれば、章三翁の占める歴史上の位置は、鳥取県地方史の近代から現代へという流れの中における一つの大きな湖のような存在であったと思う。近代の諸動向の流れがその最終点としての湖に集まり、そしてその湖から現代の諸潮流が再び分岐し流れはじめている。県下憲政会系と政友会系の両政治勢力の統合、農村部地主層と都市部商工業者の糾合による企業活動の展開、これらの動きの中で、章三翁の果たした近代史上の湖のような役割が明らかになると思う。湖から分岐した現代史の流れについては、戦後史でこれを詳察せねばならないが、同時代史としての諸種の制約を考慮して、本書では概要を加えるにとどめた。
もう一つの引用は、浜崎洋三も「斯学会の最先端にある」と紹介している松尾尊兊(京都大学名誉教授)が本書に寄せている「一期一会」と題した一文の最終部分である。
 当時(引用者注:1965(昭和40)年9月27日)普通選挙運動の研究に打ち込んでいた私は、昭和初年に民政党が政友会と交代で政権を担当できるほどの大政党に成長しえたのは、憲政会時代に普選運動団体を傘下におさめ、中間層を基盤に組み入れることに成功したことによるとの想定に達していた。この想定は鳥取においてもっともよく実証される。そこで改めて当事者にその間の事情をうかがおうというのが、訪問の一つの意図であった。 
章三翁(引用者注:この時翁は82歳)の談話は、大体自説を裏付けるもので嬉しかったが、とくに私を驚かせたのは、「いつの時代でも歴史を動かすのは青年だ」という認識であった。私はその頃も活発だった学生運動の話を持ち出し、現在でもそう思われるかと念を押すと、然り、という返事で、ますますおそれ入り、なるほど昶氏の父親で由谷義治氏の義兄だという感を深くした。
実は私には翁訪問のいま一つの目的があった。それは、翁という人物をこの眼で見たいということである。鳥取の政・財界を牛耳ってきた大ボス、保守反動の権化と目されているのに、涌島義博氏のような歴然たる共産党系の人物をもしたがえている怪物、それを一目みたい、これが本心であった。
一言でいえば、徳川家康とはおそらくこのような人物ではなかったか。小柄で、八十歳をこえても頭脳におとろえを見せず、威あって猛からず、構えずしておのずから人の心をひきつける力をもつ。米原家には失礼だが、率直にいって鳥取には、家系や財産の点で米原家をしのぐ名家は十指に余ろう。その功罪はともかく、翁が鳥取の政・財界に卓絶した地位を占めえたのは、一にその人間としての器量によるものである。そのときの私の確信はいまも変わらない。そして今日にいたるまで、仕事の関係上元首相をふくむ何人かのいわゆる大物と対座する機会をもったが、翁に匹敵する魅力の持主に、一人として出会ったことはない。(pp.316―317)
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今のテーマとははずれるが、この機会に浜崎洋三さんの紹介をしておきたい。彼は1936年生まれで小・中・高を通じてわたしの2年後輩であるが、むろん、それは年齢だけのことであって、はるかに立派な人物である。
京都大学文学部史学科を卒業後、一年間の非常勤講師のあと、1960年母校鳥取西高の教諭となる。1969年、鳥取西高在籍のまま鳥取県総務部広報文書課県史編纂室主任に併任。1982年鳥西高に復帰するが、1990年、県立公文書館勤務、次長を経て翌年館長、1993年県立図書館館長となる。1996年9月、肝臓癌で死去。彼の学識、人生観、読書力をもって、生徒たちはもちろんのこと、卒業生、周辺の若者たちに大きな影響を与え続けた。
死後発刊された著作に、『伝えたいこと 濱崎洋三著作集』(1998年発行)がある。
お問い合わせ先:定有堂書店 鳥取市元町121  TEL&FAX:0857-27-6035

     


2007年10月9日火曜日

米原万里の父 (14)

米原昶について、戦後の活動を「米原昶 年譜」により概観する。
敗戦の年11月、16年ぶりに帰郷、12月、日本共産党に入党した。翌年の12月、北田美智子と結婚。
1947(昭和22)年、38歳。4月、第23回衆議院議員選挙に立候補するため公示三日前に急遽帰郷、落選。10月、党の中国地方委員、鳥取県委員長となり、鳥取、島根両県の党活動を指導した。
1949(昭和24)年1月、第24回衆院選に鳥取全県区から再度立候補し、43,654票でトップ当選した。

新制中学の二年生だったごうなは、当時、真空管を使ったラジオ製作に夢中になっていた。そのラジオで捕らえたモスクワ放送の日本語放送が「今回の選挙結果は、鳥取県の人民の勝利である」と伝えていたことを覚えている。一方、大人たちの間で、米原昶の当選は父親、章三翁の陰の力が大きい、と言われていたことも記憶に残っている。

1950(昭和25)年4月に長女万里誕生。いわゆる「レッドパージ」の年である。翌年1月、二女ユリ誕生。
その後の昶の政治的な活動などについては、ここでは書かない。彼の人柄を物語るエピソードや手紙などを紹介するにとどめよう。
 ……父の実家は、鳥取のお金持ちなんです。戦後になって父が地下活動から表へ出てきたとき、祖父がとっても喜んでね。それで板橋に広大な土地と家を買ってくれたそうなんです。ところが父は、それを共産党にカンパしちゃって、次にまた田園調布に家を買ってもらったんだけど、それもカンパ(笑)。けっきょく、大岡山の党員の家の八畳間に間借りしてたんですよ。(『終生ヒトのオスは飼わず』p.188)

つぎの2通の手紙は結婚した年(1946年12月)の3月と4月に北田美智子に宛てたものである。
 共産主義とは何か、きつとあまりくわしくは、御存知ないと思いますけれど、今まで私のお話ししてきたことは、みなそれから出てゐると申してよいと思います。詳しいことは、今後お聞きになれば、今までよりも、もつとあからさまにお話しようと考へてゐます。でも、私にとつては、共産主義とは、人類文化の總計なので、もちろん私が現在、知り盡くすしてゐるものではなく、たえずもとめ、きはめてゆくべきものです。それは一つの科学ですから、私の説明できるのは、單にその方向と考へ方にすぎないともいへるでせう。しかし、人間にとつては、それだけが可能であり、また必要でもあるので、これはぜひ、この次の機会に説明したいと思ひます。(『回想の米原昶』p.81)

なるほど、そだってきた環境や世代には,大分相違があり、考へてきたことも表向きは異つてゐるようです。けれど、わたしの思索は平凡です。わたしは誰にもわかるごくあたりまへのことしか考へられない人間です。(同 p.82)

米原万里は「おやじのせなか」(聞き手・大久保孝子/朝日新聞 2004/02/08)で最後にこう語っている。
 お説教をまったくしない人でしたが、妹が学生運動のリーダーに選ばれそうになったとき、「運動というのは考え抜いて心の底から確信を持ったときにするもので、周囲の空気に乗せられてやってはダメだ」とめずらしく真剣に言いました。父が亡くなってからも正念場に立たされるたびに思い出す言葉です。
米原昶は、1982(昭和57)年5月31日、死去した。73歳だった。
米原家の告別式は6月3日、東京の自宅で、同月12日青山葬儀所で日本共産党葬、7月10日には、鳥取市福祉文化会館で日本共産党鳥取県委員会主催「米原昶氏追悼集会」が行われた。
年譜の最後の記述によれば、「遺骨は、両親の眠る生地・鳥取県智頭町の浄土真宗・光専寺に納められた。」