2007年6月21日木曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/『プルターク英雄伝』

鶴見祐輔は、戦前、小説ばかりでなく伝記も多く著している。手元にある『成城だより』第2巻の巻末を見ると、太平洋出版社は〔鶴見祐輔先生伝記選]と銘打って、
『英雄天才史傳 バイロン』上・下
『英雄天才史傳 ヂスレリー』上・下
『後藤新平傳 帝都復興篇』
『プルターク英雄傳』(近刊)
の4点を挙げている。これらはいずれも戦前の作品の復刻版である。
後藤新平の伝記は、現在、 鶴見祐輔【著】、一海知義【校訂】『決定版 正伝・後藤新平 後藤新平の全仕事』全8巻が藤原書店より出版されている。
因みに、「大風呂敷」などとあだ名された後藤新平は鶴見祐輔の岳父である。

これらの作品の中で『プルターク英雄伝』だけは、むろん翻訳本である。英訳本からの重訳だが、名訳と高く評価されている。残念ながら、現在では入手することは困難である。唯一、入手可能な一冊版を後でご紹介しておく。

谷沢永一はこの訳業を高く評価し、機会あるごとに推奨してきた。
しかし、昨年来、鶴見祐輔を尋ねてウェブの世界を探索して、すばらしいサイトに出会うことができた。
このサイトの管理人は、花房友一という方で、「1955(昭和30)年、兵庫県生まれ。東京大学西洋古典学課修士修了。元翻訳業」の由。アドレスは、

http://www.geocities.jp/hgonzaemon/index.html

である。ここには有益なものが数多くあるが、先ず「鶴見訳で読むとおもしろいプルターク英雄伝」を読んでごらんになるといいでしょう。さらに伝記そのものをお読みになる方には、「鶴見訳プルターク英雄伝の難読漢字集」「鶴見訳英雄伝正誤表(推定)」がきっとお役に立つことでしょう。
高校生が、ごうなのブログを訪ねてくることはあるまいが、高校生にもひじょうに有益なサイトだ。

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プルターク英雄伝






2007年6月18日月曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/続・ウェブへ

昨日書いたように『酔醒漫録』というブログは今も続いているが、バックナンバーは去年の7月までになっているので、これから載せる引用文は、昨年6月にコピーしていたものであることをお断りしておく。なお『酔醒漫録』のURLをはっておくので関心をお持ちの方は、どうぞ。
 4月9日(日)ホテルの窓から見える京橋界隈は快晴。桜花の散る風の流れが爽やかでもあった。大阪駅に出て喫茶店で朝食をとりながら読書。大丸に寄って洋菓子をいくつか買い、花売り場でチューリップを中心に春らしい花々をたっぷり注文する。御堂筋線で桃山台。時間があったので駅前花壇の囲い石に座り、舞い散る桜をぼんやりと眺める。タクシーで目的地へ。約束の時間は午後1時。まだ20分あったので訪問宅前の駐車場で待機する。地主だった名家のたたずまいは周囲の家々とは違い、風趣を醸し出している。何をどう聞くべきなのかをしばし思案。午後1時ちょうどにインターフォンを押した。しばらくすると鉄扉が開いた。木村久夫さんの妹さんの孝子さんだ。今日は大正7年4月9日に生まれた久夫さんの誕生日なのだ。存命ならば88歳。その生命が不当にも絶たれたのはいまから60年前の5月23日、シンガポールのチャンギー刑務所でのことである。木村さんは『哲学通論』の余白に記した遺書のなかにこう書いていた。

私の仏前及び墓前には、従来の供花よりも「ダリヤ」や「チューリップ」などの華やかな洋花を供えて下さい。これは私の心を象徴するものであり、死後は殊に華やかに明るくやって行きたいと思います。美味しい洋菓子もどっさり供えて下さい。(中略)そして私一人の希望としては、私の死んだ日よりはむしろ私の誕生日である四月九日を仏前で祝って欲しいと思います。私は死んだ日を忘れていたい。我々の記憶に残るものは、ただ、私の生まれた日だけであって欲しいと思います。

仏前と墓前に洋花を供え、孝子さんのお話を伺う。やはりと納得したこともあれば新しい発見も数々だ。いちばんの問題は「きけ わだつみのこえ」に収録された「遺書」では木村さんの思いの全体像が伝えられていないことである。いつしか午後7時を過ぎていたので、近く再び訪問することにした。午後7時半に辞去しタクシーで新大阪駅。53分の「のぞみ46号」に乗る。缶ビールを飲みながら孝子さんにお借りした鶴見祐輔さんの『成城だより 3 夢を抱いて』(太平洋出版社)を読む。扉には「捧 木村久夫君 ご霊前 昭和二十年二月 著者」と筆で書かれている。「荘厳なる死」という文章は木村さんの恩師である塩尻公明さんが当時『新潮』に書いた「或る遺書について」に触発されたものである。まだ「きけ わだつみのこえ」が出版されていないときに、木村さんの遺書の全容は塩尻さんの文章で知るしかなかったのである。


長い引用になって恐縮だが、木村久夫の遺書についても知って欲しいという思いをもっているからだ。塩尻公明の著作は、1951年に創刊された現代教養文庫(社会思想研究会出版部)に数冊入っており、そのなかに『ある遺書について』も入っている。しかし、わが家の書棚から古い文庫本を探し出すのはきわめて困難な状況にあるので、あきらめている。

すでに述べたように、中学時代に買った『成城だより』は鳥取大火ですべて焼失してしまったので、ネットで検索している。昨年、1,000円程度で一冊出ていたのですぐ発注したが入手できなかった。ところが、どうしたことか、今年になってAmazonの「ユーズド」に数巻出ているが、いずれも一万数千円に値上がりしているではないか。
第1巻が鳥取県立図書館にあり、先月借り出して数十年ぶりに読んだ。きわめて粗悪な用紙に小さな活字で印刷されていて老人の目には非常に読みづらい。B5版二百数十ページの本が、同じくらいのページ数の文庫本より軽い。
第1巻を読んだ直後、第2巻の〈自由への闘ひ〉を或る古書店からリーズナブルな値段で入手でき、いま、机上にある。

さて、引用文の終わり近くにある鶴見祐輔の献本の日付について触れておきたい。
第2巻の中に「ある読者からの手紙」という一文がある。内容の紹介は略させていただくが文末に(一九四八・四・二八午後)とあって、そのあとに次のような付記がある。
この稿を記して後二ケ月、私は新潮六月號に出た『ある遺書について』と題する鹽尻公明氏の文章を見て、ひどく感動した。それはシンガポールで冤罪のため絞首刑に處せられた木村久夫君の獄中の遺書である。これくらい凄惨な犠牲者は、今度の戦争でも少い。そのことは私は成城だよりの後の巻に詳しく記しておいた。(八月十九日記)

この第2巻が発行されたのは昭和23年12月20日である。したがって、第3巻に鶴見俊輔が筆で書いていた献辞の日付は、
昭和二十「四」年二月
の誤りではあるまいか。鶴見自身が誤記したのか、引用者の誤記か、わからないが。

【追記】(6月19日)昨日このブログを公開したあとで、有田芳生さんにメールで献辞の日付の件をお尋ねしたところ、今朝、次のような確認のご返事をいただいた。
直筆コピーを確かめましたところ、鶴見さんは「昭和二十四年二月」と書いています。
「成城だより」第3巻が発売されたのが昭和二十四年一月ですから矛盾はないと思います。
有田さん、ありがとうございました。心より御礼申し上げます。

2007年6月17日日曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/ウェブへ

昨年の6月、鶴見祐輔の『成城だより』で検索したら、二つのサイトがヒットした。
一つは、村井仁(敬称略)のサイト(だった、と思う)。今回検索にかけたところ、Not Found と出た。幸いコピーをとっていたので、ご紹介できる。当時の村井の肩書きは「自民党国会議員」であったが、同年8月の長野県知事選挙で田中康夫前知事を破って当選したから、今は「長野県知事」だ。ご紹介するのは、1952(昭和27)年、長野県松本市の旭町中学校を4回生として卒業した村井が、母校のおそらく創立50周年に行った記念講演の記録か、あるいは記念誌に寄稿したものと思われる。
「母校旭町中学校50周年に寄せて--旭町中学校の生徒の皆さんに--」
私が中学生の頃に読んで影響を受けた本に、戦前からの政治家・小説家で戦後厚生大臣にもなった鶴見祐輔先生が追放を受けているときに書いた「成城だより」という本がある。そこに出ているエピソードは印象的である。鶴見祐輔先生は明治の終わりに東大を出た。同級生で公爵の跡取り息子がいたが、この人が二度も外交官試験を受けて、失敗、諦めて貴族院議員になったという話を外国人にしたら信じて貰えなかったという。外国、特に英国では外交は貴族の仕事で、試験の成績の善し悪しで決めるのは理解できないというのである。明治の終わりに東大に学ぶのだからこの公爵氏はもとより大変な秀才だったろうが、それでも当時の外務省は名門の出身だからといって妥協せず、外交官にふさわしいと外務省が判断するそれなりの基準に合致しなければ採用しなかったのだ。もっと言えば日本はコネも権勢も利かない部分が厳然とある社会だったのだ。

二つめは、テレビの「ザ・ワイド」でおなじみの有田芳生(敬称略)の『酔醒漫録』というサイトだ。このサイトは2006年6月30日で閉鎖する(6年間続いたらしいこのブログはにんげん出版で二冊出版され、さらに昨夏、二冊同時に出版された)というこどだった。
ところが、まだ続いている。今夏の参議院選挙の全国区に新党日本の候補者として出馬することになったのが、このサイト継続の理由(のひとつ)と思われる。現在、田中康夫ともいっしょに街宣をやっているらしい。
今回、村井仁と有田芳生のご両人のサイトを取り上げるのが何か因縁話めいているように思われるが、あくまで「鶴見祐輔を尋ねて…」の偶然の結果である。
(以下、明日につづく)

2007年6月16日土曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/『成城だより』

1949(昭和24)年10月1日の日記によれば、一週間ほど前に太平洋出版社へ送金していた『成城だより』の[第五巻 永遠の師〕と〔第六巻 筆は剣よりも強し〕を入手し、早速前者を100ページほど読んでいる。
翌日には、246ページまで読了、後者を80ページ読んでいる。5日には、240ページまで読了。気に入って、第一巻から第四巻まで発注している。
それらがいつ届いたか、記録していないが、
第一巻 冬来たりなば 10月23日読了。
第二巻 自由への闘ひ 10月26日読了。
第三巻 夢を抱いて  10月28日読了。
第四巻 文明の行くえ 10月29日読了。さらに、翌1950年、〔第七巻 感激の生活〕を1月3日読了。

中学3年の夏から、毎日日記をつけるようになったが、高校入学までの間に、新渡戸稲造『修養』を毎日のように筆写し、『世渡りの道』や『自警録』を読み、『内村鑑三 思想選書』を何冊か、尾崎行雄の著作、漱石、露伴の小説なども読んでいるから、かなり精力的に読書している。

さて、『成城だより』は何巻まで発行されたか、〔第八巻 自由と秩序〕が出版されていることはわかっているが、この巻は購入の記録もない。高校入学後かもしれないと思い、日記に当たってみた。どうやら、『成城だより』を購読したのは第七巻までであったらしい。新しい高校生活を始めて読書するゆとりもなかったのだろう。日記の記述は日々の授業についての記述ばかりといっていい。

ただ一つ、大きな記憶違いをしていたことに気付かされた。
はじめての中間考査の最終日である6月12日の午後、映画『母』を見て、感激したという記述があったのだ。
14日のブログで書いた、この映画の字幕であのカーライルの言葉を覚えた、というのは間違いだったことになる。映画の終わりにこの言葉を見た記憶は間違いないとおもう(小説の序文に引用されていることからしても)。そうだとすれば、
『成城だより』のいずれかの巻で、著者はこの言葉を再び記述していた→自己紹介の時引用した→映画でこの言葉を再確認した
ということではなかったか、と思う。
この推測を今確かめることはできない。所有していた『成城だより』は1952年の鳥取大火ですべて焼失してしまったから。

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修養







2007年6月15日金曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/小説『母』

映画そのものはもう見ることはできない。小説を図書館などで見れば、あのカーライルの言葉がどこかにあるかもしれない。
そう考えて、とりあえずネットで検索してみた。
あった! 講談社学術文庫で入手可能であることがわかった。どうしてこの小説が「学術文庫」なの? と首をかしげたが、とにかく手に入りました。

あった! あった! ありましたよ、「母としての日本婦人(序にかえて)」の中に。
いっさいの偉大なるものは、悲しみと苦しみとのうちから生まれた。……長き夜を泣き明かしたるものにあらずんば、いまだ共に人生を語るに足らず、とカーライルの言ったように、何らかの苦悩を経験したものでなくては、貴き何物をも所有していないのだ。(同書 p.9)
本書の出版は、1987年9月である。娘の鶴見和子鶴見俊輔は弟)がこの版にまえがきを寄せていて、次のようなことがわかる。

◇この小説は、講談社の初代社長野間清治の要請により、雑誌「婦人倶楽部」に1927(昭和2)年5月号から2年間連載され、完結と同時に同社から出版された。
◇1931年には著者自ら英訳して、ニューヨークのレイ・D・ヘンケル社より出版された。
◇戦前戦後を通じて三度映画化され、新派の舞台でも上演された。
◇戦後、太平洋出版社から復刻版、角川書店から文庫版が出版された。
◇今回の出版は澤地久枝『ひたむきに生きる』(講談社現代新書)のなかで、「さいしょに出会った本」として、この小説に若い世代の立場から新しい光をあててくれたことがきっかけとなった。

それで、この文庫本の解説として澤地は「『教養』の普遍性」と題する一文を寄せている。一カ所だけ引用する。
知識を求めていた人たちは、ここである安らぎを得、気持ちのよい刺激をあたえられたのではないかと想像する。名もない、学問や教養には無縁の人々が、熱っぽい視線で『母』を読む。一冊の通俗性のある小説本としてではなく、教養書として――。
そこに、『母』の役割と、昭和の日本人の姿が見えるとわたしは感じている。
この澤地の言葉が、この小説をうまく紹介していると思う。先日、米原万里の男女共同参画的便器をご紹介したが、「男女共同参画社会」の実現を熱っぽく説く女性も、すでにこの小説に登場しているのだ。




2007年6月14日木曜日

鶴見祐輔を尋ねて…/映画『母』

あれは還暦同窓会(正確に言えば、高校時代の同期生会)でのことであったから、今から十二三年前のことだ。市内湖山で開業医をしているN君に会った。高校卒業以来だから、40年(以上)ぶりになる。彼とは出身中学が異なっていたから、鳥取西高ではじめて出会い、1年生で同じクラスになった。
最初のホームルームで、全員が自己紹介をした。
N君はその時のことを覚えていて、そっくり繰り返した。

自分の姓名を言ったあとで、「ぼくは内市の蒲鉾屋の息子である。カーライル曰く、長き夜を泣き明かしたるものにあらずんば、いまだ共に人生を語るに足らず。以上」

ずいぶんとキザなことを言ったものだが、「変わった奴だなあ、と思い、いまでもその言葉を覚えている」とN君は言った。

当時、カーライルの著書をむろん読んでいたわけではない。ただ、そのころ、新渡戸稲造を崇拝していて、彼の愛読書のひとつが、カーライルの『衣裳哲学』であったことくらいは知っていた。
中学時代に、鶴見祐輔原作の映画『母』を見て、その映画の終わりにこのカーライルの言葉が大きく字幕に現れたのを見た記憶がある。

ネットで検索することを覚えてから、いろいろ古いことを調べることができるようになった。映画『母』は、最初、1929(昭和4)年に松竹が作っていて、高峰秀子が5歳の女の子の役で、審査を通って出演したことなどを知った。
これ以外では、1950(昭和25)年に同じく松竹で水谷八重子等が出演して作られていることがわかった。おそらくこの映画を見たのであろう。ただ、この年は毎日日記を記しているが1月ー4月の間にこの映画の記録がない。前年だったのかもしれない。映画のどの場面も記憶にないが、当時流行った三益愛子主演の母物映画とは違うという印象をもったことを覚えている。

2007年6月13日水曜日

打ちのめされるようなすごい本 2

この本のあとがきは、井上ひさしが「[解説]思索の火花を散らして」と題して記している。その中で彼はこう述べている。
大事なのは、彼女の文章が、いつも前のめりに驀進(ばくしん)しながら堅固で濃密なことだ。別にいえば、文章の一行一行が、箴言(しんげん)的に、格言的に、屹立している。そこで私たちは気楽にめくって、気に入ったところを読めばいい。そのときの気分によって、一行一行が励ましの特効薬になり、慰めの妙薬になり、なによりも思索の糸口になる。 

その通りなのだが、取り上げられている二百数十冊への書評を最初から通読してみれば、米原万里が、その晩年を何とどのように闘い、どのような思いを抱いて生きてきたのかが見えるように思われる。

先に紹介した『発明マニア』に付された「小さい頃から発明好き」と題した、こども時代の万里についての一文を寄せている井上ユリは、万里の実妹で、井上ひさしの奥さんである。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――  
〈米原万里の最初にして最後の小説〉

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オリガ・モリソヴナの反語法



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2007年6月8日金曜日

打ちのめされるようなすごい本 1

2005年9月29日、NHK-TVの「生活ほっとモーニング」は、9月11日に
熊本県上天草市で開催された〈食育・健康フェア〉を放映した。
米原万里は、〈健康エッセー〉で「わたしの健康法」と題して短い講演をした。卵巣ガンの摘出手術を受けたが、1年4ヵ月で再発。食生活をはじめ生活習慣を変え、その成果で10キロ以上やせ、身体も快調になったと語っていた。しかし、その言葉通り少しほっそりした彼女の映像が最後になってしまった。翌年の5月25日、死去した。56歳だった。

『打ちのめされるようなすごい本』は、彼女の書評の集大成である。pp.300~315の「癌治療本を我が身を以て検証」は、さまざまな体験本を読みまくり、さまざまの治療法にトライした記録である。

冒頭に紹介したテレビを見たあと、新潟で安保徹さんに直接お会いして、のんびりと治療してくれれば、と願っていたが、闘う米原万里には、できないことだったのだろう。

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打ちのめされるようなすごい本

2007年6月7日木曜日

発明マニア/米原万里

昨年五月米原万里が亡くなる直前まで、二年半にわたって「サンデー毎日」に掲載された全てを集めたもの。本書の帯の惹句に言う。
「米原万里的、ワンダーランド。/絶筆の連載/究極の温暖化対策から日本人男性の誇りと自信向上計画、イビキ防止器具まで―/この世の、あらゆる難問を解決する119の発明」

すべての発明には、新井八代のイラストがついている。イラストの署名はローマ字でARAIYAYOとある。ARAI/YAYOと読まないで、ARA/IYAYOと読むのでしょうね。むろん、万里ちゃん本人だ。
さて、119もの発明のなかで、どれをご紹介するべきか、迷うけれども、二つの理由で、「2 男女共同参画的便器」をとりあげることにする。

第一は、わが家のかみさんが、便所の掃除をするたびに、こうのたもうからである。「おじいさんが、しつこく言うものだから男性用便器を置いてしまい、トイレが狭くなってしまって……」

本書のこの項の冒頭に紹介されている男性二人の言葉を引用する。

1.「その遠慮会釈のない激辛な論評ゆえにあちこちで恐れられ煙たがられているジャーナリストの日垣隆さん」(と、あの万里ちゃんが書いている):
日本の家庭における父権、夫権の失墜は、西洋式便器の普及にともないアサガオ(=男性専用の小便用便器)が一般家庭から駆逐されたのと軌を一にしている。

2.某テレビ局のTプロデューサー:
そうなんですよねえ、用を足すたびに便座を上げるのが面倒だからさぼると、便座にしぶきがかかって、後で、『いやだ、パパ、汚~い』とか、『もーあなた、何度言ったら分かるの! ちゃんときれいにふいといて下さい』とか嫌みや非難に耐えなくてはならなくなる。辛いですよねえ、肩身が狭いですよねえ。

ごうな曰く「闘いなくして、父権、夫権の確立なし!」

次いで、ソ連邦時代、某テレビ局の三人の男性に通訳として同行した万里さんのソ連での経験談が綴られている。話をはしょって言えば、会議の後、同行「三」人で男性用トイレへ入ったところ、便器の位置が高すぎて、足の短い彼らは機銃掃射をすることあたわず、やむなく大便用の個室に入って用をすませた。
そこで、万里さんは昇降式の男子用便器の発明に取り組むが、女性と同じ姿勢で小の方もすます男性が増えてきているようなのでこの発明を断念するというお話。「それよりも何よりもアサガオが家庭どころか日本国内から姿を消す日も近いのではないか、と敬愛してやまない日垣隆さんに同情を禁じ得ない今日この頃である。」と結んでいる。
なお、わが家の男性用便器はアサガオ型ではなく、縦長型で前面は尿と流れる水が溢れない程度の高さであるから、孫たちはよちよち歩きができるようになった頃から堂々と男らしく用をすますことができたのである。

えッ、なに? 「男女共同参画的便器」を取り上げた二番目の理由ですか?そうそう、忘れていました。わが家の便器自慢の話じゃなかった。 

もうだいぶ以前のことで、どこで見たのか忘れてしまったが、便器の上方にこんな張り紙があった。 

朝顔のそとにもらすな竿の露

なかなかいいじゃありませんか。もうこんな張り紙も不用になったんですかねえ。


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発明マニア


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2007年6月6日水曜日

終生ヒトのオスは飼わず/米原万里

「鬼籍簿」の、昨年のページに彼女の名前を記載した後で何冊かの著書が発行されたが、おそらく最後のものと思われる『終生ヒトのオスは飼わず』が発刊された。

「ガッキィファイター」2007年5月31日号(通巻 第241号)で、日垣隆 (全文責任執筆)さんが、こんなことを書いている。
俺たちオスがね、もし「ヒトのメスを飼う」とか「飼わない」と公言したら、どうなのか。女性の書き手だから許される、というタイトルはまだ、あるわけです。

「女性は子どもを産む機械」発言で顰蹙やら批判を買っている大臣がいるが、これはアタマがよろしくないので、そうなったのです。
「ヒト」というのは、ネコやイヌと同様、生物の分類上の言い方だから、メス・オスでも♀・♂でも、いいんじゃないでしょうか。
もっとも、日垣さんはこのことを本人に直接言ったと書いているから、それに対して万里ちゃんが何と言ったか、知りたいですね。いずれにしても、「ねこちゃんにご飯をあげる」、いやいやそれどころか、「この花瓶を窓際に置いてあげる」「ここにピンクのカーテンをつるしてあげる」なんていわれるほうが、気持ち、悪いっすよ。

本書は、二部に分かれているが、第1部の「毛深い」家族の話より、「ふとっちょの」家族の方に興味があるので、いずれ、そのことについて書きたい。


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終生ヒトのオスは飼わず



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